60年目を迎えた元朝日新聞運動部記者・中条一雄のコラム。
中条一雄の炉辺閑話~いろりばたのひまつぶし~
サッカーあれこれ(14)
◎日本サッカーの形
日本サッカー協会の機関紙「JFAnews」4月号に田嶋幸三副会長が、山口技術委員長との対談でこう述べています。少し長くなりますが、非常に興味深い内容なので紹介します。
「20年、30年前から日本のサッカーの形をつくろうと諸先輩方が努力されてきました。ブラジルのサッカー、オランダのスタイルなどを参考にしながら、地域の皆さんとも議論を重ね、日本人の体の特性を生かして、自分たちでボールを保持しながら、ショートパスをしっかりつなぐサッカーを志向していこうということになった。それが今日、だんだん『日本サッカーの形』になって来ました」
「我々の方向は間違っていなかったと思いますね。現在のドイツ代表も、そういうサッカを志向しているようです。細かくボールをつないで攻撃を組み立てる。一方ではスピードある攻撃を仕掛ける。両方を兼ね備えて、先日フランスを圧倒していました。こういうサッカースタイルがこれからの世界の主流になってくるのかなと思っています」
私も「日本サッカーの戦い方」において、田嶋氏とまったく同意見です。この連載の「サッカーあれこれ(3)」で女子サッカーにことよせて次のように書きました。
「日本のサッカーは明治時代に輸入したものですからイギリス、ドイツ、ブラジルなどから熱心に勉強したのはよかったのですが、私の見るところ、日本独特の個性やスタイルがありませんでした。いまのように中盤でパスを交換し、相手をゆさぶり、力をためながら、チャンスを見てサイド、あるいは中央突破をはかる日本の戦いの形ができはじめたのは1970-80年台だった考えています」
「そのようなパスワークが完成した遠因は、1960年に来日したクラマーさんが口を酸っぱくして言っていた『ゲナウ(正確な)シュピーレン(プレー)』にあります。クラマーさんはサイドキックから始め、1センチも狂わぬパスを要求しました。今日の日本式サッカーが生まれたのはクラマーさんのおかげだと信じています」
◎軽妙なサッカーに酔う
ところが、最近まったくトンマな話ですが、日本式サッカーの確立をめざしたのは、ここ20ー30年の話ではないことに気づきました。私の前の前の先輩方が、日本サッカーが始まって以来、それこそ石にかじりつく思いで暗中模索していた課題だったのです。
例によって、話をがらりと変えますが、私の若い記者時代、高校サッカー選手権は毎年正月、毎日新聞主催で関西の西宮球技場で行われていました。滅法楽しかったのは、高校の試合の合間にやった新聞記者と関西協会役員の親善試合です。旅行カバンに取材ノートとともにサッカーシューズを入れて下阪するワクワクした気持ちを忘れることはできません。
記者チームには、かって共同通信の記者をやっていた1936年ベルリン五輪大活躍の川本さん、毎日・岩谷、朝日・大谷、産経・賀川さんら錚々たる連中で、その中に入って、私は「軽妙なサッカー」を経験しました。
もちろん、みんないい年ですから走り回ることはあまりできない。勢いショートパス戦法になるわけですが、全員ボール扱いが巧いから相手を翻弄し、追い詰められても位置どりの巧い味方にパスして、めったにボールを渡さない。現役顔負けの試合運びで、相手ゴール前で、ちょっと相手にスキができると、一人がヒヨイと走り込んでシュートする、といった感じでした。
こんな試合ぶりから、私は神戸一中のサッカー、そしてかつて日本代表が1936年ベルリン五輪のスウェーデン相手に大逆転したことを想起していました。
◎すでに御家芸?だった
私が学んだ広島一中にとって、神戸一中は最大のライバルでした。戦時中でしたから、私は対戦経験はないのですが、練習はいつも伝統的に神戸一中を仮想敵としているようなところがありました。
一昨年、神戸一中の昭和12年発行の蹴球史が復刻されました。大谷さんは昭和10年度キャプテンとあります。その戦績表によりますと、当時の神戸一中は地方の中学相手ではほとんど負けていません。神戸一中に勝ったのはわずかに2校ですが、それでも刈谷中には4勝1敗、広島一中には3勝2敗と勝ち越しています。刈谷中は、私が欧州遠征の日本代表のマネジャーをやっていた時の監督・高橋英辰さんの出身校で名門でした。
