:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ ポーランド巡礼記-1

2008-09-06 11:54:41 | ★ ポーランド巡礼記

ポーランド巡礼記

= オシフィエンチム から ジャスナゴーラ =

又は


二人の聖人

= ヨハネ・パウロ2世  マクシミリアン・コルベ =


全世界に75あるレデンプトーリスマーテルの姉妹校では、復活祭明けの1週間に巡礼の旅をする習慣がある。
高松の神学校でも、毎年キリシタンの殉教の跡を慕って、九州、関西、東北まで、くまなく巡ったものだった。

今回は、ローマに移転・仮遇している「日本のための神学院」(元高松の神学校)は、
ワルシャワとロシアのキエフともう一か所のレデンプトーリスマーテルの神学生たちと、4校総勢80人余りで、
ポーランドを巡ることになった。

意思疎通は、イタリア語とポーランド語を軸にロシア語と日本語が混じる、時に二重通訳を必要とする複雑な構成になった。

巡礼を無事終えてローマに戻ってみると、たった1週間前とは打って変わり、神学校の庭では、燃えるような新緑の中、
梨の花が終わり、サクランボの花が盛りを過ぎようとしていた。



サクランボの花はソメイヨシノより遅く、白く、花弁には皴がある。5月にはまた甘い実がたらふく食べられると、
平山司教様はご満悦だ。



昔住んだデュッセルドルフでもそうだったが、ポーランドでも寝室の二重ガラスの外に寒暖計があって、
それで朝一番、外気の温度が一目でわかるようになっている。クラカオの朝は1度から4度だった。



これが日本の景色でないことは、寒暖計の目盛りがマイナス53度まで切ってあることでわかる。
かつて、ポーランドはルブリンでクリスマス休暇を過ごしたことがあるが、
マイナス20度で「今朝は暖かいね」という挨拶を聞いたのが印象的だった。

柳はうっすらと緑だが、他の木々はまだ冬枯れのまま。
黄色のれんぎょうがどこでも目に止まる他は、地面にクロッカスがやっと咲き、チューリップはまだ葉っぱだけだった・・・。



ベンチの後ろの地面をよく見てください。無数の花。少しわかりにくいかな?



足掛け6日の巡礼は、無論一回では紹介しきれない。
三幕・五場ほどの楽劇風に構成して、最後のどんでん返しまで、途中で飽きられることなくご案内できれば、
成功のうちではないだろうか。
今回はまず・・・・

序 曲

去年の秋ごろだったと思うが、日本の為の神学院の副院長アンヘル神父が、実に奇妙なことを言い出した。
デンマークの女子トラピストの修道院の院長様から突然電話があったそうだ。
それによると、戦争末期にナチスドイツのアウシュヴィッツ強制収容所で殉教した聖マキシミリアノ・コルベ神父から、
そこの若い一人のシスターにお告げがあったという。

私はそういう類の話にきわめて弱い。春の花粉症以上に苦手なのである。

ブラックホールの発見者として有名なスティーブン・W・ホーキングと言う車椅子の宇宙物理学者がいるが、
彼は自分のベストセラーの中で、「この本の中に数式を一つ入れるたびに、売れ行きは半減する」と書いている。
私もそれを真似て、私がものを書くとき「奇跡やお告げのたぐいの話を一つ入れるたびに、
キリスト教を信じない友人の半分を遠ざけてしまう」と言いたいのだ。

神様、どうかお止しになってください。
私には一冊の聖書と、欠点だらけのただの人間にすぎないローマ法王だけ、もうそれだけで十分ですから。

マリア様が現れたとか、聖人のお告げがあったとか、おどろおどろしい話は大概にしてください。

ところが、私の祈りをよそに、副院長はお構いなしに続けた。
電話の主は、大真面目で、その若いシスターへのお告げによれば、
「元高松の神学校の神学生たちが、そろって聖マキシミリアノ・コルベ神父の殉教の地と生誕の地へ巡礼をするならば、
聖人はあなたたちに大きなプレゼントを下さると約束された」というのである。
そして、ご丁寧にも付け加えて、「このシスターの頭は、正常で正気です。後は、皆様次第です」とも言った、とか。

「これはヤバイことになるぞ」と不信心者の合理主義者は直感的につぶやいた。
しかし、私の不安をよそに、事はどんどんエスカレートしていくではないか。
ワルシャワの神学校を巻き込み、キエフと、最近出来たばかりのロシアのもう一つの神学校も巻き込んで、
総勢80人余り(大型バス2台分)の大巡礼団が結成された。

「僕、もう知らないからね!」と拗ねて見ても、私が秘書としてお仕え申し上げる平山司教様まで、
勇気凛凛ご老体に鞭打って全行程参加を宣言されたのだから、万事休すである。もう行くしかない、と腹を括った。

復活祭が明けた週の火曜日、ローマからの一行を乗せた格安のライアンエアー機はクラカウの飛行場に無事着陸した。
一体何が待ち受けているのか。
少しわくわくしてきませんか?




《つづく》

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★ ポーランド巡礼-2

2008-09-03 11:50:42 | ★ ポーランド巡礼記

★ 当分書き貯めてあった巡礼記をご紹介します。既にどこかで読まれた方は、しばらくご忍耐を。もうすぐ新規書き下ろしに入りますから。

 

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ポーランド巡礼
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第一幕 第一場 クラコヴィア (クラカウ)

 

到着ロビーから直行したのはクラカウのとある小教区教会だった。 

そこで他の3つの神学校の一行と合流し、4つの神学校の神学生が均等に混ざり合うように10人ぐらいずつの組に分けられることになっていた。全体の三分の一強がイタリア語を解するほかは、ポーランド語、ロシア語、日本語の順で通じるチャンスがある。 

冒頭に「とある『小教区』に着いた」、とさりげなく書いたが、その教会の規模の大きさには度肝を抜かれた。 

私が四国で3年余り主任司祭を張っていた三本松の教会など、私が聖堂を改築した後でも、やっと50人を収容すれば満員になる超ミニ教会だった。着任した時は日曜礼拝にやっと10人揃うか揃わないか・・・・、50人に増えたら移転して少し大きな教会を建てようと、ささやかな夢を膨らませたのが、我ながら実にいじらしく思い返される。 

それがどうだ。重い鐘が頭上に落ちてきそうなこの不安定な鐘楼を備えた「小」教区教会の「大きさ」は!続きの写真でもおわかりの通り、これはまさに日本各地の県庁所在地を代表する○○県民ホールを遥かにしのぐ「大型箱モノ」と言った威風堂々たるたたずまいではないか東京・目白台のカテドラルも玩具のように霞んで見えるというものだ。 

ここではまだ日々何千人を収容する広さを必要とする実用性本位の建築意図が感じられた。 

ローマでも、聖ペトロ大聖堂は例外として、古い大バジリカの多くは、どこも普段の日曜はおろか、大祝日でも閑散としているのが当たり前になっているというのに・・・・。 

 

 

 ここは、クラカウの中心を離れた新興住宅地だ。ポーランドの共産党は、ここに無神論者の町を創るつもりで、このあたり一帯に新しく教会を建てることを禁じたそうだ。それが、グダニスクの「連帯」運動以来、そしてポーランド人のヨハネ・パウロ2世教皇の即位以来、さらに共産党政権が崩壊してからというものは、反動として?皮肉にも?そこに巨大な教会が建てられるようになったのだと言う。 

これは、やはりヨーロッパ随一のカトリック国ならではのことだろう。解放後の東欧でも、ポーランド以外では、そのような話はついぞ聞いたことがない。 

ちなみに、米国のCIAの調査によると、国民の95%がカトリック教徒であり、うち75%が今なお敬虔な信者だ、ということになっている。 

ホールで手際よく班分けが終わると、この二人は誰々の家、あの三人は誰さんのところと、実に手際良く相次いでホームステー先の家族に引き取られていった。そこが彼らの三日間の宿である。 

残った平山司教様と私と、それにもう一人、75歳でイエズス会士を辞めて共同体に留まる苦渋の選択をしたスペイン人のスアレス神父の3人には、写真の背後の教会が帰属するフランシスコ会(コンヴェンツアール派)の修道院に部屋があてがわれた。 

 

ミサの無い時間帯、聖堂の中に祈る人影は少なく、シンとした空気が全体にみなぎっていた。

二人の聖人(前教皇はまだ正式に列聖されてはいないが)の跡を慕う巡礼はもう既に始まっていた。

 

