:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ ローマ = サッカー

2008-04-30 12:05:39 | ★ ローマの日記

ローマ サッカー  !!

サッカーの試合のある夜は、ローマの街の車の量が目立って減るというのは、昔から変わらない。みんな、自宅のテレビの前に釘付けになっているからだ。走っている車の中も大概はカーラジオの中継が鳴りっぱなしだ。私など、聞いてもさっぱり分からないが、彼らにはフィールドの早い動きが手に取るように見えるのだそうだ。神父たちも、その夜はミサなどしたがらないと言うから、救いようがない。

とは言え、今日の話題はプロの試合の話ではない。クレリカルカップ、つまり、聖職者、神父や神学生らのチームのトーナメントの話題だ。 


先日、聖ペトロ大聖堂のドームを見下ろす丘の上のサッカー場で、クレリカルカップのトーナメント・セミファイナルの試合がありました。対戦するのは、「ローマと日本のレデンプトーリス・マーテル神学院連合軍」対、「ウルバニアーノ」(世界宣教地国際学寮)の宿敵同士の対決でした。

試合が終わって、神学校に帰って来ると、院長は肩を脱臼して三角巾で腕を吊っている神学生や、捻挫で松葉杖の若者には目もくれず、勝ったか負けたかも聞かず、「今日は、何人の相手を救急車で病院送りしたか」だけを問う。「精々紳士的にやれよ」と言い残して行ってしまうのです。

では試合場に行ってみよう。応援のスタンドには双方のフアンの若い女の子たちも大勢いて、黄色い歓声をあげて応援している。いよいよう試合開始。




颯爽と入場する審判員。



黄色が我らレデンプトーリス・マーテル連合軍。サンピエトロのクーポラを背景にして。



相手はほとんど黒人選手



けが人に備えて救急車が待機



キャプテンのひと蹴り



激突!仲間が倒された。



向こうのダメージも大きそう。



ゴール前。ペナルティーキックに相手のディフェンスが動いた。
また入った!! 4 対 1!



笛が鳴って、試合終了! 応援団に駆け寄る選手達。



輪になって勝利のダンス。何だ?!これって、ミサの後のダンスと同じ??



殊勲者のテレビインタビュー。ちょっとした有名人なみ?
高松の神学校からやってきたアルフォンソ君(メキシコ人)は、この日一人で2ゴールを決めた。



神学院の大食堂に並んだこの20年間の優勝カップの数々。今年も次の決勝戦に勝って優勝するかも。



ひときわ目立つのが、聖職者チームの勝者に贈られる司祭帽をかぶったサッカーボール。


陰の声: (谷口記): ローマでパソコンに向かってなに遊んでんの。暇そうだね! ま、たまにはいいんじゃないですか。

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★ 知床日記、または、鹿とウサギのデート、または、神学的対話-その7

2008-04-28 18:47:45 | ★ 日記 ・ 小話

〔エゾ鹿〕 前回は「神が愛をもって無から世界を創造したときに悪を創らなかったはず」ということと、「われわれの世界には悪が、それも恐るべき邪悪なものが圧倒的な存在感をもってのさばっている」という疑う余地も無い現実をどう調和的に受け止めるかというところで、話が途切れたと思う。
〔ウサギ〕 神は初めから二者いた。善なる神と悪なる神。世界の善いものは全て善なる神から、悪は全て邪悪な神から。そう考えれば、目の前の現実は簡単に説明できるのではないですか。
〔エゾ鹿〕 単純だね、君は。そんなのどちらも本当の神の名に値しないよ。本当の神は、あらゆる相対性を超越した孤高の一者でなければならない。自らは初めも無く、終わりも無く、永遠の今に生きる神。真善美の源、あふれる愛で全ての被造物を無から存在界に呼び出した生命の与え主。それが、ユダヤ教、キリスト教、回教に共通する神の概念だ。
〔ウサギ〕 そんな神なんて、日本人には全く知られていないというべきだろうね。

その時、雲が切れて太陽の光が二人を包んだ。
ウサギはほとんど本能的に車を止め、外に出て太陽に背を向けて立った。目の前に虹があった。完全な弧を描いて、肉眼には本虹の外側にもう一つ、二重の虹が見えた。


