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読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧-あるいは、マルクスの可能性の残余(壱)

2009年04月22日 09時17分44秒 | 日々感じたこととか


2008年の世界金融危機に端を発する世界同時不況のためか、あるいは、所謂「失われた10年」から日本を脱却させた小泉構造改革が道半ばで小休止したことに起因する(それ自体は根拠薄弱さを曝して竜頭蛇尾に終った)所謂「格差社会論」の延長線上のことなのか、ここ1年半ほどこれまた所謂「新自由主義」に対する批判を超えて「資本主義」自体に対する批判が日本では喧しい。しかし、私が見聞きする限りアメリカのみならず欧州では現在の「資本主義-市場主義経済」にどのようなスタビライザー(制度的な安定装置)を組み込めば世界金融システムは再生可能なのか、あるいは、どのような「経済的-社会的規制」のパッケージを導入すればアメリカ流の強欲資本主義的な企業の反社会的で美しくない行動を抑制できるかが政策論議の中心軸であるのに対して、こと日本では「正か邪か!」の如き勢いで、かつ、「文芸批評家的」な高みからする無責任な「資本主義の終焉論」が論者の口の端に上ることも稀ではないように思われます。

蓋し、20年前、1989年-1991年にその不公正さと不効率さを露呈しつつ「社会主義-共産主義」が現役の経国済民の政策パッケージ(「経済体制-社会体制」)ではありえないことが「歴史的-論理的」に証明されたことを、大東亜戦争終結後のこの社会で跳梁跋扈し猖獗を極めた戦後民主主義を信奉する勢力、すなわち、隠れ左翼とも言うべき日本の「プロ市民」や「リベラル派」はいまだに認めていないということでしょうか。カール・マルクスは『ルイ・ボナパルトのブリュメール18日』(1852年-1869年)の劈頭で「ヘーゲルはどこかで、すべて世界史上の大事件と大人物はいわば二度現われる、と言っている。ただ彼は、「最初は悲劇として二度目は喜劇として」とつけ加えるのを忘れた」と書いていますが、「社会主義-共産主義の破綻」も二度あるのかもしれません。最初は「悲劇-社会主義諸国の崩壊という歴史上事件」として、そして、二度目は「喜劇-社会主義という<死者>を蘇生させようとする無意味な文芸評論上の茶番」として。

本稿はそのような「喜劇」を楽しむための、つまり、「隠れ左翼の遠吠え」をよりよく理解するための「観劇ガイド」です。他方、それが結局はいかに馬鹿げた主張であれ、なにほどかの根拠に基づき論理的に語られる主張はその知の領域に不案内な者にとって、例えば、ミシェル・フーコーが語った意味での「権力としての<知>=素人たる他者に隷属を強いる力としての<知>」になりかねないでしょう。よって、本稿の第二の目的は、日本の隠れ左翼たるプロ市民やリベラル派に対する「携帯用理論武装アイテム」を保守派の同志の皆さんに提供することです。

実際、書籍でもネットでも、マルクスに関する簡潔な「要点便覧」は極めて稀。Wikipediaにせよ、それは左翼の(百歩譲って左右の)「マルクス愛好家」による、「マルクス愛好家のためのマルクス紹介」でしかない。要は、別に読まずに済むものならマルクスなど金輪際読みたくもないという素人の保守派向けの情報を寡聞にして私は知らないのです。蓋し、戦後民主主義を信奉する左翼プロ市民や朝日新聞・NHKの主張と情報操作に反論反撃する上でマルクスについて何を知っていればよく何は知らないでよいのかを仕分けした上で、(不愉快ながら必要になる蓋然性の高い)要点のリストと要点の概要をまとめたそれこそ印刷すればA3サイズ2枚二つ折のリーフレット程度にまとめられた情報はネット上にもほとんどないのではないでしょうか。而して、「ないなら作ってしまえ!」と。これが本稿作成のそもそもの動機です。