 クラカウの司教で、電車通りを挟んで向かい側の司教館に住んでいたカルロ・ボイティワ(のちの教皇ヨハネ・パウロ2世)は、この教会の後ろのベンチの左側、薄暗がりの目立たない席で、好んで聖務日課の祈りを唱え、瞑想をしていたという。

教えられて行ってみると、そこには彼を記念する銀のプレートがあって、誰が置いたか、みずみずしいバラが一輪セロテープで止めてあった。

私は、クラカウを拠点にした巡礼の3日間、朝夕の自由時間の多くをこの席での祈りに費やした(無論、地元の敬虔な先客がいない限りの話で、そういう時はお互いに関渉し合わないほどの距離に我慢するのだったが・・・・)。

 

それだけではない。部屋をもらった修道院は、聖コルベ神父が日本に宣教に旅立つ前の数年間を過ごしたゆかりの場所で、建物の内部のいたるところに彼の霊気が漂っている。外部の人の入らない禁域の中だから、ことさらに彼が用いた部屋を永久保存したり、とかはなかったが、彼が食した食堂で食べ、彼が祈ったチャペルで祈り、彼が歩いた廊下や階段の全てを自分の空間とした。

例えば食堂。我々は正面上座のテーブルで朝食をとる。

 

(左から、スアレス神父、この修道院の院長、平山司教、右端がワルシャワのレデンプトーリスマーテルの院長。)

 

右側の壁には、おや、聖コルベ神父かなと思いきや、なぜか、やはりここに住んだ彼の弟の絵が一枚かかっていた。

 

食堂の反対の端から見ると食堂の広さと天井の高さがよく分かる。

 

この修道院には、現在約100人の司祭・修道士たちがいる。そのうちの42人が神学生、つまり明日の神父たちである。

日本にただ一つ生き残った東京の神学校には、全国16教区50万人足らずの信者のために20数名しか神学生がいないとの話。それに比べれば、ローマに亡命中の元高松教区立の神学院に20名は、一司教区としては大した数だったが、それが、ポーランドでは、無数にある各修道会の修道院の一つ、クラカウのフランシスコ会だけで40人以上いるというのだから驚く。ポーランド全体では、教区立と修道会立を合わせて、一体何千人いるのだろう。それでも、人口3800万のポーランドには、まだまだ司祭が足りないという。

 

(朝食をとる明日の神父たち。)

 

