:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 2021年のクリスマスにサンタさんからのプレゼントを贈ります

2021-12-24 00:00:01 | ★ 日記 ・ 小話

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2021年のクリスマスにサンタさんからのプレゼントを贈ります

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 私の母は熱心なプロテスタントの信者でした。

 彼女は空襲が激しくなった灯火管制下でも、12月には1辺40センチほどの大きな桐の箱から色とりどりのガラスの玉や、小さなサンタクロースの人形や、天使たちや、煙突のある小さなお家や、ローソクや星の飾りと、キラキラ輝く長いモールや、雪を表す白い綿を取り出し、父がどこからか切ってきた子供の背丈よりも高い松の木に、母と私と姉はワクワクしながらクリスマスツリーの飾りつけをしたものです。そして、クリスマスの讃美歌を歌って聖夜が来るのを待つのでした。これは厳しい戦局の中では,非国民の誹りに値する英雄的な行為だったろうと今思います。

 クリスマスの祝い日、12月25日の朝目覚めると、枕元にはサンタクロースからのプレゼントが置かれていました。

 国際金融マンをやめて、50才になってローマで神学生になり、以来、延べ20年近くもイタリアに住んで、イタリア人のクリスマスの習慣もよく観察しました。そして、4歳、5歳ぐらいまでの子供たちが、バッボ・ナターレ(Babbo Natale)、つまりサンタクロースに一生けんめいお祈りして今年プレゼントとして欲しいものをお願いすると、クリスマスの朝目覚めたときにそれが枕元に届いているのでした。子供たちは3歳か4歳ぐらいまでは、サンタクロースが願いの祈りを聞き入れて持ってきてくれたと本気で信じているようでした。

 しかし、4歳か5歳ぐらいになると、実はお父さんやお母さんが自分のサンタの叔父さんにしている祈りを聞いていて、家計をやりくりしてプレゼントを用意して、寝ている間においてくれたらしいことに、うすうす気づいているようでした。しかし、気付いてもすぐにはプレゼントを買ってくれたのはサンタさんではなく、本当はお父さんでしょう?とは訊ねません。そのからくりを見破ったことを告白してしまったら、もう来年はプレゼントが枕元にないかもしれないと思うからでしょう。

 さて、カトリックの教会には数多くの聖人たちがいます。聖人に執り成しの祈りをすると、聖人はそれを聞き入れて、願い事を叶えてくれるという信心が今も教会の中に広く行き渡っています。

 聖アントニオ様は失せもの専門の聖人で、何かを失くして出てこないときにはアントニオ様にお祈りをすると見つかる、とか、この病気はこの聖人に、あの病気はあの聖人にお祈りすると、治していただける、とかです。

 ところで、生前から聖人の噂の高かった人が亡くなると、その人を教会によって聖人として認めてもらおうという、いわゆる列聖運動が起こります。日本でも、長崎で殉教した26聖人も、そのような列聖運動の賜物でした。

 中世ヨーロッパ、例えばイタリアでは、教会が聖人と認定した模範的信者の墓に巡礼をして懺悔や一定の祈りをした者には、"いわゆる“「免罪符」、厳密には罪の償いの義務を免除する「全贖宥」を与えるとローマ教皇庁が宣言することが頻繁に行われました。たとえば、日本でも有名なアシジの聖フランシスコが死ぬと、アシジの町と隣のより勢力のある町ペルージアが、その遺骸争奪の暗闘を繰り広げた、などという騒ぎです。それもそのはず、聖者の墓に詣でてローマから「全贖宥」をいただこうと善男善女が巡礼に押し寄せると、その町は経済的に大いに潤うことになるからです。教会も儲かる、町も繁栄する。ここにお金の神様、マンモンの論理が見え隠れします。

 さて、教会が聖人と認定するためには、その人の取次によって2つ以上の奇跡が起こったことが教会によって確認されなければなりません。だから、列聖運動の推進団体は、取次を求める祈りのチラシを配って、亡くなった聖人候補者にお祈りをして、奇跡を求めるよう人々に勧めます。

 しかし、聖人候補の死者は自分が聖人として認められるために奇跡を行うでしょうか。奇跡が自然法則に例外をもうけることだとすれば、それが出来るのは自然法則の立法者の神様だけではないでしょうか。死者である聖人候補が、神に代わって自らの意思で自然法則に手を加えることが許されるかどうか、ちょっと考えればすぐわかりそうなものです。奇跡は神様の専権事項で人間の立ち入るべき領域ではありません。

