60年目を迎えた元朝日新聞運動部記者・中条一雄のコラム。
中条一雄の炉辺閑話~いろりばたのひまつぶし~
オリンピックあれこれ(12)
◎なぜ?立派な新聞なのに
ロンドン五輪が去って約2カ月。メダリストたちの帰国報告会に凱旋パレード。出身母体や市町村の、めったやたらの表彰イベント。応援してくれた企業や東北被災地へのお礼参りなどなど。そして、パラリンピックも無事終わり、長くて暑い夏のオリンピックに関する一連の行事がやっと一段落した感じです。
それにしても、マスメディアの騒ぐだけ騒ぐ底抜け一斉現象は、相変わらずでした。
私は、日本の主要新聞の読売、朝日、毎日の一般ニュースの報道のレベルは(日本語が世界共通語でないことは残念ですが)世界的水準からみて平均以上と感じています。
ところが、例えば高校野球が始まると、あの朝日、毎日が一挙におかしくなってしまう。歯の浮くような美化、美談の羅列です。重要な一般ニュースは隅っこに追いやられてしまう。選手の家族や学校関係者は喜ぶかもしれませんが、あれは新聞の報道ではありません。業界紙です。「PRのページ」と入れるべきでしょう。
プロ野球に関する読売の報道、例えば巨人軍の清武元代表への攻撃や原監督のスキャンダルの1億円の口止め騒動などの切り口は、あの立派な新聞がこのように書くのかと、思わず題字を見直し、心の底からびっくりせざるを得ませんでした。OBのジャーナリストたちの嘆きの声や一般人から「新聞って所詮あんなもの」という声が聞こえてくるようです。
「スポーツ」はマスコミに、都合よくモテ遊ばれています。なぜこうも軽々しく扱われ、そして捨てられるのか。大会前、美人選手として、あれほど騒がれた体操の田中理恵やバドミントンの潮田玲子は、もはや影も形もありません。新聞には、それぞれ事情があるのでしょう。発行部数の問題もあるでしょう。商業紙ですからいろんな事情が絡んでいるでしょう。しかし、記者には矜持とか主張というものがあるはずです。
◎革命的な記事なし
さてオリンピック報道ですが、なぜ日本の新聞は、まるで申し合わせてように、一面からスポーツ面、そして社会面まで、同じような文字と写真を使って、同じような切り口で勝者礼讚、メダル第一主義の角張った、まるで紙芝居のようにワーッと騒ぐ慣習的な同一紙面しか作れないのでしょうか。
これが、オリンピックに対する日本人の国策的な見方なのでしょうか。まるで勇ましい政治家や文科省のお役人が喜びそうな紙面ばかり。もともとオリンピックといえば、そんなお祭りみたいなものかも知れませんが、困ったことです。
またまた古くさい話で恐縮です。私は1953年に朝日新聞に入社しました。そのころは、まだ第二次世界大戦前からの記者の方が残っていました。その人たちは戦時中、軍部の圧力に屈して、心ならずも戦意発揚の記事を書いた(書かざるを得なかった)重い自省の念を引きずっていました。彼らはジャーナリズムとは何なのか、その真の使命は何かなどを考え、もがき苦しんでいたと思います。そのころの人が、そんな悩みを吐露した本はたくさんあります。
そんな先輩たちをみていて、私自身も、ジャーナリズムとは何かを考える機会を与えられたと言ってもいいでしょう。もともと私は権威をカサにして、いばり散らす人間が嫌いですが、そのころの経験から、ジャーナリストは権威に屈しないこと。敢然と立ち向かうこと。単純に世情に流がされてはならないこと。常に「これはおかしいぞ」という気持ちを失ってはならないこと。一つの組織に入らぬこと。買収されないこと。深い考えもなく習慣的に書き飛ばさないこと。そして、権威や世情、美談、そして人間の欲望の裏側にあるものは何か、それを探るのがジャーナリストの使命かなと思うようになりました。
そんな私の考えは、時代遅れで幼稚だと笑う若い記者もいることでしょう。だが、やはり大仰にメダルを礼讚し、決められた通りの紙面を、ただ作っているだけでいいのか。まるで戦時中の肉弾三勇士か加藤ハヤブサ戦闘隊を礼讚したのと同じパターンではないか。新聞にとって現代のオリンピックとは何なのか。何げなく平和の祭典などと書くが、本当にそうなのか。
今回のオリンピックで言えることは「これはスゴイ」という革命的な記事にお目にかかれませんでした、ということです。
◎所詮マスコミはこんなもの
