
<承前>
本節の帰結を定式化すれば以下の通り、
(甲)伝統とは事実ではなく表象である。それは「世界Ⅲ」にその場を占めている
(乙)伝統の価値は事実から演繹されるのではなく伝統に価値を置くコミュニティーメンバーの心性によって効力を獲得する
(丙)民族が異なれば、また、時代が異なれば、あるいは、属する社会階層や居住する地域の生態学的社会構造(自然を媒介にした人と人との社会関係のあり方)が異なれば伝統の内容もまた異なってくる。その意味での伝統と伝統に価値を置く保守主義の意味内容は極めて多様である
(丁)伝統に価値置く心性と伝統の恒常的な再構築という行動パターンは諸民族・諸国民に広く観察されるのであり、それらの伝統と伝統の恒常的な再構築に価値を置く社会思想は単一の思想類型と言える。畢竟、保守主義とはそのような思想類型に他ならない、と
尚、保守主義の基盤たる<伝統>というものの、<私>と<我々>に対するたち現れ方をどう捉えるのか。私はこの問題を、(イ)「存在論-認識論」的にはフッサールの現象学、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論から、他方、(ロ)「認識論-価値論」の領域においては、新カント派の価値相対主義の実践哲学から基礎づけています。このことを巡る私の基本的な考えについては、とりあえず下記拙稿をご参照ください。
尚、保守主義の基盤たる<伝統>というものの、<私>と<我々>に対するたち現れ方をどう捉えるのか。私はこの問題を、(イ)「存在論-認識論」的にはフッサールの現象学、ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論から、他方、(ロ)「認識論-価値論」の領域においては、新カント派の価値相対主義の実践哲学から基礎づけています。このことを巡る私の基本的な考えについては、とりあえず下記拙稿をご参照ください。
・瓦解する天賦人権論
-立憲主義の<脱構築>、あるいは、<言語ゲーム>としての立憲主義
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/0c66f5166d705ebd3348bc5a3b9d3a79
・「女性宮家」は女系天皇制導入の橋頭堡:Yahoo意識調査-私家版回答マニュアル
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c2748f9892e1018e1a3f1cb6910ad8a7
http://blog.goo.ne.jp/kabu2kaiba/e/c2748f9892e1018e1a3f1cb6910ad8a7
◆反教条主義としての保守主義
資本主義が一層その勢力を拡大深化させている21世紀の現在であればこそ、保守主義の死活的に重要な意味内容として私はその「反教条主義」「アプリオリな<真理>を標榜する理論や言説に対する不信感」に注目しています。そこに注目する理由、ならびに、焦点を当てるポイントや切り口の詳細は旧稿に譲るとして、保守主義と反教条主義の論理的関連性は次のように整理できると思います。
資本主義が一層その勢力を拡大深化させている21世紀の現在であればこそ、保守主義の死活的に重要な意味内容として私はその「反教条主義」「アプリオリな<真理>を標榜する理論や言説に対する不信感」に注目しています。そこに注目する理由、ならびに、焦点を当てるポイントや切り口の詳細は旧稿に譲るとして、保守主義と反教条主義の論理的関連性は次のように整理できると思います。
◎伝統に価値を置く心性
・伝統の苗床としての家族とコミュニティーと民族に価値を置く心性
・伝統以外の新規な理論や教説にいかがわしさを感じる心性
・この世に人知の及ばない領域の存在を肯定する、人間の有限性に関する確信
・価値相対主義的な世界観の採用と自己の格率としての伝統的な社会規範の選択
・自己と異なる伝統に価値を置く「他者=異邦人」の保守主義の尊重
・価値相対主義を軽視する左右の教条主義に対する軽蔑