では、今日はこの辺で一区切りとしよう。

明日は巡礼の手始めにワルシャワの古都を探訪し、午後は「神の憐れみ」の聖地までの10数キロを、神学生たちは徒歩でたどることになっている。

 

~~~~~~~~~~

なーんだ、それだけ?

今回はつまらなかった!と、ぼやくことなかれ。

これはまだほんの小手調べ。まだまだ折れ曲がりながら、この先さらに軽妙に展開していく筈になっている。それが谷口神父の「物書く筆の弾み」というものなのだから・・・・。

だから、どうか引き続き、乞うご期待! 《つづく》

 

 

 

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★ ポーランド巡礼-3

2008-08-31 11:49:33 | ★ ポーランド巡礼記

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ポーランド巡礼 

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第一幕 第二場 スタニスラオ・ジヴィツ枢機卿 

 

明けて、67日。朝食を済ますと、一行は電車通りを渡って反対側のクラカウ司教館へ向かった。その黄色っぽい壁には、ヨハネ・パウロ2世教皇の大きな写真の垂れ幕があった。ローマでは教皇がドイツ人に替わっても、ポーランドではまだこの人が人々の心の中に息づいているのだ。 

 

 

左右の車に気を取られながら、急いで市電通りを渡り終えて、ほっとして司教館の入り口の上を見上げた。そして、 

 

ギョッ!! 

とした。 

我と我が目を疑った。そのポーランド人教皇が、二階のガラス窓からこちらに向かって手を振っているではないか。一瞬、確かに手が動いたように思えたのだ。 

だが、馬鹿な!そんなことは絶対にあり得ない。彼はもう5年も前に死んだはずなのだから・・・・。 

 

では、幻を見ているのだろうか?  

 

斜に構えて、務めてクールにヨソヨソしく、まるで他人事か何かのように巡礼に参加しているつもりだった私が、いつの間にか巡礼熱に浮かされて、・・・ひょっとして、ついに頭に変調を来たしたか?と、うろたえた。 

 

 これだものね! 

 

もう嫌だ! 神様、いい加減にしてくださいよ!!

 

神様に悪気はないのだろう。だから赦してあげますが、それにしても、このパネルは日ごろ堅苦しい雰囲気の司教館のユーモアとしては、実によくできていたネェ!(笑)

 

その2階に上がると、神学生たちは小さなチャペルに通された。ここは、教皇ヨハネ・パウロ2世が若いころ司祭に叙階されたゆかりの聖堂で、我々の巡礼の大切な祈りのスポットの一つに予定されていた。

 

巡礼者一同はこの記念のチャペルで朝の祈りを唱えた。

 

詩篇を唱える神学生たちと、ギターで先唱するダビデ君(元高松の神学生)。

 

祈りが終わって待つことしばし、やがてこの建物の主スタニスラオ・ジヴィツ枢機卿が現れた。

ローマで見慣れた彼より、少し-かなりと言うべきか?-太ったかな、という第一印象だった。枢機卿はポーランド人としてヨハネ・パウロ2世の信任厚く、最後まで教皇の秘書を務めた人である。前-そして現-教皇同様、新求道共同体と私たちの神学校に対して深い理解の持ち主で、今回も暖かく歓迎してくださった。

   

 

 

このチャペル、一見簡素だが、金箔をふんだんに使った天井といい、壁の浮き彫り彫刻といい、小さいながら装飾は見事だった。

 

 

中庭に入ると、教皇ヨハネ・パウロ2世の生涯を辿るパネルが展示されていた。次のブログで数えきれないパネルの中から、抜粋して何枚かを次のブログで紹介しよう。

(つづく)

 

 

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★ ポーランド巡礼-4

2008-08-28 11:48:27 | ★ ポーランド巡礼記

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 ヨハネ・パウロ2世のパネル展

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 彼の生涯は1920518日から、200542日まで。

 

19781016日に教皇に選ばれて在位27年は、教皇としては長い方ではないか。ハドリアヌス6(オランダ出身)以来455年ぶりの非イタリア人教皇にして史上最初のスラブ系教皇。同時に20世紀中最年少で着座した教皇でもある。

着座した時、自分の後継者はこの人(右)だとすでに知っていたか、いなかったか?

 

暗殺されたケネディー大統領同様、当時の教皇は銃弾に対しては全く無防備だった。それに比べると、私の見る限り、今の教皇の身辺警護は厳重を極めている。

 

 

やはり撃たれたか!(注)

 

ポルトガルのファチマの牧童に託され、ずっと秘密裏に封印されていたマリア様の第3の予言は、一般にはこの日のことを指していたと考えられているらしい。(注)

 

 死の一発」の弾道をマリア様が奇跡的に逸らされた、と教皇は信じているという話を聞いているが、真偽のほどを私は確かめていない。

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(注) 1917年、ポルトガルの一寒村、ファチマに住む3人の牧童の前に聖母マリアが6回にわたって出現し、最後の日には10万人の大観衆の前で大奇跡を現出させ、当時のヨーロッパ全土に一大センセーションを巻き起こした。しかもその際に「人類の未来にかかわる3つのメッセージ」が託された。これが有名な「ファチマ予言」である。
  第一と第二のメッセージ(予言)は、25年後の1942年にバチカンから発表された。第一次世界大戦の終結と第二次世界大戦の勃発に関するもので、いずれも細部にいたることまであまりにもピタリと的中していた。
  そこで人々は、第三の予言の発表を待ち望んだ。なぜかこの予言だけは、1960年まで公表してはいけないとメッセージされていたからである。
  だが、予言は1960年になっても発表されなかった。
  第三の予言を読んだ法王パウロ六世が、内容の重大さにショックを受けて卒倒し、「これは人の目に絶対に触れさせてはならない。私が墓の中まで持っていく」といって、発表を差し止めてしまったからである。自分に関する予言と早とちりしたか?(陰の声)
  その後も第三の予言は秘密文書として、バチカン宮殿の奥深く、厳重に秘匿されて、そのため「ファティマ第三の秘密」ともいわれていた。

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この二人が、ソ連の共産主義政権を解体した。ゴルバチョフ議長に私は人間的な魅力を感じていた。

公表されているマリア様の第二の予言(第三ではない)の言葉を翻訳すると、次のようになる:

もし私の要求が顧みられるならば、ロシアは回心し、平和が来るでしょう。もしそうでないならば、ロシアは戦争と教会の迫害を引き起こしながら、その誤謬を世界中に広めるでしょう。善い人々は殉教し、教皇は多く苦しみを受け、さまざまの民族が絶滅させられるでしょう。

最後に、私の汚れなき御心は勝利するでしょう。教皇は私にロシアを奉献するでしょう。そしてロシアは回心し、ある期間の平和が世界に与えられるでしょう。 」

私は、聖母マリアが歴史に介入し、言葉を語ると言うことに、強い違和感と抵抗を感じる。もしそれができるのなら、他にもしてほしいことが山ほどあるからだ。

ユダヤ人のホロコーストはナチスドイツの手によるものだから、直接この予言と関係づけていいかどうかは分からない。しかし、カティンの森(これはあとで触れる)では、ソ連がポーランドの将校を大量に抹殺した事実がある。これは、上の言葉と結び付くものなのだろうか?

「ある期間の平和が世界に与えられるでしょう。」 ですって?朝鮮戦争は?ベトナム戦争は?9.11の茶番で始まったアフガンは?イラク戦争は・・・・? 局地戦に限って言えば、マリア様、あなたの予言は完全に外れですね。それとも、これは既に「第三次世界大戦」の予言と解すべきものなのでしょうか?そうだとすれば、愚かというか、いまの世界は余りにも泰平ムードだ。ノアの洪水前夜の乱痴気騒ぎにも等しい。もっと危機感が必要なのではないだろうか。

第3の予言が、前教皇暗殺未遂ですでに終わったのか、実は本番はこれからなのか、神のみぞ知るだと私は思っている。だから、現教皇の警護の厳重さは、単なる彼の臆病と笑って片付けていいものかどうか・・・・

それはさておき、

 

私が何度かずつ握手したことがあり、現代の聖人だと信じている3人のうち二人の仲睦まじい写真も展示されていた。

 

 

2000年(第3千年期の前夜)にイスラエルを訪れ、エルサレムのユダヤ人の嘆きの壁で祈る教皇ヨハネ・パウロ2世。私もこの時イスラエルにいた。教皇と若者の祭典、「世界青年大会」の会場には、当時すでに「ドームス・ガリレエ」と言う巨大な施設がキコさんの設計でほぼ完成していた。この時、教皇はその部分落成式を自らの手で執り行っている。

 

問題は、ですね・・・・、次の写真です。

 

 

私たちは、この日(巡礼の2日目)の午後、「神の憐れみ」の聖地に徒歩で10数キロ巡礼することになっているのだが、このパネルによると、教皇ヨハネ・パウロ2世自身、ここを訪れてミサを司式し、この場所に対する自分の信心を公にしている事実がうかがい知られる。

実は、これが困るんですよねェ、全く!

こういうことがあると、不信心な私の霊的「花粉症」がにわかに発症し、最高に鬱陶しく私を悩ませるのでありますが、それはまた後で触れることとしましょう。

 

 

2005年、今回の巡礼の対象の二人の聖人の一人が逝った。棺に聖水を振りかけているのは、恐らくヨーゼフ・ラッツィンガー枢機卿(現教皇)ではないかと思うが、右のポーランド語の説明は解読できず、今となってはこの写真からは断言できない。

 

 

葬儀の日の空からの写真。先日の若者の集いは、混んでいたのは中央のオベリスクあたりまでだったから、広がりで約この半分、群衆の密度に至ってはこの半分以下だったろうと見受けられる。それでも75000人だった。だから、そこから演算すると、この写真の群衆は20万人を優に超えているのではなかろうかと思われる。

世界中が最高級の弔問外交を展開したこの日、日本の政府は音痴にも、「世界で最も大物の教皇の葬儀に、川口順子(元外相ではあったが)しか派遣しなかった馬鹿さ加減。政治家なら、(せめて)沢山いる首相OB、皇族なら、皇太子夫妻を出すべきだったのです」とは、私の尊敬する友人の言葉。

《つづく》

 

 

 

 

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★ ポーランド巡礼-5

2008-08-25 11:47:12 | ★ ポーランド巡礼記

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 ポーランド巡礼
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第一幕 第三場

第一景 「クラカウ市内」 第二景 「ディビノアモーレ」


巡礼だからと言って、健全な見物(観光)を拒むものではないらしい。
巡礼の詳細を立案してくれたワルシャワの神学校の院長は、実に物分かりがいい。
このガイドのお姉さんのあとについて、旧市街を案内してもらうことになった。
ポーランド人の彼女のイタリア語が文法的にきわめて正確であることは、
外国人の私にはかえってよく分かる。正確さを期する余り、時々どもったようになるところが御愛嬌だ。
まず、背後の地図では彼女に向かって左肩のところにある馬蹄形のお城に出かけた。



お城の入り口では、クジャクの羽根飾り(ちょっと見えにくい?)が帽子についた民族衣装の辻音楽士のお出迎え。
小銭のチップに気前よく、はいポーズ!



お城の中の写真は、惜しげもなく全部カットして、次は市の中心の広場へ。
(この辺りも駆け足で通り過ぎますが・・・)

聖マリア教会。入口のお乞食さん、酔って寝ていては、商売になりませんな~。
用意の小銭、ここには落ちませんでした。



正面の祭壇のヨーロッパで一番大きなお厨子は、彫りもの師にクラカウ市の一年分の税収が支払われても、
誰も文句を言わなかったというほどの見事な出来栄えだった。市民社会の信仰と繁栄のシンボルだったのだろう。



広場に面した別の教会の壁では、リジューの聖テレジアのこの油絵が目に留まった。
同じ1枚の写真にイメージを求め、世界中の教会に無数にあるこの構図の絵。実は、手の位置、顔の表情が一枚一枚違うのだ。
若いころ自分も模写を試みたことのある絵だが、この一枚が特に気に入った。
じっと見てください。控え目ながら、そこはかとなく色気が香ってきませんか?



今はもっぱら観光用だが、かつては紳士淑女の実用的なお乗り物だったに違いない。
たくさん撮った中では、これがまあましな方かな?



パンを売る人買う人、共に無名のお年寄り。 右はお馴染み、カード占いの老婆。あなたの結婚運は・・・



これは何だ? 同じ広場に不思議な花のポールが・・・



おっといけない!道草が過ぎた。先を急がねば。

町の見物の後、神学生たちは、各ホームステー先で持たされた紙袋入りのランチを公園で食べて、
そのまま10数キロの道をディビノアモーレ「神の憐れみ」の聖地まで、徒歩で巡礼を進めるることになっていた。

私は、外出を控えて休息を取っておられた平山司教様と昼食を共にするために、あの修道院へと急いだ。
一休みして、あとから車で神学生たちに追いつく手はずになっているのだ。

~~~~~~~~~~~~~

そこには古い修道院があった。若いシスターがひとり、急ぎ足で出てきた。
横からでは表情がフードに隠されていて見えない。
その顔を見たいものだと思うのだが、彼女、馬鹿に足が速い。
これでは、追い抜いて、先の方からさりげなく振りかえることなどできそうにない。
一目見たさの一念で、短い脚を交互に動かして、後れてはならじと、ひたすらあとを追った。



私は、後足で立って短い手を前に延べ、いい匂いのあとを鼻で追う漫画のネズミ状態よろしく、
惹かれてどこまでもついていった。
どうやら、向こうの円筒形のモダンな建物に向かって急いでいるようだ。
そして、予想通り彼女はその巨大な建物の裏口に消えた。



えいっ! ままよ!! とばかり、厚顔無恥にも自分も続いてそのドアを押して中に入った。
すると、どうだ! 彼女はつけられているのを知っていたのか、くるりと振り向いて、
にっこり笑ってこちらに手を振った。



この黒いヴェールと白いカラー!実によく似合っているではありませんか。
日本では半世紀も前に、この手の個性的な修道服が一斉に姿を消してしまった。
今はどこのシスターさんたちも似たり寄ったり。みんな簡単な被りものと、
ブラウスにひざ下15センチほどの色気のないスカート姿。

修道会ごとの個性も特徴もあったものではない。色もたいがいグレーか茶色?
どこかの掃除のおばさんみたいで、ちっとも美意識に訴えない。
私の姉(彼女も修道女)など完全な世俗服、ヴェールさえ付けているのを見たことがない。

