:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 画家キコの新しい作品 「新求道共期間の道」活動50周年に寄せられた教皇フランシスコのことば

2019-02-16 00:05:00 | ★ キコの壁画

 

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 画家キコの新しい作品 

「新求道共期間の道」活動50周年に寄せられた教皇フランシスコのことば

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先週の土曜日の晩、感謝の祭儀(ミサ)のあとでこの写真のようなカードが配られた。キコの最近の作品の写真の裏に、教皇フランシスコのことばを添えたものだ。

 

西洋医学の解剖学的な知識に裏打ちされたデッサン技量という観点から言えば、表面的にはミケランジェロに劣ると言われても素人の私は敢えて反論しない。そして、この絵を模写しろと言われたら、不肖この私の絵心でもかなりいい線を行く自信もある。まして、ビザンチンの修道院のイコン画作家たちなら、寸分たがわぬコピーを描き切るだろう。現に、キコ自身、大勢の器用に職人技を磨いた弟子の画家集団を抱えている。そのチームに手伝わせて、キコはローマの神学院の聖堂に、バチカンのシスティーナ礼拝堂正面のミケランジェロの「最後の審判」の壁画よりもさらに大きな壁画を描き上げた。

しかし、彼の絵は単なる写実画とは違う。実在のモデルを描くような写実性だけで他と比較できるものではない。彼のキリストの顔は彼の魂に映ったキリストの霊的な面影に創造的に形を与えたもので、ミケランジェロからは同じものは決して生まれない独自の霊的香りを伴っている。

キコはその絵の裏に教皇フランシスコの新求道共同期間の「道」に宛てられた言葉を各国語で印刷させた。その言葉は昨年の5月5日にローマで教皇フランシスコとともに世界120ヵ国から集まった20万人の道の兄弟たちが見守る中、ローマでの活動開始から50周年を盛大に祝って語られた教皇様のことばの一節だ。その集いには私も参加したが、その日の様子は下のURLのブログに詳しく書いた。

https://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/c80ef4a2780a5b15df375a6c35d35827

教皇フランシスコは言われた:

親愛なる兄弟姉妹たち、あなた方のカリスマは、現代教会に与えられた神からの大きな賜物です。この50年間の故に主に感謝しましょう。この50年間のために拍手しましょう!また、神の父性的な、兄弟的な、そして情け深い忠実さを見ながら、決して信頼を失うことがないように。彼ご自身が、愛する弟子のように、あなた方を謙遜な単純さとともにすべての国民のもとに行くよう駆り立てられるその時、きっとあなた方を守ってくださるでしょう。わたしもあなた方に伴い、あなた方を励まします。前へ進みなさい!そして、どうかここに残るわたしのために祈るのを忘れないでください。

教皇フランシスコは、今日では世界中に展開している新求道共同体を賞賛し、保護し、推奨されている。教皇によって日本に送られ、日本で福音宣教に邁進している兄弟たちにもこの言葉は贈られた。現教皇だけではない。第2バチカン公会議終了以来、パウロ6世から始まって、聖教皇ヨハネパウロ2世、ベネディクト16世も、全ての教皇様が一貫して評価し、推奨してきたこのカリスマが、恐らく世界で唯一の例外として、日本の教会に限って、挙げて一体となって、圧迫し、禁止し、あたかも教会の教えに反する悪しきものであるかのように宣伝されるのは何故だろうか。しかも、教会の片隅から、あるいは底辺から泡沫的にではなく、何となく日本の教会の中枢部から、上層部の奥の方から、組織的にそのような操作が行われているような空気が意図的に醸成されているかのような印象を受ける人が決して少なくないように思われるのはどうしてなのだろうか。

我々末端の信者たちは、何も知らない、知らされていない、判断の材料を持たない、その重苦しい空気を日々呼吸する以外に選択肢がない。陰湿な閉塞感が日々漂っている。

私はかねてから、これは信仰の問題ではなく、教義の問題でもなく、世界の教会のことでもなく、日本のカトリック教会という閉鎖的なローカルな村社会の中で何時の頃からか密かに醸成されてきた宗教的イデオロギーの問題ではないだろうかという疑念を抱き、これまでいろいろな角度からブログのテーマに託して繰り返し問題提起してきた。

それ、-つまりこの宗教的イデオロギー-は、世界のカトリック教会の2000年の普遍的な、正当な、教えの王道に合致するものなのか、例外的で問題の多い、偏った、危うい性格の傾きを内包するものなのか、あらためて冷静に注意深く分析し、識別される必要のある問題ではなかろうかと思っている。

 

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★ はじめての中国の旅 -パンダの里を訪ねてー

2019-02-07 00:05:00 | ★ 日記 ・ 小話

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はじめての中国の旅

ーパンダの里を訪ねてー

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パンダの赤ちゃんを抱っこしませんか? そう言われたらあなたならどう返事しますか?

私の好奇心は動いた。

思えば、ヨーロッパは東欧も含めて何度も何度も旅をしたので、大抵の国は知っている。アジアもインドを含めてかなり念入りに旅をした。しかし、中国と韓国は何故か縁遠く、今まで空港のトランジット以外では足を踏み入れたことがなかった。

昨年の晩秋、不思議なご縁である中国の紳士に誘われて、北京と成都を訪ねた。その方の奥様が私の本「バンカー、そして神父」(亜紀書房)を読んで興味を持たれ、会いたいと言われたこともその要因の一つだったかと思う。(この本、自分で言うのもなんですが、けっこう面白いと評判で、今でもそこそこ出ていく隠れたミニ・ベストセラーらしいです。カトリックの書店の棚にはありませんが、まだ読まれていない方は書籍のネット通販で簡単に手に入りますから、是非ご一読ください。)

北京と言えば、PM2.5(大気中の微小粒子物質)のことを第一に思う。北京空港へ降下し始めると、地上の街並みは見えず、工場の煙がまず目に入った。

市内の交通警官も、一般市民も、ガッチリとマスクで自衛している人が少なくない。日本のスーパーやドラックストアーにある安価な白いマスクではない。口の脇の位置に小さな丸いフィルターのついた防毒マスクのような形のゴッツイ奴だ。

 

北京でまず私の目を引いたのは高層ビルだった。中でも高さ528メートルを誇るチャイナ・ズン(中国尊)は圧巻だ。放送塔としては世界一の東京のスカイツリーは、武蔵野に因んで634メートルだが、ただ針のように細長いだけ。人が入れる上層の展望台でも450メートル止まりだが、こちらは中層階よりも上層階の方が床面積が広い鼓型で、最上階まで人が利用している。地震国の日本では有り得ない設計だ。PM2.5で霞んではいるが、その存在感はスカイツリーの比ではない。

イメージとしてはこれだが、

実際はこのように見える。

天安門広場に向かう途中、治安部隊の車両を何台も見た。

呼称によって役割が違うのだろうか。

 

 

天安門広場には大勢の人がいたが、私たちは車を降りなかった。午後、「故宮」を観に行く予定だったが、彼の家で話し込んで遅くなり、最終入場時間に遅れてしまった。しかし、入り口まで行って分かったことは、故宮は大きすぎて、午後の1-2時間でどうなるものでもないということだった。朝からたっぷり1日かけて、さあ、どこまで見られるか、という規模に思えた。これを見るためだけに、また北京に出直して来たいものだと思った。

