東洋医学の実践的理論研究~人間が病むということの過程的構造からの東洋医学的治療論の研究~

人間が病むということの過程的像から、鍼灸等の問題を説いてみたいと思います。よろしくお願いいたします。

『科学的看護論 第3版』を読み返す〜事物の過程性を見ることの必要性〜

2017-10-13 08:00:24 | 看護学・医学
『科学的看護論 第3版』(薄井坦子著 日本看護協会出版会)を読み返している。説かれることとともにその背後にあるものの大いさに圧倒される。

『科学的看護論』の最初の版は何度も読み返していたものの、『科学的看護論 第3版』は一度は目を通したものの、「難しくなったなあ」との思いを持っただけで、ゆえに、その後は読み返すことは無かった。

今回、読み返してみて「難しい」との思いは変わらないものの、説かれることの難しさだけでは無しにその背後にあるもの大いさ、それを見て取ることの大事性が感じられた。

具体的には、是非に『科学的看護論 第3版』をお読みいただきたいと思うが、自身の感じたことを鍼灸の例で説けば以下である。

鍼灸の実践というものは、形の上では患者に術者が鍼をうっている、灸をすえているというものであり、臨床経験何十年のベテラン、名人であろうが、昨日学び始めた初心者、鍼灸学生であろうが大して変わらないものである。

しかしながら、その効果には天と地ほどの差がある(ことがほとんどである)ものである。それは何故かと考えてみると、鍼をうったり灸をすえたりという技の違いもさることながら、その背後にある認識の働きの違いということに気づかされる。前者のアタマの中では、例えば、解剖生理や弁証論治、経絡経穴あるいはトリガーポイント等の学びと、その学びとともにの何十年かの施術の成功と失敗の経験で作り上げた正常像と異常像を患者に二重写しにしての対象の把握がなされた上での鍼をうち灸をすえるであるのに対して、後者のアタマの働きは、例えば、患者が痛いと訴える部位に鍼をうち灸をすえるという差がある、にも関わらず形の上では同じくに鍼をうっている灸をすえているでしかない。

それだけに我々は、単なる鍼灸の実践を見る場合にも結果としての形を見てその施術の良し悪しを云々するだけでは無しに、どの様に考えてその様な施術がなされているのかを、アタマの働き、中身を見て取ることが大事なことである。そうでなければ、結果のみしか見ないのであれば、自身の実力向上に必要なものを見落としてしまうし、相手の実力も本当には分かりえない。

『科学的看護論 第3版』を読む中で理解したことを鍼灸の事実で書くならば、以上のことであり、『科学的看護論 第3版』では、その道のベテラン、名人達人である薄井先生のアタマの中身が、実践の背後にあるものの種明かし?がなされている、だけでは無しに、どうすればそのような見事なアタマの働きを為していけるのかをしっかりと説いていただいてる、と思える。『科学的看護論 第3版』にしっかりと学んでいきたい。



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