それが、ポーランドではまだ、1965年に幕を閉じた第二バチカン公会議以前の伝統が、今も元気に生き残っていたのだ。
実に新鮮な感動を覚えた。



彼女は英語ができた。だからすぐに打ち解けた。(ポーランドでは意外によく英語が通じる。)
そして、なんと、思いがけない打ち明け話を聞かせてくれたのだった・・・。

では、皆さん、今日はこの辺で。さようなら。
どうぞ、続きをお楽しみに。

 つづく 

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★ ポーランド巡礼-6

2008-08-22 11:41:53 | ★ ポーランド巡礼記

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ポーランド巡礼
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第一幕 第三場

第二景「ディヴィナミゼリコルディア」 (つづき)

まずはお詫びと訂正から始めなければなりません。
前回、第二景のタイトルに「ディヴィノアモーレ」と書いたのは、実は「ディヴィナミゼリコルディア」の誤りでした。
前者は、訳すれば「神の愛」で、ローマに同名の巡礼地があり、
私の六つ前の記事「青年たちの祭典」の舞台となった場所でありました。
後者は、訳すれば「神の憐れみ」となり、それがこのポーランド巡礼の第三場、第二景の舞台なのです。
取り違えて書いている本人が、全く気付いていなかったのだから、ひどい話です。ここに訂正して、平にお許しを願うしかありません。

~~~~~~~~~~

さて、前回は思わせぶりに「どうぞ、続きをお楽しみに」などと書いたものですから、
次はどうなるか、と皆さま過大な期待を持たれたのではないかと、心配になりました。

なぜなら、私にとっては「思いがけない打ち明けばなし」でも、
読まれる方によっては、「なーんだそれだけの話か、つまらない!」とがっかりさせることにならないとも限らないからです。
現に、前回の聖テレジアの絵について「そこはかとなく色気が・・・・」と書いたら、
すかさず同級生から「貴兄の言う色気の意味不明」と鋭いコメントが入りましたものね(笑)。・・・全く自信をなくします。



その、問題の「打ち明け話」です。
わたしは、あのような過去からタイムスリップしてきたような古風でゆかしい出で立ちを好むシスターのことだから、
当世風の簡素な修道服の、いや一層のこと制服を脱いしまった、シスターたちにくらべたら、
さぞかし保守的な古い信仰形態の持ち主なのだろうと想像していました。ところが、それはとんでもない思い違いだったのです。

かえって、早々と古い修道服を脱ぎ棄てた変わり身の速い修道会の多くは、
ともすればその改革が服装などの外面的手直しに終始し、
その基本的精神は公会議以前の時代に生きた創立者の精神を公会議の精神に照らして見直し、
会則の根幹や活動の本質にまで及んで抜本的改革のメスをいれることなく、あくまでも過去に忠実に、
今も同じ道を踏襲しているのが実態ではないでしょうか。
個々の会員にしても、多くは公会議後の新しいカリスマを十分に呼吸する機会を持つことのないまま入会し
(もちろん例外はあり得ましょうが・・・)、
伝統のなかに同化され取り込まれていくのがふつうではなかったかと思います。

ところが・・・ですね、このシスターの場合、
私が日本からローマに亡命してきた高松の「レデンプトーリスマーテル」神学院の関係者であると知った途端、
ぱっと顔が輝き、「私もこの修道会に入る前は、新求道共同体の道を歩んでいたのよ!」と嬉しそうに打ち明けました。
「同じ精神の日本人にお会いできて嬉しいわ!」と、
まるで異国で同郷人に巡り逢ったような、離れていた家族に久々に出会ったような、
熱い親愛の情を顕わにし、まさに抱き合わんばかりの喜びようでした。

( これだけ? はい、これが「打ち明け話」の全てです。
やっぱり「な~んだ、つまらなかった!」でしょうか?・・
済・み・ま・せ・ん!・・・ )

~~~~~~~~~


ここで、冒頭の「お詫びと訂正」で名前の出た「ディヴィノアモーレ」の草原で展開した「青年たちの祭典」の場面を
もう一度思い起こしていただきたい。
・・・女性たちにも呼びかけがあった。 

「生涯を観想修道院の中で祈りと犠牲の生活に身を捧げることを望む女性は立ちなさい!」
すると、キコの歌に合わせて、70人の乙女たちが立ち上がって進み、壇の上に跪いた・・・。
と私は書きました。

立った乙女たちの多くはパーマをかけジーンズをはいた、ハツラツとした女性たちでした。
屈託なく、友達と連れ立って笑いながら進み出るのもいる反面、

 

中には、自分の選択と決意、
つまり、キリストの花嫁として、生涯独身で死ぬまで修道院の囲いの中で、窮屈な修道服に身を包み、
祈りと犠牲と隣人愛の奉仕に身を捧げつくす、という重大な決断に、― そして、それが神からの召命だと確信するが故に―、
今この大群衆の見守る中、立って進み、正面のあの高い檀の上に登って、ひざまづいて枢機卿の按祝を受けるという行為に、
緊張し、感動し、感極まって滂沱の涙を拭おうともしないもの・・・、
或いは、自分の意思で立ったはずなのに、まるで絞首台に曳かれていく死刑囚のように
ガクガクワナワナ震えながら行くもの・・・も少なくはなかったのです。
私は、過去何回も同種の召命の集いに参加したものとして、カメラのファインダーを通して、
その真実に肉薄した目撃証人となりました。

中には、二人の男性に支えられなければ、足がもつれて歩くことも出来ない重度の身体障害者の女性もいたし、
車椅子無しでは生活できないような女性もいたのです。
・・・そして、明らかにまだ修道院には受け入れてもらえないはずの、14―5歳のいたいけない少女までも・・・。



私がまだ神学生の頃、ポーランドのチェストコーワの「黒のマドンナ」の聖地(今回の巡礼でも立ち寄ることになっている)で
前教皇ヨハネ・パウロ2世が呼びかけた「世界青年大会」に参加する機会に恵まれた。
その時に、キコ氏の同じ召命の集いがあった。教皇の野外ミサにはポーランド人の青年を中心に数十万人が集まった。
私は、今回出会ったシスターが、その時に立った多数の乙女たちの中の一人に違いないと確信している。
彼女の明るさから、立ったことを一度も後悔していないことがうかがい知れました。

彼女たちは皆、第二バチカン公会議の後に花開いた、キコ氏の指導する運動の中で信仰を深めていった。
そして、そこでこの神の呼びかけに出会ったのです。
身にまとう修道服は古い伝統のままだが、それに包まれた精神と肉体は、教会の明日を切り開く新しいカリスマに燃えている。
いち早く改革に着手し、服装だけは簡素化したが、古い精神を今もそのまま踏襲している修道会は、
世俗化した現代社会にあって、拡大した事業を支える後継者不足に悩み、学校も、病院も、社会福祉事業も縮小し、閉鎖し、
或いは世俗の経営者に売却して現金を手にし、軒並み撤退しつつあります。

ところが、同じく召命の減少で人数が減り、高齢化して、消滅の危機に瀕しながら伝統的な修道服をかたくなに守る修道会、
特に、事業経営に手を出さず、もっぱら安い工賃の手仕事や自給の菜園で細々と生活を支えながら、祈りと苦行に明け暮れ、
隠遁生活を専らとする修道会に限り、この新しいカリスマに魂を鍛えられた少女たちが、好んで入会するようになったのです。
それは、このタイプの修道会には、もともと社会の変動に伴う流行り廃りがなかったからなのでしょう。

私はかつて、今は亡き深堀司教様と二人で、レンタカーを駆ってシチリア島をひと巡りしたことを懐かしく思い出す。
それは、宣教師の卵として高松の神学校に息子を捧げてくださったた信仰深い両親たちにお礼を言いに行く行脚でした。

その途中、アグリジェントという町に泊まった。信仰がまだ生きている小さな町だった。
日本の司教様のお通りだというニュースが、古い女子観想修道会の奥にも耳ざとく届いたのだろうか。
是非お立ち寄りくださいという伝言が宿にあった。
丘の上の門をたたくと、老婆のような修道院長が出迎えてくれた。その院長様は、もう何年も新しい入会者がありません。
このままでは、この修道院は長い歴史の幕を閉じて、解散するしかないでしょう。
どうか、後継者の若い娘たちを送ってくださるよう神様に祈ってください、と真剣に頼まれた。
そして、修道女たちの内職の手作りによる地元特産の甘い甘い練りアーモンドの生菓子を、どっさりとお土産に下さった。

