:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 〔一部補足〕 バチカン市国の飛び地に友達を訪ねて

2012-12-31 11:18:03 | ★ 日記 ・ 小話

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バチカン市国の 「飛び地」 にお友達を訪ねて

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バチカンはれっきとした国家だ しかもカトリックの総本山という政教一致の宗教国家だ

ユタ州のソルトレークシティーはモルモン教の町 天理市は天理教で持っているかもしれない

しかし 国連にもオブザーバーを出して 世界中の国と大使・公使を交換している宗教国家は

バチカン市国 を措いて他にはない

(それが宗教としていいか、悪いか、の議論は別にあろうが)

イタリア半島は ベネチアや フィレンツェや ナポリ王国や 諸侯領や にばらばらに分割されていて

中世にはカトリック教会(と言うか、キリスト教)はそこに広大な法王領を展開していた

近代国家らしい体裁を整えるのは1929年にムッソリーニが教皇庁とラテラノ条約を結んで以来で

特に第二次世界大戦後の1946年に国民投票で王政が廃止され 共和国に移行して以来の

イタリアはいわば新興国だ

バチカンはテベレ川の対岸のディズニーランドよりも小さいバチカン市国に退いたが

ローマ市内 イタリア国内に 点としての多数の領地を今も保持している

スペイン広場の一角にも バチカンの重要なお役所が収まる治外法権の教皇領の建物がある

知人にちょっとした用があって朝からそこへ出かけた

 

スペイン広場の東側にスペイン大使館があり 広場の名前の由来はそれから来る

国旗の翻る大使館の前はイタリア軍の兵士が警備にあたる

 

山岳兵の帽子のようなのをかぶった警備兵

 

大使館の南隣がバチカンの飛び地のお役所で そこに知り合いを訪ねた

訪問客の控室のインテリアは結構気品がある

 

    

部屋の外にはピオ12世と ヨハネス23世の胸像が並んでいる

左のピオ12世は第2次世界大戦中ナチスドイツのアウシュヴィッツなどにおける

ユダヤ人のホロコースト 民族絶滅計画による殺人工場の犯罪行為に関する情報を

世界中で一番豊かに正確に知り得る立場にありながら

それを阻止するために その絶大な影響力を有効に行使しなかったのではないか

という疑惑をかけられた

右のヨハネス23世は 戦後ピオ12世が世を去ったのちの教皇選挙が二派に分かれて紛糾し

教皇がなかなか決まらなかったとき 一時休戦とばかりに

温厚で敵がいない 何もしそうにないお人よしで しかもすぐに死にそうな高齢者 として選ばれた

彼は 貴族の家系に生まれた前任者のピオ12世とは対照的に

ベルガモ郊外のソット・イル・モンテで小作農の家に生まれた

そのお爺ちゃんの彼が あろうことか 第2バチカン公会議の実施を指示して世界を驚かせ

実際に開会までこぎつけたが 案の定 彼は会期途中で世を去った

 これは 神様のみ業でなくて なんだったろうか?


用件を済ませて ほっとして 明るい外に出た

 

スペイン広場の噴水の向こうに 陰で暗くなっているが 映画ローマの休日でも有名な

スペイン階段がある 階段の中段に円錐型の緑の樹をかたどったクリスマスの飾りが置かれていた

下のブルーの帯には

LUCE PER LA LIBERTA', LIBERTA' DALLA FAME

自由のための光を 飢餓からの自由を!

と言うスローガンが書かれていた

 噴水と階段を背にして ローマで一番ファッショナブルなコンドッティ通りを20メートルほど進むと

左にブルガリのお店 その向かいに カフェ・グレコ がある

 

  

創業250年と言えば  日本では桃園天皇が没し 第117代後桜町天皇が即位したころ

 ロシアでは女帝エカチェリーナ2世が即位したころ と言ってもピンと来ないか

要するに 江戸時代中期 8代将軍 徳川吉宗の時代からここにこうして店を構えていた

と考えて頂きたい

 

中は古い絵画が壁を飾り 洗練された物腰のウエイターが注文を聞きに来る

ちょっとしゃれて 赤ワインをグラスで頼むと オリーブやミニサンドイッチが黙って付いてくる

 

 私の目の前には

カフェ・グレコを訪れた バファロー・ヒルズ と 赤い肌の男

の古めかしい写真があった 彼らが使ったテーブルと椅子を私も使っているのだ

 

たっぷりタイムスリップを堪能してから外に出ると 軽やかなリズムが流れてきた

 

一本脇の静かな道に入ると ミドリ一杯のヴェランダが優しく迎えてくれる

 

路地の車の屋根の上にはカモメが一羽 一羽ならきれいな置物の風情だが・・・・

 

  そのカモメの群れが日暮れの空を数百羽群舞すると 「凄い」というか 「不気味」な感じさえする

(前晩 聖ペトロ広場の上を舞うカモメの群れ 奴ら鳥目 ではなかったのか?

