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美味しんぼの因果関係-脱原発の背理

2014年06月04日 16時12分57秒 | 雑記帳




東京電力福島第1原子力発電所の事故の影響に関する『美味しんぼ』の不適切な描写が話題になりました。平準化した低線量の放射線被曝によって健康被害は生じないし、ならば、低線量の放射線被曝と鼻血の間の関係をさも原因と結果の如く描写した『美味しんぼ』の表現は--もちろん、表現の自由からして事前検閲は絶対に許されないものの--道義的と法的の責任を免れない。つまり、『美味しんぼ』の件の描写と低線量積年平準の放射線被曝に関する風評被害の惹起との間には強い相当因果関係が認められる。と、そう私は考えます。

▼占領憲法21条
1項:集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。
2項:検閲は、これをしてはならない。通信の秘密は、これを侵してはならない。



こう考えている私にとって驚愕すべきコメントを目にしました。
すなわち、低線量の放射線被曝と鼻血の間には、

▼津田敏秀・岡山大学教授(疫学)
「因果関係がないという証明はされていない」、と。


(毎日新聞・2014年5月20日)


このコメントを目にしてなぜ吃驚仰天したのか。それは、人口に膾炙している「不存在の証明は悪魔の証明」(ある事柄が存在していないということを証明することは人智の及ぶ範囲のことではないという法諺)を持ち出すまでもなく、現在の科学方法論の地平からは「因果関係がないという証明」は原理的に不可能ではないかと考えるからです。

そもそも、因果関係とはなんでしょうか。それは、(A)ある現象や事柄が存在しないならば、(B)別のある現象や事柄も生起・惹起しなかったであろうという二つの現象や事柄の間の関係のこと。そう言えるでしょうかね。いずれにせよ、注意すべきは、因果関係が問われる局面では、実際には、(A)は惹起しており、ならば--英語の仮定法過去完了よろしく--、(A)ある現象や事柄が存在しないならば、(B)別のある現象や事柄も生起・惹起しなかったであろうということは所詮、論者の脳髄の中にのみ存在する観念形象にすぎないということです。

更に重要なことは、因果関係の存否は時代時代の、あるいは、その社会毎の<常識>が判定してきたものであり、現在では、科学と論理、換言すれば、実証データと数学的な確率論が因果関係の存否を決定する<常識>になっているということ。ならば、実証データからも確率論からもサポートされない「因果関係がないという証明はされていない」などとのコメントは、科学哲学の無知によるものか、あるいは、脱原発論のためにするいちゃもん、もしくは、その両方でしかない。と、そう私は考えます。





敷衍しておけば、脱原発論の論者が今でも時々口にする「年間1ミリシーベルト未満の低線量放射線被曝にしてもそれが絶対に安全だと言えるのか」という類の言説もまた、科学哲学の無知によるものか、あるいは、脱原発論のためにするいちゃもん、もしくは、その両方でしかないということです。神ならぬ身の有限なる人間存在にとって、この世に「絶対の安全性」など存在しようもないのですから。換言すれば、放射線被曝の「確定的影響」ではない「確率的影響」を--健康被害が起きるか起きないかの影響ではなく、健康被害が起きるかもしれない影響を--論じる場合、この世に「絶対の安全性」など存在しようもないからです。

ならば、「確率的影響」が論じられる舞台は科学の法廷というよりは、文字通りの、法廷や政治の舞台にならざるを得ないということです。低線量放射線被曝のデメリットと原発のメリット--更には、日本が比較的短期間で核武装可能な潜在的な核保有国であり続けることのメリット--の間の価値の比較衡量にこの問題は収斂する。白黒はっきり言えば問題はここに尽きている。

ならば、脱原発論の論者の如く、文字通り、原発ゼロを目指すという政治的立場を選択しない、安倍政権を支持している多くの有権者国民は「相対的な安全性」と「エネルギー安全保障」の均衡を睨んで、社会的に妥当な安全性の範囲を決定していくしかない。そして、その妥当な安全性の範囲決定をかき乱す風評被害に対しては、占領憲法の表現の自由の保障の範囲もかなり狭くならざるを得ない。

