:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 異邦人への宣教 = コップの外へ飛び出そう!《プロテスタント化するカトリック教会(その-5)》

2013-01-23 22:04:55 | ★ 神学的省察

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異邦人への宣教 = コップの外へ飛び出そう!

急速にプロテスタント化するカトリック教会 (その-5)

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身辺いささか忙しくなって ブログの更新が思うに任せません

一息ついて ホッとされた向きもあるでしょう


 

朝霧のポルト・サン・ジオルジオ風景


 いまカトリック教会が司祭の独身制を廃止したら、どれだけの司祭が、結婚に走るでしょうか?司祭の平均年齢が高く、結婚適齢期をとっくに過ぎている者がほとんどですから、多分意外に少ないのでは・・・・。

 では、司祭に結婚を認めたら、急に司祭のなり手が増えるでしょうか。それも大いに疑問です。なにせ、司祭の給料は生活保護並みか、それ以下ですから。

 ローマの司祭の基本給は―驚くなかれ―確か月に800ユーロ(約8万円)と聞きました。私が在籍する高松教区では、ローマに来る前の時点で11万円ではなかったでしょうか。他に才覚に応じてフリンジベネフィット(付帯的利得)があり得るとしても、これではとても結婚できないし、まして子供を大学までやるなんてとんでもありません。

 私はプロテスタントの牧師さんの平均的収入がどれぐらいか全く見当がつきませんが、結婚して子育てが成り立っているからには、カトリックよりはずっとましなはずでしょう。その向こうを張って、もしカトリック司祭の給料をプロテスタント並みに引き上げたら、世界中の司教区と、総本山バチカンの財政は、一気に破綻するかもしれません(笑)。


リド・ディ・フェルモ 冬だというのに 海辺に小春日和の太陽が


 プロテスタントの信者さんは、牧師一家を養う負担が重いと陰では愚痴をこぼしながらでも、それが信仰共同体存続に不可欠な条件だと初めから覚悟しているからいいですが、カトリックの信者は、独身司祭は教会制度が養うものと考えているので、司祭が結婚することになったから、奥さんと子供たちの生活費をあなた達で負担しなさいと突然言われたら、みんなびっくりして教会を離れるかもしれません。

 お寺さんでも、牧師さんでも、神父さんでも、いわゆる「聖職」を、食べていくための(ましてや家族を養い、財をなし、地位と名誉を手に入れるための)手段と考えるなら、世俗化した今の社会では、これほど展望のない割の合わない職業はまたとないでしょう。

 そもそも、聖職は世俗の職業と同じではありません。キリストの弟子たちは、キリストに呼ばれたから、全てを棄ててキリストのあとにつき従ったのでした。これは神に選ばれた者が従うべき「召命」(ヴォケーション)なのです。

 

浜辺に出た カモメがひと群れ 羽を休めていた


 「食欲」「性欲」は動物である人間に、「個体」「種」の生命の維持を保証する最も根源的な本能です。カトリック教会はこの人間にとって根源的で自然で健康な本能を抑制し、それを断念する生き方を、神様の召命に答えて教会の普遍的な「宣教の使命」に生きる条件として制度化したのです。だから、そんな不自然なことはとても無理ではないか、と考える人がいても不思議ではありません。しかし、神父になって18年、神学生時代を入れるとローマに住んで13-4年、世界のカトリック教会事情を内側からクールに見据えてきた私は、司祭の独身生活が心配したほど不自然ではなく、また思ったほど偽善的でもないという点に確信を持つようになりました。

 それは、神様がある特別な召命を与えた者に対しては、それを生きるために必要な特別なカリスマ恵みを一緒に与えて下さる、という事実を目の当たりにしているからです。

 人間の弱さ不完全さからくる葛藤や逸脱の問題は最後まで残りますが、召命の道を誠実に生きようと日々精進する司祭たちには、キリストの「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11章3節)と言う言葉にもあるように、外から見ると不自然で不可能のように思われることも、神の与えられる豊かな恵みと力に支えられて可能になるものだということを納得しました。

 もちろんこれは、ご自分の愛をもって宇宙万物を無から創造し、それを今も日々存在界の中に支え導いておられる「生ける神」が実在するという信仰を前提としての話です。神を信じない人にはいくら説明しても、どの道わからないことかもしれません。


 潮風が頬に優しい リド・ディ・フェルモ


 先日、成人式の日にこんなコメントが届きました。

       谷口神父様
       コップを飛び出すパワーを ・・・
       どうすればよいのですかね
       成人式 着物姿に 大雪 ままならぬもの
                            (T. Y.)