 

カフェグレコからかなり行くと 朝のカンポ・デイ・フィオリ(花の広場)の一角は文字通り花で一杯

(手前 一番左の影が この写真を撮っている私の影ですよ~!)

 

  

広場の他の一角は 香辛料 スパイス屋さん

 

  

野菜屋さんなどがいっぱい店を出している ただしこの市 昼の13時まで その時かっきりに市は店じまいに入り

1時間ほどで すべて煙のように消え失せる その後を市の清掃車が掃き清めると 先の師走風景に紹介した

夜のカンポ・デイ・フィオーリの広場に変身するのだ

 

* * * * * *

 

私は 軽く  〔風景〕 ローマの師走 を2度に分けて書いた後

「ローマの老老介護」

「急速に進むカトリックのプロテスタント化」(その-①)「否定的側面」

「急速に進むカトリックのプロテスタント化」(その-②)「肯定的側面」

の3本のブログを書くつもりで 頭の中ではほぼ出来上がっている しかし

年が明ければまた忙しくなる 呑気に毎日1時間も2時間もブログを書いて遊んでいる暇はなくなる

また 1週間 10日と沈黙する日々が来るだろう 

それまでの 冬休み休暇のお遊びに付き合ってくださって有り難う 先取りして

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明けましておめでとうございます 新年もよろしくご贔屓に!

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★ 〔風景〕 ローマの師走-② パンテオンからカンポ・デイ・フィオーリへ

2012-12-29 06:10:26 | ★ 日記 ・ 小話

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〔風景〕 ローマの師走-② 

パンテオンからカンポ・デイ・フィオーリへ

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まだここはナボーナ広場 

 

様々な大道芸人に交じって ペルーのインディアンの踊りもあった

強い太鼓の響きに乗って左の男はコンドルの舞を舞う 

 

輪投げに真剣なまなざしで挑む男

胸にも腹にも背中にも刺青 冬の夜 気温16度C

 

パンテオン前の広場は意外と人出が少なかった

ギリシャ神殿を思わせるファッサードの後ろは

約2000年前に建てられたローマの誇る煉瓦積みの建物

今は教会として使われているが ローマ時代の建造物で現役のままはここだけ

 

そのパンテオンの陰でもの悲しいジプシー風のメロディーを奏でる若者

 

彼は本物のジプシーだと思うが まれにコンセルバトーレを出たプロが

趣味で大道芸人をまねることがある 道行く人はたいてい気が付かないのだ

 

 天津甘栗より大粒で自然な味がする 焼き栗はローマの冬の風物詩

 

見上げると 4時半ちょっと前 空はそろそろ暗くなる

 

 

 コミカルな3人組 カンツォーネ 民謡に さらに語りが入る

  

 ローマの街には大道芸人があふれ返っている 自由な雰囲気がある

日本ではすぐお巡りさんや さもなければヤクザの干渉が入るが ローマには全くそれがない

その点は成熟した社会の落ち着きみたいなものがある

 

 

 緯度は津軽海峡ほどか 夜が長いので イルミネーションが映える

 

ジェラートの本場 銀座でもなかなか真似が出来ない


ファンは若い娘とは限らない 子供も おばさんも 全く目がない


 12月 1月 2月 は結構雨も降るのだが イタリア人は冬でも外で飲み食いするのがお好きなようだ

   

 年中流しっぱなしの飲み水 人も 動物も 飲み放題

 

 この水 ローマ時代に建設された水道橋で今も60キロほど南東の山から引かれている

当時のローマ人の土木技術のレベルの高さには脱帽

 

 

 

 

 

 

 

 

 

  

 

 

                      

   

古い建物の壁にモダンなウルトラ・インターネット回線の広告

            その光の先には熱い雰囲気の二人が

 

 

 

 

 

 

  

