35歳頃ですが原気呼吸法を始めた時期、色々な行法などに興味を持ち、ヨガ、仙道、禅、四次元の世界の本を読みました。その中で道元の正法眼蔵を紀野一義さんが解説した本を通勤の電車の中で2年ほど繰り返し日々読み続けたことが有りました。その中の一節に「只管打坐」の次の解説が有りました。
「只」ということを、道元禅師は非常に重んじた。「只」というのは、「もうそれしかない」ということである。道元禅師は坐禅するときに、「只管打坐(しかんたざ)」といわれた。「只管」これを、「ひらすら」と読む人がある。しかし「ひたすら」と読んではいけないとわたしは思う。「ひたすら」というと、それは一生懸命ということになる。無理をしてでも一生懸命にやる。それが「ひたすら」である。「ひたすら勉強する」といえば、あまり勉強したくないけれども、しかたがないとにかく一生懸命やらなくては、という気持ちが入っている。そこには一点、濁りがある。
それと、「ただ坐る」というのとはちがうわけである。ただ勉強をする、ただ何々をする、その「ただ」というのが大切なのである。
だからこの「只管打坐」はひたすら坐禅をする、ということではないのである。ひたすら坐禅をするのは、ほんとうの坐禅ではない。ひたすらとか、ひたむきにとかいうから、坐ったらどうなるかなどということを考えるようになる。それではならぬのである。
親切にするということを考えてみよう。ひたすら親切にするというのと、ただ親切にするというのとは違うであろう。ひたすらという方は、これはやっぱり親切にしてあげなくてはいけないな、と考えながら親切にしている。ただ親切にしているというのは、親切にしてあげたらどうなるかとか、この人は好きな人だから親切にしてあげるとか、そういうひっかかりがまるっきりない。ひっかかりがあると、親切が親切にならぬのである。ただ愛するというのもその中に入る。わたしが好きな人だから、誰それを愛する。それはひたすらの方に入る。これは、いつ憎しみに転換するか分らない愛し方である。そうでなくて、ただ愛するのである。なにか大きな力にうながされて、ただ愛するのである。
この原気呼吸法のブログでも、気の誘導は自意識でなく、無意識で行うことを記載しています。自意識は「ひたすら」の世界で、無意識は「ただ」の世界です。自分の分身が空間に居り、無意識に自分を眺める、この「ただ」眺める、その結果、自然に自分の体が反応するのです。原気呼吸法を上手く行おうと、自意識を使い誘導しても上手くいかず、また、上手くいっているか自分の体の反応を見ようを思いますと、とたんに無意識な誘導から、自意識の誘導に変り、誘導が上手く出来ません。「只」結果をもとめず坦々と行なう事が重要です。この只、坦々とした、ながされる人生、それは一見無責任で、貴方任せのような事と思いますが、しかし、究極的にもっとも強い、大きな力(私がこのブログで書いているこの宇宙を司る神)にあなた自身を任せる世界なのです。その結果としての貴方の行動が、貴方がこの世に生まれた使命なのです。
昨年の年末は日工会展に応募する陶芸作品を31日までに完成し、乾燥に入らなければと焦って朝から夜遅くまで、象嵌作業を行っていました。今までに誰も行っていない作風の彩泥点描象嵌の作品を多くの皆さんに見て頂きたいと思って制作していました。今年も当然作品の制作に没頭すると思っていました。しかし、私の神はそれを許しませんでした。私のブログの一番初めは昨年の今頃の私の作陶時の心境を書いた1月16日の「只管象嵌」です。私もなぜ今ブログで原気呼吸法を書いているのか分かりません。昨日記載しましたように、誰かが私の背中を押すのです。
「只」ということを、道元禅師は非常に重んじた。「只」というのは、「もうそれしかない」ということである。道元禅師は坐禅するときに、「只管打坐(しかんたざ)」といわれた。「只管」これを、「ひらすら」と読む人がある。しかし「ひたすら」と読んではいけないとわたしは思う。「ひたすら」というと、それは一生懸命ということになる。無理をしてでも一生懸命にやる。それが「ひたすら」である。「ひたすら勉強する」といえば、あまり勉強したくないけれども、しかたがないとにかく一生懸命やらなくては、という気持ちが入っている。そこには一点、濁りがある。
それと、「ただ坐る」というのとはちがうわけである。ただ勉強をする、ただ何々をする、その「ただ」というのが大切なのである。
だからこの「只管打坐」はひたすら坐禅をする、ということではないのである。ひたすら坐禅をするのは、ほんとうの坐禅ではない。ひたすらとか、ひたむきにとかいうから、坐ったらどうなるかなどということを考えるようになる。それではならぬのである。
親切にするということを考えてみよう。ひたすら親切にするというのと、ただ親切にするというのとは違うであろう。ひたすらという方は、これはやっぱり親切にしてあげなくてはいけないな、と考えながら親切にしている。ただ親切にしているというのは、親切にしてあげたらどうなるかとか、この人は好きな人だから親切にしてあげるとか、そういうひっかかりがまるっきりない。ひっかかりがあると、親切が親切にならぬのである。ただ愛するというのもその中に入る。わたしが好きな人だから、誰それを愛する。それはひたすらの方に入る。これは、いつ憎しみに転換するか分らない愛し方である。そうでなくて、ただ愛するのである。なにか大きな力にうながされて、ただ愛するのである。
この原気呼吸法のブログでも、気の誘導は自意識でなく、無意識で行うことを記載しています。自意識は「ひたすら」の世界で、無意識は「ただ」の世界です。自分の分身が空間に居り、無意識に自分を眺める、この「ただ」眺める、その結果、自然に自分の体が反応するのです。原気呼吸法を上手く行おうと、自意識を使い誘導しても上手くいかず、また、上手くいっているか自分の体の反応を見ようを思いますと、とたんに無意識な誘導から、自意識の誘導に変り、誘導が上手く出来ません。「只」結果をもとめず坦々と行なう事が重要です。この只、坦々とした、ながされる人生、それは一見無責任で、貴方任せのような事と思いますが、しかし、究極的にもっとも強い、大きな力(私がこのブログで書いているこの宇宙を司る神)にあなた自身を任せる世界なのです。その結果としての貴方の行動が、貴方がこの世に生まれた使命なのです。
昨年の年末は日工会展に応募する陶芸作品を31日までに完成し、乾燥に入らなければと焦って朝から夜遅くまで、象嵌作業を行っていました。今までに誰も行っていない作風の彩泥点描象嵌の作品を多くの皆さんに見て頂きたいと思って制作していました。今年も当然作品の制作に没頭すると思っていました。しかし、私の神はそれを許しませんでした。私のブログの一番初めは昨年の今頃の私の作陶時の心境を書いた1月16日の「只管象嵌」です。私もなぜ今ブログで原気呼吸法を書いているのか分かりません。昨日記載しましたように、誰かが私の背中を押すのです。