英語と書評 de 海馬之玄関

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ネットの時代に「本を買うこと」の意味≒それは自宅のストーブでカボチャをじっくり煮ることかも+「古文・漢文」は必要か?

2024年06月25日 13時37分05秒 | 今日も朝ごはん食べて英語頑張りましょう❗️

ブログの⤴️⤵️画像:記事内容と関係なさそうな「食べ物やお料理さん系」が

少なくないことの理由はなんだろう?

https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/4e03beafbd5b690bed61fda9e978db7a

⤴️冒頭の画像はブログ仲間からお借りしました

而して、その心は記事タイトルの通りです

 

 

近頃ネットの一部で盛り上がっているらしい、この国の初等中等教育カリキュラムのコンテンツとしての「古文・漢文は不要ですから論」と「古文・漢文こそ最重要だもんね論」の甲論乙駁を眺めているとき、もう随分前の、KABU が京都で学生していた大昔の寺町今出川か百万遍交叉点かのある居酒屋さんか炉端焼き屋さんでした同志社大学のとあるサークルの仲間達との会話をふと思い出しました。

それは多分、ダイシー憲法序説の当時出たばかりの翻訳書。あるいは、古書店で見かけた原書のJohn Rawls「A Theory of of Justice」についてだったと思うけれど、その本「買うたかったんやけど値段見て断念してもうたんですわ」というある後輩の大学院生の発言。

そして、この発言に対するーーたまたまそこにジョイントされていたサークルOBでもあるとある助教授からの、日本では無名のままだったけれど本国のイギリスではちょびっと知られたホッブス研究者のーーS先輩からの①「その時に買うべき本は残り半月ひもじい思いしてもバイト代前借りしても買うた方がええねん」、②「というたかて大概は積ん読になるんやろけどね。でも買うた方がええねん。なぜなら、そうやってひもじい思いして手に入れたという記憶はゆくゆく自信にもなるし、なにより、その後、書籍購入の判断の際の目利きが随分違ってくる」、③「まして、万が一にも積ん読じゃのうて実際に読もうもんならそれは法外の幸運、グリコのおまけや」、いずれにせよ、④「翻訳書の場合には図書館から原書借りて、全部は無理でも要所要所は対訳しながら読むくらいはして欲しいんやけど」という発言。

小賢しいKABUはS先輩の発言の中では④が耳が痛いけれど勉強になったのですが、①~③も、就中、②の教示はなぜか納得できて、それからつとめて「買うべき時に買う本」は購入してきました。幸いにあまりひもじい思いもすることなく。

もっとも、もちろん、文献学的と言うより美術的や資産的の価値が大きい(?)書籍は別です。そう、例えば、刊行時欧州の正式書体の一つであったブラックレターで書かれた「欽定訳聖書, King James Version / Authorized Version」(1611年刊行)の復刻版とか、鎌倉時代に書き写された現存最古の「源氏物語」写本の複製版とか、この居酒屋か炉端屋での談笑当時でも数百万円、今なら千数百万円~数千万円するだろう「本」の話ではありませんけれども。

尚、本稿では古文・漢文の要不用論それ自体は取り上げないのですが蛇足を記しておきます。蓋し、日本語で書かれた/ 書かれるテキストの基底にある思想なり世界観をどれだけ理解できるかを考えるとき、逆に言えば、そのテキストの品質を判定するスキルの高低を考えるときーー英語などの、(a)大多数の日本人にとっては、リスニング能力開発を充実させた上で定型応答スキットの暗唱を480も義務づければ、現在の「中学英語」程度でいい。また、(b)大学入試の英語長文対策なりビジネス英文ライティングやディベート・プレゼンテーション・パブリックスピーキングなりそれ以外やそれ以上を求める人には、そんな英語を/ 英語で何かをできるスキルを学ぶ機会は今どき廉価または無料でも幾らでもある、(c)それに(b)のスキルの修得を原則すべての中高生に提供するとなると全授業時間を英語に割り当ててても足りるかどうかという、そんな英語に対してーー英語と違って初等中等教育の時空以外には学ぶ機会はなかなかない古文・漢文の素養涵養に対する公的サポートはこの国にとって死活的に重要と言えなくもない、鴨。そうわたしは考えます。

わが子に「なぜ古文を勉強しないといけないのか」と問われた時の頭のいい親の"返答フレーズ"3パターン

https://president.jp/articles/-/79729?page=1

それは「買うべきときに買うべき本を選ぶ目利きのスキル/ その目利きのスキル開発」と通底するイシュー、鴨。そう考えれば本稿と古文・漢文の要不用の議論はまんざら無関係ではないの、鴨です。と、それにしても、最近、本買わなくなった。*街の本屋さんも激減していますしね。

