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書評:はじめての言語ゲーム

2014年02月14日 15時41分30秒 | 書評のコーナー

 


本書、橋爪大三郎『はじめての言語ゲーム』(講談社現代新書・2009年7月)は小著ながら、ウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」の本質を紹介した良書だと思います。もちろん、著者がプロの社会学者・社会理論研究者ということもあり、哲学プロパーの研究者からの評価はそう芳しいものばかりではない。けれども、蓋し、保守主義からの憲法基礎論の再構築を<趣味>にしている私にとってはもう感謝感激ものの一書。

本書は、実を言えば、著者の橋爪さんの実質的な<処女作>ともいうべき『言語ゲームと社会理論―ヴィトゲンシュタイン ハート・ルーマン』(勁草書房・1985年8月)の第一章と第二章の全面改訂版ともいうべきもの。そして、例えば、カントの『純粋理性批判』の第1版と第2版とどちらが優れているのか議論があるのとは違って、少なくとも哲学プロパーではない読者にとっては間違いなく、前著よりも本書『はじめての言語ゲーム』が便利だと思います。

なにより、前著では著者ご自身が「言語ゲーム」を理解するための<苦行>というか<苦労>がやはり滲み出ていたのに対して、--よって、読者は著者の<苦行>を追体験する様相がなきにしもあらずだったのに対して--本書は、「言語ゲーム」のエッセンスだけがさらっと述べられていますものね。ということで、保守主義の立場から政治や社会をとらえ返したい--左翼・リベラルに対する理論武装をしたい--、そのために役に立つというのなら「言語ゲーム」とやらも学んでもいいかも、とかとか考えておられる読者にとって本書の上梓は僥倖と言うべきものだった、鴨。







では、「言語ゲーム」とは何か?


それを書けば本書のネタバレになるので、
控えさせていただきたいのですけれど・・・。

まあ、簡単に言えば・・・。それは、


ルールに則って繰り広げられている
人々の社会的なふるまいのこと



重要なことは、


あるゲームのルールの存在と内容は、
その言語ゲームの中でのみ観察され体得されるしかないこと
つまり、ルールの正当性の根拠自体を記述することは
言語ゲームの中では不可能ということ。


更に、重要なことは、

人間の認識とはすべからく、この言語ゲームの営みの中でその判断の正誤の基準を得ていること、というか、認識の枠組み自体が言語ゲームを通して獲得された諸ルールで編み上げられていること。要は、この世に、言語ゲームではない言語行為なり社会的な行為は存在しえないということ。




例えば、「天皇制」が日本の社会で価値を得ていることは、政治を巡る日本社会の言語ゲームの中に--それに価値を置かない反日リベラルも含めて誰しもが、具体的な日本人の現下の行動様式の中に--観察できる。けれども、究極の所、「天皇制」の価値を論証することはできない・・・。

而して、この諦観というか覚悟というか潔さというか、いずれにせよ、社会に対する認識の構図は、英米の--慣習法と判例法の蓄積としての--法の認識と極めて親しいと思います。ちなみに、言語ゲームの考え方と保守主義との親和性については、著者、橋爪さんの同志といってよい(のかな?)、同志社大学の落合仁司さんの好著『保守主義の社会理論―ハイエク・ハート・オースティン』(勁草書房・1987年12月)も併読いただければと思います。

尚、落合さんのこの著書は、出版までの長年の研究というか思いのたけを一気に原稿用紙というかキーボードに叩き付けたという気配があり、1センテンスというか1パラグラフが、内容的には切れ目なく次のセンテンスやパラグラフに続いている。要は、そうそう読みやすくはない。けれども、まー、弊ブログの記事よりは遥かにましでしょう(笑)。



これ以上書くと確実にネタバレになる。
よって、本書で秀逸と感じたポイントと、他方、
私が橋爪さんに同意できないと常々感じていること
だけをまとめておくことにします。


