表現の自由は、限りない、無限の自由という意味ではない。
池袋暴走事故と丸山議員の暴言に共通して見える「ネット時代の病理」
一部抜粋しました。
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人は生まれてからずっと、法律や規範などさまざまな社会的ルールに従って生活をしています。たとえば、子どもなら「道を渡るときは横断歩道を渡りなさい」と教育され、大人なら「法に触れる犯罪はしない」とか「他人に迷惑をかけない」という当たり前のルールに従っています。
これは見方を変えれば、ルールが自由の“外縁・限界”を設定してくれている、ともいえます。たとえば、本来は道のどこを渡っても自由なはずだけど、それでは交通事故に遭うリスクが高まるので、横断歩道で歩行者用信号が青のうちに渡ろうという自由の“外縁”が、社会のルールによって決められているのです。
ところが、森羅万象にわたって社会がルールを設定してくれるわけではありません。ルールが存在しない場合は、当然ながら個々人が自らの自由の外縁を設定するという自己抑制が必要となります。ダイエットをしている人ならば、1日に摂取するカロリー量や運動量などの目標設定がそれに該当しますよね。
● ネットやスマホのヘビーユーザーは 自己抑制が弱くなる傾向に
問題は、ネットやスマホをヘビーに使っているほど、自己抑制が弱くなる傾向があることです。勉強しないといけないのに気がつくとゲームを長時間やっていた、やるべき仕事が山積みなのに気がつくと動画サイトやソーシャルメディアを長時間ダラダラ見ていた、といった行動がその典型例です。こうした経験をお持ちの方は、私を含めて多いと思います。
バイトテロの動画が頻繁にアップされるのも、著名人や政治家がソーシャルメディアで明らかに不適切なコメントを平気でしてしまうのも、ある意味で自己抑制の欠如の結果ともいえます。だからこそ、ネットやスマホの人間への悪影響を研究する海外の学者の間では、自己抑制というかつては当たり前の行為が、アテンションエコノミーの時代においては習得困難な能力の1つとなり、成功に不可欠な能力になったといわれています。
この観点から考えると、丸山議員が“表現の自由”を言い出したというのは、もちろん屁理屈の言い訳に過ぎないとはいえ、見方を変えると丸山議員は、自らが自由の外縁を設定する自己抑制の必要性も重要性もわかっていないのだろうと考えざるを得ません。表現の自由にも外縁は存在し、かつ本来その多くは自己抑制により設定されるべきものだからです。特に国会議員という公職にある以上は、一般人以上に多くの外縁を自ら設定して当然です。