    

象の鼻の岬の近く、今ちょうど鮭が上っていて、昨日は熊が出た谷を見下ろす高台では、虹の色が一層濃くなり、デジカメの感度でも二重の虹が識別できる
    

                 下の写真は南フランスで見た虹
        

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★ ローマのキツネと日本のタヌキ

2008-04-26 12:04:36 | ★ 自然・いのち

今日は息抜きに

ローマのキツネ日本のタヌキ

と言うテーマで書きましょう。

 

私は、この夏、ローマで野生のキツネの写真を撮ることに成功した。姿は何度か見ていたが、肝心の時にカメラを持っていなかった。この朝早く、芝生の上をゆっくり歩いている姿を見つけた。場所は神学校の敷地の中。距離にして50~60メートルはあったが、デジカメを構える気配でこっちを向いた瞬間をとらえた。そしてシャッター音でさっと姿を消した。まるで幻を見たようだったがたった1枚だが、映像は残った。神学校の周りには、キツネも、いたちも、ハリネズミもいる。広い牧草地と森に囲まれた郊外だから、当然と言えば当然だが・・・

 

 

ちょっと胸にキュンと来るような、そんな雰囲気感じしませんか。周りの牧草地は飼料用の麦の一種を植えている。その実を食べて野ネズミが繁殖する。その野ネズミをキツネが狙うという食物連鎖らしい。子育て中かもしれない。

夏休みに日本に帰ってきた。ローマに向けて関空を発つ前に、この春にアシジをご案内したご夫婦の家に泊めていただいた。少年時代からの夢、堺市周辺の天皇御陵、古墳群を案内してもらうことになった。最大の仁徳陵古墳を見た後、近くの御廟山(ごびょうやま)古墳に回った。住宅に囲まれた静かな堀には鴨やシラサギがいた。

 

 

この古墳、すんでのところで墳丘を崩し、濠を埋め、宅地に造成されそうになったそうだ。濠に橋を架け、そこを重機が渡ってまさに墳丘を崩しにかかろうとした時、住民の反対運動で造成工事が未然に防がれ、橋は破壊されて、以来太古の静けさを取り戻したという。車をおいて、宅地を抜けて、濠に沿って歩みを進めると、やがてその壊された橋が見えてきた。

おや?橋の上に何かいるぞ!・・・もう少し近づいて見て驚いた。どうやらタヌキ?ではないか。

 

 

馬鹿にどっしり落ち着いている。最初の写真のローマのキツネより尻尾は短いが太く、全体にポッテリ太って色も濃いい。目の周りが黒いのも、まさにタヌキそのものだ。目を移すと、あっ!まだいた。

 

 

こいつ、壊れたコンクリートの橋の上に、ポニヨッ と臥せっている。メタボ体質そのものだ。・・・おや、まだいるぞ。

こいつら一体ここで何をしているのだ?

 

 

もっといる! ワッ、いっぱいいる。

 

 

どいつもこいつも、まあ恥ずかしげもなくコロコロ太って。タヌキ汁にしたらさぞ美味かろうと思った。

お濠に守られて、天敵がいないせいか、実に平和な顔をしている。ひと山ほどある古墳のどこかに穴を掘り、餌になるものも豊富なのだろう。こんなに人里の真ん中にありながら・・・・。

わたしは、人を見てさっと姿を消したローマの痩せた孤独なキツネの方が、愛おしいと思った。

今回は、哲学も、宗教も、寓意も何もありません。ただ、野生の動物の写真だけ。たまにはいいでしょう?

