:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ フランシスコ教皇の「説教は10分」発言

2024-07-13 00:00:01 | ★ フランシスコ教皇

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フランシスコ教皇の説教は10分」発言

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 私が神戸のカトリック神戸中央教会に赴任して3か月が過ぎた。身を小さくしてスムースに溶け込むことに気を使ってきた。

 

カトリック神戸中央教会の聖堂

 

 しかし、まもなく一部の信者さんから、今日のお説教は心に残った、とか、神父さんの話は具体的でわかりやすい、とか言って声をかけてくれる信者さんがちらほら。ああ、少しずつ受け入れてもらえているな、と思った。

 ところが、一呼吸おくれて、神父、お前の説教は長すぎる、というお小言も届き始めた。私の説教はほぼ15分、たまに長くても20分を超えることは稀なのだが・・・?

 とにかく、私は30年間神父をしてきたが、小教区教会で日曜のミサの説教が長いと言って信者さんから苦言を呈されたことは一度もなかったので、ひどいショックを受けた。

 しかも、その苦言の理由が振るっている。教皇フランシスコが「説教は10分にしろ」と発言されたから、というのだ。そこには有無を言わさぬ高圧的な響きがこもっていた。しかし、牧者の本能的嗅覚には、それを持ち出して神父の説教を抑え込もうという別の魂胆が見え隠れして気になった。それで、いつどういう文脈でフランシスコ教皇はそのような「10分」発言をしたのか教えてくださいとお願いしたら、間髪を入れずメールの添付ファイルで教皇の発言を裏付ける文章が送り付けられてきた。2018年2月7日の教皇一般謁見で語られた言葉の中に確かに「10分」とあった。しかし、それを前後の文脈の中で落ち着いて読むと、印象は全く違うものであった。

 

 

 文字通り引用しよう。「説教の間に寝ていたり、私語をしたり、外に出て煙草を吸ったりしている光景を幾度見たことでしょう。ですから、どうか説教は簡潔で、しっかり準備されたものにしてください。司祭、助祭、司教の皆さん、それではどんな準備をすべきでしょうか。祈り、み言葉を学び、簡潔で明快な要約を作って準備するのです。どうか、10分以内の長さにしてください。」

 仮に翻訳が原文のニュアンスを正しく伝えたものであるとして、じっと眼を据えて行間を読むと、この「10分」発言の背後には、「説教の間に寝ていたり、私語をしたり、外に出て煙草を吸ったりしている」信者には、どんなにいい説教をしても「豚に真珠」だ。10分以上する必要はない。だが、「祈り、み言葉を学び、簡潔で明快な要約を作って準備」されていないずさんな説教も聞くに堪えないから、我慢は長くて「10分」が限度だ、というフランシスコ教皇の真意が見えてくる。それには私も大賛成だ。しかし、信徒が耳を開いて傾聴し、司祭はよく準備された中身の濃いいメッセージを届ける場合は、何分以内でなければならないという絶対的な縛りはない、あってはならないと考えられる。そしてもちろん教皇も同意見だろう。その証拠に、教皇がすべての説教の絶対的、普遍的な規範として「10分」に拘泥していないことを明白に示す事実がある。カトリック新聞4725号によれば、今年6月12日の一般謁見で同じ教皇は前言を覆して、「8分以内にとどめるよう」促した、と報じている。長さは短くなったが、言いたいことは上と同じだろう。そして、その延長線上に、聞く耳を持たぬ信者とちゃんと準備されていない説教の組み合わせなら、「いっそのこと説教のないミサがうれしい」という教皇自身の本音に行き着くのだ(フランシスコ教皇、2018年2月7日の一般謁見より)。

 教皇の一連の発言の関連で、私が敬愛してやまないイエズス会士ヘルマン・ホイヴェルス師の話を思い出す。

 故郷ドライエルヴァルデの主任司祭の説教はいつも退屈で非常に長かった。それで、最前列のベンチに陣取ったシタタカなご婦人たちは、もううんざり、いい加減にやめてもらいたいという限界に達すると、やおらスカートのポケットからハンカチを取り出して、目にもっていき、そっと涙を拭くシグサをする。すると、勘違い神父は、今日も敬虔なご婦人方は自分の名説教に感涙を流しむせび泣いてくれた、と満足げに長説教をやめる。