けれども、本稿にはもう一つの目的がある。それは保守派の皆さんにマルクスの社会思想に対する興味や関心を持っていただくことです。蓋し、ポスト工業化社会における所謂「限界費用逓減」の傾向が現実味を増しており(マルクスの経済学が依拠するパラダイムたる古典派経済学を打ち倒した)新古典派総合の経済学さえその理論的基盤が揺らいでいる現在、所謂「マルクス主義経済学」なるものには、最早、学説史上の価値しかない。要は、マルクスの思想が「マルクス主義経済学」にすべて還元可能ならば経済学史に興味のある方でもない限りマルクスの著作を今更紐解く必要はまずないのです(というか、30年近く左翼運動を見てきた私が確信を持って想像するに、単独の言語としては世界で一番『資本論』が印刷出版されてきたこの日本で、かっての左翼と現在の隠れ左翼を合算しても、邦訳か英訳でさえ『資本論』全三巻を三度以上通読した者は10%を確実に切るだろうし、まして、ドイツ語の原書か(『資本論』の特殊事情なのですが)準原書のフランス語版で『資本論』全三巻を三度以上通読した者は0.1%を遥かに下回るはずです。つまり、左翼の中で「『資本論』を読んだことがある」言っても満更嘘ではない人士は千人に1人もいないということです)。

では、マルクスの思想はマルクス主義経済学に還元可能か? 私はマルクスの社会思想がマルクス主義経済学に大凡還元可能とは考えていません。比喩を使い敷衍すれば、マルクスの思想は「宇野経済学」に収まりきれるものではなく「向坂逸郎のマルクス主義」をも包含している、と。宇野弘蔵氏は(日本でだけ有名な)世界的マルクス主義経済研究者ですが(笑)、その宇野経済学などは、最早、過去の遺物にすぎぬとしても、マルクスの社会思想はいまだによりよい社会の再構築を希求する者にとって豊饒なアイデアの源泉である、と。蓋し、マルクスは結果的にせよ『資本論』という経済学の書物に表示義(denotation)としての経済理論のみならず共示義(connotation)としての社会思想・社会哲学を盛り込んだと言えるのかもしれない。『資本論』の副題が「経済学批判」であることはそれを暗示しているように私には思えるのです。

もちろんこれらのことは読者の側のテクスト解釈に任せられるべき事象であり、私は、例えば、アルセチュール『資本論を読む』や廣松渉『マルクス主義の成立過程』『物象化論の構図』の如く、私のマルクス解釈が「マルクスの真意」であるなどと僭称しているのではありません。というか、誰にせよ「ドイツ語のできる腕っこきの降霊術師」でも雇わない限りマルクスの真意なるものを特定することは不可能なはず。ならば、2009年に生きる我々にとってのマルクス主義とは歴史的に受け取られてきた(つまり、マルクス=レーニン主義からのマルクス解釈を中心とした)マルクスの<テクスト>の意味内容でしかなく、アルセチュールの解釈も廣松渉の解釈もこの知識社会学的な観点からは単なるプライベートなマルクス解釈のone of themにすぎないのでしょうから。

畢竟、マルクスの社会思想(例えば、弁証法的唯物論-唯物史観、疎外論・物象化論・物神性論、商品論-貨幣論、「市民社会-政治的国家」論、恐慌論-生態学的社会論、等々)は現在では人類の知的共有財産と言うべきものであり、而して、それは我々保守派が「態度としての保守主義」を超えて体系的かつ実践政策的な「社会思想としての保守主義」を構築していく上でアイデアの宝庫とも呼ぶべきものではないのか。マルクスの社会思想に対してこのような認識と評価を持つがゆえに、(専門外の素人であることを顧みず)謂わば「マルクスの可能性の残余」と私に思えるマルクスの社会思想の便覧を保守派の同志の皆さんに向けて書くことにしました。尚、私の「保守主義」を巡る基本的な考え方は下記の拙稿をご一読いただければ嬉しいと思います。


・「左翼」の理解に見る保守派の貧困と脆弱(1)~(4)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11148165149.html


・「偏狭なるナショナリズム」なるものの唯一可能な批判根拠(1)~(6)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11146780998.html 








