醸楽庵(じょうらくあん)だより 

主に芭蕉の俳句、紀行文の鑑賞、お酒、蔵元の話、政治、社会問題、短編小説、文学批評など

醸楽庵だより  344号  白井一道

2017-03-16 11:08:39 | 随筆・小説

 芭蕉は自然の風景を発見したのか

句郎 芭蕉は平泉から一関まで戻り、新緑のブナ林を通り、岩手山・鳴子温泉を経て尿前の関を越え、出羽の国に出ている。
華女 新暦の六月の頃のことなのでしよう。
句郎 そうだね。きっとブナや楢の落葉広葉樹の新緑に包まれて狭い道を歩いて行ったんだろうね。
華女 それにしては新緑の雑木林を詠んでいる句もなければ、文章もないわ。どうして書いていなのかしら。不思議ね。
句郎 特に東北地方の新緑はブナ林の風景が美しいと言われているみたいだから。本当に不思議だよね。どうしてなんだと華女さんは思う?
華女 目に入らなかったということはないんでしようから。どうしてかしらね。分からないわ。
句郎 ブナ林などの雑木に美しさを感じなかったのかもしれないよ。
華女 そなことってあるのかしら。桐や藤の花が咲いていたかもしれないわよ。新緑の憾満ガ淵には桐や藤の花はなかったけれども美しかったじゃない。綺麗だったわ。
句郎 本当に雨に濡れた青葉に心が洗われた思いがしたよ。大谷川の水音が良かった。清々しかった。
華女 街中を少し入ったところに別世界があると感じたわ。
句郎 芭蕉はブナ林の自然風景に接しながら、その風景の美を発見できなかった。そのようなことを言っている人がいるんだ。
華女 へぇー、そんなことを言っている人がいるの。
句郎 市立図書館の棚を眺めていたら、内田芳明という人の『風景の発見』という本を見つけたんだ。面白そうだと思って読み始めたんだ。
華女 内田さんは何と言っているの。
句郎 例えば『奥の細道』への旅立ちの句「行春や鳥啼魚の目は泪」という句は鳥や魚に別れの哀しみを詠っているが、その哀しみは芭蕉の気持ちを表現している。自然の風景としての鳥や魚を詠っているわけではない。無常という主観を述べている。客観としての自然風景を詠ってはいない。
華女 確かにそうね。でも「五月雨の降のこしてや光堂」と中尊寺で詠んだ句はどうなのかしら。光堂という客観的な建築物への感動を詠んでいるように私には思えるけれど。
句郎 そうかな。僕にはこの句も芭蕉の主観、不易なるものとしての「光堂」を詠っているように思う。
華女 「光堂」の客観的な美、そのものをそのものとして詠うのではなく、主観的な生の哀れや侘びを詠んでいるというわけなのね。
句郎 そうなんだ。芭蕉は存在する自然や人間すべてのものに無常な生の現実があることを発見し、詠った。この無常なる生の現実に不易なる真実を表現したのかな。
華女 難しくなってきたわね。要するに、芭蕉は自然の風景を詠んでも自然の風景そのものを客観的に詠んではいないということなんでしょ。
句郎 内田さんはそういうことを言っている。
華女 句郎君はどう思うの。
句郎 僕も内田さんの主張に納得してしまったんだ。だって芭蕉は西行や宗祇の目を通して自然を見ているように思うんだ。だから自分で自分独自の対象を発見し、自分自身の目で見たことを詠んではいないように思う。芭蕉はまだ中世文学世界の住人だった。