英語と書評 de 海馬之玄関

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今日は哲学の日、「哲学者の言葉、何か知ってる?」ってか?

2020年04月27日 12時56分53秒 | 言葉はおもしろいかも

・コラム:「左翼」て何なの-教職員組合を例にとって
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/40427fd974fca7cde4ddaf33a42ced46

・暇潰しの言語哲学:「プロ市民」vs「ネットウヨ」
https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/1bb6f28361094de31c67a69cff1a8171

 


どんな馬鹿げたアイデアも
かって哲学の歴史の中で
語られなかったものはなかった❗
(However preposterous it could be,
nothing stupid has never been talked about❗) 

昔、法哲学研究者の長尾龍一さんから
聞いた言葉です。


随分前に聞いた言葉だけれども、それから都度、例えば、冗談抜きで真面目に、ルソーの冗談とかロールズのリベラルファンタジーを読むとこの言葉の正しさが痛感されて思わず微笑んでしまいます。

ただ、笑えないのは、ヘーゲルなりマルクスのジャーナリステックなその「法螺吹き男爵の冒険:Adventures of Baron Munchausen」を彷彿させる笑いの大風呂敷も含めて、それらのジョークを――分析哲学が哲学全体をリセットしてからでも半世紀以上経過しているというのに――いまだに真に受けているらしい人々が朝日新聞とかには少なくないこと。

昔はKABUも若かったから、彼等、朝日新聞とか岩波書店とかに立て籠っておられるリベラル派の、間違いなく「高学歴」ではあり、おそらく、その多くは異文化コミュニケーションにも精通されているのではあろう「国際派」(爆笑)の方々は、政治的な戦術戦略を睨んで知っているのに知らないふりをしているのだと思っていました。

そう、例えば、フランス流の天賦人権論なりロールズの説く謂わば「許容される不公平の論理的形式的な諸条件」なり「立憲主義単体からの憲法的権利の具体的な諸内容の演繹と基礎づけ」等々が哲学の認識論、就中、社会科学方法論から見て到底というか徹頭徹尾、成り立たないこと百も承知の上で法螺を吹き続けておられるもの、と。そう思っていました。

でもね、NMB48の贔屓の安田桃寧さんの桃寧じゃなかった、
でもね、これ、過大評価だったのですよね、多分。

蓋し、この歳になると遠慮もなくなるので仮説を述べさせていただくと。はい、朝日新聞とか岩波書店さんとかに集う「善男善女」の皆さんは、おそらく、本当のところ、ルソーもロールズもマルクスも読んだことないのでしょう。

そう想像します(↖not assumption but presumption as well)。

 

>哲学者の言葉、何か知ってる?

 

例えば、畢竟、「神が全知全能であるならば、なぜ、この世にはかくも多くの悲惨と不正が存在するのか」、実は、この問は、ライプニッツが<弁神論>として定式化したキリスト教神学の初歩的な論点なのですが、ライプニッツ(1646-1716)どころか、遅くともマルクス帝(121-180)以来この問が、信仰者にとっては初歩的であると同時に本質的なものであり、よって、繰り返し繰り返し問われてきたことは、マルクス・アウレリウス『自省録』を紐解くまでもなく周知のことだろうと思います。蓋し、キリスト教の組織神学において<弁神論>とは、将棋における<相矢倉定跡>の如きものと言ってもそう大きな間違いではないと思います。

しかし、哲学的にはこの問題は解決している。すなわち、人間存在にとってこの問は解答不能であり、その意味で無意味な問である、と。形而上学の成立の不可能さを論じた、カント『純粋理性批判』(1781)の先験的弁証論、就中、アンチノミー表での論証がその明確な解答。而して、諸学に方法論的基礎を提供するという意味では現在の唯一の哲学たる分析哲学と現象学もこのカントの地平を継承しています。例えば、ウィトゲンシュタインは『論理哲学論考』(1921)の中でこう述べている。尚、英訳はC.K. Ogden、和訳はドイツ語原典からのKABUの訳です。

 

 

The world is all that is the case.(1)
The world is the totality of facts, not of things.(1.1)

Whatis the case, a fact, is the existence of states of affairs. (2)
A logical picture of facts is a thought.(3)

The limits of my language mean the limits of my world.(5.6) 
The world and life are one.(5.621) 
I am my world. (The microcosm.) (5.63)
The subject does not belong to the world; rather, it is a limit of the world.(5.632) 

Where in the world is a metaphysical subject to be found?
You will say that this is exactly like the case of the eye and the visual field. 
But you really do not see the eye.
And nothing in the visual field allows you to infer that it is seen by an eye.(5.633) 

How things are in the world is a matter of complete indifference for what is higher. 
God does not reveal himself in the world.(6.432) 
The facts all contribute only to setting the problem, not to its solution.(6.4321) 
It is not how things are in the world that is mystical, but that it exists.(6.44) 

What we cannot speak about we must pass over in silence.(7)