*注:書店と書籍売上の減少

少し古いデーターですが、調査会社アルメディアさんの調べでは「2017年5月現在で全国の書店数は1万2500、これは2000年の2万1000から40%以上の減少」「出版物の販売額は1996年がピークで2兆6500億円、それが2016年は1兆5000億円と45%の減少」(朝日新聞, 2017年9月8日)。そして、この趨勢は2016年 - 2017年 からのこの六七年で加速することはあっても鈍ることはなかった。

根拠はありませんが、東京の秋葉原、名古屋の栄、大阪の難波、福岡の博多、あるいは、新潟市や広島市といったAKB48グループの劇場界隈でこの間「定点観察」してきたわたしは皮膚感覚からそう断言できます。加之、この縮小著しいマーケットにおいて2000年に上陸したamazon が2024年令和6年現在、日本最大の書店なのです。ならば、「委託販売する商品≒書籍の平均的な粗利益率(=税引前利益率)が22%前後と他のーー粗利分配方式のロイヤリティ契約、要は、FC契約が存在しており、加之、商材仕入れ費用の性格が書店とは別物のコンビニ等は除いてーー書店と同タイプの小売業に比べても格段に低い書店」が、更には、かってはその経営の安定要因だった再販制度と委託販売制度が逆にビジネスモデル再構築の足枷になってマーケットと街から姿を消しつつあるのも当然なの、鴨です。

マンハッタンで書店が激減--そこに垣間見える日本の地方創生のヒント

https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/09d308f3eb0fd0271ce0e94e7b3308a2

「書店」10年間で764社が倒産や廃業で消えた

https://news.yahoo.co.jp/articles/b55dbadc8269973b25ec97a55b5ea15f7c51eb35

「本屋がない」全国4分の1の自治体に書店なし 消えゆく書店に国も危機感

https://www.fnn.jp/articles/-/672901

「本屋という商売はまだ終わっていない」静岡の独立系書店が自信を持って断言するワケ  

https://president.jp/articles/-/79696

 

 

本を最近買っていません。もちろん、英文法と英文読解とTOEIC 公式問題集それと1ダースほどの大学の赤本、他方、民事国際法・入管法・知財関連法といった仕事の資料、ならびに、五六人のお気に入りの著者小説は別枠で機械的に買ってはいますが、それ以外は年に一二冊買っているかどうかというところ。それにもうすでにお借りしている書庫兼仕事部屋の床が物理的に抜けそうなくらい書籍で溢れているし😢

岡崎武志「蔵書の苦しみ」(光文社新書, 2013年; 光文社知恵の森文庫,2017年)

しかし、偉そうに聞こえるかもですが、わが家の場合にはこれは今までさんざん「買うべきときに買うべき本を買ってきたご利益」の当然の結果ともいえる。要は、例えば、英文法の参考書のようにある時期に/ ある時期には何度も十何度も鬼のように真剣に読むことが大切。その後生涯(辞書的に「参考」にする以外は)、一切、日本語で書かれた英文法の参考書など読まなくてすむように。蓋し、本を買わないでいいようにある時期には鬼のように買いまくってきたということ。その結果、近ごろは「買うべき本≒読むべき本」があまり見当たらない。情報はそれにネットで充分いや過剰なほど手に入りますから。

新版☆法律学の<KABU>基本書披露
https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/59a4a81fe3c6b905063199ec044b7bd5

法哲学の入門書紹介 でも、少し古いよ(笑)

https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/e33c41e2859ae8cad1c064531f0e4ab9

<再論>素人の素人による素人のための<技術>としての哲学入門・・・みたいな記事

https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/2599c7621e96f3c97eb27cbe3886798a

 

そして、各々各自のその専門領域や興味のある分野の基本書と辞書類を除けば、読みたい本は図書館で借りるかときどき買いもするけれど、大部分の情報はネットで充分。という書籍を巡るこの感覚は中高生や大学生・大学院生、三十歳前後の若い社会人の皆さんも同じようにも感じます。畢竟、本は買わなくてもまんざら<本>をそれら若いこの国の同胞の皆さんが読んでいないわけではないかもしれないということ

ならば、寧ろ、「買うべき本≒読むべき本」の方がこの国の出版業界では実は減っているだけかもしれないということ。これ、1989年 - 1991年 の社会主義の崩壊以来、誰もマルクスなりの書籍を、就中、唯物史観というファンタジーに貫かれた読書感想文やマルクス経済学という教条遊戯の解説書を買わなくなったことの延長線上の現象。今はそれがリベラル系統の書籍に波及してきただけのこと、鴨。

実際に日本にしか存在しない「軍隊の効能を一切省略した平和学の基本書」など今どき誰が買いますか? 現存する唯一の哲学に一切触れていない現代哲学の紹介本とかも? 「事実は小説より奇なり」が恒常化してきた現在、幾つかの例外を除けば小説でさえ魅力を失いつつあるというのに❗️

