鎌倉を愛する鎌倉市民により、鎌倉のグルメ・歴史・観光名所を紹介します。
鎌倉虎の巻
御霊神社(坂ノ下)
毎年、9月に行われる『面掛行列』や「鎌倉神楽」等の行事で有名な『御霊神社(ごりょうじんじゃ)』は、その歴史は古く、創建された年の詳細は不詳ですが、平安時代後期頃かと云われております。
『御霊神社』
祭神は、『力餅』を紹介した際にも触れた「鎌倉権五郎景政」となります。
そのため「権五郎神社」とも呼ばれております。
『御霊神社』は、江ノ電の踏切を越えた所にあります。
川端康成風に云ってみれば、「坂ノ下の踏切を越えると、そこは神社であった・・・」という感じですかね^^
境内には、権五郎景政ゆかりの「弓立の松」や「力餅屋」の所で触れた「袂石・手玉石」以外にも、石上神社、稲荷神社、秋葉神社等といった神様達が祀られております。
「弓立ての松」・・・景政が弓を立て掛けていたと云われる松の古木
「石上神社」・・・海上安全・豊漁のご利益があります。
石神神社は、昔、由比ガ浜沖にあった巨石が数多くの船を難破させたため、この巨石の一部を引き上げ、御神体として祀ったものだそうです。
毎年、7月25日に近い日曜日 石上神社例祭で、御供流し神事が行われます。
「タブノキ」・・・境内には、樹高20m、推定樹齢が350年となるタブノキがあります。
鎌倉市指定天然記念物、及び「かながわの名木100選」にも選定されています。
見事なものですね~^^
さて、祭神である「鎌倉権五郎景政」について説明すると、鎌倉氏は、鎌倉党と呼ばれた相模国の武士団となります。その系図は諸説あるのではっきりしないのですが、いずれにも共通しているのは、桓武平氏という事になります。桓武平氏は、桓武天皇の皇子「葛原親王」の孫「高望王」の流れをくんでおります。
なお、「平清盛」はこの高望王の長男「国香」の子孫になり、「平将門」は高望王の3男「良将」の長男となります。
さて、話を鎌倉氏に戻すと、「系図纂要」によると「高望王」の子「平良文」の子孫となり、良文の頃、鎌倉群村岡に屋敷を構え、その孫「景成」が鎌倉権守を名乗り、鎌倉氏を称します。
この景成の子が権五郎景政となります。
景政は、「奥州後三年記」によると、若干16歳で源義家に従い後三年の役*1に参加し、陸奥国金沢柵(秋田県横手市)を攻めた際、敵方からの矢が景政の右目に命中しますが、矢が刺さったまま、矢を相手に射返し、見事に敵を討ち取ります。
その後、自陣に戻るなり、兜を脱ぎ「景政、負傷!」と言い、仰向けに倒れ込むのですが、その時にそれを見ていた三浦為次が矢を抜いてやろうと、倒れている景政の顔に足を掛けた所、この景政が刀を抜いて、三浦為継を刺そうとします。
驚く三浦為継に対し、景政は、「弓矢に当たり死ぬのは武士の本懐ではあるが、顔を土足で踏まれるのは我慢できない。お前を殺して自分もこのまま死のうと思う。」と言います。
そこで為次は、膝を屈め顔を押さえて矢を抜くのですが、これによって景政の高名は鳴り響くわけになります。
後に景政は、1104年頃、浮浪人達を集めて、当時は野山でしかなかった大庭郷を開発し、大庭御厨を開発します。御厨とは、皇室や伊勢神宮等に献上した所領となり、1116年に伊勢神宮に寄進し「大庭御厨」*2となります。景政も現地管理者である下司となります。
*1 平安時代の後期(1083~1087年)、前九年の役後に東北地方で覇を唱えた清原氏の内紛に端を発し、源義家の介入もあり、陸奥出羽を舞台に起きた戦役。この戦役後、奥州藤原氏が誕生する事になった。
*2 寄進型荘園の一つ。荘園の大きさは、東は境川、西は寒川、南は海、北は大牧崎(場所は不明)となり、大体、現在の藤沢市と茅ヶ崎市辺りになります。
なお、鎌倉周辺にも横浜市栄区、泉区、藤沢市にも御霊神社があり、やはり鎌倉権五郎景政が祭神として祀られております。そして、鎌倉市内にも、もう一カ所の『御霊神社』が梶原にあります。
『御霊神社(梶原)』
こちらの祭神も同様に『鎌倉権五郎景政』になります。「新編鎌倉誌」によると、坂ノ下にある御霊神社は、元は梶原の御霊神社であったと記載されております。
梶原の地は、源頼朝の側近で有名な梶原景時で有名な梶原一族の屋敷があったとされます。ちなみに、梶原氏も、景時の叔父の子孫となり、やはり鎌倉党になりますね。
梶原の地における梶原一族の旧跡は、また改めてご紹介しますね。
『行き方』
「力餅屋」が参道沿いになりますので、北側に歩いて1分位で到着します。