いずれにせよ、国際原子力機関(IAEA)や国際放射線防護委員会(ICRP)、あるいは、国連の世界保健機関(WHO)が妥当とする被曝基準値を20倍も100倍も上回る馬鹿げた現行の年間1ミリシーベルトといった--これまた民主党政権の悪しき置き土産の一つと言える--放射線被曝線量の基準には何の合理性もなく可及的速やかに撤廃修正されるべきだ。と、そう私は考えます。





蓋し、「絶対の安全性」や「因果関係がないという証明はされていない」と吐露した段階でそれらの論者は、実は、「因果関係」から得られる議論の説得力を自ら放棄したとも言えるの、鴨。少し迂遠になりますが因果関係、よって、現在ではその存否を判断する基準や指標としての確率論について整理しておきましょう。

例えば、兎が月にいる確率は、「いる」か「いない」かのどちらかであり50%であり、同様に、虎が月にいる確率も50%ですよね。
ならば、兎と虎の両方が月にいた場合、兎が虎に食べられちゃうとかは無視するとして、
兎か虎の少なくともどちらかが月にいる確率は(確率の和から)100%になる。

これは数学的は正しくとも誰も真面目に相手にしない議論でしょう。畢竟、所謂「論理的確率」と「実証的確率」は全くの別ものということ。逆に言えば、「絶対の安全性」や「因果関係がないという証明はされていない」と述べる論者は、「実証的確率」が俎上に載せられている政策論争の局面で「論理的確率」を密輸したものに過ぎない。まずはそう言える、鴨。

蓋し、現代の科学方法論から見て因果関係とは、例えば、物理学における、 

ティコ・ブラーエ→ケプラー→ニュートン→・・・
→アインシュタイン&量子力学→・・・

の流れの如くに、

現象の観察と記録の蓄積→現象の内部に傾向性を発見
→それらの諸傾向性をより整合的に説明できる法則の定立
→現象の観察と記録の蓄積→・・・


という無限に繰り返される作業の中でのみ意味を持つ。すなわち、ある時点のある社会の専門家コミュニティーの中で妥当と解される<常識たる法則>や<常識たる物語>を漸次、かつ、恒常的に再構築する営みと整合的で親和的な範囲で--<法則>や<物語>の内部に、原因候補と結果候補との2個の事柄や事象の間の関係が位置づけられる限りにおいて--その因果関係は妥当なものということです。

繰り返しになりますが、量子力学革命後1世紀を経た現在では「傾向性」も「法則性」についてもその多くが量子力学と整合的な形式で--要は、行列と行列式の言語で、すなわち、確率論の言葉で--理解され表現されており、因果関係についてもこの経緯は同様です。

畢竟(A)平準化した低線量の放射線被曝と(B)健康被害との間には因果関係は存在しないという大方の専門家の主張はこのような妥当な因果関係の理解を踏まえた妥当な判断であるのに対して、(A)低線量の放射線被曝と(B)鼻血の間には「因果関係がないという証明はされていない」とする津田敏秀氏の発言は実証性を欠くだけではなく--更には、元来、実証不可能なことを相手側に要求する姑息かつ狡猾なコメントであるだけでなく--論理的にも無意味なもの。と、そう私は考えます。

まして、ことは結局は政策判断の問題。また、人間存在にとってエネルギーの国際的需給を巡る諸外国相手のゲームを外から俯瞰する<神の視座>を持つことは不可能でしょう。すなわち、そのような<神の視座>をすべてのプレーヤーが欠いているエネルギー安保を巡る国際競争についてどのプレーヤーも「囚人のジレンマ」状態から抜け出せないということ。

例えば、冷戦時の東西の軍拡競争の如く、合理的な行動選択の結果、すべてのプレーヤーが不合理な選択を行うという「囚人のジレンマ」は<神>ならぬ身に人間存在にとっては合理的なのです。それを「愚かな軍拡競争」などと言うのは、自分を<神>の立場に立つものと錯覚した傲岸不遜でしかない。

