ちょっと前に、スティーブジョブスから学会発表のことに話がとびましたので、それに引き続いてふと思うこと。
昨今、何らかの講義をするたびにハンドアウトを要求されるケースが増えました。
私がふと思いついた疑問は、ハンドアウトが講義を受ける方の単なる安心材料になっていないか、というものです。講義の瞬間、瞬間で理解が不十分なことでも、ハンドアウトに書いてあるから後で見ればいいやと思い、かえって講義に対する一期一会精神が失われ、結局どのみちあとでハンドアウトを見返すこともなく、そのままホコリをかぶることはないでしょうか。
一方で、ハンドアウトの出来がひじょーに素晴らしくて、こちらもあとあと家宝のようにことあるごとに利用(自分自身の復習やレジデント講義に利用)する場合があります。自分で一期一会精神なんかもたずに気軽に聞いたどなたかの講演でも、のちのちそのハンドアウトを利用し続けることもありますから、考えてみれば生かすも殺すも講義をする人(=ハンドアウトを作る人)の熱意の結果としての「よいハンドアウト」が大切、講義をする人(=ハンドアウトを作る人)が良いハンドアウトを作ることが要求されている、と言うことになります。時間がたりずに講義で話すことができない内容を補足すると言う意味も付加することができるでしょう。
しかしながら、ハンドアウトがどんなに素晴らしくても、プレゼンテーションの内容とハンドアウトの内容にずれがあったり、講義のスライドとハンドアウトのスライドの並んでいる順番がちがったりすると、「あれ、今のこの講義されているスライドはハンドアウトのどのスライド?」と紙をめくる音だけが耳につく場面も少なくありません。ハンドアウトを読むことに忙しくて講義に集中できなくなることもあります。結果的に講義を聴くために座っているのか、ハンドアウトと講義の一致を確認するために座っているのか、聴衆として自分のやっている行動がアホらしくなることも稀ではありません。それを避けるには原則ハンドアウトは講義終了後に配る、という姿勢がよいのかもしれません。
ハンドアウトは必要か不要か結論がでないので、以下、無理矢理の私見ですが、講義をする人、講義を受ける人、双方とももっと気楽に構えたらいいのではないでしょうか。100%を伝えよう、100%を得たい、という肩こりのモトは止めにするというか。たとえば、どんなにがんばって講義を受けてもせいぜい頭に残るのはその2割ぐらいだろうと気軽に構える。講義をする人は講義を受ける人に言いたいことの2割を是非持って帰ってもらえる講義をする、受ける人も2割は必ず絶対に何としても持って帰る、つまり全部は所詮無理だ、という姿勢から始めれば、逆に頭に残してもらいたいもの、頭に残したいものが大切になってこないですかね。
乱暴に自己分析すると、昔、高校、大学と授業を当てにしてこなかった(要は怠け者でさぼりまくっていた)既往の影響で、本来学習は自分で本を読んでするもの、ひとのしゃべることばは所詮しゃべることば、だまされやすいしだましやすい、裏付けが弱い、「話半分で聞く」という信念が強かった影響でしょうか。米国でプレゼンテーションの名人芸を目の当たりにして、更生したつもりだったんですが、やっぱり三つ子の魂百まででしょうか。
おっと、この考えはハンドアウトの有無の是非と直接関係がないですね。失礼しました。むしろ内容の2割を講義で十分強調するために残りの8割はハンドアウトに任せた、という割り切り方も成り立ちます。結局、結論が出なかった(仕事が減らなかった)、残念。
講義をされるかた、講義をお聞きになるかた、みなさんどうされていますか?
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