『御霊神社』
住所:鎌倉市坂ノ下4-9
電話:0467(22)3251
拝観料:境内自由
『御霊神社』
祭神は、『力餅』を紹介した際にも触れた「鎌倉権五郎景政」となります。
そのため「権五郎神社」とも呼ばれております。
『御霊神社』は、江ノ電の踏切を越えた所にあります。
川端康成風に云ってみれば、「坂ノ下の踏切を越えると、そこは神社であった・・・」という感じですかね^^
境内には、権五郎景政ゆかりの「弓立の松」や「力餅屋」の所で触れた「袂石・手玉石」以外にも、石上神社、稲荷神社、秋葉神社等といった神様達が祀られております。
「弓立ての松」・・・景政が弓を立て掛けていたと云われる松の古木
「石上神社」・・・海上安全・豊漁のご利益があります。
石神神社は、昔、由比ガ浜沖にあった巨石が数多くの船を難破させたため、この巨石の一部を引き上げ、御神体として祀ったものだそうです。
毎年、7月25日に近い日曜日 石上神社例祭で、御供流し神事が行われます。
「タブノキ」・・・境内には、樹高20m、推定樹齢が350年となるタブノキがあります。
鎌倉市指定天然記念物、及び「かながわの名木100選」にも選定されています。
見事なものですね~^^
さて、祭神である「鎌倉権五郎景政」について説明すると、鎌倉氏は、鎌倉党と呼ばれた相模国の武士団となります。その系図は諸説あるのではっきりしないのですが、いずれにも共通しているのは、桓武平氏という事になります。桓武平氏は、桓武天皇の皇子「葛原親王」の孫「高望王」の流れをくんでおります。
なお、「平清盛」はこの高望王の長男「国香」の子孫になり、「平将門」は高望王の3男「良将」の長男となります。
さて、話を鎌倉氏に戻すと、「系図纂要」によると「高望王」の子「平良文」の子孫となり、良文の頃、鎌倉群村岡に屋敷を構え、その孫「景成」が鎌倉権守を名乗り、鎌倉氏を称します。
この景成の子が権五郎景政となります。
景政は、「奥州後三年記」によると、若干16歳で源義家に従い後三年の役*1に参加し、陸奥国金沢柵(秋田県横手市)を攻めた際、敵方からの矢が景政の右目に命中しますが、矢が刺さったまま、矢を相手に射返し、見事に敵を討ち取ります。
その後、自陣に戻るなり、兜を脱ぎ「景政、負傷!」と言い、仰向けに倒れ込むのですが、その時にそれを見ていた三浦為次が矢を抜いてやろうと、倒れている景政の顔に足を掛けた所、この景政が刀を抜いて、三浦為継を刺そうとします。
驚く三浦為継に対し、景政は、「弓矢に当たり死ぬのは武士の本懐ではあるが、顔を土足で踏まれるのは我慢できない。お前を殺して自分もこのまま死のうと思う。」と言います。
そこで為次は、膝を屈め顔を押さえて矢を抜くのですが、これによって景政の高名は鳴り響くわけになります。
後に景政は、1104年頃、浮浪人達を集めて、当時は野山でしかなかった大庭郷を開発し、大庭御厨を開発します。御厨とは、皇室や伊勢神宮等に献上した所領となり、1116年に伊勢神宮に寄進し「大庭御厨」*2となります。景政も現地管理者である下司となります。
*1 平安時代の後期(1083~1087年)、前九年の役後に東北地方で覇を唱えた清原氏の内紛に端を発し、源義家の介入もあり、陸奥出羽を舞台に起きた戦役。この戦役後、奥州藤原氏が誕生する事になった。
*2 寄進型荘園の一つ。荘園の大きさは、東は境川、西は寒川、南は海、北は大牧崎(場所は不明)となり、大体、現在の藤沢市と茅ヶ崎市辺りになります。
なお、鎌倉周辺にも横浜市栄区、泉区、藤沢市にも御霊神社があり、やはり鎌倉権五郎景政が祭神として祀られております。そして、鎌倉市内にも、もう一カ所の『御霊神社』が梶原にあります。
『御霊神社(梶原)』
こちらの祭神も同様に『鎌倉権五郎景政』になります。「新編鎌倉誌」によると、坂ノ下にある御霊神社は、元は梶原の御霊神社であったと記載されております。
梶原の地は、源頼朝の側近で有名な梶原景時で有名な梶原一族の屋敷があったとされます。ちなみに、梶原氏も、景時の叔父の子孫となり、やはり鎌倉党になりますね。
梶原の地における梶原一族の旧跡は、また改めてご紹介しますね。
『行き方』
「力餅屋」が参道沿いになりますので、北側に歩いて1分位で到着します。
『御霊神社』
住所:鎌倉市坂ノ下4-9
電話:0467(22)3251
拝観料:境内自由
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