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オリンピックあれこれ(2)

◎国家間の垣根
 ソ連が解体する4年前の1987年9月、私は『ヒロシマ原爆』の著者としてソ連の新聞社から招待されました。1960年のサッカーの日本代表の遠征以来の訪ソでした。1960年当時食べさせられたビフテキは、サッカー選手たちが「まるでシベリアの大地を走り回っていた牛なのでは」というほど固く不味いものでした。
 ところが、1987年は招待者ということもあって、ソ連末期にかかわらず専用車があてがわれ、毎夕の食事は帝政ロシア風の豪勢なものでした。特権階級は昔から豪勢な暮らしをしているのでしょう。あの国の内幕と時の移り変わりを実感したものでした。
 テレビに出演したり、独ソ戦の跡やトルストイの仕事部屋(体力をつけるためでしょうか、鉄アレイが置いてありました)、ロシア正教の大伽藍など、あちこち案内してもらいました。特に印象に残っているのは、ささいな(?)事件かもしれませんが、空港で入国審査を受けている時のことです。
 何列かに並んだ、外国人専用の列の端の方から、とつじょ女性の悲鳴と数人の子どもの泣き叫ぶ声が聞こえました。遠目ですが、どうやら長身の黒人女性とその家族らしく、入国を拒否されたようなのです。どういう事情なのか、旅券に不備があったのか、ビザがないのかなどなどわかるべくもありません。
 私の周囲の外人たちは一瞬凍りついたような暗い雰囲気になりました。やがて係員が泣き叫ぶ女性親子を、どこかへ連れていってしまいました。私には強烈な印象でした。
 話は変わりますが、オリンピックの開会式を見て、いつも思うことなのですが、昔のソ連やアメリカのように、選手団がトラックの幅いっぱいに広がるほどの選手数の超強大国もあれば、団長以下選手数人の小さな国もあります。ハデな民族衣装などを着て胸を張って堂々と行進する姿を見て、観衆は大拍手をします。それも、これも主権を主張する、ひとつ一つが国家なのです。
 長い歴史の中で宗教や民族など、いろんないきさつがからんで、このような多彩な国家というものを生み出したのでしょう。日本は平和です。そして旅券は世界中どこへ行っても通用します。だが、「国はあるから戦争がある」と言った人がいます。われわれの知らないところで国と国の間には、入国拒否しなければならない、いろんな政治的な事情があるのでしょう。
 日本の旅券のありがたさとともに、人間が作った国家というもの、その国家間に存在する個人ではどうにもならない高い垣根を、私はモスクワ空港で痛切に感ぜずにはおれませんでした。そして、国家間が競争するオリンピックは、やがて時代錯誤の産物になるべきではないかと思ったものです。
 
◎スポーツ移民大賛成
 さきのユーロ2012で感じたことなのですが、欧州各国のチームにアフリカ系の選手がなんと多いことか。ドイツにもイタリアにもいました。1998年W杯優勝のフランス代表チームには、純粋のフランス人が一人もいなかったのは有名な話ですが、いまや多くの欧州の国々には移民(不正入国や労働力として連れてきた奴隷も多い)の二世三世が、堂々とその国の国民として生活しているようです。
 そんな他所から来た新国民を排斥する若い白人右翼(ネオナチ)との抗争に、警察は手を焼いているようです。欧州各国は植民地時代に無理やり連れてきた理不尽な行為の「報い」を、いま受けているのだ、と私は考えています。
 だが、スポーツ界でいま起こっている優秀な選手の国家間の移動は、「かつて」の話ではなく現実問題です。私個人は「スポーツ選手が国籍を変える」のは、ウラに甘い汁を吸う仲介屋がいたとしても、情報がすぐに明らかになる時代であり、原則としていいことだと思っています。話が飛躍するようですが、世界中の人々が旅券もビザもなく、自由に世界を飛び回れるのが、人類の理想だ、と考えているからです。
 日本で、サッカーのラモス瑠偉、相撲の小錦、高見山、卓球の小山ちれ、ソフトボールの宇津木麗華らが、どれだけ日本のスポーツに貢献したか。国籍法に反しなければ、彼らに反対する理由はありません。外国人だ、日本人だ、といっていた時代ではない。その点でも、国籍にこだわるIOCは古臭いといえましょう。
 暴論だ、と非難されることを承知で言いますが、日本の国民体育大会で、各県を優勝させるための「ジプシー選手」が非難されることがあります。競技規則に反するのならともかく、ルールで許される範囲なら、昔の仇討ちの助っ人みたいなものです。
 選手は、もはやプロみたいなものです。地方の人々に、いい技を見せる効果もあります。開催各県が「優勝できた」と喜ぶ、これがどれだけ県民にとって誇らしいことか。これは取材した者にしかわからないでしょう。
 高校駅伝にはアフリカの選手がよく出場します。卓球では高校選手権のベスト4が、すべて中国からの留学生になったことがあります。高校野球が、学校の宣伝のため遠隔地から優秀選手を集めるのと、留学生を使うのとは同じ動機だという人もいます。確かに「野球学校」に類する弊害はあります。だが、私はこれを防止する秘策を持っています。
 高校野球で地方代表になった高校は、「翌年、予選に出場させない」という規則を作るのです。これが実施されると、数ある野球学校などは一挙に壊滅するでしょう。駅伝や卓球にも、優勝すれば1回しか出場できない規則でも作ればいいでしょう。

◎猫選手の不合理
 いま、アフリカのサッカーや陸上競技の優秀選手が、お金持ちのアラブ諸国へ国籍を移す例が多く見られます。中国の卓球選手は、ほとんど世界中にちらばって活躍しています。一つひとつの例を探索して行けば、残酷な例がないわけではありません。だが、優秀な選手がいい所を得て力を上げ、国際試合で活躍するのは悪いことではありません。
 ただし、猫ひろしのカンボジア国籍取得事件はいただけません。陸上競技では参加標準記録がありますが、それに達していなくても一人だけは参加できます。その規則の精神は「参加記録を突破しなければならないのなら、強い国の選手ばかりに片寄ってしまう。それではオリンピックの参加する意義が失われてしまう」ということで、一人だけ認めたものなのです。
 猫は標準記録より15分も遅い2時間30分すら切れていない。それなのに弱いカンボジアの一人だけを参加させてやろうという特権を、日本人が横取りする。それは道義的にも許されません。日本人の傲慢さともいえます。もし猫が2時間10分でも切るほどの選手ならともかく、30分すら切れない男が、よくも厚かましいことを考え出したものです。それに猫は、常時カンボジアに住んでいない。
 茶のみ話ですが、これでは東京と埼玉で市議に当選した人が、水道代も電気代も払っていない住所から立候補していたことがわかって当選を取り消された事件と同じです。猫の場合、誰が仕組んだかわかりませんが、まったくカンボジアに失礼な話です。
 カンボジアNOCは、標準記録を破ってない選手として800メートルのキエン・サモーンを、その他テコンドー、競泳の5選手を参加させるそうです。民族衣装でも着た彼らの入場行進に、私は拍手を送ります。
(以下次号)
 
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