 

《おしまい》

 

 

 

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★ 知床日記、または、鹿とウサギのデート、または、神学的対話-その6

2008-04-24 18:39:08 | ★ 日記 ・ 小話

すこし強く降り始めた雨の中を、話を続けながらさらに進んでいくと、不意に不思議な前衛オブジェに出くわした。明らかに人の手によらぬモダンな造形だった。
     

〔ウサギ〕 前回の話は、「悪は何処から」と言う命題でしたね。
〔エゾ鹿〕 ウサギ君や僕たち鹿の仲間も含めて、自然界には悪は存在しないね。善なる神が、その全能のみ手の業として、愛をもって無から存在界に呼び出した世界は、見えない神を見える形に現したもので、悪のかけらも無い善いものばかりで満たされている。
〔ウサギ〕 またまた、そんな綺麗ごと言っちゃって!だって、現に世の中、悪で一杯じゃないですか。子どもの嘘に始まって、世界の政治や経済の陰に身を潜めている巨悪にいたるまで、また、いじめから悲惨な戦争にいたるまで、悪は無いなんて、よくもまあ・・・!
〔エゾ鹿〕 私が言っているのは、神が無から創造したばかりの自然界にはひとかけらの悪も存在しなかったということさ。
〔ウサギ〕 じれったいなー、もう!では、お言葉を返すようですが、小児白血病は、内臓や五体の奇形は、先天的知的障害はどうなんです?台風や地震や津波は?みんな神の造った自然そのものではないですか?どうなんです?さあ、早く答えてくださいよ!
〔エゾ鹿〕 まあまあ、そう興奮しないで。落ち着いて!頭を冷やしてよく考えてご覧。どうしてそう簡単にそれらが「悪」だと決め付けられるのかね?
〔ウサギ〕 ・・・・(ちょっと虚を衝かれて、とっさに言葉が出てこなかった)
          雨は、小道の脇の注意版を静かに濡らしていた。
           