そして、チョーサーとシェークスピア、和泉と紫の二人の式部に清少納言と藤原道綱母に藤原孝標女、漱石や鴎外、谷崎潤一郎に志賀直哉、星新一に遠藤周作、門井慶喜東川篤哉、もちろん、ディケンズやマーク・トウェイン、ジーン・ウエブスターにフランシス・H・バーネットとアガサ・クリスティー、コナン・ドイルやチェスタトン、カントやウィトゲンシュタインにカール・ポパー、ホッブスとベーコンとアダム・スミス、カーライルにベンサム、ウォーラスティンやクーンとハイエク、レヴィ・ストロースとマイケル・サンデル、加之、諸星大二郎川原泉、西岸良平と岡崎二郎、なにより、聖書とコーランと中論おまけに正法眼藏等々、もしその人にとって買うべき本があれば多くの日本人は今では amazon で求めているだけのこと❗️ 違いますか?

 

 

 

>本は本を買わないでよくなるために買うもの

 

ならば、ネットの時代に「本を買うこと」、逆に言えば、

敢えてネットの時代に「買った書籍」にはどんな値打ちがある

というのか? ネットの時代でもやはりどこかに「本買いたい」

そう思わせるものがあるのではありますまいか? 

もしそうならその something はなんなのでしょうか?

 

In order to improve the mind, we ought less to learn, than to contemplate.

( 精神を向上させるためには、より多くの熟考が肝要なのです。学ぶことよりも)

by René Descartes

 

Reading furnishes the mind only with materials of knowledge. It is the thought 【that】counts.

(書物とその読書は精神に知識を構成する材料を提供するだけなのです。

重要なことはその読書の際に傾けられる思い理詰めの気迫なのです)

by John Locke

 

なぜ本を買うのか? 買いたいと思うのか?

それには二つの理由がある。その両者は関連しているけれど。

そうわたしは思います。蓋し、畢竟、

ネットの時代に「本を買うこと」の意味は、それは謂わば、

 

>自宅のストーブでカボチャをじっくり煮ることかも

 

 

🍎本を買う理由その壱:電子辞書に対する紙の辞書の優位性類似効能🍎

🍎本を買う理由その弐:人間存在の躰体性、あるいは時間の不可逆性🍎

 

電子辞書は原則調べたい項目に関する情報しか提供してくれない。紙の辞書(a physical dictionary)はその当該項目以外にも前後左右に「思いがけない情報」が横たわっている。よって自分の視野を嫌でも広げてくれる。これと同様に、紙の本(a physical book)を買えばーーもちろん、街の書店(a physical bookshop)で求めるのが理想的ですが、たとえ amazon さんで購入したとしてもーー広告なり価格なり出版に関わった発行者・発行社や印刷所といった組織あるいは外注した装幀者さんイラストレーターさん声優さんなりの情報が嫌でも目にはいる。

これは「Human beings are social animals.:人間は社会的な動物, 共同体的な世間という世界≒政治社会に住まう動物」(アーリストテーレス)である以上とても大事な刺激であり情報だと思うのです。

実際、わたしは古書店で目にすれば「古い六法全書」を購入してきました。手元にある一番古いものは昭和33年版。なぜそんな古書を求める? 

それはわたしの専門領域の当時の法制度を確認する便益などではなくて、わたしが門外漢の領域の当時の法制度がどうなっていたかを斜め読みすることで、当時のこの社会の全体像を想像することができるから。で、令和5年、俗に言う2023年度版の「最新の六法全書」は? 買いません。だって、それが提供している情報はネットで充分に入手できますもの。

 

 

紙の書籍は間違いなく「人生これすべて余命」である人間存在にとって謂わば「戦友」であり「同伴者」です。

時間は有限で不可逆。わたしはデジタル情報の集積であると同時に躰体を持っている。ふと奥の書架にある、半世紀前に使った中高生の時の教科書とか大学生のころにちょびっとひもじい思いをして買ったカント全集ウィトゲンシュタイン全集やアメリカ憲法判例集(a case book)がそれらの装幀が、どこかのフラットに住んでいたときの西日とか梅雨時の湿気、なにより、時間のトータルな経過の中で劣化しているのを見るとその感想を強くします。

はい、もうこれ以上は蛇足でしょう。

購入した書籍は都度読み返すたびに、否、背表紙を眺めるたびに、自分の今の思考や思想をじっくり反芻させてくれる。パラドキシカルに聞こえるかもしれませんが、それは謂わば自宅のストーブでカボチャをじっくり煮ること。そうすることで知識の材料を都度何度でも心通うものにしてくれる。数年十数年数十年の時空を超えて温かくも新たに新鮮にしてくれる。そういうものだとわたしは思います。ということで、やはり、

本を買いたいと思います。

読むべき本があれば。

 

おそまつさまでした。

 

以上

 

 

今日も朝ごはん食べて英語頑張りましょう❗️


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