 今問われているのはまさにそのことです。

「世俗主義」とは、神聖なもの、超越的なもの、一言で言えば「神」の存在を否定し、「神無き社会」、「神に敵対的な世界」を築こうとする立場です。

 しかも、ここで言う「神」は神話の神々や迷信的神々ではなく、ユダヤ教・キリスト教の系譜が信じる宇宙万物を無から創造した唯一の「愛である生ける神」です。そして、それを否定し、この世の支配者である「お金」を神として拝む「拝金主義」の支配する社会を築こうとするのが「世俗主義」です。それは、私がリーマン時代に奴隷として仕え、今はそれから逃れた「マンモンの神」、愛の神から人間を引き離し滅ぼそうという強烈な意志を持ったもう一つの「生ける神」、が勝利する社会です。


潮の退いたあとには 砂の上に石ころや 貝殻が

 

 私のグレゴリアーナ大学の先生ロサト教授は、宣教する教会の姿を生きた細胞に例えました。

 仮に「世俗主義的社会」の只中に「教会共同体」という生きた「細胞」があるとしましょう。細胞は細胞膜を通して、外界(社会)から必要なものを摂取し、不要な老廃物を吐きだします。細胞膜の内側の細胞質は核を養い、核はDNAの生命情報を護って細胞の命を支えます。

 16世紀、中世から近世へ時代が大きく変わろうとしていた時、キリスト教の聖職者が聖俗のあらゆる分野で支配的な力を握ったいわゆる「クレリカリズム」(聖職者主義)の弊害に対する反動として、プロテスタンティズムは信徒である「細胞質」を重視するあまり、細胞から「核」である司祭を抜き取り廃棄してしまったというイメージは、歴史的現実をうまく言い当てているでしょうか。
プロテスタントが抜けたあとのヨーロッパの教会は、その後カトリックとして、宣教の使命をもっぱら聖職者に委ねて今日まで及んだのも、これまた歴史の現実でした。

 これら二つの現実は、その後4世紀余りにわたり平行して競い合って(コップの中の嵐を演じて)きたのですが、気が付いたらコップの外の世界では、特にこの半世紀ほどの間に、キリスト教的価値観に正面から敵対する「神無き」世俗主義が台頭し、その前に両者はいずれも全く歯が立たなくなって後退に次ぐ後退を重ねていました。

 

・ ・ ・ ・ ・ 小石と 貝殻と ・ ・ ・ ・ ・


 この危機の時代にカトリック教会内に新たに登場したのが、第二バチカン公会議の落とし子のような新しいカリスマたちです。
ロサト教授のわかりやすい例に戻れば、カトリックの特性とプロテスタントの特性のプラスの部分を合体させた強力な宣教の方法論がそれです。プロテスタント型の「万民司祭」、つまり全信徒が宣教の第一線に立つ細胞質の中に、カトリック型の「独身司祭」の司る秘跡が入って、内側から活力を与えるかたちです。

 具体的には、細胞質である家庭を営む信徒のグループに、「秘跡」を持って命と活力を与える「核」の役を果たす独身司祭を挿入してアメーバ―のように強靭な生きた細胞を形成するのです。