その時私は、彼女の誇り、キリストの花嫁衣裳であるあの古風な修道服を無理矢理脱がされて、
公営の老人施設に収容され、チューブで鼻から栄養を流し込まれ、
孤独のうちに緩慢な死を待つだけのしわくちゃの老婆の姿を、ぼんやりと思い浮かべていた。
そして、その後私は、願われたとおり毎日祈った、とは言わない。

だが後日、高松の神学校を出たシチリア出身の司祭から、不思議なことにあの修道院にその後若い乙女たちが相次いで入会し、
会は見事の再生した、との報告を受けました。確たる根拠はないが、共同体の娘たちだろうと思った。
きっと深堀司教様が、アーモンド菓子のお礼に、約束通り毎日熱心に祈り続けられたからではないか。

今度は、若い姉妹にかしづかれ、スプーンで食べ物をいただき、最後まで尊厳を保ち、
あの修道院の奥深く誇りの花嫁衣装をまとったまま天に召されて行った老修道院長様の至福の顔が目に浮かんだ。
ああ、これでよかった、とホッとした。

今ごろ、天国では、深堀司教様と一緒に、祈らなかった不届きものの神父を、笑いながら赦してくださっていることだろうと思う。

~~~~~~~~

神学生のポーランド巡礼の話が、女性たちの話にすり替わって、すっかり道草を食ってしまった。
この調子でいくと、いつ終わるか自分でも全く見当がつかなくなってきた。

写真のシスターの「打ち明け話」が、デンマークのシスターの「お告げ」と一体どう結び付くのか、との期待にドキドキされた向きには、
完全な肩すかしを喰らわせる結果になってしまった。ひたすら「申し訳ございませんでした」と詫びる他はない。




「ごめんなさい。私のお友達だから、赦してあげてくださいね!」 (この彼女の声、届きましたか?)

次は必ず「ディヴィナミゼリコルディア」を終わりまで持って行きます。お約束します。
私の精神的アレルギー、「霊的花粉症」がテーマになるはずです。

そして、その次は、いよいよクライマックスの「アウシュヴィッツ」、ナチスの殺人工場です。

~~~~~~~~~~

追伸: 最近は、新しい記事を書くとまず第一にここの一階に住まわれている平山司教様にメールで送ることにしている。
そして、コメントを頂き、それに沿って加筆訂正したものを皆さんに開示する。
たいていは「面白かったよ!」とニコニコされるにとどまるのだが、今回はチト様子が違った。
椅子を並べて昼食をとる席で、「面白かったよ!だけどあれは日本のシスターたちには見せられないね。
余りも本当すぎるから。」とも、「正しい予言者は常に排斥される運命にあるのだ」とも言われた。
司教様から「正しい予言者」に擬せたれたことをもって、まずは勲章とするか。
私は誠実に生きているシスターたちのことを悪く言うつもりは全くない。
ただ、限りある人間が歴史の中を歩む上で直面する、避けがたい限界について光をあてたまでのことだと思っている。
こんなのとで、日本中のシスター族を敵に回すのは、実に恐ろしいことではある・・・。
しかしまあ、捨てる神があれば、拾う神もあるだろうし・・・・。敢えてお伝えする。


 つづく 

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★ ポーランド巡礼記-7

2008-08-19 11:40:50 | ★ ポーランド巡礼記

本文喪失

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★ ポーランド巡礼記-8

2008-08-16 11:39:51 | ★ ポーランド巡礼記

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ポーランド巡礼
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第二幕 聖マクシミリアノ・コルベ神父とヨハネ・パウロ2世

第一場
コルベ神父

第一景 「アウシュヴィッツへの道程」


いよいよ アウシュビッツ へ !


場面替わって、ここはいきなりバスの中です。
「神の憐れみ」の油絵を見た翌朝、我々の巡礼団一行は、ブルーと白の2台の大型バスに分乗して、クラカウを発った。
高速仕様の無料幹線道路は大変な渋滞だった。どうやらこれは毎朝のことらしい。
しかし、そんなことにはお構いなし。先ずは、元高松の神学生ダビデ君のギターに合わせて、バスの中で朝の祈りを唱える。



A4号線をこのまままっすぐに行くと首都ワルシャワに至る。
右に折れて44号線に入ると、表示板の一番下のオシフィエンチムと読めるのが、ポーランド語でアウシュビッツのことだ。



通りすがりにちらりと見えた墓地。
遠目に、おや何かある!と思って300ミリ目いっぱいに引き寄せてみると、
色鮮やかな切り花で埋め尽くされた感じがとても印象的だった。