笑い話です。むかし火事は江戸の華でした。一つ火事が起きると、それが飛び火したかのように、あちらこちらでやたらに火事が起きる。借金で首が回らなくなった連中が、自宅に火をつけて夜逃げしたからです。と、町のあちこちで半鐘が「ジャンジャン」と鳴りはじめる。鳴り方は半端じゃない。あまりにも半鐘がうるさいので、ある将軍が「こう火事が多いのは、半鐘が騒ぎ過ぎるからではないか」と、半鐘禁止令を出した……。
この話は、昔ある競技団体の役員が私に「新聞に勝て勝てとか、期待するとか、あまり書かないでくださいよ。選手が責任を感じてコチコチに堅くなって負けてしまう」と言った時に、思い出した笑い話です。負けるのは、まるで「新聞のせいだ」といわんばかり。笑いましたね。私は言いましたよ。「負けるのは、新聞が書くからではなく、弱いからじゃないですか」
だが、考えてみれば、新聞は半鐘みたいなものかもしれません。江戸の瓦版の昔から「たいへんだ、たいへんだ」と、あるときは心配するような、あるときは懸命に応援しているようなポーズをみせてガナリ立ておればよいのですから。あとは野となれ山となれ。
いまは「新聞が書くから悪いのだ」という時代でなく、選手個人が専門のエージェントを雇って、宣伝に勤める時代です。あるテニス選手につていえば、外国でのどんな小さな大会の成績や、成田へ帰国情報なども必ず載ります。敏腕のエージェントがいて各新聞社へニュースとして流し、それをそのまま載せる実態がよくわかります。
新聞もテレビも、いまやプロスポーツの宣伝媒体と化しています。記者は宣伝要員です。どんな新聞でも、プロ野球やプロサッカーに、必ず1ページ、またある時は2ページを使っています。まるで垂れ流し。広告料金に換算したら膨大な金額でしょう。そこには特異性も自覚もプライドもありません。
ほとんどのテレビが申し合わせたように毎晩ほぼ同じ時間帯に、どうしてあんなに時間をかけ、同じような画像を使ってプロ野球を克明に報道するのでしょうか。芸のないことです。高校野球もそうです。マスコミとか記者という職業は、取材される側にとって、都合のいい宣伝要員だけであっていいものでしょうか。
といっても、このような日本のスポーツ報道の傾向を、もはや修正することはできません。部長はもちろん、局長だって、社長だってできないでしょう。本質は「たいへんだ」と、ただ騒ぐ瓦版と同じであり、個性を無視して流れに乗った横並び報道は、日本人の性格を丸出しにしたものだからです。
(以下次号)
ロンドン五輪が去って約2カ月。メダリストたちの帰国報告会に凱旋パレード。出身母体や市町村の、めったやたらの表彰イベント。応援してくれた企業や東北被災地へのお礼参りなどなど。そして、パラリンピックも無事終わり、長くて暑い夏のオリンピックに関する一連の行事がやっと一段落した感じです。
それにしても、マスメディアの騒ぐだけ騒ぐ底抜け一斉現象は、相変わらずでした。
私は、日本の主要新聞の読売、朝日、毎日の一般ニュースの報道のレベルは(日本語が世界共通語でないことは残念ですが)世界的水準からみて平均以上と感じています。
ところが、例えば高校野球が始まると、あの朝日、毎日が一挙におかしくなってしまう。歯の浮くような美化、美談の羅列です。重要な一般ニュースは隅っこに追いやられてしまう。選手の家族や学校関係者は喜ぶかもしれませんが、あれは新聞の報道ではありません。業界紙です。「PRのページ」と入れるべきでしょう。
プロ野球に関する読売の報道、例えば巨人軍の清武元代表への攻撃や原監督のスキャンダルの1億円の口止め騒動などの切り口は、あの立派な新聞がこのように書くのかと、思わず題字を見直し、心の底からびっくりせざるを得ませんでした。OBのジャーナリストたちの嘆きの声や一般人から「新聞って所詮あんなもの」という声が聞こえてくるようです。
「スポーツ」はマスコミに、都合よくモテ遊ばれています。なぜこうも軽々しく扱われ、そして捨てられるのか。大会前、美人選手として、あれほど騒がれた体操の田中理恵やバドミントンの潮田玲子は、もはや影も形もありません。新聞には、それぞれ事情があるのでしょう。発行部数の問題もあるでしょう。商業紙ですからいろんな事情が絡んでいるでしょう。しかし、記者には矜持とか主張というものがあるはずです。
◎革命的な記事なし
さてオリンピック報道ですが、なぜ日本の新聞は、まるで申し合わせてように、一面からスポーツ面、そして社会面まで、同じような文字と写真を使って、同じような切り口で勝者礼讚、メダル第一主義の角張った、まるで紙芝居のようにワーッと騒ぐ慣習的な同一紙面しか作れないのでしょうか。