本書の白眉は3点。それは、

(Ⅰ)ウィトゲンシュタインの前期と後期の思想を
   一体のものとして提示していること
(Ⅱ)言語ゲームの説明を、石工の隠喩--数列の比喩--の
   1点に絞って説明していること
(Ⅲ)ある言語ゲームとその言語ゲームを理解するための
   別の言語ゲームの重層構造を提示したこと


而して、『論理哲学論考:Tractatus Logico-philosophicus』(1921)で開示された前期のウィトゲンシュタインの思想--写像理論--と「言語ゲーム」に収斂した後期のウィトゲンシュタインの思想の関係は如何。本書は、写像理論とは、--社会に数多ある、というか、社会とは諸々の言語ゲームの集積であり言語ゲームの星雲状態に他ならないのでしょうけれども、そんな数多の言語ゲームの中で--(Ⅱ)(Ⅲ)科学的もしくは論理的な言説を行うかなり特殊な言語ゲームと理解している。そして、(Ⅰ)前期と後期を貫くものは「この世界に意味と価値が確かに存在していること」の確信。そして、この世界の意味と価値の根拠を果てしなく探究したウィトゲンシュタインの--懐疑論を打破しようとする、他方、左右の教条主義に抗しようとする--哲学をすることを生きる、モティベーションとモティーフにあった、と。

実は、(Ⅲ)の重層的な言語ゲームという構想の運用実例を著者は、前著以来一貫して、ハートの法哲学に求めておられる。けれども、著者自身も認められているように、ハートがウィトゲンシュタインの言語ゲーム論の影響を受けて、その法哲学を構想したという証拠はありません。

私も、しかし、--ウィトゲンシュタインとハートの間に直接間接の交流が一切なかったとしても--、第一次ルールと第二次ルールの(具体的な行為規範、および、その行為規範を発見・変更・承認する規範の両者の)重層的な構造として法体系を理解するハートの法哲学は、言語ゲームから捉えられるとき--正確に言えば、ある言語ゲームとその元の言語ゲームを理解するための言語ゲームの重層構造として法体系を理解するアイデアと捉えるとき--最も整合的に理解できるの、鴨。と、そう思います。

葢し、形而上学の成立の不可能さを論じた、カント『純粋理性批判』(1781)の先験的弁証論、就中、アンチノミー表での論証。而して、諸学に方法論的基礎を提供するという意味では現在の唯一の哲学たる分析哲学と現象学もこのカントの地平を継承しています。例えば、ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』(1921)の中でこう述べている。尚、英訳はC.K. Ogden、和訳は(ドイツ語テクストからの)KABUの訳です。

The world is all that is the case.(1)   
The world is the totality of facts, not of things.(1.1)

Whatis the case, a fact, is the existence of states of affairs. (2)
A logical picture of facts is a thought.(3)

The limits of my language mean the limits of my world.(5.6)
The world and life are one.(5.621)
I am my world. (The microcosm.) (5.63)
The subject does not belong to the world; rather, it is a limit of the world.(5.632)

Where in the world is a metaphysical subject to be found?
You will say that this is exactly like the case of the eye and the visual field.
But you really do not see the eye.
And nothing in the visual field allows you to infer that it is seen by an eye.(5.633)

How things are in the world is a matter of complete indifference for what is higher.
God does not reveal himself in the world.(6.432)
The facts all contribute only to setting the problem, not to its solution.(6.4321)
It is not how things are in the world that is mystical, but that it exists.(6.44)

What we cannot speak about we must pass over in silence.(7)    


世界は、成立していることがらの全体である(1)   
世界は、事実が寄せ集まった総体であって、物の寄せ集めの全体ではない(1.1)

事実、すなわち、世界から与えられている与件としての事実とは、
人間が表象・弁別・思念可能な諸々の事態が現存しているということに他ならない(2)
与件たる事実の論理的な映像が思考である(3)

私の言語の限界が世界の限界である(5.6)
世界と生とは同一のものである(5.621)
私とは私の世界である (畢竟、私とはミクロコスモスに他ならない) (5.63)
主体は世界に属さない、それは世界の限界なのだ(5.632)