 少年ホイヴェルスはこのくだらない茶番劇から悟りを得て、自分が神父になったら、説教は必ず7分以内に収めると決心され、生涯それを守り通された。

 

ホイヴェルス師の時代に建てられた在りし日の懐かしい聖イグナチオ教会

聖堂の巨大さは真ん中の入り口に立つ人影から察せられる

 

 東京の看板教会、四谷の聖イグナチオ教会の初代主任司祭で、晩年も生涯名誉主任司祭に留まられたホイヴェルス神父様は、ご自分が建てた1000数百人入る聖堂を満たす信者たちを相手に、超然と、飄々と、珠玉のような7分間の説教をされた。その内容は俳句のように簡潔で、選びぬかれた言葉も研ぎ澄まされ、神学的、哲学的、詩的に格調の高いお説教をされたが、その内容の深さを理解し、味わい、糧を得、感謝することのできる上質の魂は非常に限られていたと思われる。現に、聖堂の中にあふれた人たちにはあまりにも高尚で、短かすぎて、なにがなんだかあっという間のお説教で、そのあいだ入り口の外では、恰幅のいいお金持ちの紳士たちが、葉巻の紫煙をくゆらせながら、「やっぱり世の中はお金だね」と豪語しているのがいつもの光景だった。

 そのホイヴェルス神父様は、7分の説教を準備するのに一時間かかる、しかし、一時間の説教の準備は7分で足りる、と意味深長な言葉を私に残された。それは今も心の中に木魂している。そして、凡庸な私の場合、15 分の説教を準備するのに1-2時間ではいつも足りないのが現実なのだ。

 若いころの私は、四谷の9時のホイヴェルス神父様のミサで7分の説教と歌ミサの調べを味わうと、その足で隣の駅の近くの信濃町教会に行って、有名な福田牧師の1時間にわたる説教に耳を傾けるのを日曜日の日課にしていた。プロテスタント教会では日曜の牧師の説教は礼拝の中心であり命だ。信濃町教会は大学教授や外交官などのインテリ信徒が集まる教会で、私はそこでホイヴェルス師からは得られない満足を味わっていた。

 話は変わるが、近年人里離れた感想修道女会に毎朝ミサをたてに来る司祭を確保するのが困難になっている。彼女たちの心の耳はいつも開かれている。彼女たちは、忙しいなか犠牲を払ってきてくれた神父に向かって「教皇様がお説教は10分」と言われました、もう10分を過ぎています、早く説教をやめてください、などと言うわけは絶対にない。彼女たちの魂は常に魂の糧に飢え渇いているのだ。

 また、私はローマに生活した長い間、数万人の大野外ミサに参加したことがある。炎天下でも、有名な枢機卿の時には20分を超える説教を大群衆が聞き終えると、大歓声と拍手の嵐が鳴りやまない光景に遭遇したことが一度ならずあった。大群衆だから説教の間も立ち歩く者、私語をする者、居眠りをする者もいないわけではない。しかし、その説教には大勢の人の心を捉え、揺り動かし、回心に駆り立てる力があった。

 いい説教には磨かれた鏡のような作用がある。その説教を聞く人は、そこに自分の本当の姿が映って見える。それを正視できない者は、その鏡を嫌い、何とか早く終わらせたい、できればその鏡を壊してしまいたい、という衝動に駆られる。だから彼らは、フランシスコ教皇の「説教は10分(または8分?、0分?)」を前後の脈絡から切り取って、金科玉条 のようにかざして向かってくるのだ。いつも付け足しに何か理由を陳べ立てはするが、本心はあくまで別のところにある。持ち出された問題など工夫すればすべて簡単に解決できるものばかりではないか。

 ある信者さんが心配して言った。前にこの教会に信者に慕われた神父さんがいた。彼は時に痛いこともズバリと言われた。いい神父さんだったから追い出された。どうか、あなたもそうならないように気を付けてください、と。

 旧約の預言者たちは殺された。イエス・キリストも十字架上で非業の死を遂げた。使徒たちもみな殉教した。良い牧者は羊たちを守るために命を捨てる。私もこの系譜に連なることができれば、神父冥利に尽きるというものだ。