保守主義を--冒頭でも述べたように--このような心性に貫かれた社会思想と措定するとき、最も豊潤で中庸を得た保守主義の具体的モデルとして理解されるであろう英米流の保守主義の真髄と醍醐は、(ⅰ)そのコミュニティーに自生的な法規範が認める権利を不可譲のものと捉え、かつ、(ⅱ)具体的な事件に際しては、司法においてその法規範を実際に運用することで、(ⅲ)国家権力の人為的な立法に頼ることなく社会に生起する紛争を可能な限り解決するという「社会的擬制-政治的神話」、すなわち、イデオロギーの称揚である。逆に言えば、蓋し、これら(ⅰ)~(ⅲ)の内容が織成す編み物として英米流の保守主義は定式化できると私は考えています(★)。
而して、より一般的な社会統制の場面を背景に換言すれば、(ⅰ’)そのコミュニティーに自生的な社会規範と慣習に価値を認めること、(ⅱ’)教条的な理論による予定調和的な紛争の一括的な解決ではなく、具体的な個々の事件毎に公共的な言説空間における討議を通して、(ⅲ’)国家権力の行使をできるだけ避けながら社会に生起する紛争を可能な限り解決することこそ、保守主義の社会思想と親和的で整合的な社会統合の仕組ではないか。と、そう私は考えるということです。
◎社会思想としての保守主義の三個の内容
(ⅰ)コミュニティーへの帰属意識とコミュニティーに自生的な規範の遵法の心性
(ⅱ)教条主義とアプリオリな理論への不信と嫌悪、
紛争の個別的解決と(もしそれが必要な場合でも)社会の漸進的改善の選好
(ⅲ)自己責任の原則の好感と国家権力への懐疑
(ⅰ)コミュニティーへの帰属意識とコミュニティーに自生的な規範の遵法の心性
(ⅱ)教条主義とアプリオリな理論への不信と嫌悪、
紛争の個別的解決と(もしそれが必要な場合でも)社会の漸進的改善の選好
(ⅲ)自己責任の原則の好感と国家権力への懐疑
憲法に引きつけて敷衍すれば、ここで、<憲法>を、(α)憲法典、および、(β)憲法の概念と憲法を巡る事物の本性、そして、(γ)憲法慣習といった、その存在と内容を社会学的に、かつ、間主観的に確認できる諸規範が編み上げる最高法規の体系と捉えるとき、旧憲法に比べて(マッカサー元帥に作っていただいた経緯もあって)アメリカ憲法との親近性を増した憲法典を、実定憲法のパーツとして、すなわち、<憲法>の一斑としている我が国であれば、社会思想の領域でも英米流のマチュアーな保守主義をその「実定法秩序-法体系とその運用」のプロセスに移入することは十分に可能ではないかと考えます。
いずれにせよ、このような英米流の言葉の正確な意味での保守主義が、「政治主導」を掲げ、権力の万能感に高揚して理性を喪失しつつあると見えなくもない民主党政権の「リベラリズム≒社会主義」、そして、「地球市民」なる空虚な表象を実体と錯覚している憲法9条教の主張、あるいは、ヘーゲルばりの「国家アイデンティティ=国体」の普遍性を夢想する憲法無効論、または、(「国王もその下にある法」を発見する司法の働きを度外視した、奇妙奇天烈な「法の支配」論を振り回す)日本の一部で喧伝されている「バーク保守主義」なるものとは対極にあることは間違いないでしょう。
畢竟、例えば、かくの如き無根拠な言説を、而して、単に自己の願望にすぎない言説を、他者をも拘束する根拠を備えた<間主観性のある言説>と勝手に勘違いしている論者は、おそらく、労働価値説と唯物史観の正しさを信じ込んだ上で、護岸不遜で教条的な言説を流布したマルクス主義者とその理路の粗雑さと自己中的の心性においてほとんど差はないのではないでしょうか。それら右翼の社会主義者曰く、
女系容認派は、「女系=皇統断絶」という一番重要な点をどう思われているのか。「女系」で形だけを取り繕ってみても、これは文字通りの「皇統断絶」なのですが・・・。保守派を自任する論者の中には、「国民の支持こそが皇統の根拠」というような暴論をぶっている向きもまま見られますが、保守派を自任しておられる方々は、皆そういう拙劣な発想なのでしょうか? そうであれば、「女系容認派」は極左の極み、「保守」など自称して貰っては迷惑千万ですから、きちんと「民族派」なり「国家社会主義者」なりを標榜していただきたいものです。