 これは、教皇ヨハネパウロ2世の時代に始まり、現教皇ベネディクト16世が継承している「異邦人への宣教」(ミッシオ・アド・ジェンテス=Missio ad Gentes)です。オランダや北欧、ドイツやフランスなど、元カトリックであったり、プロテスタントであった地域が、世俗化の津波に襲われて精神的廃墟となり、キリスト教が完全に消え失せてすっかり「異邦人」の世界と化したところに、子沢山の宣教家族数組と一人の独身司祭が一つのユニット、生命力のある自己完結型の有機的細胞としてパラシュートダウンしてその町に定着し、宣教に打って出る。この大人の背丈に達した信仰集団には、世俗主義の毒素に犯されない信仰的免疫力があって、世俗化した社会に福音の光を灯し、キリストの赦しと愛を宣べ伝えながら広まっていくエネルギーを備えています。

 そこで宣教活動のイニシャティブを取るのは信徒のチームであり、司祭は専ら秘跡と祭儀を受け持ちながら、信徒の指揮と指導の下に服し、専ら信徒の精神的一致と霊的向上に資するように努めます。

 世俗主義の攻勢をはね返して効果的に福音を宣べ伝えるためには、必要なら殉教も辞さない決意を持った、そのような強固な信徒集団の仕組みが必要なのではないでしょうか。

(おしまい)

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7 コメント

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結婚したがる人 (落合信彦)
2014-05-06 21:49:28
「今日では結婚したがっているのは神父だけである」(ルイ―ズ・ド・ヴィルモラン)  カトリックの総本山バチカンはかなり「生臭い」ところのようだ。約二千年にい及ぶ歴史の中で、禁を破って淫行を犯し、子供を作った法王はたくさんいた。その一人がアレッサンドロ6世(在位1492~1503本名ロドリゴ・ボルジア)。彼が特に寵愛したのはジュリア・ファルネ―ゼとヴァノッサ・カタ―ネで、ジュリアはローマっ子たちから「キリストの花嫁」と言われていた。ヴァノッサとの間に4人の子供をもうけ、子供たちにはボルジア家を名のらせた。特に長男チェーザレは、法王領の領土拡大のために熱意を燃やし、権謀術数の限りを尽くした。ニコロ・マキャベッリの「君主論」は、彼をモデルに書かれている。「離婚は進んだ文明にとって必要である」(モンテスキュー)  
返信する
司祭 (新米信徒)
2024-02-17 10:02:19
谷口神父様 

神父様のこのブログの中心は、
この項目にある「★ 忘れられた中世の町『アナーニ』-その(3)2014-10-08 00:01:00 | ★ 神学的省察」や「★ 異邦人への宣教 = コップの外へ飛び出そう!《プロテスタント化するカトリック教会(その-5)》2013-01-23 22:04:55 | ★ 神学的省察」等の一連の記事にあるように感じました。以前にこれらの記事を読んでいたとしても、そのときは何もわからなかったと思います。わたしは神父様のブログの「インドの旅から」のかかわりから「復活」のことを教えていただき、神父様のブログに記事を書かせていただくようになりました。

先日、"The Washington Times Japan ワシントン・タイムズ・ジャパン" の 「主流派プロテスタント教会の牧師の半数が退職を検討 (2021年11月21日) 米国内 By Mark A. Kellner – The Washington Times – Tuesday,
November 16, 2021」に偶然出会いました(別のことを調べていて)。

初めに、プロテスタント教会の批判をするために、この記事を
引用するものではないことをことわっておきます。わたしは、初めに英会話教室のことから家の近くのプロテスタント教会に自由意志で通い始めました。その教会に出会えたことには感謝しています。そのときの牧師先生(さん)から相当大きな影響を受けていると思います。また、その当時、その牧師先生(さん)に(過度に)頼るようなことをある信者の方に話したところ、人に(過度に)頼ってはだめですよ、神様に頼らなければ、という助言をいただきました。随分時間はかかりましたが、このことばはわたしには重いことばになりました。

以下は、上の記事からの引用です。上の表題の主流派プロテスタント教会に含まれるのは「米国バプテスト同盟やディサイプルス、米国聖公会、米国福音ルター派教会、プレスビテリアン教会、キリスト連合教会、合同メソジスト教会などだ。」、とあります。プロテスタント教会についての箇所は省略いたします。上の表題で検索すれば記事を読むことは、今はできます。