 この一連のちぐはぐな考察から、私は大きな疑問を抱き、叫びました。

 チョーっと待った!キリスト教は旧約聖書の時代から、人は死んだら一巻の終わりではなく、体が滅んで土に帰ろうとも、火葬されて灰と水蒸気になって消えようとも、死んだ人の魂は深い眠りに落ちて、世の終わりの日には再び肉体を取り戻して復活し、長い眠りから目覚めてまた生きはじめる、と教えられています。これは信仰箇条、ドグマです。信者はそれを毎日曜日のミサで信仰宣言として高らかに唱えます。この教義を信じない人は正統なキリスト教信者とは認められません。

 ところで、私は若い頃ドイツで一回、そして中年を過ぎて日本で二回、全身麻酔を経験しています。麻酔が効いてきて、ドクターと看護婦さんの会話がふっと聞こえなくなってから、「○○さん、目覚めましたか?」というナースの声を聞くまで、私にとって、それは一瞬の出来事でした。私が麻酔にかかって意識を失っている間に、1時間経過したのか、2時間だったのか、複雑なオペで5時間もかかったのか知りませんが、その間、わたしは完全に深い眠りに入り、時間の経過も、私の身に、また回りで何が起こっていたかも、一切知ることはありませんでした。

 人が死んで、体が土に返り、あるいは煙と灰になって、五感も、五感が備わった肉体そのものも壊れて失われた後は、人は全身麻酔よりもはるかに深い眠りに入って、時間の流れも、周囲の出来事も、文明の進化も世界の歴史も、何も感じることがないはずではないでしょうか。

 人間の魂、霊魂は、物質的な存在ではなく、いわば霊的な現実ですから、時空の世界のどこにも、位置や場所を占めず、この世の私たちにとっては全くつかみどころのない、どこにもいないのと同じような存在になります。確かに懐かしい母の想い出は今も私の心の中に生きているし、墓石にはその名が刻まれています。しかし、経験的には彼女の肉体の消滅と共にまるで宇宙から消えてしまったかのごとくです。

 5歳、6歳以上の子供たちにとって、サンタクロースはすでに消えてなくなって、存在しないように、天国で罪人のために執り成しでいそがしい姿の聖人たちの魂も、実は深い眠りの中で、この世とかかわりのない世界に消えてしまっているはずです。私たちが麻酔から覚める時に感じたように、聖人たちも目覚め、意識を取り戻し、人や世界とのかかわりを取り戻すのは、「終わりの日」、つまり、終末の復活の日に肉体を取り戻した時ではないでしょうか。

 死んで、肉体が滅んで、そのあとに残された人間の「霊魂」は、思考も、知覚も、外界の認識も、意思の疎通も、完全に停止するのですから、深い、深い眠りの闇に生きる者として以外に存在の可能性はあり得ません。

 それとも、聖人たちだけは、世の終わりの復活を待たずに、死んですぐまた肉体を取り戻し、聖人たちのためだけに特権的にしつらえられた別の宇宙空間に意識を持って生きているのでしょうか。そして、聖人たちが生前に生き、私たちが今生きているこの宇宙と、聖人たちのためだけに用意されたもう一つの宇宙の間に、聖人だけに特権的に与えられた通信手段で交流する可能性があるとでもいうのでしょうか。

 「それはあり得ない」、と私は大声で断言します。すると、私のまわりの信者たちや神父たちは動揺して、騒然となって、まるで異端者を見るような目で私を見ます。

 彼らは激しく反論するでしょう。では、教会が聖人たちの祝日を定め、諸聖人の通功を信じさせ、とりなしの祈願をするよう盛んに勧めてきたのに、それは一体どうなるのか?もし、聖人たちがほかの凡人たちと同様に、復活の日まで完全な眠りに就いて、この世で執り成しを願う信心深い罪人たちの祈りに気付くことも聞きとることも出来ないとしたら、彼らはどうやって我々と神様との間を取り持ち、仲介することが出来るのか。教会は長年にわたって信者を騙し、ペテンにかけてきたのか、と怒りを爆発させる人がいるかもしれません。

 教会が数年に一握りの人数の死者を聖人として認定し、荘厳に列聖し、人々に彼らを尊崇しその模範に倣って清い生活を送り、毅然として信仰を証しせよ、と言ってハッパをかけたからと言ってどこが悪い?教会は何も間違ったことをしていない、と、わたしは逆に開き直りたい。

 また、教会が勝手に聖人と認定して定めた祝日を祝い、盛んに取次の願いをし、それが叶った、まだ叶わない、何故?などと言って、人々が一喜一憂している間も、その聖人たちの霊魂は深い眠りの中にあり、彼らを廻るこの世の騒ぎをよそに、安らかに復活の日を待っている、としても何の不都合がある?と、反論したい。

 善良なクリスチャンの両親が、3歳、4歳の子供たちに、実在しないサンタクロースの話をし、子供たちはそれを信じて、いい子でいるように努め、サンタのおじさんに向かって可愛いお祈りをして欲しいプレゼントを願い、両親はその品をそっと用意して枕元に置き、クリスマスの朝、「よかったね、いい子にしていたからサンタのおじさんが届けてくれたのよ」、とほほ笑んで、子供がそのとおり信じても、どこに問題がある?

