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1999年キルギス日本人拉致事件

2008-02-04 00:17:50 | 中央アジア日誌
睡眠時間4時間で起床。朝食を取り終えると、8時半からの会合日程が待ちうけている。今回の訪問はJICAのミッションの一員としてである。午前に2つ、午後2つの、夜ひとつの強行日程であるが、午後のひとつが終了した段階で、JICAの担当者が深刻な表情で緊急のミーティングを持ちたいと告げる。今明、タジクとの国境近くのキルギス領内にいた日本人4名と通訳がタジクのゲリラに拉致されて、行方不明との情報が入る。午後の2つ目の会見以下をすべてキャンセルし、事態に備えることになる。夕刻から催された日本キルギスの夕べのパーティは欠席することになる。カザフとキルギスを担当している大使、書記官がカザフのアルマティから入ってきた。パラメラホテルの屋上で食事をする。22時過ぎに帰宿すると、JICA東京から明日にビシュケクを調査団は出るようにとの訓令が届く。明日8時からミーティングで最終的行動が決まるとのこと。いずれにしても私は団とは別行動で明日にはカザフのアルマティに出る予定を立てていた。

8月24日
午前8時ころから、日本人拉致事件と本ミッション日程の議論となる。9時過ぎにアルマティから運転手が私の車でホテルまで迎えに来てくれた。ところが、JICAの東京本部から、陸路の移動と個人としての行動は禁止する。団全体で国外退去するようにとの指令。課長と所長による説得を受けてカザフ行きは諦めることにした。拉致事件が発生したのは500キロも離れたオシ州であり、日本で言えば、天草での反乱に怯えて京の都から脱出するようなものである。ビシュケクの飛行場に行くには30キロほど陸路移動となるが、カザフとの国境までは15キロ程度である。どっちにしても軍隊の護衛なしで移動するのだからカザフに行きたいと言ってみたが東京は聞き入れてくれず。仕方なく、運転手をアルマティに帰す。当日中にイスタンブール、ロンドンを経由して関空への帰路についた。疲れ切っての帰国であった。


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