畢竟、政策的にもそのような人間存在の有限性を失念した傲岸不遜で無責任な立場に、国民の生命と安全、国の繁栄と安全を任せられた政権担当者は立てるはずもない。と、そう私は考えます。





そして、モンティ・ホールのジレンマ。而して、このジレンマを想起するとき、「絶対の安全性」や「因果関係がないという証明はされていない」と述べる論者は「論理的確率」の局面でも破綻しているの、鴨です。

▼モンティ・ホールのジレンマ
あるクイズ番組の定番コーナーから名づけられた確率を考える上での好例。すなわち、①回答者の前には3個の扉があり、その扉の向こうには2個の「不正解」のロバと1個の「正解」の高級車が置かれている。②回答者はまず3個の扉のうち一つを指定する。③司会者のモンティ・ホールは--回答者が指定した扉を開かせる前に--残りの2つの扉の中で「不正解」の扉を1個開けて回答者にこう宣告する。④「あなたは、いまならまだ選択を変更できますがどうされますか」、と。さて、回答者は選択を変更した方が確率論的には有利なのか不利なのか。

この問題、正しい行動選択は「選択を変更した方が合理的」なのです。要は、論理的確率にしても、例えば、見た目には選択肢が2択であったにせよその2つの選択肢が「正解」である確率は各々50%づつになるとは限らないということ。すなわち、選択肢を変更しない最初の方針のままで行くのなら、回答者の選択肢が正解となる確率は3分の1、しかし、選択肢を変更する場合、その選択肢が正解となる確率は--最初の選択肢が不正解である確率だから--3分の2になるということ。



モンティ・ホールのジレンマを持ち出してきて私は何を言いたいのか。それは<3・11>から2年3カ月を経過した現在、放射線被曝と健康被害との間の実証的関連がまったく確認されないだけでなく、実は、この2年3カ月の間に論理的な確率においても、修辞学的に述べれば、福島では数百数千の扉を<モンティ・ホール>は次々と開けてきており--要は、低線量の放射線被曝による健康被害が存在しないという「善き不正解」の<ロバ>を次々に回答者たる福島県民と日本国民に示しており、逆に、--政策判断においては、低線量の放射線被曝による健康被害は存在するという「悪しき正解」を避けることが可能な確率は加速度的に上昇しているの、鴨。すなわち、

▼モンティ・ホールのジレンマ@福島
(1)n個の選択肢、その中に1個の「悪しき正解」がある
(2)<モンティ・ホール>はこの2年3カ月の間に次々と「善き不正解」の扉を
開けてきており、例えば、
(3)現在は2個の扉みが残っている
(4)而して、最初に選んだ扉が「良き不正解」である確率は
n分の(n-1)であり、他方の扉が「悪しき正解」である確率は、1-n分の(n-1)
(5)ここでnを100--疫学的にはこの「n」は本当は1000なり10000なりの、
途方もなく大きいのでしょうけれども、武士の情けで「100」--とすれば、
最初の選択肢が「善き不正解」である確率は99%、よって、それが「悪しき正解」
である確率は1%

ということ。ならば、畢竟、我々は安んじて「健康被害は存在しない」という「善き不正解」を期待して、この場合には、最初の扉のまま選択肢を変更しない方が遥かに合理的というもの。逆に、「絶対の安全性」や「因果関係がないという証明はされていない」などの言説きは「悪しき正解」に導く悪魔の囁きであろう。と、そう私は考えます。

而して、『美味しんぼ』の不適切な描写には--それが、風評被害を惹起する相当の因果関係を帯びる表現行為であったと解される以上、その描写には毫も合理性が見いだせないのだから--表現の自由の観点から見てもそれなりの制裁が加えられるべきであるということもまた。蓋し、<神の視座>を持ち得ない人間は、唯足を知り、論理的に考えて合理的な行動選択をすることで満足するしかない存在なのではありますまいか。私はそう確信しています。

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