足を伸ばしてバチカンは聖ペトロ広場に 

オベリスク(エジプトから運んできた石の柱)の右にはイルミネーションを施した大きなモミの木が

オベリスクの前の囲いの中には青い光の空間が広がる

 

 

その空間の中には巨大なミニアチュア―のベトレヘムの街が広がる

右手前の見物の人のシルエットの間にイエスの誕生の馬小屋が見える


ローマの歳末風景 おわり

 

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★ 〔風景〕 ローマの師走-① ナボーナ広場

2012-12-27 23:43:29 | ★ 日記 ・ 小話

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〔風景〕 ローマの師走-①

ナボーナ広場

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しまった カトリックの内輪のお宅っぽい話のドツボにはまっていたのに気が付いた

これでは「ウサギの日記」の多くの読者を突き放してしまう

何とかしなければ! ではどうすればいい?

? ? ? ? ? ?

 ふと一人になりたくって 車を出して神学校を抜け出した

今は一年で一番日が短い季節 4時半にはとっぷり暮れはじめるだろう

定番のスポットはローマで一番美しい広場と言われるナボーナ広場

クリスマスの飾りを売る店や 射的や 食べ物屋が並ぶ

日本の縁日や羽子板市のような雰囲気だ



広場に入ると風船屋がいた 見ると 広場の隅の あそこにも あっちにも 華やかないろどりを添えている


風船の糸をしっかり握った女の子の写真を撮ろうとしたら お父ちゃんがしっかりポーズした


広場の中ほどにはメリーゴーラウンドが アコーディオンの軽やかな音楽に乗って回っていた


メリーゴーラウンドは幼いころの夢の乗り物

私のように第二次世界大戦後の欠食児童にとっては おとぎの世界の乗り物だった


まわれ まわれ しっかり幼い日の夢を刻め  まわれ まわれ

 

サンタのおじさんと 魔法使いのおばさんと 両親と一緒に はいパチリ

この橇は二頭のトナカイに引かれているのだ

 

私に言わせりゃ ありゃ魔法使いじゃないね 魔法使いは美人にゃ似合わないんだよ

 

私だってね あのくらいの年ごろには ここにこうして書いてもらったものだよ

と 後ろのお婆ちゃん

 

わたし 描いてもらっちゃった

 

あたしもよ

 

あたしも いま 画いてもらってるところよ (すごく上手だった 陰の声)

 

射的やのお姉さん いま何か月? ピストルなんか持っちゃって

 

バンビーノ・ジェズ(幼子イエス)はいかが? おまけつきで安くしとくよ 買っていきな

 

 

買うなら 断然こっちだな ポルケッタ(豚の丸焼き) 薄切りを挟んだパニーノは実においしい

悪いけど バンビーノでは お腹膨れないものね

 

いいえ 心の糧に 妖精の音楽は如何?

大小 色んな形の クリスタルガラスのコップに水を少々いれて 音程を整え

水で濡らした両手の指先で軽くこすると 澄んだ音色の和音が響き出す

クラシックのメロディーから クリスマスソングまでを 達人の業でつむいでいく

ここにも1ユーロ気前よくはずんだ

 

私には何の芸もありませんが (そうなんですこの人 と 膝の上のワンちゃんが独り言)

内気そうな物乞いのおじさん 大きな空の容器に

写真撮らせてくれたお礼の1ユーロコインが コロンと音をたてた

*******

このあと 裏通りを抜けて カンポ・デイ・フィオーリ(花の広場)へ

(それは次回のお楽しみに)

 


 

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★ 《異例の抜擢》  元イエズス会日本管区のメンバー  ルクセンブルグ司教に叙階

2012-12-25 23:03:09 | ★ 福音宣教

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異例の抜擢 

元イエズス会日本管区のメンバー

ルクセンブルグ司教に叙階

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 2006年4月1日以来、上智大学の経営母体であることで有名なイエズス会の東京都中野区若宮の司祭養成センター「三木ハイム」で責任者をしていたオロリッシュ・ジャン・クロード神父が、ルクセンブルグの新しい司教に任命された。このニュースは小さなショックを伴って我々仲間の神父の間を駆け抜けた。

 日本のイエズス会と言えば、元日本管区長で現総長のニコラス神父に代表されるような、インカルチュレーション路線のイデオロギーの理論的な指導集団と理解されてきた面があり、ケリグマ(福音)の告知をもっぱらとする直接宣教のカリスマの前に立ちはだかる厚い壁のように思われがちだったからだ。もしかすると、アジアだけでなく、今後はヨーロッパにもそのようなイデオロギーが伝播するのではないかと一瞬身を固くした。