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★ ヘンシェルカルテット 教皇の御前コンサート

2008-04-22 12:01:16 | ★ ヘンシェルカルテット

~~~~~~~~~~~~~~~

ちょっと前の話ですが・・・

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招 待 状

~教皇ベネディクト16世の御前コンサート~

この春、3月19日聖ヨゼフの祝日は、ヨーゼフ・ラッツィンガ―枢機卿改め、教皇ベネディクト16世の霊名の祝日だった。

かつて高松の神学校建設資金集めのチャリティーコンサートツアーで苦楽を共にした仲間たちのヘンシェルカルテットが、バチカン宮殿のクレメンティーナ広間で教皇のお祝いに演奏することになった。
ローマ在住の私が彼らの計らいで特別に出席できることになったのは、むしろ自然な成り行きだったと言えるだろう。

 

第一と第二ヴァイオリンを弾く双子の兄弟の姉のモニカ(ヴィオラ奏者)の直筆の封筒を開けて、はっと息をのんだ。
私の目は、バチカンが準備したプログラムの表紙にくぎ付けになったのだ。これだ!と思わず声をあげて叫んだ。それは、十字架のイエスの体が全裸だったからだ。

私は、なぜかずっと以前から、ナザレのイエスは全裸で十字架に磔になったと信じて疑わなかった。しかし、それを口にすると信者たちは躓き、信心深いご婦人たちの酷いひんしゅくを買ったものだった。だから、それに懲りた私は、以来このことを決して口にしなかったのだ。

それがどうだ!
カトリック教会の頂点に立つローマ教皇の霊名の祝日のプログラムの表紙が、ズバリそれではないか。わが意を得たり!これからは、何も怖れずにまたはっきりとそう言おう、と決心を新たにした。



ナザレのイエスは、同胞のユダヤ人たちに売られ、ローマ帝国の軍隊からは、国家転覆を企てた反逆者として、見せしめの極刑に処せられたのであった。粗野なローマの兵士たちが、キリストを十字架にかけるために裸にしたとき、わざわざ腰布を巻いて隠してやるようなデリカシーを持ちあわせているはずがないではないか。

プログラムの表紙こそ正解なのであって、添えられた解説書の表紙の中世の絵は、
教会がその後に偽善的なすり替えを施したものにすぎないと私は思っている。

「青銅の門」からスイス衛兵の敬礼を受けてバチカン宮殿に入る。




壁と天井が、遠近法を駆使した精緻な「だまし絵」で華やかに彩られた広間には、
後ろ三分の二のスペースにざっと250ほどの椅子が並べられていた。



その約半分が、赤い礼服の枢機卿たちと、紫の司教たちだった。
肩とひざを露出しないシックな黒のドレスに身を包んだご婦人たちをエスコートする殿方は、いずれもやんごとなき身分の人士たちに違いなかった。

ヘンシェルカルテットの友人だからと特に招待された私ごときが、場違いな存在であることは一目でわかった。
黒のスーツでとの指定を受けても、もともと擦り切れたカラスの一張羅だから気楽なものだ。なーに、構うものか!と腹を据えた。

ところで、私はこういう場所に入ると、なぜかテレビカメラマンたちの存在がバカに恰好よく見えて仕方がない。





今日も前の両脇と後ろの隅に、合計三人の侍が陣取っていた。

壁も天井も見事なフレスコ画で、詳細にみるとまるで彫像が並んでいるように立体的に見えるが、
実はそのすべでが平板な壁面に描かれた騙し絵なのだ。



それにしても、一枚ずつの絵が彫像のように浮き出て見えるのはなかなかのものだ。



正面にヘンシェルカルテットの座る椅子が、手前右に金色の肘掛だけが写っている赤い布張りのが教皇の座る椅子だ。



演奏に入る前の緊張した瞬間。



演奏中は小さいシャッター音も憚られたので、写真を残すことができなかった。
そもそも、同じ床の高さに座る演奏家の姿は、赤いズケット(枢機卿の帽子)の海の向こうに沈んでほとんど見えなかったのだ。

教皇の後姿も、わずかに頭だけが垣間見られた。



曲目はヨーゼフ・ハイドンの「十字架の上のキリストの7つの言葉」をスペインの作曲家ホセ・ぺリスが弦楽四重奏とメゾソプラノのために編曲したもので、演奏が終わり万雷の拍手が鎮まると、教皇は演壇に立って、自分の音楽観について短い話をした。
そう言えば、ハイドンもぺリスも、教皇と同じヨゼフの霊名をいただいている。偶然にしては出来すぎだな、と思った。



お話が終わって、教皇と握手するカルテットのリーダー、姉のモニカ。同じドイツ人同士で何か心に通い合うものがあるのだろうか。

(教皇は手前の枢機卿の頭の陰になって、わずかに手と白い袖口しか映らなかったのはちょっと残念!)