「米国カトリック大学実務准教授のスティーブン・ロゼッティ神父は、今年行った調査で、米国ローマ・カトリック教会で退職を考えている聖職者は3%だと報告した。

 ロゼッティ神父によると、『全般的に聖職者であることに幸せ』という記述に94%が『強く同意、または同意する』と回答した。『最初からやり直すことになっても、聖職者になる』という記述には88%が同意、または強く同意した。」

神父様の上の記事にある司祭のことにつながっているように感じます。
返信する
前のコメントの追記 (新米信徒)
2024-02-17 12:39:34
谷口神父様 

前に書いたコメントの補足をさせていただきます。元の記事は、
"Pulpit panic: Half of Protestant clerics looking for exits, survey reports

By Mark A. Kellner - The Washington Times - Tuesday,
November 16, 2021"

です。検索して読むことが今はできます。「米国カトリック大学実務准教授のスティーブン・ロゼッティ神父」とあるのは、

"Msgr. Stephen J. Rossetti, D.Min., Ph.D. Research Associate Professor of The Catholic University of America" の方のことではないかと思います。また、記事にあることは、

"Priesthood in a Time of Crisis: A New Study of the Psychological and Spiritual Health of Priests by Stephen J. Rossetti

Publisher: Ave Maria Press
Publication date: 04/24/2023"

にまとめられたことから引用されたことのようです。間違っているかもしれませんが。たびたびすみません。
返信する
pneuma (新米信徒)
2024-06-26 10:52:57
谷口神父さま 

上の記事にある「・・・。この危機の時代にカトリック教会内に新たに登場したのが、第二バチカン公会議の落とし子のような新しいカリスマたちです。ロサト教授のわかりやすい例に戻れば、カトリックの特性とプロテスタントの特性のプラスの部分を合体させた強力な宣教の方法論がそれです。プロテスタント型の「万民司祭」、つまり全信徒が宣教の第一線に立つ細胞質の中に、カトリック型の「独身司祭」の司る秘跡が入って、内側から活力を与えるかたちです。・・・」、とありますが、このことを伝えることもこのブログの中心にあることだと思います。共同体が子宝に恵まれるということにも直接つながっていることと思います。

上のことと少しそれるかもしれませんが(底ではつながっていると思います)、「ヨセフ・ラッツィンガー (Benedict XVI)  濱田 了 訳 典礼の精神 サン パウロ (2004)」の、第三章 典礼における祭壇と祈りの方向性、を何気なく読んでいて驚かされました。

「 これらのつながりは、率直に言って、現代の教会建築や典礼執行においてあいまいにされ、あるいは意識的に見落とされました。そう解釈する以外に説明できないことですが、今日では司祭と会衆が同じ方向を向くことを『壁に向かって執行している』とか『会衆に背を向けている』とか決めつけて、それでもって、いずれにせよ不合理で全く受け入れがたいものとされているようです。・・・。これによって以前には決して存在しなかった、ある種の聖職者主義化が入り込みました。・・・。すべてが司祭によっています。司祭と一緒に行動し、司祭に応答するために、人は司祭を見つめなければなりません。・・・。神はますます視野から遠ざけられ、反対に、人々が行うことのすべてがますます重要となります。・・・。
それは、その形態からして、もはや前方へ、また上方へ開かれたものではなく、自分自身の内に閉じこもったものです。こぞって一緒に東を向くことは、
『壁に向かってミサをささげる』のではなく、司祭が『会衆に背を向ける』ことを意味したのではありませんでした。司祭がそれほど重要とは受け止められていなかったのです。なぜなら会堂で一緒にエルサレムを仰ぎ見たように、ここではこぞって『主に向かって』仰ぎ見ているのです。」 cf. pp. 87-89. 上の引用文の冒頭は、「・・・。それは、東に向けた祈りの方向性です。これは原初からの伝統であり、宇宙と歴史、救済史の一回限りの出来事にしっかりと繋がれることと、来るべき主を出迎えることについてのキリスト教的な表現です。・・・」 につながっていると思います。cf. p. 83. 上の引用文の「司祭がそれほど重要とは受け止められていなかったのです。」、は、以前にも引用いたしましたが、「カトリックの信仰 岩下壮一(神父さま)ちくま学芸文 (2015)」の、第十四章 聖霊、の、カトリックの宗教体験観、にもつながっているように感じます。cf. pp. 686-690.