さて、私は何を言いたいのか。神戸一中はどんなサッカーをやっていたのか、です。岩谷、大谷、賀川さんの球回しの様子から、軽妙で楽しいショートパス戦法だったにちがいないと想像しました。そして、これに連らなって、ベルリン五輪で後半3点をとって逆転劇を演じたスウェーデンとの一戦を想起したのです。
FWとして出場した加茂健さんは、朝日新聞発行の『サッカー』の中で、勝因をこう書いています。
「労をいとわず敵より余計に、敏捷に走り回り、細かいパスを目まぐるしく出す戦法に、スウェーデンは面くわざるを得なかったようだ」。また、このスウェーデン戦を「まるで大男の林に中を、ショートパスを用いて攻め、そして大逆転した」という大袈裟な記述をどこかで読んだことがあります。
さらに大御所の竹腰重丸さんは旺文社発行の『サッカー』の中でショートパス戦法についてこう書いています。
「いわゆるショートパス戦法は、味方に正確なボールを渡す厳密な意味でのパスが多く用いられ、冒険的な攻撃から精密な攻撃に移り、漫然と位置をとるやり方から精細な動きを組み合わせる行き方に移った点では近代サッカーへの一大進歩であったというべきであろう。(中略)常に敗退を続けていた極東選手権で1927年(昭和2年)上海での第8回大会に至って早大WMWを中心とする日本代表が初めてフィリピンに勝ち得たのは、このショートパス戦法の発展期にあった」
竹腰さんは、ビルマの留学生チョー・ディンからショートパス戦法を学んだのですが、話が長くなるので別の機会にゆずりますが、とにかく体が小さな日本人は、やたらにロングパスを放つのではなく、ショートパス戦法で中盤を制しながら攻める。すでにこのころから日本の御家芸?であり、将来ともこの戦法で行くべきだと、竹腰、川本さんらは模索していたのではないでしょうか。ただ当時の選手はアマチュアですから練習量が少なく正確さに欠けていた。
野津会長が強引ともいえる手法でクラマーさんを招待したことに、「なにも外国人コーチに頼らなくても」と竹腰、川本さんらが反対した気持ちがわかるような気がします。
(以下次号)
日本サッカー協会の機関紙「JFAnews」4月号に田嶋幸三副会長が、山口技術委員長との対談でこう述べています。少し長くなりますが、非常に興味深い内容なので紹介します。
「20年、30年前から日本のサッカーの形をつくろうと諸先輩方が努力されてきました。ブラジルのサッカー、オランダのスタイルなどを参考にしながら、地域の皆さんとも議論を重ね、日本人の体の特性を生かして、自分たちでボールを保持しながら、ショートパスをしっかりつなぐサッカーを志向していこうということになった。それが今日、だんだん『日本サッカーの形』になって来ました」
「我々の方向は間違っていなかったと思いますね。現在のドイツ代表も、そういうサッカを志向しているようです。細かくボールをつないで攻撃を組み立てる。一方ではスピードある攻撃を仕掛ける。両方を兼ね備えて、先日フランスを圧倒していました。こういうサッカースタイルがこれからの世界の主流になってくるのかなと思っています」
私も「日本サッカーの戦い方」において、田嶋氏とまったく同意見です。この連載の「サッカーあれこれ(3)」で女子サッカーにことよせて次のように書きました。
「日本のサッカーは明治時代に輸入したものですからイギリス、ドイツ、ブラジルなどから熱心に勉強したのはよかったのですが、私の見るところ、日本独特の個性やスタイルがありませんでした。いまのように中盤でパスを交換し、相手をゆさぶり、力をためながら、チャンスを見てサイド、あるいは中央突破をはかる日本の戦いの形ができはじめたのは1970-80年台だった考えています」
「そのようなパスワークが完成した遠因は、1960年に来日したクラマーさんが口を酸っぱくして言っていた『ゲナウ(正確な)シュピーレン(プレー)』にあります。クラマーさんはサイドキックから始め、1センチも狂わぬパスを要求しました。今日の日本式サッカーが生まれたのはクラマーさんのおかげだと信じています」
◎軽妙なサッカーに酔う