世界のどこに形而上学的な主体が見出されるというのか?
眼と視野の関係と全くパラレルな関係がそこにあると考える向きもあろう。
しかし、その論者とて自分の眼を実際に見ているわけではない。
而して、視野に広がるどんな物事からも、
それらが眼によって見られていることを推論することはできない。(5.633)

神にとっては、世界がいかにあるか、世界がどのような事実や事態で編み上げられているかなどは
全くどうでもよい非本質的なことである。神はこの世界の中にその姿を現すことはない(6.432)
而して、事実は問題を課すのみであり、解答を与えるものではない(6.4321)
世界がいかにあるかということが神秘なのではなく、
世界が存在しているということそのものが神秘なのだ(6.44)

語りえぬものについては、人は沈黙せねばならない(7)    



語りえぬものについては沈黙せねばばらない。ならば、「神が全知全能であれば、なぜこの世には不条理と悲惨が満ちているのか」という問を巡っては、「有限なる人間が全知全能の神の意志を理解することなどできはしない」という哲学からの解答を拠点とするしかないのです。而して、「世界がどのように存在するかではなく、世界が存在していること自体」に神慮を読み取り神の愛を称賛するのみである。畢竟、この世の不条理、悲惨や不正に対しては、信仰ではなく、社会思想と政治的の行動で対処するのみだ、と。


而して、後期のウィトゲンシュタインの哲学はフッサールの現象学とほとんど同じ地平に至っているの、鴨です。それは富士登山の喩の現代哲学版ではないかしらん。そう、富士山に登るのに静岡の御殿場側から登るのも、山梨の吉田口側から登るのも一興であり、かつ、目的地は同一ということ。蓋し、フッサールが人間の能力の吟味検討、つまり、自己や他者--現象学では、自己と同一の存在であると自己である<私>が確信を持って認識した他者のことを「他我」と言いますけれども--、あるいは、社会や世界を人間が理解する能力と様相の検討から登り至った地点に、他方、ウィトゲンシュタインは言語の用法と性質の吟味検討、それは実は、人間の行動様式の捉え返しの登山口から至ったの、鴨と。

フッサールとウィトゲンシュタインの両者の哲学の内容の「家族的類似性」については、橋爪さんは何も書いておられないけれど、本書を再読して改めてそう感じました。個人的には、この現象学と分析哲学の親和性の予感--もし、そう書いても許されるなら、そんな「予感の確信」--が今回本書を再読した一番の成果であり、それゆえにこそ、いまさらながら書評をアップロードしておきたいと感じた次第です。





と、最後は蛇足。
これ本当にどうでもよいことなんですが、
橋爪さんへの不満を書いておきますね。

不満といっても、例えば、実数の集合の濃度と自然数の集合の濃度の比較に
ついての「対角線論証」のかなり拙い説明--図表の例示が拙劣!--とか、
ベキ集合の濃度が元の集合の濃度より高いことの説明が割愛されていること、
--これは、仏教か本居宣長かのどちらかを削っても丁寧にやるべきだった
のではないでしょうか--とかのテクニカルなことではありません。

では、何に私は不満なのか。
それはなにか。


それは、あのー、これ、言葉の定義の問題にすぎないのですけれどね、

新カント派のケルゼン、あるいは、ラートブルフに典型的な如く、
あのー、「相対主義」、就中、「価値相対主義」は「不可知論」とは違うんですけど。

ということ。


すなわち、


白黒はっきり言えば「相対主義」、
就中、「価値相対主義」とは、



б(≧◇≦)ノ ・・・この世に絶対の価値も真理も、
б(≧◇≦)ノ ・・・絶対に存在しない!


少なくとも、


б(≧◇≦)ノ ・・・人間存在はそんな絶対の価値なり真理を、
б(≧◇≦)ノ ・・・絶対に知ることはできない!


