一番最初に祖母の家にある仏前に活ける。
というのが母の習慣だったらしい。らしいのというのは今日まで私がまったく気がつかなかったからで、今までも何度も家の庭で咲いた花を祖母の家に届けにいったことがあるのにも関わらず「届け物」くらいの感覚でしか見ていなかったからだ。
その年に植えた華を仏前に活けるのは、ご先祖さまがそれこそ寝る間を惜しんで、汗水にとどまらず、血と涙をかけて守り生活してきた土地に住まわせてもらってる、生かしてもらってることへのささやかな母なりの感謝だそうだ。
そんなこと今の今まで、言われるまで気がつかなかった。
私はいつでも私の周りの環境に生かされ、回りの人々に守られて生きている。
その暖かさを甘さと言われても反論はできないけれど、なぜがか心が穏やかになれる。
そういえば、ここ3年近く初詣をはじめお参りでは同じコトを言っていた。
今年はそれができていなかったけど、今日祖母の家に行った帰りに寄った神社では素直に言うことができた。
それはやはり自分でいっぱいいっぱいで、心にも余裕はなかったし、周りの人や環境のことよりも「私自身」が誰かに救われたかったからで。そうゆう気持ちが少し安らいで素直さをほんの少し思い出せた気がする、そんな日曜日。
というのが母の習慣だったらしい。らしいのというのは今日まで私がまったく気がつかなかったからで、今までも何度も家の庭で咲いた花を祖母の家に届けにいったことがあるのにも関わらず「届け物」くらいの感覚でしか見ていなかったからだ。
その年に植えた華を仏前に活けるのは、ご先祖さまがそれこそ寝る間を惜しんで、汗水にとどまらず、血と涙をかけて守り生活してきた土地に住まわせてもらってる、生かしてもらってることへのささやかな母なりの感謝だそうだ。
そんなこと今の今まで、言われるまで気がつかなかった。
私はいつでも私の周りの環境に生かされ、回りの人々に守られて生きている。
その暖かさを甘さと言われても反論はできないけれど、なぜがか心が穏やかになれる。
そういえば、ここ3年近く初詣をはじめお参りでは同じコトを言っていた。
今年はそれができていなかったけど、今日祖母の家に行った帰りに寄った神社では素直に言うことができた。
それはやはり自分でいっぱいいっぱいで、心にも余裕はなかったし、周りの人や環境のことよりも「私自身」が誰かに救われたかったからで。そうゆう気持ちが少し安らいで素直さをほんの少し思い出せた気がする、そんな日曜日。
人って絶対一人では生きていけないんだってことに気がついたのも最近なたまです。
気づいたからって感謝できる人になれたかというとそうでもないんだけど。。。
でも時々は思い出して、感謝できる人になっていけたらと思う今日この頃です。
いまだ片意地はったり、見失ったりそれこそ3歩進んで2歩下がる状態だけどね(。_。)
私も感謝できる人になって生きたいです。
怠惰とか傲りじゃなく、人を憎まずに許すことができたら悟りを得たということでしょうか??境地だね。とおもうワタクシであります。