近くに寄れたのはいいのだが、あわててちょっとピントがぼけてしまって・・・・、これも残念。



演奏会の余韻を楽しみながら、バチカンの近くのイタリアン・レストランで、再び資金集めが必要になった時には、またチャリティーコンサートツアーを組もうね、といまから大きく夢を広げる仲間たち。



夜も更けて、路上に駐車したままの車に戻るとき、ふと振り向くとサンピエトロ広場には春の宵を楽しむ人の群れがまだ・・・

歳をとったせいだろうか。近頃、世の中の流れが自分の思いと違う方向に進んで行くことに対して、あきらめと言うか、達観というか・・・、焦りとか苛立ちが心の中から薄れていくのをよく感じるようになった。はたしていいことなのか、悪いことなのか・・・・・?





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★ 知床日記、または、鹿とウサギのデート、または、神学的対話-その5

2008-04-20 18:21:16 | ★ 日記 ・ 小話

ウサギが訪ねたころの知床の紅葉は、まだ始まったばかりだった。
これも暑い夏のせいだろうか。



〔エゾ鹿〕 どうしてかな?自然界が、地球がおかしくなっているのだろうか?
くんくん!
              

〔ウサギ〕 9.11も、広島・長崎も、あらゆる戦争も、拷問博物館も、神への信仰を人の心から奪い、無神論に誘い込むほどの強烈な引力を持っているとしたら、それらの悪はいったい何処から来るのだろう。
カトリック神学の最高学府、ローマの「グレゴリアーナ大学」に、8年間も籍を置き、毎年全ての講義のテーマ表をチェックしてきたが、悪の根源に焦点をあて、神学的に納得の行く形で解き明かす講義には、ついに一度も出くわすことが無かった。
〔エゾ鹿〕 そうだろうな。教室のテーマとしては、あまりにも重過ぎるからね。真面目に取り組むと、仕舞いには自殺するか、発狂するかしか道がないかもしれないな。そんな悪魔的誘惑を、君は感じたことがないかい?
〔ウサギ〕 キリスト教が言うように、もし神が「真・善・美」の根源であり、取り分け「溢れる愛」であるとするならば、この神の被造物の世界に、どうしてこれほどひどい悪があるのか、どうしても説明が付かない。善なる神が、創造の業を通して、愛をもって虚無から悪を引き出すことなど、どうしてありえようか?答えは絶対に「ノー!」だね。
〔エゾ鹿〕 では、悪はどこから?
〔ウサギ〕 それだよ問題は。 (つづく)
                                                 

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★ 〔速報〕 サン・ピエトロ大聖堂で歌う六本木男声合唱団

2008-04-18 11:59:09 | ★ ローマの日記

〔速報〕 六本木男声合唱団(六男)がやってきた。

〔11月26日〕 ローマの聖ペトロ大聖堂で、メンバーにクリスチャンがほとんどいない六本木男声合唱団がミサの中で歌う、なんてことは、この聖堂の歴史でも画期的なできごとだった。

緑の祭服を着た司祭達が下の方に豆粒のように見えるから、その空間の大きさが分かるというものだ。

総勢100人ほどの合唱団に、ほぼ同数の家族や友人がついて日本からやってきた。

これは、コンサートではない。れっきとした平日の午後5時のミサ、生きた宗教儀式の中の出来事だ。

信者さん達が普段通り参列して祈っている。司式司祭は昔懐かしいラテン語で式を進める。

伴奏のパイプオルガン左右にあって、まさにステレオ効果抜群だ。

ミサが終わって、祭壇を背に記念写真。男性ばかりの合唱団のはずが、おや?一人だけドレス姿の女性歌手が混じっていた。

ミサの始まる前、にこやかに近寄って来るご婦人がいた。「曽野でございます」と丁寧なご挨拶。名乗られなくったって曽野綾子さんだ、ぐらい分かっているではないか。いままで色んな機会にお目にかかり、お知恵も貸していただいた仲だ。でも、私が2年来ローマに住んでいることはご存じなかったようだった。団長の作曲家の三枝さんから、あらかじめ打ち上げ会の夕食に誘われていたのだが、女性のお誘いに弱い私は、200人のパーティーより、曽野さんを囲む数人のくつろいだ食事の方が誘惑的だったので、急遽予定を変更した。その席には駐イタリア日本大使も加わった。

          

( 三枝成彰さん )                        ( 曽野綾子さん )

 