故宮とそれを囲む堀との間には柳の木の並木がある。どれも大きな樹で、銀座のひょろひょろの柳など柳の名に値しないと思った。

故宮のまわりを散策する。

どこまでも城壁が続き、その広さの見当さえつかない。

日本では久しい以前から全員隔離されて、すでに過去の病気になっているが、中国では、そして北京でも、癩病は現在進行形の伝染病であることが分かった。

東京四谷の迎賓館は、私が上智の学生だった1960年代は、まだ戦後の廃墟で、門は壊れ、庭は草ぼうぼう、建物の中まで自由に入れて、上智大の学生の恋人たちの講義をさぼってのデートには格好の場所だった。それが今は修復され、国賓のために整備され、昔のように自由に出入りは出来なくなった。しかし、北京の「釣魚臺迎賓館」では、その中をゆっくりと見せてもらうことができた。

ここは最近習近平国家主席と金正恩朝鮮労働党委員長の中朝首脳会談が開かれた舞台だ。

晩餐会のテーブル。 

 

秋の日は早く暮れる。

車窓から立派な教会が見えた。十字架の下の大きなエンブレムからカトリックの教会と分かったが、多分、中国共産主義政府と折り合いのいい所謂「愛国教会」のものではないか。バチカンのローマ教皇と一致している教会は、非合法の地下教会として今も厳しい状況のもとにある。フランシスコ教皇は関係改善に努力しているようだが、習近平さんもなかなかのしたたか者とお見受けする。

夜は立派な飯店で北京ダックをメインとしたご馳走を堪能した。

壁には伝統芸能「早替わり」のお面がいっぱい飾ってあった。

翌日は万里の長城だった。

入場チケット35元(約570円)

現存する人口壁の延長は6259.5キロメートル。日本列島の延長が約3500キロというから、2倍近くに及ぶ。

トランプ大統領もケチな了見を捨てるか、どうせやるならこれ以上のことをやってみたらどうだろう。

次の日、四川省の成都に飛んだ。3時間半ぐらいのフライトだったか?札幌―福岡以上の距離だ。

 

成都の郊外。車で2時間ほど走って、パンダの飼育研究センターについた。センターの中は電気自動車で移動する。

 

 何頭ものパンダがのんびりと生活している。私は生まれて初めてパンダを目のあたりにする。

では、なぜこんなに贅沢な旅をすることができたのか?面倒だから深く詮索するのはよしにした。私は何者でもないただの年寄りの神父に過ぎないのに、実に不思議なことがあるものだ・・・

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★ アフリカに学ぶこと ー失敗は成功のもとー

2019-01-28 00:05:00 | ★ 神学校の日記

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アフリカに学ぶこと

ー失敗は成功のもとー

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キコの2作目の本「覚え書き」(Annotazione) のカバーの半分を展開したもの。左端の縦の細い部分が本の背。真ん中が表紙。人物は若かりし頃のキコ。右はカバーが内側に折りこまれる部分。

私はいま、キコの第2作目の本―題名を直訳すれば「覚え書き」(1988-2014)となるが、実際は「霊的日記」とか「魂の叫び」とか言う題がふさわしい本―の翻訳中です。

イタリア語版は2016年の末にはローマの一般書店に並びましたが、私が著者の同意のもとに翻訳に取り掛かってから、様々な出来事のために何度も長い中断を余儀なくされました。いま束の間の静けさに恵まれ、ようやく日本語の3度目の推敲を終えようとしています。今日、500編余りの断章の中の211番を読み直しながら、急にブログに取り上げたいという衝動に駆られました。まずその部分を味わってください。

211. 私たちはアフリカで、テントの中に居る。昨日、素晴らしく美しい大自然の只中で、黒人たちは木の枝と花を持った腕を動かしながら私たちを歓迎するために歌ってくれた。私たちはキリストを告げ、かれらは私の言葉に喝采しながら、驚きをもって聞いてくれた。

≪今日、この時、良い知らせを信じなさい!約束された霊を今受け取ることが出来るよう回心して信じなさい。その霊はあなたの中に住んで、人を赦すことが出来る力をあなたに与え、新しい形で人を愛することが出来るようにしてくださいます。この十字架をご覧なさい。彼はあなたのために死なれ、ご自分の不滅の命とご自分の霊について、あなたのために御父に遺言されまし。今それを信じなさい。

私があなたたちに話している間にも、イエスご自身が御父の前であなたのためご自分の栄光の傷をお示しになっています。

今日、私は大天使ガブリエルで、あなたはマリアです。彼女と一緒に言いなさい。「はい、あなたの告げたことがお言葉通りに私の中で成就しますように」と。

信仰は聞くことから来る。聴きなさい!神はあなたを愛し、あなたを罪の奴隷から、愛情に飢え渇く苦しみから、利己主義から、絶えず自分の快楽を追い求める恐ろしい奴隷状態から、傲慢から、色欲から、賭博から、飲酒から、憎しみから、対抗意識から、妬みから・・・開放することを望んでおられます。これら全ては苦しみのもとだ・・・。

主の霊は私たちに伴い、私たちの言葉が虚しく消えることを許されない。私たちが語ることは、主がそれを成就される。彼は全ての君主、全ての権能と支配の上に揚げられた主(キュリオス=Kyrios)である。彼は諸聖人を伴って生きているものと死んだものを裁くために栄光のうちに帰って来られる主である。ご自分の体においてすべての正義を成し遂げるために、すべての人のために死なれた彼は、彼において、彼の体によって、罪のため捧げられ嘉納された芳しい香りの生贄としてご自分を捧げ、罪の赦しのために回心を説かれた。

私たちの解放と罪の赦しの保証としてキリストは復活された。人類はキリストにおいて赦された。また、私たちを新しい被造物とする霊を受け取ることが可能になった。私たちを彼に似たものとして、聖霊を通して、神の子として、ご自分の本性に与らせて下さった。すべての貧しいもののための勝利!回心して良い知らせを信じなさい!洗礼を受けて、聖霊を受けなさい。無償で!私たちの業によってではなく、ご自分の血とご自分の受難の果実として、彼に栄光がもたらされますように。≫

アフリカ!神はお前を愛しておられる。聖霊に歌を捧げるあなたの貧しいひとたちをどうか受け入れてください・・・。彼らがどのように聞き、どのように祈ったか、それはとても素晴らしかった。

アフリカ!ここはケニヤ、過去19年間の宣教で一番特筆すべきことは、それが徹底的に失敗だったことだった。常に拒否された。宣教師たちは我々を望まず、我々を「競争相手」と見なした。司祭が替わると、共同体を少しずつ、少しずつ殺していくのだった。19年後の今日、ケニヤ全体でたった7つの共同体が存在するだけだった。しかし、すぐにすべては変わるだろう。失敗することはキリストに倣うこと。失敗することは勝利すること!