 現教皇フランシスコは、時々信者の心を分断する危ない発言をすることがあるようだ。「同性愛者の祝福」発言などもその例だ。その言葉は独り歩きし、教皇の望まない文脈で好き勝手に借用される危険がある。この「説教は10分!」なども同種のきわどい発言だと言えるのではではないだろうか。

* * * * * 

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10 コメント

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8 分間以内 (新米信徒)
2024-07-13 10:12:31
谷口神父さま 

10 分間を越えて続けるべきでないない、ということは、当時 Vatican News で読み覚えています。日本語訳が見つからなかったので、The Holy See で、"POPE FRANCIS GENERAL AUDIENCE Saint Peter's Square Wednesday, 12 June 2024" を読みました。

"The homily must not go on for more than eight minutes,..." の前に、"And the homily, that comment by the celebrant, must help to transfer the Word of God from the book to life." とあります。また、"And therefore, I recommend that you always have a pocket edition of the Gospel and keep it in your bag, in your pocket… So, when you are travelling, or have a little free time, you can take it and read it. " ともあります。ここで、you は brothers and sisters だと思います。それぞれの国の事情や様々な事情の人がいるということに関係しているのだろうかと思いました。御聖体を拝領する直前に「煙草」を吸ってもよいのでしょうか?不思議な気がします。ニコチン依存症の人にも配慮すべき、ということだろうか・・・、と感じました。朗読箇所が多いので、福音書を中心にしても、説教の準備は大変だと思います。教皇様のことばを参考にすると、信徒であるわたしは、「聖書と典礼」を持ち歩いて、典礼暦にそって読むようにするとよいかもしれないと感じました。本になっていないので、携帯に適していると思います。長文をすみません。
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Unknown (セシリア田中)
2024-07-13 10:13:43
 お話ししたことが無かったので、谷口様は静かな司祭と感じていました。
 しかし、ミサに参加させて頂いて、明晰に表現する力、存在感と迫力に圧倒されました。
 

 私の所属する教会では、生きる糧・指針を得るために、毎日ミサに預かる人々がたくさんいます。
 
 その中で説教の時間は、貴重なものです。
 こころある人には、何かしら伝わるもの。
 長さでは図れない、深い思いを感じています。

 

 
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説教の時間? (コスモス)
2024-07-14 05:50:40
谷口神父様、神戸市の教会に赴任されたのですね。

六甲教会の西のエリアになるのでしょうが、最近はやりの「ブロック」とかいうくくりでは、ご出身校とお近くなられましたね。お母様の墓所、お姉様のゆかりの地にも。

さて、説教を何分間に納めよ、など、私から見れば、ああ、こんなことを教皇様が発しているから、まともなカトリック信者は、教会に愛想が尽きるのだと思いました。

全くナンセンス、ミサを立てられる司祭を馬鹿にしているというか、信者のレベルが低いと言われているのか、とにかく、ああ、またか、と思います。

神父様がお書きになっている、最後の段落の文章。

>現教皇フランシスコは、時々信者の心を分断する危ない発言をすることがあるようだ。
>「同性愛者の祝福」発言などもその例だ。
>その言葉は独り歩きし、教皇の望まない文脈で好き勝手に借用される危険がある。
>この「説教は10分!」なども同種のきわどい発言だと言えるのではではないだろうか。

私は全く同感です。私と同じようにフランシスコ教皇の発言に落胆している信者は、静かですが、多いと思います。あきれてものが言えない状態が、何年も続いています。

成人洗礼でカトリックの信仰をいただいた者は、カトリックの教えを学び、この信仰を持つことを決断して、洗礼を受けました。

教皇様がおかしかなことを言われようと、それでカトリック信仰の内容を変えることはできないと、私は学びました。教皇様は新興宗教の教祖ではありません。

ここ15年くらいの間のミサで、30分以上のすばらしいお説教をなさる司祭にもお会いしました。7分にせよ、8分にせよ、ああ、嘆かわしい!

普通の信者は、週の初めに、長くてすばらしいお説教を自分の教会で聴くことができれば、喜びだと思います。

私の感想ですが、フランスやドイツの司祭は、10分以内?そんなこと馬耳東風なのではないですか?