アレクサンドル・シュメーマン(神父) [著] 松島雄一(大阪ハリストス正教会 長司祭) [訳] ユーカリスト 神の国のサクラメント 新教出版 (2008)」 の、第 4 章「言葉」の機密、の、3、に、
「 『衆人に平安』と司祷者が会衆に向けて唱え、会衆は『爾の神(読み しん 霊)にも』と答える。(6)」、とあります。cf. p. 99. 訳注 6 には、「『衆人』はすべての人々、『爾の神にも』はあなた(司祈者)の霊(プネウマ)にも(日本正教会訳)。」、とあります。"Et cum spiritu tuo" の日本語訳である「またあなたとともに」 に対する日本カトリック典礼委員会による説明にある「全人格的な表現」とプネウマ (pneuma) にはずれがあるように感じます(ど素人の感想)。

神戸は若い人も多く、また様々な国の人も身近にいることと思います。神父さまのことばが多くの人に伝わっていき、本当のことになっていくことを願います。長文をすみません。
返信する
新米信徒さまへ (谷口幸紀)
2024-06-27 04:27:38
投稿ありがとうございました。
神戸に赴任したばかりの「新米神父」への激励のお言葉として頂きましたました。
返信する
返信をありがとうございます (新米信徒)
2024-06-28 11:09:23
谷口神父さま 

返信をありがとうございます。このブログを通して神父さまから多くのことを教えていただきました。まだ気がついていないことが多くあるはずです。

上のわたしのコメントにおける引用は誤解を与えかねないので、もう少しだけ「典礼の精神」から引用することをお許しください。
「・・・。重要なのはまた、みことばの祭儀の場所がエウカリスチア固有の場所から取り分けられたことです。みことばの祭儀は事実上、語りかけと応答で進行し、そこでは宣布者と聴衆が向かい合うことに意味があります。答唱詩編において聴衆は聞いたことを自分のものにするように摂取し、それを祈りの中に変化させて、応答となるようにします。これとは反対に、こぞって東を向くことは奉献文の際に残っています。そこでは東を向くのは二次的なことではなく、本質的なことに関係します。司祭を見ることが重要なのではなく、こぞって主を仰ぎ見ることが重要なのです。そこでは対話ではなく、共に崇拝することについて、来るべき方への出発が中心です。閉じられた社会が生起する事柄の本質に対応しているのではなく、こぞって向き直ることに表現されている、一緒に出発することがそれに符号するのです。・・・」
cf. pp. 89-90. 手持ちのこの書は古書で、p. 91 に赤線が引いてある箇所があります。そこには、上のことへの反対論に対して、「・・・。ホイスリンク (A. Häussling) は確かに、立ち昇る朝日に向けて、東に向き直ることが今日では典礼の中にもはや持ち込む可能性がないだろうとしています。しかし、本当にできないのでしょうか? 宇宙的な見方はもはや時代遅れなのでしょうか?・・・? まさに今日こそ、すべての被造物と共に祈ることが重要なのではないでしょうか? まさに今日こそ、未来の次元、主の再臨への希望に余地を与えること、新たな創造へのダイナミズムを再び典礼の本質的形式として認め、生きることが重要なのではないでしょうか?」、とあります。"Liturgia Horarum" で唱える、"Canticum Dan 3, 57-88. 56" を思い起こしました。 上の「余地を与える」("to find room for" in "The Spirit of the Liturgy") ということばも心に残ります。大変長くなり申し訳ございません。
返信する
「主と結ばれる者は、主と一つの霊となります」 (新米信徒)
2024-07-03 09:49:29
谷口神父さま 