 212. 失敗の中で耐えしのぶことは命を与えること。命を与えることは福音を告げること。

私はこれらの言葉を読んで、とても他人事とは思えませんでした。日本における新求道共同体の活動は、私がこの「道」と出会って以来、私の関わった部分に限って言えば、失敗に次ぐ失敗、挫折に次ぐ挫折の連続でした。

私はいま理解しました。キコがケニヤで19年間経験したのと同じことを、私もいま日本の教会の中で経験しているのだということを。

つまり、失敗することはキリストに倣うこと、失敗することは勝利すること!失敗の中で耐えしのぶことは命を与えること。命を与えることは福音を告げること、だということを。

1988年に聖教皇ヨハネパウロ2世が世界で最初のレデンプトーリス・マーテルの神学校をローマに開設されて以来、この30年間でその姉妹校は世界中で増え続け、今日では120校以上を数えるまでになりました。今や、主要な国でその姉妹校を持たない国が珍しいほどです。

日本では1990年に他の国々に先駆けて世界で第7番目の姉妹校が高松教区に生まれました。私はその誕生の最初から関わってきました。しかし高松の司教様が替わられると、その神学校は日本の全司教の一致団結した反対で閉鎖に追い込まれました。それを惜しまれたベネディクト16世は、慈父の愛で「日本の将来の福音宣教に役立てるために」とそれをローマに移植され、以来、同神学校は10年余りにわたり教皇預かりの「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」として命脈を保ってきました。

しかし、ベネディクト16世が生前退位されると、新しい教皇フランシスコは熟慮の末、「教皇庁立」「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」を東京に設置する方針を打ち出されたことは、昨年8月の東京教区のお知らせで公に知らされた通りでした。

それが、最近の東京教区ニュースには、「8月末にお知らせした、教皇庁福音宣教省直轄の神学校設立の通知に関しては、現在、保留となっているとのことですが・・・」と、小さく触れられていることに目を留められた方がどれだけおられたでしょうか。

私は咄嗟に、10年前に高松の神学校が、教皇様の慰留を押し切って、日本の司教方の一致した固い意志によって閉鎖に追い込まれたときのことがフラッシュバックしました。

現教皇様が熟慮の末に決断され通知され、すでに日本の信徒に公けに発表された決定が、理由も告げられず「保留」になるなどということは、その裏によほど深刻な事情がなければ決してあり得ないことだと直感しました。

そもそも、この度の「アジアのための神学校」とはどういう性格のものだったのでしょうか。歴史を振り返ると、世界中の宣教地域の聖職者の高等教育を一手に担ってきた機関としては、ローマにウルバノ大学を持つ教皇庁立の養成機関がありました。アフリカでも日本を含むアジアでも、およそ宣教地域と認定されたところからのエリート司祭、将来の司教や枢機卿の候補者の多くが、教皇庁立ウルバニアーノ神学校で養成されてきました。

今回の「教皇庁立アジアのための神学校」計画は、そのウルバノ神学校の機能を二分し、東京にその分身を置くことにより、地球の西半球の宣教地は従来通りローマのウルバノ神学校で、東半球は新設の東京の教皇庁立アジアのための神学校でカバーしようという、第三千年紀に向けたバチカンの壮大な宣教戦略の根幹をなすフランシスコ教皇自身の英断だったと私は見ています。

なぜなら、ベネディクト16世に救われてローマに移されたまでは良かったが、その後10年間、一向に日本への帰還の目途が立たなかった元高松の神学校を、いっそのこと「教皇庁立」として戻しては、という進言が寄せられていたのに、福音宣教省長官のフィローニ枢機卿は、「前例のないことはできない」と再三にわたって選択肢から除外されてきた経緯から見ても、それがフィローニ枢機卿から出たアイディアだということは、絶対にあり得ないと思われるからです。2000年の教会の歴史に前例のない新しい選択をするということは、忠実な一高級官僚レベルでは無理で、やはりトップである教皇様自身の発想と決断が不可欠だったのでしょう。

聖教皇ヨハネパウロ2世が奇しくも予言された通り、2001年からの第三千年紀が「アジアのミレニアム」であるとすれば、その中心拠点としてフランシスコ教皇様が東京を選んだのは全く理に適っていると私には思われます。過去数百年の歴史を顧みれば、文化的にも、国際政治・経済・技術・金融のどの面をとっても、要するに「地政学」的に見て、「日本・東京」以上にバランスの取れた候補地をアジアの他の場所に見つけることはほとんど不可能でしょう。

もしこの「保留」が長引けば、教皇の今年11月の訪日計画の中の重大な目的の一つであるこの神学校(ウルバノ神学校の分身)設立の批准という大きな目的を欠くことになるのが惜しまれます。

まだ水面下で動きがあり、最終決着がついていないのだとすれば、今後の展開から絶対に目が離せません。

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★ キコの80歳の誕生日に寄せられた教皇様の祝辞

2019-01-11 09:30:49 | ★ 教皇フランシスコ

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新求道共同期間の道

キコの80歳の誕生日に寄せられた教皇様の祝辞

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Avvenire紙(イタリア)2019年1月10日インターネット版より

教皇様は新求道共同体の道の創始者に対する個人的なお祝いのメッセージの中で「神様があなたの教会に対して行った善の全てに対して報いてくださいますように」 と書かれた。 

 

 

 

「親愛なる兄弟、あなたの80歳の誕生日にあたり、貴方への親近感と兄弟的感謝の数行を送ることなしにこの日が過ぎることを私は望みません。神様に対しては貴方を選ばれたことに感謝し、あなたに対してはあなたの忠実さに感謝します。神様があなたの教会に対して行った善の全てに対して報いられますように。私はあなたに寄り添い、祈り、あなたと共に行きます。お誕生日おめでとう。新求道共同体のひとたちがあなたのために80本のローソクで飾られたケーキを贈るだろうことを希望します。そしてお願いだから私のために祈ることを忘れないでほしい。イエスがあなたを祝福し、聖なる処女マリアがあなたを保護してくださいますように。"あなたを愛しあなたを賞賛する"フランシスコより。」フランシスコ教皇はこの個人的なメッセージが昨日マドリッドで80歳の誕生日を迎えた新求道共同期間の道の創始者キコ・アルグエヨに届くことを望まれた。

キコのフランシスコ教皇への感謝状
教皇のこの心配りを「大きな感激」をもって受け止めたキコは、火曜日の朝サンタマルタの家で行われたミサの終わりに、彼の「教会の中で行った使徒的情熱」に対して教皇が感謝の言葉をかけられたことに対して、昨日すでに謝意を伝えていた。一つのメモの中でキコは、道の共同国際責任者であるマリオ・ペッツィ神父とマリア・アシェンシオンとともに、教皇に対する感謝の意を表わすとともに、「ペトロの聖務」に対する祈りを約束しながら、彼の教皇への愛情と親近感を表明することを望んだ。.


新求道共同期間の道の50周年を記念してトール・ヴェルガータで開かれた集い
最近のフランシスコ教皇とキコ・アルグエヨの出会いは昨年5月5日だった。その日、新求道共同期間の道はトール・ヴェルガータの平原でローマに最初の共同体が生まれた50周年の記念を祝った。この機会に教皇は新求道共同期間の道における福音の告知の力について話しながら、その話の中で、それは「説得力のある論証によってではなく魅力的な生き様、押し付ける能力によってではなく奉仕する勇気」によるものである。そして、あなたたちはあなた達がいただいた『賜物』の中に聖家族の模範に倣った家庭生活を営みながら、謙遜と単純さと賛美によって宣教する召命を持っている。この家族的な雰囲気を見捨てられ愛を奪われた沢山の場所にもたらしなさい」と言われた。

 

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★ 3日遅れのクリスマスメッセージ

2018-12-30 00:05:00 | ★ 日記 ・ 小話

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三日遅れのクリスマスメッセージ

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カトリック教会の主の降誕(夜半)のミサを私たちは24日の夕方に祝った。

聖書の第一朗読は、旧約聖書のイザヤの予言からで次の言葉で始まる:

  闇のなかを歩む民は、大いなる光を見

  死の影の地に住む者の上に、光が輝いた。

或る宣教家族の家では、イタリア語の先生をしている主人の生徒さんたちを中心に、30人近くの人が招かれて楽しいパーティーが開かれた。

パーティーはまず参加者の自己紹介から始まったのだが、皆さんかなり流暢なイタリア語で挨拶をされたのにまず驚かされた。

男性の多くは私と同じ70歳台の終わりから80歳を超えた人だったが、高度成長期の勝ち組で、成功し、安定した余生を謳歌しているように思われた。

イタリア語の先生は、この機会に参加者にクリスマスの意味について説明を試みた。リビングルームには幅1間奥行き半間ほどの降誕の場面の箱庭が飾られ、青い空には星がちりばめられていた。

室内の明かりを暗くして、上のイザヤ書の言葉どおり、私たちの心の闇を照らす光として救い主イエスが嬰児の姿でベトレヘムの馬屋の飼い葉桶の中に寝かされているところへ、羊飼いたちと東方の博士たちが礼拝に来たことなどが語られた。

それを聞いたひとりの紳士が神父である私に近づいて、「先生からこの闇に輝く光の話を聞くのはこれで2度目だが、闇の意味がもう一つピンと来ないんですよね」と率直に言われた。

私は、その人の上品な物腰を見て、堪能な英語の他に趣味でイタリア語を習っている教養のあるお金持ちという印象を受けた。

私の世代の成功者で何不自由なく快適に老後を謳歌している人に、人生の闇がピンと来ないのは当然と言えば当然だ。例えその人の心の奥に深い闇が潜んでいても、本人に気付く感性が欠けていたとしても不思議はない。

屋敷にはセコムのシステムをめぐらし、駐車場にはベンツがあるような、無意識のうちに生活の誇りという目に見えないゼリー状の被膜でしっかりと身を護っている人達は、「貧しい人に良い便りが告げられた」というような福音の言葉とは縁遠い存在なのだろうか。だから、サロン的なレッスンやパーティーには喜んで参加するが、キリスト教の信仰の話になると、はじめはお付き合いで聞いてくれても、自分が心の中に闇を抱えたメクラであることに気づかされたり、罪人であることを思い知らせる福音を聞くと、ひとり、またひとりとノーサンキューの反応を示して離れていくのは自然の成り行きだ。

私は昨夜も、福島県の浜通りのある町に、同じよい便りを伝えに行ってきた。しばらく前からほとんど毎週のように通い続けている。初めは若い姉妹と小学生の子供二人、それに身寄りのない若い女性の5人が聞いてくれた。そこへ、妹さんのご主人が加わるようになり、今回はもう一人男性があらたに加わった。彼らは福音の言葉を乾いたスポンジが水を吸い込むように受け入れていく。

上のグループとの違いは何だろう。

彼らは日本の国が遺棄した放射能の被曝地で、貧しく困難な生活を生きている。先の見えない闇の中に喘いでおり、希望の光のメッセージに飢えているのだ。そこには、神様の救いのことばを跳ね返す生活の驕りの皮下脂肪などまとっていない剥き出しの心の貧しさがある。

国を挙げて2020年のオリンピックで浮かれている陰で、福島第一原発の世界最悪の核暴走事故の被災地は切り捨てられ忘れられている。そこに住む人々こそ、福音(ケリグマ)を受け取る心の準備の出来た貧しい人たちなのだ。

 

粉雪がちらほら舞う常磐道を行くと、道端に点々と放射線量をリアルタイムで知らせる表示盤が設置されている。初めは0.1マイクローベルト/時だが、原子力発電所の廃墟のある双葉・大熊あたりを通るとき、その数値は数十倍の2~3マイクロシーベルトを指している。帰路は、高速道路の一部が夜間工事で通行止めになると、国道6号線を迂回して、福島第一原発の至近距離を通過することになる。道の両側は無人地帯で明かりが全く灯っていないのが不気味だ。どの十字路も左折も右折もできないように鉄柵で封鎖されている。鉄板とガラスで室内が護られている車が走り抜けることは許されるが、汚染された外気に身を晒すバイクの通行は許されていない。何とも殺風景な地帯だ。

強制疎開させられ、慣れない土地で政府の支給する補助金を頼りに細々と生活していた老人たちは、突然立ち入り禁止が解除され補助金が打ち切られると、避難生活が維持できなくなり、持ち家のある汚染地帯に帰らざるを得ない状況に追い込まれる。しかし、遠目に懐かしい立派な我が家の中は、ネズミや、ハクビシンや、イノシシなどに見る影もなく荒らされて、とても住める状態にはなかった。すると政府は家を取り壊してサラ地にする費用は補助するが、住む家は自前で建てろと突き放す。借金する能力もない老人たちには仮設住宅にも劣るバラックを建てるのがせいぜいではないか。病院もマーケットも郵便局もないところでどうやって生きていけというのだろうか。人気のない道は、娘であろうが年増であろうが、女とみればお構いなしに除染・廃炉作業員の飢えた荒くれ男たちのレイプの対象にされるので、暗くなったら怖くて外は歩けない。そんな荒廃した土地に子の世代も孫の世代も帰って来る筈がない。人口稠密な日本の国土にポッカリと無人の砂漠が出現するのに2世代の時間を要しないだろう。どうせ人が住まないのなら、全国50数か所の原発の放射性廃棄物を集めて、その捨て場にすればいいという乱暴な話すら出る。

 

往路5時間、帰路4時間半で深夜12時を過ぎて東京に帰り着く。往きはしんどい思いで頑張って行っても、帰りは受け入れられ福音が伝わった大きな喜びを貰って家路につく。疲れは吹き飛ぶ。

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クリスマスイヴにある友達に書いた:

神が人となって我らの間にお生まれになった。

ベトレヘムの飼い葉桶の中に見えない神が降られた、と、信仰は言う。そこに居るのは見えない神。人間の目に見えない神を可視化する魔法のスプレイをかけたら、嬰児の姿が現れた。わたしの信仰はその嬰児のなかに引き続き見えない神を礼拝する。

ガリレア湖の北西岸の丘の上で見えない神が山上の垂訓を説いている。魔法のスプレイをかけたら、魅力的な若いイエスの姿が見えた。その姿の中に見えない神を礼拝する。

ゴルゴタの丘の上の十字架に見えない神が磔けられている。魔法のスプレイをかけたら、むごたらしい血だらけの苦しみ喘ぐイエスが現れた。その姿の中に見えない神を見る。

クリスマスイヴに福島県の浜通りの暗い道で、女が原発廃炉作業員にレイプさらた。魂が壊れて放心する女に魔法のスプレイを消すスプレイ」をかけたら、そこに見えない神が居た。

さあ、二本のスプレイ缶をズボンのポケットに押し込んで、場末に、精神病院に、養老院に、孤児院に、繁華街に見えない神を探しに行こう。

父と子と聖霊の三位一体の神を礼拝する、賛美する、感謝する、愛する。復活したイエスは、貧しいうち捨てられた人々に身をやつして至る所に隠れて居る。

神は三位一体の神とキリスト教はいう。しかし、父も聖霊も見えない神。見えるのは御子だけ。

御子を見るものは、御父も聖霊も見ている。

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★ 私は何になりたかったか = ヘルマン・ホイヴェルス(3)