ところが、最近まったくトンマな話ですが、日本式サッカーの確立をめざしたのは、ここ20ー30年の話ではないことに気づきました。私の前の前の先輩方が、日本サッカーが始まって以来、それこそ石にかじりつく思いで暗中模索していた課題だったのです。
例によって、話をがらりと変えますが、私の若い記者時代、高校サッカー選手権は毎年正月、毎日新聞主催で関西の西宮球技場で行われていました。滅法楽しかったのは、高校の試合の合間にやった新聞記者と関西協会役員の親善試合です。旅行カバンに取材ノートとともにサッカーシューズを入れて下阪するワクワクした気持ちを忘れることはできません。
記者チームには、かって共同通信の記者をやっていた1936年ベルリン五輪大活躍の川本さん、毎日・岩谷、朝日・大谷、産経・賀川さんら錚々たる連中で、その中に入って、私は「軽妙なサッカー」を経験しました。
もちろん、みんないい年ですから走り回ることはあまりできない。勢いショートパス戦法になるわけですが、全員ボール扱いが巧いから相手を翻弄し、追い詰められても位置どりの巧い味方にパスして、めったにボールを渡さない。現役顔負けの試合運びで、相手ゴール前で、ちょっと相手にスキができると、一人がヒヨイと走り込んでシュートする、といった感じでした。
こんな試合ぶりから、私は神戸一中のサッカー、そしてかつて日本代表が1936年ベルリン五輪のスウェーデン相手に大逆転したことを想起していました。
◎すでに御家芸?だった
私が学んだ広島一中にとって、神戸一中は最大のライバルでした。戦時中でしたから、私は対戦経験はないのですが、練習はいつも伝統的に神戸一中を仮想敵としているようなところがありました。
一昨年、神戸一中の昭和12年発行の蹴球史が復刻されました。大谷さんは昭和10年度キャプテンとあります。その戦績表によりますと、当時の神戸一中は地方の中学相手ではほとんど負けていません。神戸一中に勝ったのはわずかに2校ですが、それでも刈谷中には4勝1敗、広島一中には3勝2敗と勝ち越しています。刈谷中は、私が欧州遠征の日本代表のマネジャーをやっていた時の監督・高橋英辰さんの出身校で名門でした。
さて、私は何を言いたいのか。神戸一中はどんなサッカーをやっていたのか、です。岩谷、大谷、賀川さんの球回しの様子から、軽妙で楽しいショートパス戦法だったにちがいないと想像しました。そして、これに連らなって、ベルリン五輪で後半3点をとって逆転劇を演じたスウェーデンとの一戦を想起したのです。
FWとして出場した加茂健さんは、朝日新聞発行の『サッカー』の中で、勝因をこう書いています。
「労をいとわず敵より余計に、敏捷に走り回り、細かいパスを目まぐるしく出す戦法に、スウェーデンは面くわざるを得なかったようだ」。また、このスウェーデン戦を「まるで大男の林に中を、ショートパスを用いて攻め、そして大逆転した」という大袈裟な記述をどこかで読んだことがあります。
さらに大御所の竹腰重丸さんは旺文社発行の『サッカー』の中でショートパス戦法についてこう書いています。
「いわゆるショートパス戦法は、味方に正確なボールを渡す厳密な意味でのパスが多く用いられ、冒険的な攻撃から精密な攻撃に移り、漫然と位置をとるやり方から精細な動きを組み合わせる行き方に移った点では近代サッカーへの一大進歩であったというべきであろう。(中略)常に敗退を続けていた極東選手権で1927年(昭和2年)上海での第8回大会に至って早大WMWを中心とする日本代表が初めてフィリピンに勝ち得たのは、このショートパス戦法の発展期にあった」
竹腰さんは、ビルマの留学生チョー・ディンからショートパス戦法を学んだのですが、話が長くなるので別の機会にゆずりますが、とにかく体が小さな日本人は、やたらにロングパスを放つのではなく、ショートパス戦法で中盤を制しながら攻める。すでにこのころから日本の御家芸?であり、将来ともこの戦法で行くべきだと、竹腰、川本さんらは模索していたのではないでしょうか。ただ当時の選手はアマチュアですから練習量が少なく正確さに欠けていた。
野津会長が強引ともいえる手法でクラマーさんを招待したことに、「なにも外国人コーチに頼らなくても」と竹腰、川本さんらが反対した気持ちがわかるような気がします。
(以下次号)
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