4年近く住んだドイツでも、1年を通してこんなに花いっぱいの墓地は見たことがなかった。
ポーランドでは復活祭明けのこの頃、何時もこうなのだろうか。



この辺りから、渋滞は次第に緩和していくのだったが、バスの車中の時間を利用して、
今回のアウシュビッツに至るまでの私の魂の巡礼の跡を辿ってみることにしよう。

~~~~~~~~~~

私のアウシュビッツへの巡礼の道程は、今に始まったものではない。それはずっと古く40年以上前に遡る。

1960年代後半、上智大学の中世哲学研究室の助手をしていた頃、
学園紛争の「全共闘」学生諸兄に理解ある姿勢を示したことを大学当局に咎められ、助手の職を追われた。
故ヘルマン・ホイヴェルス師他2人の老ドイツ人イエズス会士の骨折りで、ドイツのコメルツバンクに就職が決まった。
その後、1974年からはデュッセルドルフ本店勤務となった。

ドイツに住んで間もなく、私はナチスドイツのユダヤ人に対する犯罪に強い関心を持つようになった。
だから、当時、ソ連、東欧はまだ鉄のカーテンの向こう側だったが、アウシュヴィッツの悪名はすでによく知っていた。
しかし、簡単に訪れることはできなかった。何しろ、デュッセルドルフから東独を通って車で陸の孤島西ベルリンに入るのでさえ、
軍隊の厳しい検問を何度も通過するスリルと冒険に満ちた旅だった時代の話だ。
何も隠してなくても、トランクの中味の隅々まで、また、長い柄のつた鏡で車のボディーの下もくまなく検査されるのは、
決して気持ち良いものではなかった。

何も東ヨーロッパまで行かなくとも、西ドイツにも、ナチスの強制収容所跡は幾つか点在していた。
ミュンヘン郊外のダッハウには、仕事や休暇でミュンヘンを訪れるときには、努めて立ち寄ることにしていた。
収容所の壁に隣接してあるカルメル会の修道院のシスターたちのように、そこで祈るためであったろう。
当時の私は、お金の神様の奴隷状態で、日曜に教会に行く習慣を完全に捨てていた時期ではあったのだが・・・

記録によれば、1933年3月22日に開設された同収容所は、ナチスが開設した最初の常設強制収容所であった。
ダッハウはその後の強制収容所の原型と基準になった点でも重要だ。
30以上の国々から20万人が送り込まれ、その内の3分の1近くがユダヤ人であった。
また、ここはキリスト教聖職者の収容所という側面も持っていた。
記録によれば少なくとも3000人におよぶカトリックの聖職者(修道者、司祭、司教)が収容されていたとされる。

 

「働けば自由になれる」 (ARBEIT MACHT FREI)。       
ダッハウの収容所の入り口の鉄格子にあるこの言葉は、アウシュヴィッツでも見ることになるだろう。
その後の強制収容所に共通の標語となった。

ダッハウを何度か訪れるうちに気付いたことが一つある。
それは、訪れるたびに収容所跡がよりきれいに整備され、
資料の展示方法も、よりドギツくない抽象的なパネル状のものに改められていったことだ。
ドイツ人の国民感情からすれば、忌わしい過去の出来事は、できれば見ないで済ませたい、忘れたい、
消し去りたいという思いがあっても不思議ではない。
しかし、犠牲になったユダヤ人の感情からすれば、これは人類の記憶から絶対に消し去ってはならないものなのである。
この微妙な変化に、私はこの二つの感情の綱引きの中で、前者がじりじりと力を得ている印を見る思いがした。

収容所巡礼の旅路で忘れ難い思い出がひとつある。
アウシュビッツ、ダッハウと辿っていく中で、ドイツ語の資料にザクセンハウゼン収容所というのが私の心に引っかかった。
是非訪ねてみたいと思った。西ドイツの詳しい地図の索引にザクセンハウゼンの地名を一つ見つけ出し、
ある休日に愛車を駆ってそこを訪れた。予想したより侘しい小さな寒村に着いた。
しかし、どこにも有名な強制収容所への道順を示す標識はなかった。
それで、村に一軒の食堂兼ビアホールに入って、ビールをあおっている男たちに:

「ここはザクセンハウゼンか?」
「そうだ、それがどうした?」
「 K Z(カーツェット)-強制収容所- への行き方を教えてくれないか?」 
「カーツェット?そんなもの知らネーな。なあ、みんな!」と冷たくあしらわれた。
別の巨漢が、「そんなものここいらにはネーよ。 とっととケーレ!」
貧相な見知らぬアジア人に対する感情がむき出しになった。


いささか傷つき、なおかつキツネにつままれたような思いて、バーを後にすると、車の中で考えた。
保守的、閉鎖的な田舎の住民感情から、歴史の恥部に触れられたくないという思いで、わざと教えず追い払ったか、と疑った。
それなら自分で見つけてやろーゼ!とばかりに、周辺の道を見当をつけてあちこち探索したが、結局徒労に終わった。
瞬時にして全村に情報が流れたのだろうか、気が付くと、行きずりの家々の二階の窓のカーテンの陰から、
不審なアジア人の車の動静を窺っているたくさんの女たちの視線があった。
ナチスドイツの時代の猜疑心に満ちた監視の目だった(と私は感じた)。
その日、大きな疲労感と共に、私は虚しく気落ちして帰路についた。

それは、インターネットで何でも簡単正確に検索出来る今日ではあり得ない錯誤だった。

皆さん!「なんだそんなこと知らなかったの?」と言って笑わないでいただきたい。
有名なザクセンハウゼンは、私が、西ドイツの地図に見つけた同名のこの寒村のことではなく、
ベルリンの近く、当時でいえば鉄のカーテンの向こう側の遠い遠いところにあったことに気付いたのは、
それから大分後になっての話なのだから。

さて、ローマに来て3年目だったか、私はクリスマスの休暇をポーランドのルブリンの町で過ごすことになった。
ルブリンと聞いて、すぐ、「マイダネクのあるところですね」とすらすら言える人は、強制収容所クイズで「ハナ○さん」ものだ。
正式な名称は「ルブリン強制収容所」であったが、
周辺住民たちは、この収容所を近隣の村マイダンの名前をとって「マイダネク」と呼び習わしていた。
そして戦後は専らこの名前で有名となった。

お父さんがルブリン大学の教授をしている神学生コンラード君の実家に世話になるまで、
ポーランドにルブリンという町があることを私は知らなかったし、
ましてそここにアウシュヴィッツ・ビルケナウに次ぐ規模の悪名高き「マイダネク殺人工場」あったことも知らなかった。
私のいびつな収容所熱とはその程度のものだった。

それは気温マイナス20℃以下の-それでも比較的「暖かい」-日のことだった。私は、K神学生と二人で見学に行った。
そして、そこの事実の前に圧倒された。



マイダネク収容所の有刺鉄線。

それは次のルポ証言を引用すれば十分すぎるほどだ。

「私はマイダネクで今まで見たことのないおぞましい光景を見た。
ヒトラーの悪名高き絶滅収容所である。ここで50万人以上の男女、子供が殺された。
これは強制収容所などではない。殺人工場だ。
ソ連軍が入った時、収容所には生ける屍状態の収容者1000人程度が残されているだけだった。
生きてここを出られた者はほとんどいなかったのである。
連日のように何千人もの人が送り込まれてきては残忍に殺されていったのだ。
ここのガス室には人々が限界まで詰め込まれたため、死亡したあとも死体は直立したままであった。
私は自分の目で見たにもかかわらずいまだに信じられない。だがこれは事実なのだ。」


50万人分の人の遺灰がどれぐらいの量か想像つきますか?



この写真、一体何でしょう?
直径何十メートルか、正確なことが言えなくて申し訳ないが、手前右側の階段を上がって行くと、
厚いコンクリートの皿を裏返したような巨大な屋根の下の濃い影の部分が人の背丈よりはるかに高かったように記憶するのだが・・・。
その屋根の下、氷点下の凍てつく風に吹きさらしの黄味がかった白い砂山のように見えたのが、
焼却され灰にされたた50万の男女子供の変わり果てた姿だった。
それどころではない、後で知ったことには、
この巨大なモニュメント全体が、人の灰をセメントの骨材に混ぜて造られていたことを知って愕然とした。

~~~~~~~~~~

いろいろと過去を思いめぐらせているうちに、どうやらバスはアウシュヴィッツの町に入ったようだった。
このまま44号線を直進しても、アウシュヴィッツ。右折しても、アウシュヴィッツ。
ということは、もうこの交差点の辺り全体がアウシュヴィッツということにはならないか?



バスを降りると、柳の木が淡い緑の新芽をつけて微かに風にそよいでいた。
日差しは明るく、そこには思いがけず大勢の人々がさざめく賑わいがあった。



我々の案内を引き受けてくれたのは、この女性だった。
アウシュヴィッツの数少ない生き残りの子孫ではないか?と思った。
彼女の早口で明快な説明の節々に、そしてドイツ人の犯罪の事実を厳しく指摘しきっちり釘を刺していく鋭さの中に、
ユダヤ人の執念と使命感を見る思いがした。
ドイツ人が案内したら決してそうはならないはずだった。



彼女は私たちを、このゲートの前に案内した。

「働けば自由になれる」 ( ARBEIT MACHT FREI )

ダッハウの収容所の入り口に最初に掲げられたこの言葉に、私は再びめぐり会うことになった。



このゲートの向こう側にどんな世界が展開するのか。私たちは誰と向き合うことになるのか?

それは、このドラマの次の場面でゆっくりご覧いただくことになっております。ではまた・・・。

 つづ く 》

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★ ポーランド巡礼記-9

2008-08-13 11:39:01 | ★ ポーランド巡礼記

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ポーランド巡礼
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第二幕 聖マクシミリアノ・コルベ神父とヨハネ・パウロ2世

第一場
コルベ神父

第二景 「アウシュヴィッツで見たもの」


「働けば自由になれる」 のゲートを入ったところで、ガイドさんの話は始まった。



私たちの笑わない、微笑まない、ガイドさん。
彼女の説明に聞き入る神学生たち。
車椅子は日本のための神学校の院長である平山司教様。




(可愛い顔をしかめているのは、韓国人のダミアノ・パクちゃん、彼も元高松の神学生。)

あちこちに点在する屋外のパネルの一枚にこんなのがあった。



上の絵:ARBEIT MACHT FREI (働けば自由になれる)の文字が裏返っていないから、
画家は確かにゲートの外にいる。
朝、その言葉に送られて強制労働に向かうユダヤ人たちを描いたものであるに違いない。
この確かなデッサン力、どう見ても素人の描いたものではない。

下の絵:弱り果てた、或いは多分既に死んでいる仲間を運んでいるから、
過酷な労働を終えて、疲れ果てて帰ってきたときの姿だろう。
それを同じユダヤ人の収容者の演奏する音楽が迎え、さらにその後ろには、彼らの姿を鋭い目で描く
もう一人のユダヤ人画家がいるという構図だ。もちろんここはゲートの中だろう。

しばしの間生き延びるために-または-まだ生きていることを確かめるために-ユダヤ人の芸術家たちは
必死でその作品と演奏に命を託したのではないだろうか。



あの「働けば自由になれる」の門以外、この収容所には囚人たちが出入りできる扉は他に無かったのだろうか。
収容所の周りには、高圧電流が流れているこの二重の有刺鉄線の囲いがぐるりと巡らされている。
注意して探していたら、たまたま一つ扉らしいものを見付けたが、ここにはしっかり鍵がかけられていた。



セメント杭の立て札には、

注 意
高圧電流  生命の危険 と書いてある。

ところが、不思議なことに、この警告にもかかわらず、高圧電流が流れる二重の有刺鉄線の囲いを、
どこでも自由に超えて行く者たちがいた。
極限の絶望と、ひとかけらの勇気がある者に限るのだが・・・

生きることに絶望し、死のガス室のお迎えを待ちかねた人たちが、
囚人間の俗語でさりげなく「ちょっと鉄線に行ってくるネ」と言い残して、
この鉄条網に身を投げて感電死を選ぶのだった。
この鉄線の向こう側には無論「あの世」しかない。
どうあがいても、二度と「この世」での自由を呼吸することは許されないのだ・・・。

何というあっけない解放! 何という惨たらしい救い!
月曜の朝、東京のラッシュの地下鉄を止める人たちのしぐさと重なって来る。

嗚呼、神様! あなたはどうして彼らには苦しみしかお許しにならず、
私には罪深い惰眠をむさぼることを何時までもお許しになるのですか?