目の前にいる信者の霊魂に必要なら、時間など関係ないと思います。

ああ、今日は主日ですね。このあたりにしておきます。
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新米信徒さまへ (谷口幸紀)
2024-07-14 07:29:22
今は大人も子供もポケットにスマホを潜ませていない人はまれでしょう。スマホには、聖書も教会の祈りもインストールして持ち歩くことができます。
うちの信者さんには、ミサの聖書朗読を、朗読台の上に朗読聖書や毎日のミサがあるのに、スマホを手にしてそこから読む人がいます。これはさすがにやりすぎでしょうが・・・
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返信をありがとうございます。 (新米信徒)
2024-07-15 14:05:49
谷口神父さま 

返信をありがとうございます。わたしも smartphone は持っていますが、電話にしか使えません。紙にも良いところはあると思います。頑丈で、長持ちし、書き込みが簡単にできる。以前、「教会の祈り」の訳に違和感を感じ始めて、書き込みを始めました。そのうち訳(意訳?)から規則性を見出しました。例えば(人の)「霊」に対する訳。仕方がないので、その総則を読み、日本語の訳のもとになっている Vulgate, Nova Vulgata を読み始めました。初めてラテン語を読みました。「教会の祈り」のおかげです。

「森 緑 編 ホイヴェルス神父を語る 中央出版社(昭和 52 年)」の、まえがき ブルノー・ビッター(イエズス会司祭)に、「・・・。当時師から洗礼を受けた人数は三千人だと覚えている。・・・」cf. p. 3、とあります。その一方で、追悼の言葉 ーその 4ー 尾原 悟(イエズス会司祭)に、「ご葬儀の日、人びとの中には長く教会を離れていたが、と正直におっしゃるかたも少なくなかった。失った息子を迎えるように、神父さまは小羊たちをキリストのみもとにお集めになったのであろう。・・・」cf. pp.36-37、とあります。信仰の自由をあらわしているように感じます。ホイヴェルス神父さまの葬儀には予想を超える二千五百人以上が参列したそうです。cf. 上記のブルノー・ビッター(イエズス会司祭)のまえがきの p. 6.

「教皇フランシスコ、2018年2月7日一般謁見演説:9.ことばの典礼――2.福音朗読と説教」を読み直し、10 分以内になるように、準備をしてください、ということのように感じました。しかしながら実際に模擬説教をしなければ、10 分を越えることもあるように感じます。10 分以内は、準備の段階の想定時間で、すべての説教が 10 分以内でなければいけないということとは少し異なるように感じます(素人の感想)。
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教会での批評、うわさ、世評 (comments) (新米信徒)
2024-07-17 10:30:01
谷口神父さま 

人里離れた感想修道女会でのミサの話は深刻だと感じます。最近は、わたしの町で、お子さんを三人以上連れている方を見る機会が増えましたが、もし結婚をしない若い人が増えているのであれば、根は変わっていないように思います。

上の神父さまの記事から "POPE FRANCIS GENERAL AUDIENCE St Peterʼs Square
Wednesday, 31 January 2018" を読みました。第二番目の paragraph の冒頭は、
"And how many times, as the Word of God is being read, are comments made: “Look at him... look at her; look at the hat she is wearing: it’s ridiculous...”. And the comments begin. Isn’t that true? Should comments be made while the Word of God is being read? [They answer: “No!”]. " "comments" は批評、うわさ、世評等のように感じました。日本語訳は「おしゃべり」。酷い状態でミサに与っている一群の人がいるような気がしてきました。神様への畏れ(恐れにあらず)はないのでしょうか。神父さまが上に書かれたことにもつながっているように思います。General Audince では皆さん "No" と仰っていますが。上の記事のホイヴェルス神父さまの説教の際の生々しい証言ともつながります。「主の現存」への信仰はないのでしょうか。Benedict XVI は著書「典礼の精神」で典礼に対する教育の必要性を説いておられます。わたしは典礼のことをほんとど知りませんが、神様への畏れから、ミサの間は緊張しています。
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訂正 (新米信徒)
2024-07-18 21:56:08
谷口神父さま 

先のコメントの冒頭は、正しくは「観想修道女会」です。申し訳ございません。
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Gossip, the great gossiper (新米信徒)
2024-07-23 00:14:24
谷口神父さま 

上のわたし(新米信徒)のコメントにおいて教皇様のことばにおける "comments" について少しだけ引用いたしました。気になったので、少し調べて、次の教皇さまのことばに出会いました。"comments" とつながっているように感じます。