 しかし、その後伝わってきたニュースや解説はそのような不安を払拭するに充分であった。パリの新求道共同体のカテキスタのジュリアーナの話によると、彼の司教任命の陰にはわれわれの大のお友達であるケルンのマイスナー枢機卿の尽力があったそうだ。ジュリアーナが大喜びしているという事実は、オルリッシュ新司教が新求道共同体に対してきわめて友好的であることを示唆しているのではないだろうか。

 この異例の人事が、今後日本の教会に対し、日本の新求道共同体の活動の上に、直接・間接に何らかの影響が現れるか否か、目が離せない。

(おわり)

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★ 「コメント」への「コメント」 一部補足しました(12月22日)

2012-12-22 08:12:45 | ★ 神学的省察

 

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「コメント」 への 「コメント」

一部補足しました(12月22日)

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前のシリーズに興味深い「コメント」があったので、「ブログ」本文に取り上げて「お返事」したいと思います。


Unknown (Unknown)

2012-12-19 16:21:07
こんにちは。
前回の記事(その-4)に最初のコメントをした者です。

結局は、「復活」を信じることができるかどうかにかかっているということでしょうか。
誰もが死んですぐに復活する。いつ死んでも同じ。ということは分かりました。
いまいちスッキリしませんが、まだ「付録」があるようなので楽しみにしています。
(できればクリスマス前にお願いします;)

肉体がなければ霊魂は全くの無力…では、サウルに頼まれて、死んだサムエルの霊がイタコを通して語った場面は例外?

>教会の中でしか通用しない古いおとぎ話的で幼稚な解釈や理解に対して、
>現代人の知性の批判に耐えられるより実際に適った表現を模索する

こういう話をわたしは求めているのだと思います。
お察しの通りわたしはカトリック信徒ですが、信仰に入って3年程度です…。無宗教の家庭に生まれ育ち、長い間無神論者でした。(七五三も初詣もしたことがない!)

ということで次回も期待していますね~。


お返事いたします:

「肉体がなければ霊魂は全くの無力…では、サウルに頼まれて、死んだサムエルの霊がイタコを通して語った場面は例外?」

旧約聖書の「サムエル記」(上)28章の物語ですね?!

《タイトル》サウル(イスラエルの王)口寄せの女を訪れる。

共同訳聖書のこの28章の書き出だしには「そのころ、ぺリシテ人はイスラエルと戦うために軍を集結させた・・・・」で始まります。

 旧約聖書は続けます:

サウルはぺリシテの陣営を見て恐れそのこころはひどくおののいた。・・・・サウルは家臣に命令した。「口寄せのできる女を探してくれ。その女のところに行って尋ねよう。」家臣は答えた。「エン・ドルに口寄せの女がいます。」サウルは変装し・・・女のもとに現れた・・・。
そして、話は女が口寄せすると死んだサムエルが現れて王と対話する場面へと続く。

やや漫画っぽく現代日本語に翻訳してみましょうか。

ぺリシテ人とはパレスチナ人のことです。なんで聖書翻訳者は「パレスチナ」という言葉の代わりに「ぺリシテ」なんて言う耳慣れない言葉を使ってわざと聖書をわかりにくくするのでしょうね?

「パレスチナ側はイスラエルと戦うために(ヨルダン川西岸地区に)軍を集結させた」と言う表現なら、そのまま立派に今週の「ニューズウイーク」のトップの見出しにもなりそうな場面ですのにね。

しかし、その記事が続けて、スラエルの首相ベンヤミン・ネタニヤフ氏は戦いが怖くなってヤーウエの神に託宣を求めたが、神は夢にも現れてくれなかった。それで、迷信深くなって口寄せ女に走った。伝えるところによると、今は無きアリエル・シャロン首相が現れて・・・・と言ったそうだ。・・・」と大真面目に書き立てれば、現代の大スキャンダルになること必定です。次の週、ニューズウイークを買う人は半減するでしょう。

そんなバカバカしいことを、現代の知性は受け付けません。

しかし、ブッシュ大統領は、9.11のあと、イラクやアフガニスタンに侵攻する前に、プロテスタントの一派の保守的教団の牧師にお伺いを立てたとか立てなかったとかいううわさを聞いたが、もし本当なら、笑っては済まされない恐ろしいことです。