◆目次
・マルクスの生涯と著作
・マルクス社会思想の背景と構図
・マルクス関連必須用語
・保守主義から見たマルクスの可能性の残余



■マルクスの生涯と著作
カール・マルクス(Karl Marx:1818年-1883年)はドイツのラインラント州トリーア市にプロテスタントに改宗した「洗礼ユダヤ人」弁護士ハインリッヒ(Heinrich Marx:1777年-1838年)の子として生まれました。しかし、マルクスの父方も母方もユダヤ教のラビ(rabbi:ユダヤ教の教師・律法学者)の家系であり、マルクスも「割礼を受けたユダヤ人」ですが6歳の時に洗礼を受けプロテスタントに改宗しています。マルクスの生涯を大雑把に整理すれば次の四期に区分けすることができると思います。

(Ⅰ)ドイツ時代:1818年5月-1843年9月
(Ⅱ)パリ時代:1843年10月-1845年1月
(Ⅲ)ブリュッセル時代:1845年2月-1849年8月
(Ⅳ)ロンドン時代:1849年9月-1883年3月


マルクスの生涯の同志であり親友であったエンゲルス(Friedrich Engels:1820年-1895年)はマルクスより2歳下。多少因縁めいた話をすれば、マルクスの没年(1883年)に「マクロ経済学」の創設者ケインズと「資本主義の経済発展におけるイノベーションの死活的重要性」を説いたシュンペーターが生まれています。

日本でマルクスと生年の近い人物としては、井伊直弼(1815年-1860年)、島津久光(1817年-1887年)、勝海舟(1823年-1899年)、大村益次郎(1824年-1869年)、天璋院篤姫の夫である徳川家定(1824年-1858年)等々がおり、大久保利通(1830年-1878年)、吉田松陰(1830年-1859年)、孝明天皇(1831年-1866年)はマルクスより一回り下の世代にあたります。而して、マルクスの主著『資本論』(1867年)が世に出たのは大政奉還の年、我が明治維新の年なのです。アダム・スミスの主著『国富論』(1776年)が出版された年に独立宣言がアメリカで採択されたことと併せて歴史の妙を感じてしまいます。以下、マルクスの生涯と著作について要点を紹介します。


(Ⅰ)ドイツ時代:1818年5月-1843年9月
極めて成功した弁護士の「お坊ちゃま」として、大学に入学するまでマルクスは郷里のトリーアですごします。ちなみに、マルクスがパリ時代の直前に(1843年6月)結婚した妻は、その父がプロイセン政府の枢密顧問官、その異母兄は後にプロイセン政府の内務大臣を長らく務めるという貴族出身の女性。而して、「マルクス自身も自分の実子(娘たち)はブルジョア家庭の娘として教育し、女中(レンヒェン)との間にできた息子は労働者階級の子供として無教育のまま放置」した(森嶋通夫『思想としての近代経済学』(岩波新書・1994年, pp.111-112)、19世紀のブルジョア家庭の<常識>を備えた人物だったのです。

1835年、父親の勧めによりマルクスは地元のボン大学法学部に入学、同じくパパ・マルクスの意向で1836年プロイセン国内の最高学府ベルリン大学法学部に転校します。謂わば、福島県相馬地区一番のやり手弁護士の息子が東北大学法学部に入学し、1年後、東京大学法学部に転学したようなものでしょうか。ただ、マルクスは法学に興味が持てず、歴史学や哲学や詩学、特に、当時のドイツ哲学界を風靡していたヘーゲル左派の哲学にのめり込んで行ったようです。而して、(ベルリン大学やボン大学より学位が取りやすかったためか)イエナ大学哲学部に博士論文を提出し1841年4月に学位取得。翌1841年5月にマルクス博士はベルリン大学を卒業します。

卒業に際して大学の教職を望むものの政治的・性格的の諸般の事情でかなえられず、マルクスは自由主義的なスローガンを掲げ発足したケルン市の『ライン新聞』に関わることになり、忽ち「主筆」(実質的な編集長)の役割を果たすことになります。後年、マルクスの死亡届の職業欄には「著述業:Author」と記されるのですが、私はマルクスは当時一流の経済学者であり三流の革命家、そして、生涯を通してその職業はジャーナリストであったと考えています。いずれにせよ、そこでマルクスは「支那製陶器」の如く綺麗ではあるが中空の哲学論議では解決しえない現実の社会的諸問題に遭遇する。この辺りの経緯を『経済学批判』(1859年)の序言からマルクス自身の言葉で確認しておきましょう。尚、本稿でマルクスの引用は原書原文に鑑み適宜修正します。