2018-12-01 00:16:51 | ★ ホイヴェルス師

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 私は何になりたかったか

  ヘルマン・ホイヴェルス(3)

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 〔本文つづき〕

 或る日曜日の午後、父と母は庭のベンチに腰かけて私たち二人を呼び寄せました。そしてしばらくは、彼らの長男と次男をかわるがわる黙って眺めていました。

 「この二人は将来、何になったらいいのでしょうか?」

 「ギムナジウムに行くべきか、畑に行くべきものか?」

と、父は母にいま一度はっきりとたずねました。

 父は農業に興味を感じていませんでした。むしろ自分の弟のように、自分も勉強することが望みだったのです。その叔父は、のちに小学校の校長をつとめました。

 母の生家はライネの町の近くにありました。娘時代の母はときどき母親とともにライネの町のギムナジウムの聖堂で、9時の歌ミサにあずかるのをたのしみにしていました。そしてこの若い娘にとって、聖堂に跪くギムナジウムの学生は、あこがれの的となっていたのです。そして今や若い母親にとって、「成人したなら、自分の息子たちの頭も、あの帽子で飾ってやりたい」という若き日のあこがれは、現実に近づいてきたのでした。

 こうして両親の結論は、息子たちは畑にではなく勉強するほうがいいということになりました。それは大きな決心でした。なぜならそれは9年間にわたる勉強であり、しかもまったく基礎的な勉強で、卒業しても何になったらいいのでしょうか、べつに決まっていません。そこでまず兄は、村の叙任司祭についてギムナジウムの受験勉強をしました。いつも私は兄といっしょでしたから、自然私もそんな勉強をするようになりました。そして幸い兄は3年をとびこえて4年に入学しました。兄はライネの町に下宿して通いました。その翌年、兄は5年に進み、私も幸いに3年に編入することができました。

 ちょうどその年、村からライネの町へ通じる国道が出来ました。父は、そのころ出はじめたばかりの自転車を二台私たちのために買ってくれました。こうして私たち二人は新しい自転車にのって、10キロの国道をゆっくり踏んでギムナジウムへかよいました。この、ゆっくり踏んで通ったのには理由がありました。というのは当時の村びとのあいだでは、「自転車にのるものはみんな肺病になる」と恐れられ、反対されていたからです。それに私の足では、まだペダルが下までとどきませんでした。幸い私たちは健康に恵まれ、やがて二人の友人も自転車の仲間に加わってきました。

 ギムナジウム時代、将来の希望は絵をかくことか、あるいはギリシャ語の教授になることでした。兄といっしょに、絵の先生からは特別の時間を与えられて勉強もしました。私はおもに花や風景を、生家を写生しました。兄の性質は私とまったく違っていました。小さいときから機械に興味を示し、生家の家宝的存在であった老いた掛け時計の修理に年に一度やって来る時計屋の仕事を、そばで熱心に見入っていました。そしていつか、自分でその時計の修理を引き受けるようになったのです。

 1906年の夏、神は私の将来を決めました。兄のアロイスは卒業を控え、いま一度自分の将来について決心すべく、オランダにあるイエズス会の修道院で黙想会にあずかるために、他の級友とともに出かけていきました。数日後の土曜日の昼一時に、兄はまったく違った人間になって帰ってきました。広間に立つなり母に向かって、まっすぐに、イエズス会の賛美をはじめました。彼らは、どんなに厚い本を書くか! どんなに遠い世界までも布教に行くか!・・・と。

 私は黙ってこれを聞いていました。そしてそのとき、「これこそ私のなりたいものだ!」と心に決めました。しかし私の卒業までには、まだ二年以上もあり、この秘密は誰にも打ち明けませんでした。一方、兄の熱心さは伸びるワラビのようでした。あれほど志願を望んでいたイエズス会には入りません。かわりにミュンスター大学の神学部哲学科に入りました。ここには、今は有名なカール・ラーナー教授がいます。しかし、機械は兄を引っぱって、ついにハノーバー工業大学へ行き、後日りっぱな技師になり天寿をまっとうしました。

 私は自分の秘密をずっと守りとおし、卒業式に、はじめて友人に打ち明けました。式のあとの宴会の席上、私はこっけいなテーブル・スピーチの指名をされました。私はビールを賛美する話をして喝采で報いられましたが、そのあと、大きな声で「ジェスイットになるぞ!」とさけびました。するとおどろいた友だちはみんな叫びました。「われわれも君といっしょに行こうぞ」と。そしてつぎの即席のうたをみんなでうたいました。

          Ins Kloster moecht’ ich gehen,

           Da liegt ein kuehler Wein!

               修道院に行こうよ、

            そこにはおいしいブドー酒がある!

 1909年3月5日卒業式、4月19日イエズス会入会。その間に生家との別れの記念として、家の東側のいちばんよい土に12本のカシの木を植えました。今は4本がそうとう大きな木になって残っています。そのカシの木は、私がもっと小さかったとき、森のなかの空地に父といっしょに蒔いた実が成長したもので、かれこれ70年の樹齢を刻んでいます。

ホイヴェルス兄弟のような羊たち

 * * * * * * *

ホイヴェルス神父様 は幼年時代から、羊飼いに、次いで木こりに、そして左官屋になるのだと、幼い夢を語り、それを母親は微笑みながら、反対もせず受け止めていました。そして、時が来ると、父親は叶わなかった自分の夢を、母親は乙女時代のあこがれの夢を息子たちに託すことなったのです。

 私は、ホイヴェルス神父のように絵が好きでしたが、彼のお兄さんのように機械も好きでした。模型飛行機も、船も電気機関車も何でも精密に作りました。

 私の父は東大法学部に在学中に高等文官試験に合格し、卒業とともに勅任官として内務省に入り、官僚から政治家への道を辿ろうと出世街道を駆け上がっていたやさきに日本が戦争に負け、占領軍の下で公職追放に遭い、無位無官の極貧生活に転落した辛酸をなめました。彼はその経験から、学歴も身分も社会の激変の前には何の役にも立たないことが骨身に応えていたので、息子には手に技術を持たせて社会の変動に強い人間に育てようとして、理工系の大学への進学を勧めました。神戸の六甲に住んでいた私は、親の経済的負担を考えて、東京の大学は諦め、家から通える学費の安い国立大学を念頭に受験勉強に励んでいました。

 ホイヴェルス神父が通ったギムナジウムに相当するのが、中・高一貫校のカトリックのミッションスクール六甲学院でした。大学受験を目前にした高3の正月休みに、広島のイエズス会の黙想の家で生徒に進路を考えさせる黙想会があって、私も担任の神父から勧められて参加しました。

 黙想会が終わると、私もホイヴェルス神父のお兄さんのようにまったく違う人間になって帰ってきました。父の前立つなり、「私は阪大や京大の理工学部には行かない。東京の上智大学に入ってイエズス会の神父になる!」と宣言して、父を完全に打ちのめした。カール・マルクスの資本論を読破した筋金入りの無神論者は、その後、プロレタリアートを抑圧する官僚になった自分のことは棚に上げて、私の決心を覆そうと血眼になりました。そのおかげで、私の決意は鉄のように固く鍛え上げられていったのです。

以来、何事にも反目しあってきた父と息子が和解したのは、父の死の数カ月前、私が神父になったのは、父の死の2か月後のことでした。彼は私が司祭になる叙階式に出席することを楽しみにしていたのに。