 親がサンタクロースの実在をハナから信じていなくても、それはそれ、別にかまわないではないですか。

 5歳、6歳の曖昧な時期を過ぎたころ、学校の少し大人びた同級生から、「お前、まだサンタクロースなんか信じているのか?バーカ!」と言われて、ハット気がついたら、それは子供の成長として喜ばしいことではないですか。

 しかし、もし死んで聖人に挙げられた人の霊魂が深い眠りに落ちているのなら、どうやって私たちの願いに気付き、聞き取ることが出来たのか、また、私たちの祈りと願いをどうやって神様にとりなすことができたのか、希にだが、願ったことが叶えられたのはどうしてか?やっぱり聖人たちは眠ってなんかいない!そう言う人がいるかもしれない。

 しかし、その人は忘れています。子供の両親は、サンタさんに教えられなくても、またサンタさんの宅配に頼らなくても、自分たちで子供の欲しがる贈り物を買ってきて枕元に置くことが出来るのです。神様も同じことをなさっているに過ぎません。

 神様は私たち一人ひとりをこよなく愛しておられることを忘れてはいけない。また、神様は、死んだ聖人が眠っていて、あなたの願いを聞き、それを神様に取り次ぐことができなくても、神様ご自身がそれをちゃんと聞き取り、直接にかなえて下さることを。

 神様はあなたの願いを知るために聖人からの報告を待つ必要がない、あなたの願いをかなえるために聖人の力を借りる必要もない方ではなかったでしょうか。

 教会から晴れがましく聖人の位に挙げられた少数の聖人たちも、人知れずこの世を去った無数のより偉大な聖人たちも、無限大の数の平凡な死者たちと同列に、クリスマスの夜も静かに深く眠らせておいてあげようではありませんか。

 世界のキリスト者が、3歳児、4歳児レベルの幼稚な信仰を脱ぎ捨て、今年のクリスマスこそ、大人の背丈に合った理性的でより強固な信仰に目覚めることを願って、クリスマスプレゼントとしてこのブログを書きました。

 蛇足ながら、この点に関しては、プロテスタントの兄弟達はカトリックの大衆よりいささか大人だといえるかもしれません(笑)。(注)

 今日24日はクリスマスイヴ。わたしは、オミクロン騒ぎにも拘わらず、降誕祭の前晩のミサを共同体と一緒に荘厳に祝います。

(注) 私はカトリックの信仰箇条(クレド)の中に「聖徒の交わり」という一句があるのを知らないわけではない。「カトリック教会のカテキズム」という本の中には「この箇条(『聖徒の交わり』)は、いわば前節(第4節、『キリスト信者』——聖職位階、信徒、奉献生活)の説明です。」とあり、それは専らこの世の教会の様々な立場のキリスト者の交わりについてであった。だが、付帯的には死者のこと、聖人たちのことにもわずかに触れている。しかし、それらはわたしを納得させるものではなかった。

 また、三つの教会ー①地上を旅する教会 ②すでにこの世を去って清めを受けている教会 ③栄光を受けている教会ーは、全く違う条件の人間、①この世に今現在体をもって生きる私たち ②死んで体を失って眠っている人間たち ③世の終わりに目覚めて復活して新しい天と地に体をもって蘇る人間、という質的にも時系列的にも全く存在条件の違う様態の人間を、同一条件で並列した3つのグループに共生しているかのように捉える実態にそぐわない観念的な仕分けは、私には説得力がない。

 私の学生時代には、日本にも「煉獄援助姉妹会」という女子修道会があって、神戸の六甲でも修道院を開いて社会福祉活動をしていた。しかし、第二バチカン公会議後は会の名前から「煉獄」の2文字が消え、単に「援助修道会」と改めた。なぜ? また、私が神学を学んだローマの教皇庁立グレゴリアーナ大学は、カトリックの最高学府の名を博しているが、わたしは、この種の問題に正面から積極的に取り組んだ科目(講義)について何も、一度も聞いたことがない。

 何れにしても、第2バチカン公会議以後の教会では、死者の魂のあり様の従来の捉え方は全否定はされてはいないものの、意図的にそっと脇に置かれ、なるべく触れないよう、議論されないようにしている感がある。そして、死者の魂が、また、教会によって選ばれ聖人に認定された魂が、それぞれ死後どのような状態にあるのかについては、曖昧なまま何も積極的に語られていない。

 その一方で、死者は復活して肉体を回復する日まで「眠りに就く」という固い事実は、新・旧約聖書に度々書かれていて、誤りのない確かな真実として教会は最初から堅持してきた