これが、オリンピックに対する日本人の国策的な見方なのでしょうか。まるで勇ましい政治家や文科省のお役人が喜びそうな紙面ばかり。もともとオリンピックといえば、そんなお祭りみたいなものかも知れませんが、困ったことです。
またまた古くさい話で恐縮です。私は1953年に朝日新聞に入社しました。そのころは、まだ第二次世界大戦前からの記者の方が残っていました。その人たちは戦時中、軍部の圧力に屈して、心ならずも戦意発揚の記事を書いた(書かざるを得なかった)重い自省の念を引きずっていました。彼らはジャーナリズムとは何なのか、その真の使命は何かなどを考え、もがき苦しんでいたと思います。そのころの人が、そんな悩みを吐露した本はたくさんあります。
そんな先輩たちをみていて、私自身も、ジャーナリズムとは何かを考える機会を与えられたと言ってもいいでしょう。もともと私は権威をカサにして、いばり散らす人間が嫌いですが、そのころの経験から、ジャーナリストは権威に屈しないこと。敢然と立ち向かうこと。単純に世情に流がされてはならないこと。常に「これはおかしいぞ」という気持ちを失ってはならないこと。一つの組織に入らぬこと。買収されないこと。深い考えもなく習慣的に書き飛ばさないこと。そして、権威や世情、美談、そして人間の欲望の裏側にあるものは何か、それを探るのがジャーナリストの使命かなと思うようになりました。
そんな私の考えは、時代遅れで幼稚だと笑う若い記者もいることでしょう。だが、やはり大仰にメダルを礼讚し、決められた通りの紙面を、ただ作っているだけでいいのか。まるで戦時中の肉弾三勇士か加藤ハヤブサ戦闘隊を礼讚したのと同じパターンではないか。新聞にとって現代のオリンピックとは何なのか。何げなく平和の祭典などと書くが、本当にそうなのか。
今回のオリンピックで言えることは「これはスゴイ」という革命的な記事にお目にかかれませんでした、ということです。
◎所詮マスコミはこんなもの
笑い話です。むかし火事は江戸の華でした。一つ火事が起きると、それが飛び火したかのように、あちらこちらでやたらに火事が起きる。借金で首が回らなくなった連中が、自宅に火をつけて夜逃げしたからです。と、町のあちこちで半鐘が「ジャンジャン」と鳴りはじめる。鳴り方は半端じゃない。あまりにも半鐘がうるさいので、ある将軍が「こう火事が多いのは、半鐘が騒ぎ過ぎるからではないか」と、半鐘禁止令を出した……。
この話は、昔ある競技団体の役員が私に「新聞に勝て勝てとか、期待するとか、あまり書かないでくださいよ。選手が責任を感じてコチコチに堅くなって負けてしまう」と言った時に、思い出した笑い話です。負けるのは、まるで「新聞のせいだ」といわんばかり。笑いましたね。私は言いましたよ。「負けるのは、新聞が書くからではなく、弱いからじゃないですか」
だが、考えてみれば、新聞は半鐘みたいなものかもしれません。江戸の瓦版の昔から「たいへんだ、たいへんだ」と、あるときは心配するような、あるときは懸命に応援しているようなポーズをみせてガナリ立ておればよいのですから。あとは野となれ山となれ。
いまは「新聞が書くから悪いのだ」という時代でなく、選手個人が専門のエージェントを雇って、宣伝に勤める時代です。あるテニス選手につていえば、外国でのどんな小さな大会の成績や、成田へ帰国情報なども必ず載ります。敏腕のエージェントがいて各新聞社へニュースとして流し、それをそのまま載せる実態がよくわかります。
新聞もテレビも、いまやプロスポーツの宣伝媒体と化しています。記者は宣伝要員です。どんな新聞でも、プロ野球やプロサッカーに、必ず1ページ、またある時は2ページを使っています。まるで垂れ流し。広告料金に換算したら膨大な金額でしょう。そこには特異性も自覚もプライドもありません。
ほとんどのテレビが申し合わせたように毎晩ほぼ同じ時間帯に、どうしてあんなに時間をかけ、同じような画像を使ってプロ野球を克明に報道するのでしょうか。芸のないことです。高校野球もそうです。マスコミとか記者という職業は、取材される側にとって、都合のいい宣伝要員だけであっていいものでしょうか。
といっても、このような日本のスポーツ報道の傾向を、もはや修正することはできません。部長はもちろん、局長だって、社長だってできないでしょう。本質は「たいへんだ」と、ただ騒ぐ瓦版と同じであり、個性を無視して流れに乗った横並び報道は、日本人の性格を丸出しにしたものだからです。
(以下次号)
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