展示室の模型によれば、ガス室は地下に設けられていた。
それは毒ガスを吸って死にゆく人たちの断末魔の阿鼻叫喚が
地上の囚人たちに聞こえないようにするためだった。



毒ガス発生源として用いられたチクロンBの空き缶。1941年まではただの消毒薬だった。



「女性の命」の美しいブロンドの巻き髪は織物に、坊主頭の太った女性の脂肪は石鹸に、
役に立つ部分は全て資源として無駄なく利用され、残り滓は灰にして捨てられた。

「理性」と「自由意思」を備えた人間の尊厳はどこへ消え失せてしまったのか?
それにしても、出来上がった布は意外にしなやかな上質のウールの感触だった。
しかし、それと知ってこの布を身にまとう人がいるのだろうか?
SS将校夫人とか?アドルフの愛人エヴァとか?
思っただけで鳥肌が立つ。

 

子供の靴。紳士靴。婦人靴、の山。こんなもの几帳面に分類して、一体どうするつもりだったのだろう?
まさに変質狂ではないか?

 

義手、義足、松葉づえ、コルセットの山。身体障害者はただそれだけで「生存するに値しない生命」として焼却処分の対象とされた。

私は思った。奇形、ダウン症、異常の発見された胎児は堕胎され、動けなくなった老人は合法的に安楽死させられる現代社会を、ナチスは単にわずか数十年、時代を先取りしたに過ぎなかったのではではないか。
彼らは、出る釘は打たれるの例え通りに、運悪く貧乏くじを引いてしまったただけではなかったか・・・。

今の社会は、同じことをうんとスマートに、さりげなく、「みんなで渡れば怖くない」赤信号のように、
麻痺し切った感覚で渡っているに過ぎないのではないのか。



シャワーを浴びた後で見付けやすいようにと、大きな白い文字で自分の名前を書いたカバンの山。
時代を思わせる丸い玉の眼鏡の山。歯ブラシの山。ヘアーブラシの山。○○の山、××の山・・・・・。
これ以上写真を並べようとしても、吐き気がしてどうしようもないから、この辺で止めておこう。

裸で入るときまではまだ生きていた男女の廃棄物は、硬直し動かない物体に姿を変えてガス室から運び出され、
ここでゴミとして焼却された。ドイツ当局の性能書では、一昼夜に340体を焼却できることになっている。
単純計算では、1年間で12万4100体。
こちらは大体計算が合う。フル稼働でそれぐらいの処理能力がないと犠牲者の数に合わなくなってくる。
しかし、はてな、待てよ? と思った。

昨年の夏、四国の斎場で深堀司教様の火葬に立ち会った。確かお骨揚げまで1時間ほどを要したと思う。
これよりも大がかりで性能も遥かに優れていると思われる日本の最新式火葬場の場合がそうだった。
それを矢継ぎ早に休みなく稼働させても一昼夜で一基につき24体。
同じ速さなら340体を灰にするためには少なくとも14~15基の焼却炉を必要とすることになるが、
ここには確か6基ほどしかなかったように思う。
この素朴な炉が日本の火葬場のより倍以上も性能がいいとはどうしても思えない。
サンプルだけ残してあとはみな片付けてしまったか?????、
単純な数合わせが何処から押しても食い違ってくるのはなぜ?
この点について、誰も疑問に思わないのが、私にはまた不思議に思われた。



もう一つの疑問。なぜアウシュビッツにはルブリンの「マイダネク」で見たあの巨大な人間の灰の山がないのか?
解放当時はあったが、見るに堪えず、その後ドイツ人社会が組織的に抹消してしまったとでも言うのか?
それについても、案内の彼女はひと言も触れてくれなかった。

一気にここまで書いて、ふーっとひと息。

腕組みをして思った。量としては、もう目安の一回分を十分に超えている。
一本調子でここまで来て、何のドラマティックな展開もなかった。

読者の集中力もそろそろ限界だろう。それに、あと少々続けたところで、大きな区切りにはとても届くまい。
だから、もう一枚展示パネルの写真を張り付けてお仕舞いにするとしよう。



「歴史を記憶に刻まない者は、きっと また 同じ目に会うに違いない。」
(どう訳せばいいかまだ迷っているが・・・とりあえず)
ジョージ サンタヤーナ

~~~~~~~~~~~

ちょうどこれを書いている時、親しい友人のT氏から前回の記事に対するコメントを頂いた。
ご本人に無断で数行を引用させてもらうことにした。(きっと赦してくれますよね!Tさん?)

谷口神父様

アウシュビッツもそうですが、人間は信じられないほど残虐になれますし、
多分、いまでもどこかで残虐な行為が行われていると思います。
(我々は誰もがそうなりうると自戒していなければなりません。)

ナチの行為(あるいはそれと同じような人が人に対して行う残虐行為)
そのものが許されることでないのは言うまでもありませんが、
それによって引き起こされる被害者側の人間性喪失はもっと悲惨だと思うのです。

ですから、そういう逆境にあって発揮される人間性には多大の感動を覚えざるを得ません。

一瞬にして閃いた。そうだ、この最後の一節を次の記事の「主旋律」として頂こう! と。


《 つづ く 》

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★ ポーランド巡礼ー10

2008-08-10 11:37:50 | ★ ポーランド巡礼記

急ピッチでまた更新しました。

なぜこの巡礼を始めることになったか?その不思議な由来は、

「ポ-ランド巡礼ー1」 に書いてあります。(ぜひ 1~13 を通して読んでください)

それを読まれると、なるほど!と納得されるでしょう。

~~~~~~~~~~~~

ポーランド巡礼 (その-10)

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第二幕 聖マクシミリアノ・コルベ神父とヨハネ・パウロ2世

第一場
コルベ神父

第三景 「コルベ神父の殉教」


もったいぶって話を引き延ばすのはもうやめにしよう。前置きはもう十分だし、先を急がねばならないし。
今回の巡礼の最も重要な目的地はこの写真の場所、アウシュビッツ強制収容所第11号棟「死の家」の地下にある第18号監房をおいて他にはあり得ない。

写真撮影は禁じられていたが、建前はあくまで建前。どうかお赦しあれ!

(隠し撮りだから無論フラッシュは使っていない。
よ~く見ると、太い鉄格子の外に赤いカップローソクが置かれている正面の小窓は、中の薄暗さとのコントラストで白飛びしているが、それ自体、地面より低いところにあるコンクリートの穴だったことは後で明らかになる。
室内のローソクの影は、手前上部やや右に寄って明りが2灯あることを示している。
高いほうの蝋燭が、そう、1.5メートル前後だったろうか。
と言うことは、この部屋は4畳半よりはちょっと広いとしても、6畳まではないということか。
この狭い空間に裸にされた10人の囚人が餓死するまで2週間放置された。無論トイレなどない。
実際は大小垂れ流しの汚物と悪臭に満ち満ちていたにちがいないのだ。人間の尊厳などあったものではない。)



三本のローソクの前のプレート文字、この写真から判読すると:

CELL IN WHICH IN 1941 DIED PRISONERS SENTENCED 
TO DEATH BY STARVATION AS A RESULT OF COLLECTIVE 
RESPONSIBILITY FOR EXCAPES. ONE OF THEM WAS
FATHER MAXIMILIAN KOLBE, THE POLISH PRIEST WHO
SACRIFICED HIS LIFE TO SAVE ANOTHER PRISONER
.