ベネディクト16世教皇が、現代のカトリック教会の衰退を憂いて、「口寄せ女」のもとに走ったら、前教皇「教皇ヨハネパウロ2世」が姿を持って現れて、一緒に嘆いて慰めてくれた」とバチカンの広報誌「L’ オッセルバトーレ・ロマーノ」が写真入りトップ記事に大真面目に取り上げたら、バカバカしくなって多分私は神父を辞めますね。

サウルの口寄せの一件は、旧約聖書が書かれた時代、そして書きとめられた伝承が生まれたそれよりもっと古い時代のユダヤ人の宗教観、知的水準が、当時の異教徒の社会と似たり寄ったりの迷信深いもので、今のカトリック教会が「バカバカしい」として一笑に付すレベルのことをごちゃ混ぜに含んでいたということのいい実例にしかすぎません。

大切なのは、話の筋のバカバカしさではなく、そういう話の中に含まれる教訓的要素や、象徴的に示唆される意味内容でしょう。その意味でのみ、聖書は時代と共に古びて廃れることなく、聖典としての価値を保つことができるのかもしれません。

「肉体がなければ霊魂は全くの無力…では、サウルに頼まれて、死んだサムエルの霊がイタコを通して語った場面は例外?」

例外ではなくて、その聖書の記事は、現代の知性にとって文字通りには受け入れがたく神学的にも成り立たないただの寓話、面白い「むかしばなし」の類として理解すべきものです。それをもって、この場合に限り死者の眠っているはずの霊がこの世の歴史に介入してくる例外的ケースとする必要は全くないと思います。

同様のことは、イエスの「金持ちとラザロ」の物語(ルカ16章19節以下)にも当てはまります。

私は、イエスとその母マリアの二人を例外として、大聖人から極悪人に至るまで、全ての死者の魂は「無」乃至は「深いねむり」の中に居て全く意識のないまま、時間の経過も知覚せず、ひたすら世の終わりと体の復活を待っていると考えています。

「では、聖人の取り成しを願ったり、失せ物探しの時に聖アントニオ様にお祈りするのは無意味なことか?」「それはカトリック教会の美しい伝統ではないのか?」「聖人が眠っていて私たちの祈りを取り次いでくれないとしたら、わたしたちの祈りは一体どうやって神様に届くというのだ?」と真顔で詰め寄ってきた、自称正統派カトリックの信者から、非難を込めた問を受けて、異端まがいの無知なアジア人神父と見下された経験があります。

そんなとき「アハハ、ついに馬脚を表わしましたね!」と皮肉を込めて私は内心笑うのですが、喧嘩になるので言葉には出さず、ぐっとこらえて非難を受け流します。

そう言って私を非難し難詰する人たちは、大切なことを一つ忘れていないでしょうか?

聖人が死んで五感を奪われてつんぼになってい居たとしても、わたしたちが一見無駄な祈りをしているのを神様はそばで聞いていらっしゃらないでしょうか?聖人は取り次ぐことができなくても、聖人を当てにして祈っている私たちの心情と祈りに神様は知らんぷりを決め込まれるでしょうか。私たちの心根を酌んで眠っている聖人に代って聞いて直接答えては下さらないのでしょうか。

若い夫婦だって、自分たちの愛する幼子が何日も前から毎晩寝る前にサンタクロースに欲しいプレゼントのお願いの祈りをしているのを聞いたら、イブ24日に寝静まった枕元にそのおもちゃの包みにリボンをかけて、「サンタのオジサンから」の手紙をそえて、そっと置いてやるのを知っているではありませんか。我々が聖人に願った取次の祈りを神様が叶えてくださった時、わたしたちが聖人に対して感謝しても、神様は「俺だ、叶えてやったのはおれだよ!」なんて、野暮なことは言われないに違いありません。

子供は中学生にもなれば、おもちゃを贈ってくれたのは、実はサンタさんではなく、親たちだったことに自然に気が付くものです。ところが、カトリック信者は、大人になっても、或いは大人で洗礼を受けても、まだサンタさんを信じている幼子のようなレベルの信仰のままの人が多いようです。これでは、世俗化しグローバル化した神無き社会の荒波の中に孤立して、信仰を失うのも無理は有りません。大人には大人のレベルの信仰を、「ミルクではなく、固いパン」(1コリント3:1-2参照)を与えなければ大人の体は持ちません。