世界は、成立していることがらの全体である(1)
世界は、事実が寄せ集まった総体であって、物の寄せ集めの全体ではない(1.1)

事実、すなわち、世界から与えられている与件としての事実とは、
人間が表象・弁別・思念可能な諸々の事態が現存しているということに他ならない(2)
与件たる事実の論理的な映像が思考である(3)

私の言語の限界が世界の限界である(5.6) 
世界と生とは同一のものである(5.621) 
私とは私の世界である (畢竟、私とはミクロコスモスに他ならない) (5.63)
主体は世界に属さない、それは世界の限界なのだ(5.632) 

世界のどこに形而上学的な主体が見出されるというのか?
眼と視野の関係と全くパラレルな関係がそこにあると考える向きもあろう。
しかし、その論者とて自分の眼を実際に見ているわけではない。
而して、視野に広がるどんな物事からも、
それらが眼によって見られていることを推論することはできない。(5.633) 

神にとっては、世界がいかにあるか、世界がどのような事実や事態で編み上げられているかなどは
全くどうでもよい非本質的なことである。神はこの世界の中にその姿を現すことはない(6.432) 
而して、事実は問題を課すのみであり、解答を与えるものではない(6.4321) 
世界がいかにあるかということが神秘なのではなく、
世界が存在しているということそのものが神秘なのだ(6.44) 

語りえぬものについては、人は沈黙せねばならない(7) 

 


語りえぬものについては沈黙せねばばらない。ならば、「神が全知全能であれば、なぜこの世には不条理と悲惨が満ちているのか」という問を巡っては、「有限なる人間が全知全能の神の意志を理解することなどできはしない」という哲学からの解答を拠点とするしかないのです。而して、「世界がどのように存在するかではなく、世界が存在していること自体」に神慮を読み取り神の愛を称賛するのみである。畢竟、この世の不条理、悲惨や不正に対しては、信仰ではなく、社会思想と政治的の行動で対処するのみだ、と。

これが、この問題をライプニッツが<弁神論>として、哲学史における<相矢倉戦パターン>として定式化して以降、カントとそれを引き継ぐ現象学と分析哲学から導かれる解答である。と、そう私は考えています。蓋し、「カエサルのものはカエサルに返せ、神のものは神に返せ」(マルコ・12章17節)の箴言が<弁神論>の正解であるとも。

 

 

朝日新聞さんがいつも安倍政権に対してそうされているような印象操作のレッテルはりだけではいかんでしょうから、現在の分析哲学のサワリを書かせていただきました。

退屈でしたか? (^_^)v


而して、

レッテルはりの朝日新聞さんにいよいよレッテルはってもですけれど、「独善と教条」が炸裂するスタイルで「寛容と多様性」なるものをわれわれ日本の下じもの国民に朝日新聞さんが講釈される光景はかなりシュールだと思います。「社会を分断するなぁー❗」とかの――「朝日新聞にだけは言われたくないわよね」という――講釈もまた

だって、
それ偉そう! 
オタクなにさま? 

の講釈というだけでなくて、正直、現在の哲学の水準から見てどう見ても、よくて、つまり、朝日新聞さんに好意的に言って「小学生が大学生に説教している」ようなものだから。

 


而して、沙翁、
シェークスピア曰く、

A fool thinks himself to be wise,
but a wise man knows himself to be a fool.
(沙翁! これ、朝日新聞と安倍総理のことでしょうか?)


その母国の先輩からのバトンを引き継いで
英国の近世と近代を橋渡しした詩人W.Cowper曰く、

Knowledge is proud that it knows so much
; wisdom is humble that it knows no more.
(知ったかぶりさんは知識自慢をしたがり、
 本当にものごとを知っている人は、なんて自分は未熟なんだといつも自覚しているもの、鴨。)


あっ、沙翁はんこんなんも
言うてはったわ。(ToT)

Brevity is the soul of wit.
(KABUくん、要点だけ話しなさいな❗)


ということで、
お後がよろしいようで。
この記事はここまで。

Parting is such sweet sorrow.
(別れとはかくも甘く切ないもの ↖ Romeo and Juliet)


(*^o^)/\(^-^*)

 


・素人の素人による素人のための<技術>としての哲学入門・・・みたいな記事
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/2599c7621e96f3c97eb27cbe3886798a

・定義の定義-戦後民主主義と国粋馬鹿右翼を葬る保守主義の定義論-
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0fb85611be79e7a89d274a907c2c51ac

・海馬之玄関推奨--素人でも読めるかもしれない社会を知るための10冊--
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/d34ed39162f2d60fcc67d06b9d3a8e4c

・法哲学の入門書紹介 でも、少し古いよ(笑)
 http://ameblo.jp/kabu2kaiba/entry-11147077543.html

・読まずにすませたい保守派のための<マルクス>要点便覧
 -あるいは、マルクスの可能性の残余
 https://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/385e8454014b1afa814463b1f7ba0448

 

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