実はこの一行の中に、最年少の団員、売れている日本画家と、国際 IT 企業で働くその奥さんの新婚カップルが混じっていた。私の渋谷のサロンに彼女が初めて来たとき、「神父様、どうか良縁に恵まれますよう祝福して下さい」と言った。そして、その甲斐あってか、そのサロンで彼と出会って結ばれたのだった。いわば、自分の子供たちか、うっかりすると孫のような世代である。この「六男」の演奏旅行は、彼らにとってはまさに新婚旅行なのだった。皆さん祝福してあげて下さい。


かたや、曽野さんとの晩飯では、「ミサの中で二番目の聖書朗読をして、答唱詩篇を歌ったイタリア人の信者さんの美声は、一人で100人を圧倒していたね」と、酔うほどに辛口トークに花が咲いた。イタリア人の中にはたまに凄い声とテクニックの素人がいるものだ。

 

ポーランドの巡礼シリーズを一時中断して、夜中にこのブログ書きました。次はまた「ポーランド巡礼記」に戻ります。

 

 

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★ 知床日記、または、鹿とウサギのデート、または、神学的対話-その4

2008-04-16 18:12:53 | ★ 日記 ・ 小話

〔ウサギ〕 僕がまだ丸の内や霞ヶ関で銀行やさんをしていたころからのお友達が、あるとき感慨深げに言ってたなー。彼は日本の代表的銀行の一つで役員まで上り詰めて、今も現役だが、「自分はこの年になって、ますます無神論者になったよ。だって、もし神が居るのなら、9.11みたいなことを許すはずが無いではないか」と。
 私は思った。その伝で行くと、神がもし居るなら、広島や長崎のホロコーストを許すはずが無かった。無垢な幼子が難病でひどい苦痛に苦しむことを許す神など要らない。また、ヨーロッパの拷問の歴史の博物館を訪ねたある哲学者のように、人間が人間にこんなにひどい拷問をするのを許すなんて、と言ってショックを受け、信仰を失った、という話も当然に思えてくる。
彼は続けていった。「ウサギ君は銀行を辞めて、物好きにも神父になんかなったけど、こんな世の中で神を信じ続けるのはさぞ大変だろうね。いっそ僕のように無神論者になれば、きっと楽になれるのになー」と。
だが、彼は続けてこうも言ったね。「しかし、君ががんばって信じ続けるというのなら、僕は万一本当に神がいた場合に備えて、君との友情に保険をかけておくことにしようと思う。だから君の保険会社が倒産しないように、せいぜいがんばってくれよね」と。
〔エゾ鹿〕 「シャイな表現だけど、それってほんとうは凄い信仰告白なのかもしれないね。」
ウサギとエゾ鹿は並んで雨が降り始めた湖の底をだまって覗き込んだ。


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★ 回教徒、ついに世界一?

2008-04-15 11:55:50 | ★ 日記 ・ 小話

2008-04-15 10:06:26



エルサレムの神殿の丘に立つ回教のモスク



★ 回教徒、ついに世界一?



先日、神奈川県のS養老院のボランティア総会にたまたま居合わせました。
一つの養老院に約400人ものボランティアがかかわっているなんて、ついぞ聞いたことがなく、あらためて驚きました。その秘密は、誰でも自由に自分の得意とする分野、好きな分野で、のびのびと奉仕することが出来る、おおらかな雰囲気の賜物だと思いました。

たいていの施設は、ボランティアを募集し受け入れはするが、これは職員にお任せください、あれはしてはいけませんと、とかく制約が多く、ボランティアを単なる都合のいい補助労働力ぐらいにしか考えていないところが多いのではないかと思いました。それが、ここでは、皆が楽しげに、伸び伸び、生き生きと、自分たちの創意と工夫で、自由に、主体的に活動できる余地が広く認められているためなのだろう、と納得しました。ひとえに、院長の器の大きさのなせる業なのかもしれません。

昼下がり、ボランティアの編成するバンドの演奏をBGMに、中庭の椅子に陣取って、ワイングラスを片手に、ボランティアの手作りの豪華な料理に舌鼓を打っていると、遠く北海道からやってきた若いご婦人が、目ざとく私を見つけてそばに座られました。彼女はクリスチャンではないが、私は、彼女の母上に病床の洗礼を授けました。それから数ヶ月して、そのご夫人が帰天されると、戸塚でのお通夜も、ご葬儀も、函館でのお別れの会までも、その司式を全て任されることになったご縁の人でした。
色々なお話の中で、彼女は、「回教徒の人口が、最近世界一になったそうですね。なんだか嫌だわ」と言われました。知らなかったけれど、彼女がどこかで読んだか、テレビで見たかの情報は、多分間違いではないだろうと直感しました。