「わたくしの専攻学科は法律学であった、だがわたくしは、哲学と歴史とを研究するかたわら、副次的な学科としてそれをおさめたにすぎなかった。1842年から43年のあいだに、「ライン新聞」の主筆として、わたくしは、いわゆる物質的な利害関係に口をださないわけにはいかなくなって、はじめて困惑を感じた。森林盗伐と土地所有の分割についてのライン州議会の討議、当時のライン州知事フォン・シャーペル氏がモーゼル農民の状態について「ライン新聞」にたいしておこした公の論争、最後に、自由貿易と保護関税に関する議論、これらのものがわたくしの経済問題にたずさわる最初の動機となった。

他方では、当時は「さらに進もう」というさかんな意志が専門知識よりいく倍も重きをなしていた時代であって、フランスの社会主義や共産主義の淡い哲学色をおびた反響が「ライン新聞」のなかでもきかれるようになっていた。わたくしはこの未熟な思想にたいして反対を表明した、だが同時にまた(中略)わたくしのこれまでの研究では、フランスのこれらの思潮の内容そのものについてなんらかの判断をくだす力のないことを率直にみとめた」(岩波文庫・1956年, p.12)



(Ⅱ)パリ時代:1843年10月-1845年1月
その自由主義的で過激な論調ゆえに『ライン新聞』が発禁処分になる直前、マルクスは同紙を退き(1843年3月)、「社会主義-共産主義」思想と経済学の本格的な研究に打ち込むことになります。そのマルクスを受け入れてくれたのはパリ。そこでマルクスはドイツとフランスの社会主義に関心を持つ読者のための雑誌(実は、フランスの社会主義者からはほぼ相手にされず実質ドイツの社会主義者向けにパリで編集された雑誌たる)『独仏年誌』の共同編集者に迎えられます。

注意すべきは、マルクスの郷里モーゼルワインの産地として有名なトリーアは、フランス革命期に(1794年)フランスに占領されナポレオン戦争の終結に際して(1815年)プロイセンに併呑された地域にあったこと。畢竟、フランスの占領期にフランス流の自由主義を謳歌し、逆に、旧フランス占領地域を蔑むプロイセン治世下では抑圧的な政治のみならず、森林の共有地に対する入会権的慣習を認めない近代法の原則的適用に苦しめられ、更に、プロイセンの関税同盟政策(1834年)によってフランスという大消費地を後背地とする農工業生産の要衝からプロイセンの一経済的辺境に逼塞せしめられた地域にそれは属することです。

マルクス少年の眼には所有権を絶対視する近代法適用の徹底化や関税同盟という国の一個の経済政策によって郷里が日一日と衰退していく様子が映っていたのではないか。高度成長期の「石炭から石油・原子力へ」というエネルギー政策の転換によって郷里が年々衰微していった有様をはっきり覚えている福岡県大牟田市出身の私にはそう思われて仕方がありません。而して、マルクスが『ライン新聞』時代に遭遇した社会問題は必然的な邂逅であり、マルクスが哲学研究から「社会主義-共産主義」思想と経済学の研究に向かったのは当然のことだと思われます。それもあり、15ヵ月に満たないこの時代は主に研究に充てられましたが、後に「初期マルクス」と呼ばれる一連の著作が書かれ始める時期でもあります。

以下、この時期の著作。尚、(03)はマルクスの生前は未公刊であり、1932年モスクワのマルクス=エンゲルス研究所から『マルクス=エンゲルス全集』(「旧MEGA」)の一部として著述から88年ぶりに世に知られた曰く付きの著作です。

(01)ユダヤ人問題によせて(1844年)
(02)ヘーゲル法哲学批判序説(1844年)
(03)経済学・哲学草稿(1844年)
(04)聖家族(1845年:エンゲルスとの共著)



(Ⅲ)ブリュッセル時代:1845年2月-1849年8月
ドイツ社会の現状を激しく批判するマルクスの著作活動はプロイセン政府の逆鱗に触れ、1845年初頭、プロイセン政府の圧力でフランスはマルクスに国外退去を命じる。落ち延び先は(フランス七月革命の余波の中で1830年にオランダから独立したばかりの)ベルギーの首都ブリュッセル。

