「大分宮」由緒記は云う 応神天皇(まだ乳飲み子ではある)をショウケ(籠の一種)に入れて険しい峠を越えこの地到着した。その時に越えた峠を「ショウケ越」と言うのはこれが由縁である。
さらにこの地で軍隊を解散(大きく分けた)させたから「大分」という。地名の由来とはこの様なもので、特に福岡は神功皇后所縁の地名が多いのである。
さて、この様な由緒は一般的である。
ところが「大分宮」由緒記は後半から全く一般と異なるから面白いのである。
由緒記は「確信」を突くかのように云うのである。もともと御神殿は後背丘陵地上にあったのだと。そしてその基壇は今でもそこに残っているのだと。すると御神体は神殿の後背地にある「古墳」なのではないか。
ここまで書くと我輩には読者諸氏の「ははーん、もしかすると」という声がもう聞こえてくるのである。
その被葬者は言わずもがなかも知れぬが言わずにおれぬ。そう「仲哀天皇」なのである。