ずっと長い間、多分中世以来、世界の宗教勢力地図では、カトリックが単独で世界のトップの座を維持してきたはずです。今でも、一口に10億というのが大掴みな数字として通り相場でした。今回、念のためにインターネットで確認すると、現在の世界の主な宗教の勢力地図は以下の通りでした。

ローマカトリック      9億人
プロテスタント       4億人
ギリシャ正教        1.6億人
--------------------------------------------------------------
(キリスト教合計)    (14.6億人)

イスラム教         9億人

ヒンズー教         7億人

仏教             3.3億人

ユダヤ教           0.2億人

若い奥さんの話は、カトリック9億人と、イスラム9億人、という丸い数字の下の端数において、イスラムがついにカトリックを上回ったと言うニュースだったのだろう、と察せられました。これは、回教圏の一家庭あたりの子供の数と、カトリック信者の家庭の平均の子供の数との目だった格差から、当然予想された事態でした。

私の抱いている獏とした印象では、回教、イスラム教は、かなり不寛容な宗教のようです。どこへでも進出していくが、一旦回教一色になった地域・社会では、他の宗教の進出に対して極めて厳しい対応をするのが普通のようです。例えば、教皇のお膝元のローマに大きなモスクの建設が計画されると、ローマ市民の間にはもちろん反対運動も起きましたが、行政が介入して不許可にしたり、弾圧したりすることはありませんでした。
それに対して、回教圏でキリスト教の教会を立てるとなると、これは大変です。不可能でないとしても、それこそ命がけの冒険です。

新訳でカラマーゾフの兄弟を読んでいて、気付いたのですが、ドストエフスキーは、大審問官の話の中で、宗教が平和の妨げになる理由を見事に描き切っているのに舌を巻きました。その限りにおいて、大教団カトリックも、既成世界宗教の一つとして、歴史の現実の例外ではありませんでした。

ところが、今注目しているアメリカのアーミッシュ(これについては近いうちにまとめて書きたいと思っています)の精神によれば、赦すこと、争わないことは、彼らの信じるキリスト教の根本的な土台になっています。本当のキリスト者の特徴は、悪に逆らわないこと、敵を愛すること、無条件に何度でも赦すこと、などであったはずです。そして、もし全てのキリスト者がこの教えに忠実であったら、キリスト教だけは平和の妨げではなく、平和をもたらしうる唯一の宗教になり得たはずでした。

この「赦すこと」の意味内容に関して、ナザレのイエスが教えた「主の祈り」の解釈において、アーミッシュが他のキリスト教と微妙に異なっていることに注目したいと思います。

例えば、日本のカトリックが現在採用している日本語訳では、
「私たちの罪をお赦しください。
私たちも、ひとを赦します。」

となっています。

ところが、古い訳では、
「われらが人に赦すごとく、 
われらの罪を赦したまえ」
となっていました。この『人を赦すごとく』の『ごとく』がくせ者です。

イタリア語の主の祈りは、日本語の古い文語訳とニュアンスが同じです。聖書にはなんとあったか、イエスはどう教えたかは、ギリシャ語やアラマイ語を自由に読みこなせない私にはなんとももどかしい限りですが、例えば、アーミッシュの人たちは、何の疑いも無く、神様は「我々がひとを赦す」その同じ「赦し方」でわれわれをお許しになる。だから、神様から赦しを頂きたいその形で、まず先に我々がひとを赦さなければならない、と信じています。

日本のカトリック教会の新しい口語訳では、神は憐み深く、当然のこととして許す神であることを示唆しています。そして、人もなるべく赦すようにすべきものではあるが、神の赦しと、人の赦しの間には、相関関係、乃至は因果関係があるとは考えていないように見えます。まして、人が他者を赦すその赦しの度合いによって、神のその人への赦しの内容が決定付けられるなどとは、夢にも考えていないかのようです。

この問題について、示唆に富んでいるのが、マタイ伝の「仲間を赦さない家来のたとえ話」(マタイ18:23-35)です。

現代風に翻案すると:

抜き打ち監査で、3億円の横領が発覚した経理の係長が社長に呼ばれた。ギャンブルや女遊びにつぎ込んだ、よくある話だった。当然、即時解雇、刑事告発の場面だった。
しかし、必死になって、回心して真面目に働いて必ず全額返済するから、と哀願する係長を哀れに思った仏のような社長は、解雇も告発も思いとどまった。その上、返済もどうせ出来ないだろうからと、それも免除してやった。心を入れ替えて、自分に忠誠を尽くして定年まで真面目に働いてくれたら、それでよしとしたのだった。(現実にはほとんど有り得ない話えすが。)