もうすぐそこに迫っていた「二月革命-三月革命」(1848年)の予兆を感じつつ、この時代、マルクスは国際共産主義運動のネットワーク構築を目指す(実質は亡命ドイ人活動家がその過半を占めていた)「共産主義者同盟」(旧称「ロンドン義人同盟」)での活動やドイツの社会主義運動を支援する『新ライン新聞』の創刊(1848年)等々の実践活動に精力的にかかわっていきます。この時期にマルクスが置かれていた思想状況を再び『経済学批判』の序言から引用しておきます。

「わたくしをなやませた疑問【森林窃盗等の現実的社会問題】を解決するために企てた最初の仕事は、ヘーゲルの法哲学の批判的検討であった、この仕事の序説【『ヘーゲル法哲学批判序説』】は、1844年にパリで発行された『独仏年誌』にあらわれた。わたくしの研究が到達した結論は、法的諸関係および国家諸形態は、それ自身で理解されるものでもなければ、またいわゆる人間精神の一般的発展から理解されるものでもなく、むしろ物質的な生活諸関係、その諸関係の総体をヘーゲルは一八世紀のイギリス人やフランス人の先例にならって「ブルジョア社会」という名のもとに総括しているが、そういう諸関係にねざしている、ということ、しかもブルジョア社会の解剖は、これを経済学にもとめなければならない、ということであった。この経済学の研究をわたくしはパリではじめたが【『経済学・哲学草稿』を書き始めたが】、【フランス首相】ギゾー氏の国外退去命令によってブリュッセルにうつったので、そこでさらに研究をつづけた」(ibid. pp.12-13)


ブリュッセル時代のマルクスの著作は以下の通りです。
(05)フォイエルバッハ・テーゼ(1845年)
(06)ドイツ・イデオロギー(1845年:エンゲルス、ヘスとの共著)
(07)哲学の貧困(1847年)
(08)賃労働と資本(1847-1849年)
(09)共産党宣言(1848年:エンゲルスとの共著)


マルクスはパリ時代の後半からブリュッセル時代の前半にかけて、片や、現実離れした観念の遊戯たるヘーゲル左派の哲学と、他方、現実に埋没する今ひとつの観念論たる所謂「空想的社会主義」を批判していくのですが、その作業のための新たな「武器=経済学」の調達をも同時にこの時期に行なわなければなりませんでした。

ところで、ブリュッセル時代にマルクスの思想にはなんらかの断絶があると主張する新左翼系やポスト=モダン系の論者が存在します。アルセチュールや廣松渉に代表される、所謂「認識論的切断」「方法論的切断」「物的世界像から事的世界観への推転」「実体概念を使った表象から関係概念を使った認識への移行」がそこで「弁証法的唯物論」を確立した『ドイツ・イデオロギー』に読み取れる、と。また、次のロンドン時代のことになるのですが、「1857年恐慌のあと、したがって六〇年代の比較的早い時点で、エンゲルスはともかく、マルクスは恐慌=革命テーゼを放棄したと判断」されるとする論者もおられる(大内秀明『もう一人のマルクス』日本評論社・1991年, p.81)。

これらは、例えば、カール・ポパーからの、マルクス主義は神ならぬ身の人間が知り得るはずもない歴史法則なるものを発見したと詐称する<歴史主義>であるという批判や、分析哲学がその成立の不可能なことを示した「実体概念」を用いてマルクス主義は綴られているという批判、あるいは、「マルクスの預言と異なり資本主義は崩壊消滅しなかったではないか」という指摘に対する左翼陣営からの対応と思われます。

蓋し、アルセチュール自身、その晩年には「認識論的切断」の存在を否定しているだけでなく、彼等の主張には明確な文献上の証拠はなく、他方、かなり特殊な用語法(例えば、彼等の用いる「実体主義」「関係主義」の語義!)が見られる。要は、それらは解釈にすぎず、百歩譲っても我々保守改革派には無用な左翼内部のマニアックな議論だと思っています。いずれにせよ、先にも述べた通り、それらは彼等のプライベートな解釈であり現実の歴史の中で影響を与えてきた<マルクスの思想>とは一応無縁と考えてもよいでしょう。

<続く>


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