 

★ 右下に目立たない小さな字で コメント(3) という文字があります。「新米信者」さんから、私の上のブログの書き足りない点を鋭く指摘したコメントが入り、それに、私が必要な補足と弁明をしています。是非合わせてお読みください。→ ーーー下の コメント(3) をクリック! →

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つながり (新米信徒)
2021-12-25 13:49:41
神父様 

神父様が以前に書かれた、亡くなられた人の安息と身体の蘇りについての記事を読み、神父様は、おそらく、この記事に書かれたようなことをおもっておられることを想像していました。名誉教皇様(当時は教理省長官)の対談をまとめた本「信仰について」で、名誉教皇様は、「煉獄」がなければ、つくらなければいけない、と仰っておられます。わたしが、死者をおもって祈ることは大切で、祈ることにより、祈っている私が変えられているのではないかと思います。信仰と祈りを通して、わたしは、死者とつながっていると言えなくもないと感じます。無原罪の聖マリア様のことはよくわかりませんが、人を
おもって「ロザリオの祈り」を唱えると、祈っているはずのわたしの精神が元気になるといつも感じます。最近は、プロテスタント教会のある信者の方をおもって祈ることもしていますので、キリスト教の信仰を通して、見える人、見えない人とも、祈ることによりつながることができるような気がしています。祈りに相手への愛があれば、自分のために祈っているとも言えないような気がしています。
返信する
Unknown (谷口幸紀)
2021-12-25 17:35:36
新米信徒さまへ
私は誰かからこのようなコメントが来ることを心の中で待っていました。
カトリックの大衆の信仰が、4世紀ごろのコンスタンチン体制以来大量にのみ込んだ自然宗教性、迷信性、小児性から清められ、大人の背丈にみあった強健な信仰になることを願っていますが、愛する死者の追憶と再会の強い願いは、決して失われてはならないと心得ています。
また、ブログのコメントとしてではなく、直接私のメールアドレスに聖母への愛、聖母への祈り、ロザリオの祈り、等々の聖母信心の重要性について縷々述べられた友人もいました。
人間の中で、イエスと聖母マリアは別格です。イエスは人であり神でありますが、聖母は人であって女神ではありません、それは明らかです。しかし、世の終わりまでに人間が空の星、浜辺の砂のように無数に生まれても、世の終わりまで無原罪の人はこの二人だけです。
あとの人は全員、アダムとエヴァの原罪の負の遺産を背負い、その結果の死を経験します。(イエスは進んで死を身に引き受け、死を打ち滅ぼし自ら復活し、閉ざされていた点の門を開かれましたが、そこまでです。)
その先、天と地が新たにされ、死者の魂が肉体を取り戻して復活するのは世の終わりの日です。
死者の想い出を大切にし、死者を愛し、永福を願うのはいいことであり、大切なことで、それに水を差し、心をくじくために私は先のブログを書いたのではありません。イエスとマリア様は今現在肉体をもって生きて、覚醒した意識を持って私たちみんなのためにこの宇宙で忙しく働いておられます。見えないのは私たちの信仰の目が曇っているからです。貧しい人、苦しんでいる人、虐げられている人の中にイエスを見ることのできる人は幸いです。女性の優しい母性の中に生きて働いている聖母マリアを信仰の目で見ることのできる人は幸いです。
しかし、わたしは聖教皇ヨハネパウロ2世の墓に何度も何度も詣でましたしその亡き骸の前で深く祈りましたが、彼は確かに眠っていました。その亡き骸は、何も見ていない、聴いていない、感じていない、時間の流れも知覚していない、躯(むくろ)でした。ただ、神様はしっかりと墓前で祈る私を見つめておられました。祈りながらそれを感じました。私にとってはそれで充分でした。
私たちの死者への思いと、祈りと、取次をも願う気持ちもいいものに違いありません。愛する死者の魂も、聖人の魂も深い眠りの中に居るとしても、私たちの心情は神様が直接にくみ取って、聖人や死者が目覚めていたらキッとしたであろう通りの応答を神様が代ってして下さるということは、当たり前すぎることではないでしょうか。
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ありがとうございます (新米信徒)
2021-12-25 20:07:46
谷口神父様 

丁寧な返事をいただき感謝しています。大変参考になりました。わたしのコメントが少しずれていることは自覚していました。神父様は、「魂」について書いておられるので。

私が教会でお世話になっている神父様は、あるミサの説教で、御聖体と赦しの秘跡に対する過去の行き過ぎた信仰(信心?)について話されたことがあります。信徒は、ゆきすぎた信心に気をつけなければ、落とし穴に入ることもあるかもしれないと思います。熱心であるときほど、自分を見失うこともあるはずなので。
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