教会の責任には実に大きいものがあります。

私は、わたしが幼い時に死んだ母のことを絶えず懐かしく思い出しますが、彼女がいま深い死の眠りの中にいることを少しも寂しいとは思っていません。

復活の時、一緒に目覚めて、母が死んでからあと一人で生きてきた人生について話し聞かせ、「エッ!そんなにハチャメチャな人生を送ったの?よくまあそれで無事に天国に潜り込めたものね、と驚かせ、喜ばせ、後付けでハラハラさせるのを今からとても楽しみにしています。

私は今も母のために祈り、母に語りかけますが、彼女が今は眠っていてそれに気付かないと知っていても、無駄な愚かなひとり相撲をしているとは思っていません。なぜなら、そのデーターは神様の無限のメモリーにストアーされていて、復活の日に彼女によってそこから読み出され、あらためて一緒に楽しめると知っているからです。


 私が手を置いているのが母の墓石

ドイツのデュッセルドルフでの勤務を終えて日本に帰国する際に
何か記念の土産をと考えてふと思いついたのが母のために墓石を持ち帰ることだった
事情があって母の遺骨は教会の納骨堂にひっそりと置かれたままだった
スエーデン製の御影石の上半分には写実的な花の彫刻が施され
下半分の磨かれた面には、母の作詞・作曲手帳から私の一番好きな一曲を
彼女の手書きの譜面通りに彫ってもらった
神戸で一番素敵な音楽墓碑と当時の神戸版朝日新聞に紹介記事が載った
手前の白い庵治石は妹と父と二人目の母の名を刻んで最近置いたもの

 

神戸港と六甲アイランドを見下ろす長峰山の六甲カトリック墓地からの眺望

 

(おわり) 


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★ 世の終わりは近いのか(その-5) -あなたの死から復活までの時間は?-

2012-12-20 12:54:39 | ★ 世の終わりは本当に近いのか?

  

朝早くバスから子供たちがぞろぞろ降りてきました。イタリア半島の南の端から

夜通しバスに揺られてやってきたようです。手にはみんなプレゼントを持って

 

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世の終わりは近いのか(その-5)

-あなたの死から復活までの時間は?-

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補足として明確にしておきたい点がまだ2-3あります。

 

(1)世の終わりは近いのか?

 神は人類に「産めよ、殖えよ、地に満てよ!」と命じられた。と言うことは、宇宙にそこそこ人の子の種が拡散するまでは、世の終わりは来ないということだろう。

 ところで、今の宇宙は見える範囲だけで140億光年の広がりがあるそうだ。

 その1割だって14億光年だ。と言うことは、宇宙船が光の速さで旅をしても14億年かかってやっと宇宙の1割にしか届かないことになる。

 光の速さは1秒間に30万キロメートルだから、時速に直すと時速10.8億キロメートルと言う恐ろしいスピートだ。そんな速さに人間の生身の体が堪えられるとは到底思われないから、まあ、その1パーセントほどの速さで旅行しても、宇宙をほんのチョコッと旅するだけで、すぐ何億年、何十億年とかかるわけだから推して知るべしだろう。

 天地万物を無から創造し、存在界に呼び出された神様は、お好きな時に「ハイ、其処まで!」と言って世の終わり、終末を宣告する自由を留保しておられるとは言え、世の終わりはそう簡単には来るとは思えない。世の終わりは、遠い、遠い、気の遠くなるような未来のことになると私は思う。


 

賑やかなクリスマスソングで子供たちを迎える神学生たち


(2)では、あなたの死から復活までの時間は?

 それは、この世界の時間の流れで言えば、上の気の遠くなるような長い時間に相違ないのだが、問題は、死ねば私の体は失われ、片われの私の魂は体を失って「深い、深い眠りに入る」と言う点だ。もしも復活がなかったとすれば、そのまま永遠に眠り続け、「眠っている」という表現さえも無意味なほどなんにも感じない、何にも意識しない無の中に在ることさえ分からない、要するに死滅し消滅したも同然の状態の中に消え失せたはずだった。

 最初に言った通り、復活は世の終わりに起こることだから、この世の観測者の視点に立てば、あなたの死から復活までの時間は、上の宇宙の終わる時までの時間と同じ長い時間であるわけだが、死んだ途端にその時間は消えてしまうと考えた方がいいということは、つまり、人間が復活に遭遇する時は、死の瞬間に隣接する次の瞬間として意識される、と言う結論になる。