"POPE FRANCIS
ANGELUS Saint Peter's Square Sunday, 6 September 2020"

Mt 18:15-20 を中心にしたことばですが、後半に、"gossip" と
悪魔について、
"The great gossiper is the devil, who always goes about saying bad things about others, because he is the liar who seeks to separate the Church to distance brothers and sisters and not create community. "
とあります。神父さまはこの mammōna とは別の形の恐ろしさをよく知っておられるのではないでしょうか? "gossip" の語源を調べると、例えば、友人、仲間というような感じがあるようです。辞書によると、名詞では、他人の私事についてのおしゃべり、むだ話、うわさ話(rumor) et cetera とあります。Liturgia Horarum の Hebdomada I Dominica の Ps 140 (141) を思い起こしました。この詩編を第一主日の前晩に唱えることについてあまり考えたことがありませんでした。上の引用文のある paragraph の最後は、
"If this matter does not work, then silence and prayer for the brother or sister who has made a mistake, but never gossip."
大変厳しく、カトリック教会の伝統的な信仰のあり方を感じます。反省させられました。
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Unknown (新米信徒)
2024-07-28 00:27:01
谷口神父さま 

教皇様の説教の時間についての部分だけを取り出すことは愚かなことのように感じます。教皇様は一連の流れの中でこのことを話されたように感じます。

"POPE FRANCIS GENERAL AUDIENCE Paul VI Audience Hall Wednesday, 7 February 2018" の最後の paragraph に、

"In conclusion we could say that in the Liturgy of the Word, through the Gospel and the homily, God dialogues with his people, who listen to him with attention and veneration and, at the same time, recognize he is present and acting. Hence, if we listen to the “Good News”, we will be converted and transformed by it, and therefore capable of changing ourselves and the world. " とあります。
辞書によると、convert v.t. には善心に立ち返らせる、be converted には悔い改める、という感じもあるようです。

岩下壮一神父さまのことば「カトリックは『これからだぞ』と思って、日曜日に教会の門を出て浮世にかえる。彼の宗教生活は教会内に限られない。」そして、正教会のアレクサンドル・シュメーマン神父のことば「説教は『福音についての』説教ではなく(について に傍点)、福音それ自体の宣言にほかならない(福音から宣言に 傍点)。」につながっているように感じます。こらのことばは、神父さまのブログの「★ 鶯と詩人 ホイヴェルス著 =時間の流れに=2022-08-28 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=」にわたし(新米信徒)が 03/05/2024 の書かせていただいたコメントにおいて引用したことばのごく一部です。岩下神父さまもシュメーマン神父も聖霊(聖神)ということに結び付けておられると思います。谷口神父さまの説教の時間を問題にするのではなくて、説教が「一種の『説教者の個人的表白』に堕してしまっているかどうか(シュメーマン神父のことば)を問題にするべきではないかと感じます。

神父さまのブログの「★ わが友 2022-09-04 00:00:01 | ★ ホイヴェルス著 =時間の流れに=」の最後にある「老司教」の説教(時には 5 分程の)はどのようであったろうか、と思いました。的外れのコメントであれば、お許しください。
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聖職者の発言、ミサ中の説教 (コスモス)
2024-07-31 15:22:10
カトリック信者の皆さんは、教皇様を敬愛され、

「・教皇様の発言はすべて正しい。
・教皇様が誤りを発言されることはあり得ない。
・教皇様が、AはBである、と言われたら、
その命題が正しいという前提で、
受け取る(聞く)側が、あれこれ類推し、
このように解釈すれば理解できると、試み、
納得しようとする・・・」

このようなことが、フランシスコ教皇様になってから、度々、起きていると思います。

私は、母なる普遍教会、ローマン・カトリック教会を心から愛する者ですが、
聖職者たる者、ローマの大司教様である方、教皇座にある方が、このように、羊を惑わすような発言をされることは、やはり間違っていると思います。

教皇様は、誤解を受けるような発言や行動は、厳に控えられるべきだと思います。

周りにいる側近の高位聖職者が、教皇様に本当のことをアドバイスできないようになれば、教皇様の暴走はさらに進むでしょう。

そうならないことを、切に望みます。
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