民族派は、「愛国心」を保持している分だけ「反日左翼」より幾分かましですが、実のところは「国家社会主義者」であって、「全体主義」の色彩が濃く、「愛国左翼」と呼ぶのが正しいのです。「愛国」と「左翼」が結びつけば、「皇統の根拠は現世の国民による支持である」「現世の我々の意見で皇室典範を変えても良い」などといった異常思想に結実するのです。「法の支配」の意味をきちんと理解していれば、国民などは当然のこと、たとえ、「御皇室」であっても、「天皇陛下」であっても、「皇室典範」に触れる事はならないことは自明の理のはずですから。
英米流の保守主義、もしくは、「法の支配」の原理を曲解して、あるいは曰く、
英米流の保守主義、もしくは、「法の支配」の原理を曲解して、あるいは曰く、
そもそも「皇室典範」とは、皇室の家法ですが、最高の日本国法でもあります。ですから、皇位継承は天皇陛下や皇室が決めるものでさえありません。法の支配の始祖エドワード・コーク卿が国王ジェームス一世に対し、自身の処罰をも覚悟して言った言葉。「国王も神と英国法の下にある!(=英国法には国王といえども従わねばならない)」は英米では有名です。同様に、「天皇陛下・皇室でさえ、皇室典範(=国法)に従って頂かねばならない」と言うのが真の回答です。
況や、一般国民が皇室典範の改正云々を口にすることすら許されないと言うのが、バーク保守主義からの帰結なのです。日本国民にはっきり言っておきますが、小林よしのりや中西輝政のような、嫌米・嫌韓・嫌支那の国粋主義的な民族派の保守論などは暴論の書の類であり、読む価値など皆無です。
と、それらの言説は誠に勇ましい。蓋し、「盲、蛇におじず」「知らんということは強い」とは、さも真実であるとつくづく感じる次第です(笑)。しかし、本稿と本稿にリンクを張らせていただいた拙稿で論証したように、これらの主張は、「法概念論-法学方法論」的な根拠を全く欠いている上に、なんら「保守主義」とは関連のない言説なのです。
畢竟、それこそ、これらは、憲法無効論が「憲法改正論や憲法の効力論」との関連では読む価値が皆無であるのと同様、少なくとも、「保守主義」との関連においては「読む価値など皆無」の素人の戯言にすぎません。と、そう言い切っても満更間違いではないように思います。
尚、英米流の保守主義、就中、所謂「法の支配」の観念・理念との関連で<憲法>の正当性をいかに考えるかという論点に関しては下記拙稿をご参照いただければ嬉しいです。
★註:保守主義と英国分析法学
日本では英米の保守主義を精力的に紹介しておられる中川八洋氏の著書、例えば、『保守主義の哲学』(2004年)等々の影響か、コモンローと司法ではなく法の社会化を目指し立法と国会主権を果敢に推進したベンサムを保守主義の対極と理解する論者もまま見かけます。
日本では英米の保守主義を精力的に紹介しておられる中川八洋氏の著書、例えば、『保守主義の哲学』(2004年)等々の影響か、コモンローと司法ではなく法の社会化を目指し立法と国会主権を果敢に推進したベンサムを保守主義の対極と理解する論者もまま見かけます。
けれども、世界的に見ても英国の分析法学研究の先駆者と言える八木鉄男先生が、例えば、『分析法学の潮流―法の概念を中心として』(1962年)、『分析法学の研究』(1977年)で提唱されたように、この認識は片手落ちと言うべきもの。なぜならば、法理論面でのベンサムの参謀格ジョン・オースティンの分析法学に結晶しているように、「法=主権者命令説」と呼ばれる「ベンサム-オースティン」の主張は、法が社会統制に容喙できる範囲と権威を限定して、以って、広く実定道徳による社会統制を考えていたと解すべきだからです。蓋し、それが所詮、歴史的事実ではない「物語=イデオロギー」であることを踏まえるならば、所謂「法の支配」で言うところの「法」と「道徳」にはそう大きな違いはないと考えられるから。と、そう私は考えています。

天照大神
<続く>