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★ 私は何になりたかったか = ヘルマン・ホイヴェルス(2)

2018-11-09 00:05:00 | ★ ホイヴェルス師

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私は何になりたかったか(2)

ヘルマン・ホイヴェルス

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米軍払い下げの聖イグナチオ教会旧司祭館の前をパナマ帽を片手に颯爽と歩くホイヴェルス主任司祭。執務室はカマボコの左端の粗末な小さな平屋建ての中にあった。

 

早速「私は何になりたかったか」の続きを読もう。

二番目のあこがれは木樵になることでした。

ある日のこと、森にかこまれた生家に船会社の人がやってきました。カバンからはピカピカ光る長い斧、のこぎり、ロープなどがとり出されました。大木の運命は決められたのです。

木樵はまず、生家の西側にそびえる一本のカシの大木の根もとを掘りました。やがて大きな斧が打ちこまれ。のこが引かれると、一人はロープをもってハシゴをのぼり、梢の冠のなかの大枝にロープを結びつけます。そこで、手をもっているすべての人がよびあつめられました。ちょうどそこに一人の乞食が通りかかりました。もちろんその乞食も大歓迎です。問題はこの大木を生家の屋根の上に倒さないように、指揮者は、決められた方向に引き倒すよう一生けんめいです。木ははじめ少しだけふるえます。掛け声がだんだん大きくなるにつれて、木はますます大きく一方に傾き、戻る力が弱まったとき、ようやく引き手には逃げることが命じられました。私はまだ小さくて、この引き手の名誉にあずかることができませんでした。ただ倒れる大木の運命を、恐れをもって見守るだけでした。大木は大音響を森じゅうにとどろかせてうち倒れ、もはやじっと大地にねむりこんでいます。

そばに立っていた父は、私につぎのことわざを教えてくれました。

Wie der Baum fällt, so bleibt er liegen.

これに似たことわざは日本にはないようです。これには少しきびしい意味が含まれています。―――人間の運命は死ぬときに決まる(もし木が屋根の上に倒れたら大罪です)と。

三番目のあこがれは左官屋でした。生家の壁は、トイトブルゲルワルトの山から切り出された石でできていました。しかし、ちょうどそのころ建て替えられたパン焼き小屋には、初めてレンガが使われました。このレンガ積みには大工の息子も手伝っています。錘をつけた糸をたらして、まっすぐに積み上げられていく赤い壁に、わたしはたまらない魅力をおぼえたのです。

私は母のところに行って、自分も大きくなったら左官屋になるのだと主張しました。母はそのときにも、べつに反対はしませんでした。

しかし、六、七歳になったときです。父母は、私たちが将来どんな方向に向かうかを決めるべき、まじめな問題にぶつかりました。(つづく)

これは、実に短い一節で、一見するところ、彼の将来を決定づける最後の部分へのただのつなぎのように見受けられます。しかし、実際はそうではない。毎週の「紀尾井会」に集まる学生たち(当時は東大生も早稲田も中央も・・・実にいろいろな大学から来ていた)には、ちょうどイエスが弟子たちにはたとえ話の意味を説き聞かせたように、この短いドイツごのことわざを丁寧に説明してくださった。

Wie der Baum fällt, so bleibt er liegen.

ヴィ―  デア バウム  フェルト、ゾ―  ブライプト エア  リーゲン。

人間の運命は死ぬときに決まる(直訳:木は倒れたときの状態で、横たわったままに残る)

私は、師のことわざの解説を、今も明快に記憶しています。師が鋭く指摘している通り、これに似たことわざは日本にはないようです。」と言う師の指摘は実に正しい。

日本人の意識の根底には、いつの頃からか一般的に広がった人生観、つまり、前世があって、現世があって、来世があると言うメンタリティーがあります。ところが、上のことわざは、それには全く馴染まない、まさに水と油の世界観、つまり、神は森羅万象を「無」から創造し、人間には誕生から死までの一回限りの人生を与え、神だけが知っている死の時まで、一方通行の時の流れのなかを生き、死の瞬間にその魂の状態がそのまま固定され、その状態によって、その人間の復活後の永遠の命のありかたが決まる、という全く妥協も融通もきかない厳粛な事実を告げているのです。

死んでから、三途の川を渡って閻魔さんに会って、そこであれこれ弁解し、駆け引きをして、何とか後生・来世の良い条件を引き出そう、なんていういい加減な交渉の余地は全くない。「人間の運命は死の瞬間の状態に固定される」、一瞬にして取り返しのきかない形で確定されるのです。

(もし木が屋根の上に倒れたら大罪です)という師の添え書きの意味は、「もし棄教、殺人、姦淫、などの大罪を犯し、回心して神と人と和解しない状態のまま死んだら、自ら地獄の業火の中に飛び込み、そこに永遠に留まるという、取り返しのつかない愚かな選択をすることになる、という厳しい警告でもあります。

だから、人間はいつ「死」に追いつかれてもいいように、日ごろから心して「神を愛し、隣人を己のごとく愛し」ながら、清い良心を保って生きていなさい、と師は教えられました。

まだ足元の明るいうちに、日のあるうちに、回心して福音を信じなさい、と言う招きです。

そして、次回は、少年ホイヴェルスはどのような進路を選んだか、でこの短編は終わります。

(つづく)

 

 

 

 

 

 

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★ 私は何になりたかったか = ヘルマン・ホイヴェルス (1)

2018-11-03 00:01:00 | ★ ホイヴェルス師

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私は何になりたかったか

ヘルマン・ホイヴェルス

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私は、前回ホイヴェルス神父を偲ぶ会の準備として =「紀尾井会」再開の夢 = について書いた。その最良の準備として、前回の「美しき生家」同様、ホイヴェルス師の書かれた文章を絶版になった著書から短編を拾い出して、紹介しようとおもった。

 

私は何になりたかったか

ヘルマン・ホイヴェルス

随筆集「人生の秋に」(春秋社)より

 私は聖書に語られるよき牧者のたとえ話をきく以前に、よき牧者であった大伯父の羊飼いを見て成人しました。というのは、私の幼いころ、北ドイツのそこかしこには、まだ羊の群れが群がっており、大伯父も百頭くらいの羊の群れをもっていました。彼は、毎朝早く群れをつれて遠い野原へ出かけて行き、夕方には家につれ戻り、小屋の中へ追い込みました。朝、出かけて行くときには、いつも近所からほかの羊が三々五々やってきて、大伯父の群れに合流してしまいます。夕方になると、近所の人たちが出て来て、大伯父の羊の間から自分たちの羊をおびき出します。羊は、主人のなじみの声を聞くと、すぐ喜んでついて行くのでした。

この写真はホイヴェルス神父様の故郷のものではなく、ローマ郊外のものですがヨーロッパならどこでも似たような風景が見られます。特に春には沢山の子羊が生まれどこも生命に溢れています。

 春はとくに賑やかで、おもしろおかしいものです。若い子羊たちが現われて、まじめ顔の年とった親羊のまわりをとび跳ねたり、はしゃいで悪ふざけをしたりします。羊はときどき足を折ったりします。すると大伯父はこれをいたわり、二本の棒きれを足に当て、紐でぐるぐる巻いて、癒してやります。夏になると、大伯父は食料品を詰めたリュックをひょいと肩にかけ、愛犬のカローとともに、オランダの国境まで羊を追って一か月半も旅に出かけて行きました。ある夕方、カローの懐かしい声が聞こえると、兄と私は大よろこびで彼らを迎えに飛び出していきました。カローもうれしそうに私たちの方へとんできました。そしていつの間にか、子羊が見違えるほど大きくなっているのを見て、私たちはびっくりしました。晩には大伯父の旅の話も熱心に聞きました。