すなわち、
1941年、脱走した囚人たちに対する集団的責任を問われて、
餓死の刑を言い渡された囚人たちが死んだ監房。
その一人が他の囚人の身代りに自分の命を犠牲にした
ポーランド人司祭  マクシミリアノ・コルベ神父だった。

とあった。

現在、ユダヤ人が管理すると聞いたこの収容所跡でも、この事実だけは書き表さないわけにはいかないのだ。

写真が売りの私の巡礼記。なるべく長い記事は避けたい。
そこで、彼の生涯をWikipediaから取って、それを最大限要約すると、およそ次のような短い文章になった。

しかし、このままでは余りにも無味乾燥。
まるで古い固いパンのようだから、少しは美味しく食べられるよう、ちょっとだけ赤字のジャムをつけることにしよう:


マキシミリアノ・マリア・コルベ神父は1894年にポーランドで生まれた。
コンヴェンツアール修道会に入り、神学生としてローマに留学していたとき、仲間とともに「聖母の騎士信心会」を設立した。
司祭に叙階された後、1927年にはワルシャワの近くの町に「ニエポカラノフ修道院(無原罪の聖母の騎士修道院)」を創立し、
「聖母の騎士」という小冊子を発行してメディアによる宣教に力を入れた。
ニポカラノフには我々も後で訪れることになるだろう。

1930年、ゼノ修道士らと来日すると長崎でも日本語版の「聖母の騎士」誌の出版を開始した。
1936年に故国ポーランドへ戻り、以後出版やラジオなどを通じての活発な布教活動を行っていたが、
1941年5月にナチスに捕らえられた。
雑誌や日刊紙がナチに対して批判的なものであったからとも伝えられている。
その後、アウシュビッツの強制収容所に送られた。
彼の貧しい生家は今は資料館。そこを訪れた時、当時の彼の雑誌に出会うことができたのだった。


1941年7月末、脱走者が出たことで、無作為に選ばれる10人が餓死刑に処せられることになった。
名指しを受けた囚人の一人、フランツェク・ガイオニチェクというポーランド人軍曹が「私には妻子がいる。死にたくない!」と叫びだした。
この声を聞いたとき、コルベは「私が彼の身代わりになります、私はカトリック司祭で妻も子もいませんから」と申し出た。
責任者であったルドルフ・フェルディナント・ヘスはこの申し出を許可し、コルベと9人の囚人が地下牢の餓死室に押し込められた。
予想外の申し出でにヘスはどんなに驚き、たじろぎ、ためらったことか。
宣告を受けた囚人の身代りになって餓死室に行った者がいるという信じがたい噂は、あっという間にアウシュビッツの全囚人に知れ渡った。
そしてその日、収容所全体に不思議な静寂と感動と希望がみなぎったと言う。

通常、餓死刑に処せられるとその牢内において受刑者たちは飢えと渇きによって錯乱状態で死ぬのが普通であったが、コルベと9人は互いに励ましあいながら死んでいったといわれている。
2週間後、コルベを含む4人はまだ息があったため、フェノールを注射して殺害された。

1982年10月10日に同国出身の教皇ヨハネ・パウロ2世によって列聖された。
式典にはコルベに命を助けられたガイオニチェクの姿もあった。彼は戦後世界各地で講演を続け、死ぬまでそれを行っている。

1998年にはロンドンのウエストミンスター寺院(聖公会)の扉に「20世紀の殉教者」の一人としてコルベの像が飾られた。



左端が聖コルベ像

この後は、美味しいジャムの大盛りをおまけに添えたいと思う。
平山司教様は、86歳の高齢で、この半年余りパソコンに挑戦されている。
私もいささかお手伝いしているが、その上達ぶりには目を見張るものがある。
文書作成はもうお手の物。メールの遣り取りはもちろん、私もやらないスカイプにも挑戦しようかという勢いはとどまるところを知らない。

この巡礼についても、独自の記録を書いておられる。その為にわざわざ日本から本まで取り寄せて読破される気合の入れようだ。

私は怠け者だから、後追いでそれらの本を読ませてもらう気力はないが、書かれた原稿の一部はコピーにして頂いた。
本からの抜粋、又はその要約と思われる部分を中心に、それをさらに自由に圧縮したかたちで-もちろんご自身の承諾を得たうえで-以下に引用させていただくのである。

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餓死監房では水一滴も与えられない。
渇きのために悶え苦しみ、獣のように吠え、狂い、絶望的にうめく声が闇の中に聞こえてくるのを
囚人たちはたびたび聞いて知っていた。
「こんなに苦しむ位なら死んだ方がましだ」と何度思ったかしれない囚人たちも、
この餓死の刑と聞いただけで恐怖のあまり身が凍るのでした。

以下は獄吏の証言です。
犠牲者達が11号棟の地下の飢餓室に入った時、隣の牢獄にはすでに20人の囚人が同じ刑によって死を迎えようとしていた。
断末魔のうめき、叫び、泣き声が壁を通して此方まで聞こえてきていました。

今までの例によると、この獄舎に入れられた者は、特に最初の数日間は渇きと絶望に苛まれて、気が狂ったように泣きわめく声と、叫びと、怒号と、うめきに包まれるのが常でした。
ところが、驚いたことに、この度の囚人たちは全く今までと違って、この獄舎からは祈りの声が、讃美歌の声さえ聞こえていたのです。
しかも獄吏達が入って来ても気がつかぬほど一心に祈っていた。こんなことは今まで見たことがない。
また、様子を見に来た看守は、牢獄から聞こえる祈りと歌声によって餓死室がまるで聖堂のように感じられた、と証言しています。
また、信じがたいことですが、この死に向かう囚人たちが賛美歌を歌うと、隣の牢獄からも細い弱々しい声が唱和していたとも証言しています。

一日、二日とたつうちに次第にその声は低くなり一人二人と死んでいったのです。
ポルゴヴィオクという獄吏は毎朝死体を片づけるために部屋にはいりましたが、コルベ神父は跪くか立って祈っていたと証言しています。
コルベ神父の澄んだ目に見つめられると堪らなくなって「俺を見るな、あっちを向け!」と叫んでいたと云います。

日がたち獄舎を沈黙が支配しはじめた8月14日、獄吏達は全部を早く片づけるためにコルベ神父のいる室に入りました。
其の時生き残っていたのは4人でしたがはっきりした意識を持っていたのはコルベ神父唯ひとりでした。
コルベ神父はもう立つことができず壁に寄り掛かって座っていました。
神父の澄んだ眼に見つめられるのに耐えられない獄吏達は「俺を見つめるな」と言いながら腕で顔を隠しながら近づきました。
コルベ神父は獄吏が注射針を持っているのをみて腕を静かに差出しました。
ボルゴヴィオクは耐えられなくて室から逃げるようにして出たと云っています。

8月14日は聖母マリアの被昇天の祭日の前日でした。
「聖母マリアを愛して、聖母にたえず祈り、聖母にすべてをゆだねてきたコルベ神父を、マリア様はその喜びの日に迎えてくださったのでしょう。」

いま迄と違った今度の受刑者に何が起こったのでしょうか?永遠のいのちの希望を彼らは見たのです。主は最後の晩餐の中でご自分の死を前にして仰せになりました。
「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」(ヨハネの13)と・・・。
コルベ神父はこの言葉をキリストに従って文字通り生きたのです。

彼らはコルベ神父のなかに、たとえ、この世のいのちを奪われても、奪われる事のない尊いもの、永遠のいのちがあることを無言のうちに見てとったのでしょう。
彼らの心には、もう目の前の苦しみを超えていく力、人間の魂を衝き動かす、永遠なる希望が生じたのでしょう。
人間がこの世に生まれてきた目的はこの永遠の命のためだったのではないでしょうか。

アウシュヴィッツは、人間の愚かさ、神を見失ったとき人間がどれほど残酷になるか、惨めな者になるかを思い知らされます。
逆に、この地上の地獄のような収容所でも、人間が神の愛に支えられるとき、どれほど崇高な者となることが出来るかをコルベ神父の死は私達に示してくれた場所でもあります。

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さて、ここからは再び谷口神父です。前回の記事の終りに、私は友人からのメールを引用して、次のように書きました。

谷口神父様

アウシュビッツもそうですが、人間は信じられないほど残虐になれますし、
多分、いまでもどこかで残虐な行為が行われていると思います。
(我々は誰もがそうなりうると自戒していなければなりません。)

ナチの行為(あるいはそれと同じような人が人に対して行う残虐行為)
そのものが許されることでないのは言うまでもありませんが、
それによって引き起こされる被害者側の人間性喪失はもっと悲惨だと思うのです。

ですから、そういう逆境にあって発揮される人間性には多大の感動を覚えざるを得ません。

一瞬にして閃いた。そうだ、この最後の一節を次の記事の「主旋律」として頂こう! と。

~~~~~~~~~~

今度の記事は、この一瞬の閃きに導かれて一気に書いたものです。私の写真は敢えて一枚に限定しました。
もう一度その写真を見ながら、しばし余韻を楽しんでください。

真ん中のローソクはカトリックの教会で復活節に用いる「復活のローソク」で、
蘇って今も神の国で生きている主キリストを象徴するものです。

《 つづ く 》

コメント (3)
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