という、一種の絶対主義である。而して、実践哲学としての価値相対主義は、自己の主張を絶対視しない、よって、自己が選び取った行動選択については、責任を負うという潔い態度であり、それは現在の保守主義と極めて親和性の高いものではないか。と、そう私は考えています。それは、「語りえないものには沈黙」しつつ、沈黙が許されない現実の実践場面での自己の行動選択には責任を負う中庸を得た立場であるとも。

実際、ハートが--言語ゲームと近しい--法のルール説から激しく批判する法の命令説の論者。法とは主権者の命令だ、よって、悪法も法であるという法命令説の論者。その代表としての分析法学の源流たるJ・オースチンもまた、主権者の命令を超える権威を持ちうる道徳ルールの存在を前提にしていた。而して、このとを鑑みれば、分析法学を包摂する価値相対主義の法哲学も、実践的には--文字通り、法を巡る言語ゲームの営みの中では--十分に、ハートの如き法ルール説の論者とも共闘が可能なのではなかろうか。と、そう私は考えています。


ちなみに、下記拙稿は、
言語ゲームのアイデアを援用しつつ、保守主義から憲法基礎論を再構築しようとした習作。
ご興味のある向きにはこの拙稿もをご一読いただければ嬉しいです。



・瓦解する天賦人権論-立憲主義の<脱構築>、
 あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義(1)~(9)
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79

そして、

・元キャンディーのスーちゃんのメッセージに結晶する<神学>と<哲学>の交点
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/ef7b986c941c707ebf1cf53fd9698da7

・素人の素人による素人のための<技術>としての哲学入門
 http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d5f9be824472b78131c1c1fc621d1d04



ウマウマ(^◇^)









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1 コメント

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Unknown (我無駄無)
2014-08-29 23:56:18
いろいろと思うところがあり、橋詰大三郎さんの「初めての言語ゲーム」と「人間にとって法とは何か」の2冊をネット通販で買って、今日、「言語ゲーム」を読んだところです。

で、思ったことは、もしヴィトゲンシュタインがヒトラーと同時代ではなく、現代に生き、しかもコンピューターと関わっていたらどうなっていたか。ということでしょうか。

ひょっとすると、ビル・ゲイツやスティーブ・ジョブズ以上の業績と貢献をしたかもしれません。

なぜ、そう言えるのかというと、言語ゲームの概念が100%成立しうるのは、コンピューターの世界だからでしょう。

より正確に言うと、コンピューターが実行するプログラムは、全て「言語ゲーム」の産物です。

一番簡単な例として、ビジュアルベイシック(別にC言語でもいいのですが)を使って、「hello」の文字を表示するプログラムを作るとすると、まず、プログラムフォーム上に文字を表示するためのラベル一個と、コマンドを実行するためのコマンドボタンを配置します。

次に、コマンドボタンをダブルクリックして、プログラム記述エリアに、「label1.text="hello"」と入力して、デバッグし、その後コマンドボタンをクリックすると、ラベルに「hello」と表示されるわけです。

まあ、実際には文字の大きさとかいろいろと、考える必要があるので、もっと複雑になりますが。

ではなぜ、そういうことが可能なのかというと、ヴィジュアルベイシックという「言語」によって、プログラムの「ふるまい」がそのように決定されるからです。

逆を言えば、そのような形での言語と振る舞いの相関関係が成立しなければ、誰もパソコンを使うことができないでしょう。

これは、「言語ゲーム」の考え方そのものだと思います。

そして、ドラクエからスーパーマリオに到るまで、全ての「プログラム」はそのようにして成り立って、様々な部分で実行されています。

当然、今入力しているコメントもそうやって、実行されている「プログラム」のふるまいの結果、入力されているわけですし。

それらを踏まえて、ヴィトゲンシュタインが、コンピューターと関わり、その上で「言語ゲーム」の概念を構築したとしたら、次のような結論を得るのでないでしょうか。
「我々の生きているこの世界は、宇宙規模の超コンピューターが実行しているプログラムであり、我々はそのプログラムの中を生きている、架空のキャラクターのようなものだ」と。

つまり、「マトリックス」で描かれていた世界観と、同じ結論を得たと思います。
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