 翌朝、大伯父がまたいつものように羊の群れをつれて出て行こうとしているとき、兄と私は、自分たちも羊飼いになろうと決心し、母に願いました。母はすぐに賛成してくれました。そして新しいハンケチを頭にむすんでくれました。私たちは手に長い棒をもち、大伯父とカローといっしょに一人前の羊飼い気どりで明るい朝のなかへ出かけて行きました。ポケットには母の仕度してくれた、おいしいサンドイッチがつめられています。すこしはなれた羊小屋につくと、大伯父が門を開くのを待ちかねて、羊はわれさきに外に飛び出して行きます。

 大伯父は、聖書のよき牧者のように群れの先には行きません、むしろ群れのうしろについて歩きました。それは砂漠ではありませんから、他人の畑が近くにあり、もし一匹でもよその家の草を食べに行くようなら大伯父は牧杖の先についている小さなシャベルで土を掘りおこし、その土の塊を迷える羊になげつけるのです。もしそれが遠すぎるならば、カローをよび、その羊を指さすと。カローはただちに命令をさとって、とんで行きます。しかしカローには羊の足を噛むことは許されていません。このようにして羊は生涯を導かれており、迷う羊はほとんどありませんでした。ただ、子羊はときどきいたずらをします。一時間ぐらいもゆっくり歩いて、広い野原の先にある共同牧場につくと、そうとうに沈黙の人であった大伯父は、草の上に腰をおろしポケットの本をとり出してよみます。それはきっと好きな聖書か信心書であったことでしょう。そのあと大伯父はまた黙って、今度は毛糸の玉をとり出します。こうして私たち孫の靴下は、たいてい大伯父の手によって編まれました。その間、愛犬カローは群れを見守らねばなりません。しかし兄と私には、それはずいぶん退屈なものになってしまいました。翌日には、もう羊飼いに対する熱心は消えてしまいました。もちろん母は、前もってそうなることを知っていたことでしょう。

 こうして四歳の羊飼いの夢はあえなく破れてしまったのです。

(つづく)

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★ (2018) ふた月遅れの 「中秋の名月」 野尻湖

2018-10-28 00:01:00 | ★ 野尻湖・国際村

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(2018) ふた月遅れの「中秋の名月」野尻湖

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 いつの頃からか、秋になると野尻湖の満月が恋しくなる。寸暇を惜しんで足を運ぶのだが、満月の夜晴天に恵まれる確率は1/2以下だろうか。今年10月25日が満月で、水平線に月が昇るのは長野で5時37分方位77.05度を参考に野尻湖の桟橋に陣取って斑尾山の右肩に見当を付けて待ち構えた。幸いこの夜は晴天に恵まれた。

待つことしばし。空が明るくなり湖面にかすかに照り映えた。

 

やがてのことに、光の点が現れた。あとは、ただ夢中でシャッタ―をきるばかり。

 

ヌッと現れた月の頭は露出が合わなくて、ハレーションを起こして白飛びしてしまった。

 

ETを配すればSFの一画面のような趣の世界だ。

 

昇る月の速さは尋常ではない。

 

望遠で捕える月は白銀に輝くお盆ではなく、怪しく赤身を帯びた黄色い球だ。

 

 

肉眼で見る月の模様はお餅を搗くウサギに見えるのかもしれないが、ズームで引き寄せると、クレーターを配したただの明暗のまだら模様であることがわかる。

 

再び広角 実に明るい 湖面を煌々と照らしている。

 

紅葉はあと1週間で盛りだろう。しかし夜はモノクロのシルエットのみ。

 

仕舞い残されたヨット。雪までにはこの場所から移されねばならない。

 

車のヘッドライトを点けてみた。すると、急にカラーの世界が蘇ってきた。

 

すっかり満足して小屋に戻る。気温は10度ぐらいだろうか。暖炉の火が冷えたからだに有難い。

 

翌朝見ると、薪はあらかた灰になっていた。左のドアは客室へ。右のドアは風呂場、トイレ、納戸、ロフトに通じる階段につながっている。左のドアの上は尾瀬のパステル画。若い頃はよくスケッチをしたものだ。尾瀬にはもう50年近く登っていない。暖炉の上には何枚かの写真と額が。

 

 

暖炉の左上の額は、この小屋をわたしにタダで譲って下さった山尾百合子夫人の鉛筆画スケッチ。彼女は最晩年を医療付きの有料老人ホームで過ごした。見舞いに行った時、ふと見るとベッド脇の小卓の上に、5センチほどのチビた鉛筆が目に止まった。できごころでかばんの中を探ると、人からのメールをプリントしたA4の紙が見つかった。裏返して彼女のポートレートを描き始めた。ポーズを決めながら彼女は、早く見せろ、早く見せろと催促したが、わざとじらしてから、10分ほどして紙をくるりと返して見せると、彼女は思わずニヤリと笑った。80年以上鏡の中に見慣れた自分の顔に似ていたからだろうか。大きなほくろが彼女のトレードマークだ。Yuriko Yamao の字のあたりには、メールの文字列のインキが裏に透けて見えている。この日が生前の彼女に会った最後となった。

彼女には東大の理科から慶応の医学部に進んだ自慢の秀才の一人息子がいた。山尾俊司君。学生仲間からは「俊ちゃん」と呼ばれ、百合子夫人には「おしゅん」と呼ばれて皆に愛されていた。多感な優れた知性の持ち主だったが、その俊ちゃんが24歳の若さで世を去った。自死だった。百合子夫人の悲嘆はいかばかりだったろう。同じ1939生まれの私はその頃百合子さんの視野の中、毎夏を3軒となりの叔父の家で過ごしていた。私が国際金融業に従事していた頃は、忙しくて野尻に足を向ける暇がなかった。54歳で司祭になって、ローマから久々に日本に戻った夏、懐かしさに引かれて野尻を訪れ、百合子未亡人と四半世紀ぶりに再会した。午後のお茶の時間、俊ちゃんの思い出がいっぱい詰まったこの家で、2人きりでひと時を過ごした。

ローマに戻ってのある日、一通の手紙が届いた。百合子夫人からだった。「決心がついた。お俊の思いでの別荘をあなたにプレゼントしたい。」と言う趣旨のものだった。当時の上司、深堀敏司教様は、きっとあなたの役に立つから、遠慮なくいただいておきなさい、と言う判断だった。その言葉は預言的だった。深堀司教様没後、2年間この家が私を護ってくれた。冬、1.5メートルの根雪と0度前後の気温は、非情に厳しかった。特に一冬目は凍え死ぬかと思った。しかし、おかげで今日がある。

暖炉の上の左の写真は生前の母、私を産んだ頃のものか。まだ二十歳を過ぎたばかり。右は4歳ぐらいの私を中心に左は姉、母の膝には1歳に満たない妹が。内務省勅任官の父は、たしか新潟県の警察部長だった。警察部長の奥方が、戦後まもなく栄養失調から肺結核を患い、20歳台の後半に他界するなど、常識では有り得ない話だが、そこにはピュア―なプロテスタントの信仰を生きた彼女の貧しい人達への愛があったことは、悲しい生涯を辿ることになる妹の運命とともに、私の本「バンカー、そして神父」(亜紀書房)に詳しく書いた。

