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教師めざす学生へ(19)

◎スポーツの多様な側面
 きょうは「現代スポーツの置かれた立場」とか「状態」についてお話ししたいと思います。スポーツの原型は、肉体の原始的な争いや宗教的な行事でした。それが徐々に近代化してきたわけですが、どのようにして今のような形態になってきたのか。私は、それに大きな興味を抱いています。
 というのは、現代スポーツには、あまりにもいろんな側面が出てきました。みなさんが汗を流したり、見たり聞いたり読んだり、と日々接しているスポーツは、ほんの一面かも知れない。
 例えば、いまのスポーツは金銭中心で、新聞やテレビはスポーツを商売にしている人の勝者礼讚の話ばかりです。そうじゃない。本来のスポーツはもっともっと広範で深い哲学がある、そこを忘れてはならない、と私は考えるからです。
 話はちょっと理屈ぽくなりますが、人には人として、守るべき道があります。例えば殺す、傷つける、盗む、犯す、だますといった行為は、人間として「絶対に」やってはいけないことでしょう。
 ところが、いったん戦争が始まれば「絶対に」などは一挙に吹き飛んでしまい、むごいことが平気で行われます。平生やさしい人が鬼畜のようになる。人間の隠れた一面が現出してくるわけです。
 これと同じように現代社会、くわしくは19世紀後半あたりからのスポーツも、守らなくてはならない基本的な道徳律ができてきました。審判とルールの厳守、フェアプレー、勝者のおもいやり、グッドルーザー(負けを認める潔さ)などです。
 それに加えて、重要なことは政治や経済からの独立がうたわれてきました。言葉を代えれば、権力にもてあそばれることなく「スポーツをやる自由を守る精神」とでもいいましょうか。

◎クーベルタンの考え
 このような政治からの中立、経済の誘惑からの脱却は、クーベルタンによって1896年オリンピックが始められて以来、長い間スポーツの、そしてオリンピックの根本理念になってきました。
 政治や経済から干渉されることを、クーベルタンは、なぜ嫌ったのか。それは歴史学者であったクーベルタンが、世の中のいろんな制度や現象、そして教育や宗教までが、政治の圧力や経済の干渉によって、本来あるべき姿を失っていく(あるいは堕落する)実例を歴史の中に数多く見ていたからでしょう。
 スポーツを愛するがゆえに、クーベルタンは政治権力や経済の干渉に、いいように操られてスポーツが変質していくことをおそれたのでしょう。これが、ブランデージによって「政治からの中立」と「アマチュアリズム」という2本柱となって、強引に押し進められてきたわけです。
 だが、このようなスポーツの純粋性を守るのは非常にむつかしい。人にはそれぞれ考え方に違いがあります。他人を押しのけてもという欲望があります。人間の弱さともいえます。クーベルタンは1929年にパリの16区区長の招宴でこんな予言をしています。
 「もし歴史に輪廻というものがあり、100年後に私が再び生まれてくることができるならは、いままで私があれほど苦労して作り上げてきたこのオリンピックを、今度はぶち壊す方の側に回るであろう」
 おそろしい予言です。彼は1925年に31年間つとめたIOC会長をやめていますが、私の想像では、当時のスケールの小さい、いまから考えたら田舎の運動会のようなオリンピックの中に人間の弱さ、自分勝手さ、偏狭なナショナリズムなど、スポーツの堕落の萌芽を感じ取っていたのではないでしょうか。
 
◎通用しない理想
 ブランデージで特筆すべきことは、一時期アフリカ諸国の反対を押し切って、人種差別をする南アフリカを参加させようとしていたことです。世界は彼を「白人主義者だ」「差別主義者だ」とののしりました。だが、彼は人種差別とのジレンマに悩みながらも、アパルトヘイト反対運動を政治運動、つまり政治宣伝、政治の干渉の一環だと見ていたのです。
 思想、国籍、人種、宗教によって差別しないというオリンピック憲章にのっとれば、南アの選手の参加を拒否できないという考えです。だが、南アは長くオリンピックから締め出され、ブランデージの考えは通用しませんでした。
 このようにオリンピックは常に政治権力の干渉と戦ってきましたが、その極め付けはモスクワ五輪ボイコット事件でしょう。これにスポーツは完敗しました。それに、最近は政府が乗り出さなくてはオリンピックが開けないくらいの巨大化。さらに国家選手の出現などなど、政府の干渉が目立つようになってきました。
 「経済からの誘惑」はブランデージ時代に、厳格なアマチュアリズムを防波堤としていました。スポーツは興行師に操られるマネキンのようになっては困る、という思いが彼にあったのでしょう。だが、1974年に五輪憲章から「アマチュア」の言葉が削除されて以来、もはや前世紀の遺物になりました。
 今日のプロ化、そして極端な勝者礼讚の風潮が当たり前になったことで、アマチュアリズムの廃棄の経緯については多くの説明を要しないでしょう。

◎やがてドーピング廃止に
 IOCは「アマチュアリズム」に代わるものとして、いまやドーピングの取り締まりに懸命です。ドーピングによってスポーツの清潔さをアピールしようとしています。しかし、これもやがて限界がくるでしょう。
 ドーピングは選手の体を損ねる、というのが取り締まりの最大の理由ですが、医学の進歩によって、やがて「体にいいクスリ」が生まれる可能性大だからです。
 人間は生きて行くためには、政治と経済、さらに世間の風潮とのかかわりあいを無視するわけにはいきません。スポーツもそうですが、世間は無為変転です。だが、基本となるものは変わらない。
 私の持論は「スポーツは目的ではなく触媒のようなもの。つまり人生を楽しくするサシミのツマ」です。何か別の目的に使われると、スポーツは歪んでしまう。これだけは不易の真理です。私も100年後のオリンピックを見てみたい。
(以下次号)

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