:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 「悪の根源」 について -「エゾ鹿」 と 「ウサギ」 の哲学的・神学的対話-その17

2008-06-10 02:55:01 | ★ 日記 ・ 小話

          


〔エゾ鹿〕 前回までの話で、良心の声の強さが何故相対的に大きく異なるかが分かっただろう?
〔ウサギ〕 いいえ、ちっとも。
〔エゾ鹿〕 そいつは弱ったな!では、初めから筋道をつけて説明するから、しっかり付いてきてくださいよ。
〔ウサギ〕 さあ、どうですかね。あんまり難しい話になると、誰も付いてきてくれないんじゃないですか。
〔エゾ鹿〕 それは分かっているさ。しかし、何しろ、ローマの教皇庁立グレゴリアーナ大学大学院ゼミ1学期分ほどの内容と格闘しているのだからね。なるべく平易な言葉で纏めるように努力するから、少しは辛抱して欲しいな。
さて、人間が物心付いて、初めて重要な良心的選択に直面したとき、誰でも、自分の心の最も奥深ところに「それは良いことだからしなさい!」とか「それは悪いことだから絶対にしてはいけない!」という形ではっきりと響く他者の声、良心の声を聞くはずだと思う。良心の声と自分の願望の対立が深いほど、また誘惑が大きいほど、良心の葛藤は激しいものになるだろう。もし、幸い、最初の良心的戦いに勝利し、誘惑を退けて善を選び取るなら、良心の声は「よくやった、あなたは正しい選択をした」と言って褒めてくれるし、本人も深い心の平和と喜びを味わうに違いない。
〔ウサギ〕 それはまあそうでしょうな。 だから?
〔エゾ鹿〕 人生で最初の重大な選択において、幸い善を選び取り、悪を退けた魂は、次に同じような誘惑を前にしたとき、前と同じように明白な良心の声を聞くだろう。そして、良心の葛藤に勝利して善を選んだときの心の平和と喜びの記憶が助けてくれるから、最初のときよりも少ない良心の葛藤の後、よりたやすく善を選ぶことが出来るに違いない。そして、3度目以降はますます容易に、ほとんど第二の本性のように、常に善に傾く魂の習性が生まれることになる。
〔ウサギ〕 では、もし最初の良心の戦いに敗れて、誘惑に負けて悪を選んだ者はその後どうなるんですか?
〔エゾ鹿〕 それが実はカカオアレルギーの坊やの話さ。もちろん現実世界にはカカオアレルギーなんて存在しないかもしれない。一つの寓話として、エイズやC型肝炎などよりもっと厄介な魂の病、決定的な治療薬が見つからない、緩やかな死に至る難病のようなものだと考えていただきたい。
悪餓鬼の家で初めてチョコレートの誘惑に直面したときの坊やの良心との葛藤は、傍目にも痛ましいほど激しいものだった。坊やは優しいお父さんを愛していたし、チョコレートが自分の場合は食べてはいけない有害なものだと言うことはよく分かっていた。しかし、可愛い女の子の誘惑の前に、彼の最後の抵抗線が崩れ去った。その後の良心の呵責は激しかった。後悔した坊やは、二度目も果敢に戦った。しかし、もう一歩のところで、また彼は負けてしまった。そうなると、良心の声は弱くなり、戦う力も衰える。勝手な言い訳や嘘で自分を弁明し、良心の声は無視、黙殺されていった。

          

「ファンダメンタルオプション」とは、人生における最初の重大な善悪の選択の岐路に際して、良心の声を前にして何を選んだかが、その後の人生に決定的、基本的な意味を持つと言うことだ、と言っていいだろう。善を選んだものが、その後の人生においてますます容易に善を選ぶ習性を身につけ、不幸にも悪を選んだものは、どんどん良心が麻痺して、仕舞いにはほとんど自動的に、習慣的に悪の側に滑り落ちてしまうことになる。
この辺の事情が分かると、良心の声が、人によって、また同じ人でも魂のありようによって、大きく強く働いたり、弱々しく、或いはほとんど聞こえないぐらいになる理由が分かると言うものさ。
大きな罪人が回心して善に立ち返ったり、天使のように清く善良な魂が、或る日突重大な罪に陥るなどのことは、よほど大きなエネルギーが第二の本性を破壊したことを意味する。
さらに、個人についてファンダメンタルオプションを語りうるとすれば、小さなグループについても、或いは、ある地域社会においても、国レベルでも、イデオロギー集団においても、類比的に(アナロジーとして)ファンダメンタルオプションを当てはめることが出来るはずだと思う。つまり、集団的な高いモラルや、その反対の良心の麻痺がそれだ。ナチスの強制収容所で、ゲシュタポも看守も医者も看護婦も、ユダヤ人に対する非人道的なひどい扱いを、全く罪悪意識無しにやったかのごとくに抗弁するのがいい例だ。
ユダヤ教やキリスト教が言う、人祖のアダムとエヴァの失楽園の物語は、進化の長い歴史の最先端で、初めて理性と自由意志が円満に開花した最初の人間の最初の良心的選択の物語として、人類規模のファンダメンタルオプションの決定的出来事だったに違いない。その結果、その子孫(現代まで生き延びている全人類)の一人ひとりのDNAには、きっちりと「男」、又は「女」、そして「罪」と極印されることになった。これをキリスト教的には「原罪」(Original sin)と呼んでいるのさ。たくさんの補足説明、付帯考察を全部省略して、骨だけを言うと大体こんな話になる。これで、良心の声の内容の絶対性と現れ方の相対性、ならびに良心と罪の関連の話を終えてもいいかな?
残る問題は、「悪の根源」と人間の「罪」との関係だが、それはまた結構しんどい話になるから、次に譲ることにしよう。

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