 

昼は3年ぶりぐらいに広大な農園の中にあるサンクゼールのレストランに行った。たまには贅沢したって、神様きっと赦して下さるだろう。プロテスタントのカップルが始めたビジネスだと聞いている。手広く事業を拡大し、今ではそのワインや食品は全国のデパートでも売られている。

 

ワインの原料の葡萄の木も紅葉している

 

 サンクゼールの果樹園。たわわに実をつけたリンゴの古木。

 

白いバラ

 

赤い八重のコスモス

妙高山の登山口の燕温泉への道は、すでに紅葉が真っ盛りだった。

来年も野尻湖の満月を見ることができるだろうか。もう来年がわからない年になった。

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ホイヴェルス神父を偲ぶ会 =「紀尾井会」再開の夢 =

2018-10-23 00:01:00 | ★ ホイヴェルス師

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ホイヴェルス神父を偲ぶ会

=「紀尾井会」再開の夢 =

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6月9日のホイヴェルス神父の41回目の追悼ミサの記念日が半年先に見えてきた。そろそろ準備に着手しなければならない。

生前のホイヴェルス神父を記憶するものは、今70歳台の世代がほとんど最後に近い。師の思い出を次の世代に受け継ぐ努力がなされなければならない時期に入ってきた。それで、手始めにホイヴェルス師の面影を綴るシリーズのブログをアップすることにした。

改築前の四谷聖イグナチオ教会でホイヴェルス師から洗礼を受ける持田梅子さん。代母の右後ろは上智大学の臨床心理学の霜山徳爾教授の姿があった

ホイヴェルス師とはいかなる人物か?それを知るよすがとして最も重要なのは、師が残された文章ではないだろうか。数多くの随筆は詩的にも哲学的にも深く、日本語としての完成度も、文学的香りも、外国人宣教師のものとしては秀逸の輝きを放っている。

論より証拠。まずは読んで味わってみよう。

 

「美しき生家」

1967年の夏の3か月のあいだ、私は44年ぶり、故郷のドライエルワルデを訪ねました。そのとき、土地の新聞は「美しきホイヴェルス家に大いなるよろこび!と言う見出しの記事をかきました。これを見て、どうして美しい生家となったのかと考えてみました。勿論学生時代には自分の生家を懐かしく思っていましたし、いくどか生家を写生したことおありましたが、それが、よその人にも美しく見えるものでしょうか・・・。

そこである日、アア川の橋の上まで行って、そこから国道を歩きながら右の方の生家を眺めてみました。なるほど景色のなかのきれいなその場面は、代表的なミュンスターラントの農家ではないでしょうか。程よく人と隣家からはなれ、ひじょうに明るい印象を与えます。

どうしてそのような感じのよい家ができたのか?と考えてみて、やはりそれは父母のおかげだと分かりました。私の少年時代のふるさとは、カシの木の森のなかに、まだ中世のねむりをひっそりとねむっておりました。今でも、秋の森で聞いた嵐のざわめきを思いうかべると恐ろしくなります。

父と母は1886年に結婚しました。この二人は将来の進歩に対するよい組合せでありました。かれらはグリムの昔話に出てくるように、そのいちばん人間らしい年ごろ(新婚時代)この生家について計画したのです。まず家のまわりにもっと光を入れたい。そこで森の一部を伐り開き、大木は船会社(造船)に売り出され、そのあとには新しい果樹が植えられました。家の東側と西側には一本の菩提樹、北には一本のブナ――これは避雷針の役目をつとめます。次の段階は家にかんするものでした。両親は、非情に心の合った一人の大工と、家の改造についてゆっくり相談をしたのでした。母の希望は、屋根をもっと高く上げ、壁の窓はもっと明るくすること。パン(焼き)小屋を西から東へ移すことでした。この生家の屋根は後年、わらぶきから赤い瓦ぶきにとり替えられました。しかし北の方は今も昔のままの作りを残しています。

随想集 「人生の秋に」 ヘルマン・ホイヴェルス著(春秋社)、1969年より。

 

1969年12月にドイツのコメルツバンクに入社した私は、確か1973年にデュッセルドルフの本店に転勤し、1975年の夏の世界一周旅行の途中に東京に1か月いて、ホイヴェルス神父様にお会いしました。すると師は、来年は2度目の帰郷をするからウエストファーレンの故郷のドライエルワルデ(三森村)の生家で会おうと言われた。

翌年私は車でドライエルワルデにホイヴェルス師を訪ねた。

少年ホイヴェルスが革の半ズボンをはいて登ったカシの木や、大きな農家のたたずまいは昔と同じだっただろうと思った。生家の二階にはホイヴェルス少年とお兄さんの勉強部屋があった。私は、懐かしいその部屋で、タンテ・アンナ(アンナおばさん)と呼ばれる姪ごさんが私たちのために用意してくださった昼食をふたり差し向かいでいただいた。

師はその席で、来年は細川ガラシャ夫人の歌舞伎をもって来るから、ドイツ公演の現地マネジャーはお前に任せる、と言われた。

しかし、その計画は実現しなかった。

師が1977年3月3日に教会内で転倒し、後頭部に外傷を負って聖母病院に入院し、退院後は上智大学内のSJハウスで療養生活を送っていたが、同年6月9日のミサに車椅子で与っている最中に容態が急変、急性心不全で死去されていたことは、その翌年にドイツ勤務を終えて東京に戻った時に初めて知った。師と私の親密な関係を知っていた人たちは、私に訃報を知らせることを思いつかなかったのだろうか。当時の世相では、仮に知ったとしても、葬儀に間に合って一時帰国が可能だったかどうかはわからないが・・・。

話は最初に戻って、今の若い世代に、ホイヴェルス師を紹介し興味を喚起するにはどうしたらいいかを思案している。

私が外資系の銀行に勤めるようになるまでは、上智大学の大学院から中世哲学研究室の助手をしていた頃まで、ホイヴェルス師とは毎朝のイグナチオ教会のミサで侍者としてお仕えしていたし、師が何十年も続けておられた大学生向けのキリスト教入門講座、通称「紀尾井会」にはほとんど毎週欠かさず出席していた。場所は、当時まだ米軍払い下げのカマボコ兵舎の司祭館の主任司祭室だった。昨年の追悼ミサに出席された斎藤恵子さんや、元春秋社の林幹雄氏などは、長く「紀尾井会」でご一緒だった。毎週火曜の午後3時ごろからだったろうか。

今また四谷界隈で往年の「紀尾井会」を復活できないものかと思案している。

米軍払い下げのカマボコ型兵舎で出来ていた司祭館の一室。紀尾井会のメンバーと楽しくクリスマスパーティーを祝うホイヴェルス師。興が乗ると師は幾つも懐かしい故郷の歌をドイツ語で歌ってくださったものだ。師の右には石炭ストーブの煙突。煙突のそばにはアルミの薬缶が写っている。右手前の横顔は若き日の私。

私は中学生の頃からカメラ小僧で、最初はパカンと開くと黒い蛇腹が飛び出す骨董カメラから始めたが、ドライエルヴァルデの写真も捨てずに取っている膨大なネガフィルムのどれかにあるのだろうが、整理が悪く、見つけ出してブログを飾ることができないのはまことに残念だ。

 

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