ところが、赦されたばかりの彼は、社長室を出て乗ったエレベーターの中で、たまたま彼に30万円のマージャンの貸しのある部下を見ると、即刻返せと迫った。必ず返すから、ちょっとだけ待ってくれと哀願する彼を赦さず、腕をヒッ掴んで通りに引きずり出し、彼を殴って脅し、そのまま駅前のサラ金に連行して、有無を言わせず借金をさせ、現金をむしり取った。
そのやり方のあまりの無慈悲さを見かねた別の同僚が、ことの顛末を社長に告げた。
すると、怒った社長は悪い係長を呼びつけ、私がお前にしてやったとおり、お前も同僚にすべきではなかったのか、と言って、前の寛大な措置を全て取り消し、直ちに解雇し、刑事告発した。もちろん、横領罪で実刑、収監と相成った。その上、娘の結婚話は破談になり、妻からは署名捺印したあの独特のピラピラ紙の離婚届けが郵送されてきた。

いささかドギツイ翻案解釈ですが、お許し下さい。しかし聖書の意味には忠実なつもりです。

アーミッシュは、この聖書の物語を真に受け、文字通り自分の生活に当てはめる。謙遜な彼らは、自分がもし今、急に神に召され、審判を受けたら、正義の神の前には申し開きの出来ない罪人だという自覚を持っている。
しかし、彼らは、哀れみ深い神様は、そんな彼らの全ての罪を赦してくださると信じている。ただし、あの無慈悲な男のような態度を取らなければの話であるが・・・・。

アーミッシュは、彼らが隣人に哀れみ深くある限り、哀れみ深い天の御父も彼らの罪を寛大に赦してくださる、と考える。
だから、主の祈りの箇所も、
「見てください、私は隣人の罪をこのように寛大にゆるしました。ですから、私が隣人の罪を赦したのと同じように、どうか私の罪を赦してください」と読み込む。

自分がひとを裁いたのと同じ物差しで、神は私を裁かれる。だから、もっとも寛大な方法で、大急ぎで人を赦す。神が急いで私を赦してくださるために・・・。

全てのキリスト者がアーミッシュと同じモラルを身につけていたら、キリスト教だけは平和をもたらす宗教、戦争の種をばら撒かない宗教になれるはずだった。だが、現実は・・・・?

(大いに書き足りないのですが、一回分のブログにはもう十分長いので、一息入れて別の機会に結論めいたことを書きたいと思います)


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★ 知床日記、または、鹿とウサギのデート、または、神学的対話-その3

2008-04-12 17:29:39 | ★ 日記 ・ 小話

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知床日記、または、鹿とウサギのデート、または、神学的対話-その3

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このブログは 2009-03-18 23:29:53 に一旦アップして、その後ずっと封印されていたものです

懐古趣味で一時公開して、2-3日したら元の場所に戻しましょう

 

   
恥ずかしそうについてくる子鹿さんも引き連れて、原生林を分け進むと、

やがて知床5湖の第1湖が見えてきました。
      

 

〔ウサギ〕 うわー!綺麗 !

〔エゾ鹿〕 太古の昔からこの通りさ。

〔ウサギ〕 まるで絵か写真みたい!

〔エゾ鹿〕 ハハ、変なことを言うねえ、キミは。反対だろう、それは?! 絵は、神様が3次元に描いたものを、人間が2次元のキャンバスに写したたものだろう?

〔ウサギ〕 だって、神様なんて居ないもの(ぶつぶつ・・・)。

〔エゾ鹿〕 キミは都会に住んでいるからそう思うだけさ。知床の自然の中では、神があらゆる事象の陰にひそんでいるのが痛いほど感じられる。夕焼けや、星空や、小さな花や、雨上がりの虹、森も、海も、小鳥たちも、われわれ獣も、みんな神の美のひとかけらを頂いて輝いている。画家の才能が誉めそやされるのなら、大自然の美と宇宙の秩序と調和をデザインした神は、もっと賛美されてしかるべきではないか。

秩序のあるところに理性あり。これは、哲学的黄金原則だよ。この自然界をズームインしたミクロの世界にも、ズームアップしたマクロの世界、素粒子の世界にも星空の宇宙にも、この存在界をどの切り口で切ってみても、そこに見出されるる整然とした秩序が、人間の理性の産物でないことは誰の目にも明らかだろう。この目もくらむような秩序は、いったい誰の理性の作品?その理性の主を「神」と昔の人は呼んできたのではないのかなー?

(つづく) 

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