わたし(新米信徒)が上のコメント (26/06/2024) に書いた "Et cum spiritu tuo" についてから、「キコ・アルゲヨ(先生) 著 ケリグマ IL KERIGMA 福音の告知 バラックの貧しい人々の間で 翻訳 谷口幸紀(神父さま) フリープレス (2013)」の、バラックで:証言 キコ・アルグエヨ、の、死から命へ ー「神は存在する!」、の、「そしてその瞬間、思いがけず『私の内に神はいた!』という確かな感触を得た」 cf. p. 26.、にまた戻ってきました。このことについては、これまで神父さまのブログに大変長い引用を何度かいたしました。

このことばを思い出したのは、上に引用いたしました「典礼の精神」の第四部 典礼の組成、の、第二章 身体と典礼、の、一「積極的参加」、の、「確かに教会の名によって主に向けられる『オラツィオ (oratio)』と、その中核においてイエス・キリストの第一人称『わたし』で語ることは、(叙階の)秘跡によって力づけられることを通してのみ生じることができます。しかし、人間が行うのではなく、主ご自身が行うこと、しかも、主だけが行えることに参加するのはすべての者にとって同じことです。私たちすべてに、一コリント書六章一七節のことばが当てはまります。『主と結ばれる者は、主と一つの霊となります』。」cf.pp.187-188.、を読んだことと、「カトリックの信仰 岩下壮一(神父さま)ちくま学芸文庫 (2015)」の、第五章 人間、の、人の霊魂は神の像」、の、「かくあればこそ、人は神の霊を己に受けて神の子となり、超自然的恩寵により神との相似の境にも達し得る。人間が肉体を有しながら、他の被造物の達し得ざる超自然的神的生命に生きる根底は、実にその魂が霊であるによってである。
 であるから問四十八の答『霊魂とは、天主に像(かたど)られた霊であって、人の生命と知慧の本であります』という何でもないような一行は、考えれば考えるほど意味深長であって、決して軽々しく看過しえない文字なのである。」 cf. p. 204. 、を読んだことからです。岩下神父さまのことばに関連して、一年程前に、わたしの鳩についてのコメントに対する神父さまの助言を思い出しました。神父さまは鳩に対して設計図という言葉を用いておられた思います。

「日本正教會翻譯 我主イイスス ハリストスノ新約 一千九百一年 東京 正教會本會印行 オフセット再販 (2014)」では、コリンフ前書 第六章 17 「然(シカ)レドモ主ニ附ク者ハ主ト一(イッ)神゜(シン)ト爲(ナ)ルナリ。」。また、
「カリストス・ウェア主教 論集 1 私たちはどのようにすくわれるのか 他2編 日本ハリストス正教会 西日本主教教区 (2003)」の、「私たちはどのように救われるのか ・・・正教の伝統における『救いの理解』 翻訳 司祭 ゲオルギイ 松島雄一」の、西方ほど陰惨ではない「堕落」の理解、に、「ルター主義者が堕落によって人の内なる神の像は『消え去って』もしくは『失われて』しまったと言うのに対し、正教は『神の像が昏迷したのであって絶滅したのではない』と主張します。」cf. pp. 16-17. 、を思い起こしました。また、この書の、彼はとりこを捕らえて、に、「この救いのモデルは『私たちのための (for us) ハリストス」よりむしろ、何よりもまず、『私たちの内にある (in us) ハリストス(内在)』 43 を指し示しています。もちろん、「私たちのための」という定式も有効であることは言うまでもありません。」も思い出しました。cf. p. 29. とりこは、正教会の訳では「擄者(トリコ)」で、エフェス書 4:8 が引用されています。上の 43 は、ルター派と正教会の共同宣言のタイトルが "Christ 'in Us" and Christ 'For Us' " であることに注意をうながしています。このことに関連したことは、神父さまからまた Benedict XVI から何度も聴いてきましたが、理屈の上にとどまっています。このことは、イエスさまの教えである隣人愛と深くつながっているように感じます。押田神父さまが仰ったように「人権」ではないと感じました。大変長い引用をたびたびすみません。
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