 これは、ひょっとするとドえらいことかもしれないぞ、と私は思う。

 死んだとき、これも寿命かと諦めて、あとは冥土で復活の日に神様の裁きの前に立つときに備えてのんびり心の準備でもしようか、なんて悠長なことを考えて油断をしていたら、ひどい目に遇うかもしれないぞ。そういえば、聖書には随所にそのことを暗示する話がばらまかれていたではないか。

 「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子(キリスト)も知らない。ただ、父(創造主)だけがご存じである。」(マタイ24章36節)「だから、あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけないときに来るからである。」(マタイ24章44a節)

 この類の言葉は新約聖書だけでも両手に余るほど出てくる。

 普通人は、これを「自分はいつ死ぬかわからない」と言う意味だぐらいにさらりと聞き流してきた。

 公園を散歩していたら、突然空から砂粒ほどの隕石の燃え残りが猛スピードで飛んできて自分の頭を貫通し、その場にばったり倒れて息絶える。本人は「あ痛っ!」と思う間もなく息絶えて、死の暗黒の中に消えていく。通行人は一体何事が起こったのか理解できずただ怯えて立ちつくす・・・・。とか、炬燵にあたりながら美味しそうにお雑煮を食べていたら、突然お餅が喉に詰まって、一、二度目を白黒させたかと思ったら、呆気なくご臨終、と言うような場面が目に浮かんでくる。なるほど、人はいつどんな風に死ぬかわからないものだと、すんなり納得する。

 ところが、今までしつこく検討してきた話をこれに重ねて考えると、事は意外と深刻であるらしいことが見えてくる。

 突然死ぬのはいい、まあ仕方がない。一応心の準備だけはしておいた方がいいと、思慮深い人なら普通そこまでは考えるかもしれない。

 しかし、死んだと思ったら、次の瞬間にはもうすぐ世の終わり、世界の終末と復活に直面し、神様の前で直ちに人生の総決算を求められ、その場で審判が下って、あれよ、あれよという間もなく自分の永遠の命の有りようが決まってしまうと言うところまで考え及んでいる人が、一体どれだけいるだろうか。

 これは、一度落ち着いてじっくりと考えてみる値打ちのある重大事ではないだろうか。

 死んでから復活するまでの間に、ゆっくり考えて準備する時間の猶予なんて全くないのだとしたら、足元の明るいうちに奥さんと仲直りして、借金は返して、罪人は回心して、それからベッドに潜り込んだほうがどうも無難なように思う。

 突然不意を突かれ、慌てて取り乱して醜態を曝さないで済むために・・・

 一回目の死は、深い眠り、実質上永遠に無になるはずだった(復活がなければ)。二回目の肉体は不死身だから、自然死はない、自殺も叶わない。地獄を自由に選んだ人は、永遠にその状態にとどまることになる。これはえらいことですよ!

 

プレゼントを持ってやってきた子供たち


(3)死んで復活したら、みんな天国に行くべきもの

   ―神様はあらかじめ地獄を準備してはいない―

 神様はご自分の愛を唯一の素材として人類を無から創造されたのだから、世の終わりの日、たった一つの魂も滅んで地獄に行くことは望まれないだろう。だから、あらかじめ地獄を用意して、人をそこへ陥れようと待ち構えてはおられることは絶対にないと私は信じる。

 では、みな救われて誰も滅びないのだろうか?まことに残念ながら、どうもそうでもないらしい。半々か、四分六か、ほんの一部か、意外と大勢か、その割合は全くわからないが、地獄を選んで自らその中へ飛び込んでいく愚かな魂が結構大勢いるらしいことは、なんとなく察しが付く。

 えっ?神様がお望みにならないのに、いったいどういうメカニズムでそういうことが起こり得るのかって?その答えは、聖書のルカ15章11-32節の「放蕩息子」のたとえ話に出ているので、じっくりお読みください。

 エッ?!読んだけどさっぱりわからなかったですって?それは弱りましたね。その点にいま踏み込んだら、このテーマのブログをまだ何回も続けなければならない羽目になりますが、私はもういい加減疲れました。

そういう方は、仕方ないから「アマゾン」か「楽天」で検索して、亜紀書房刊の「バンカー、そして神父」と言う題の本を取り寄せて、第4章「放蕩息子の帰還」をじっくりお読みください。その問題については著者(実は私)がすでに懇切丁寧に解説していますから。《以上、「コマーシャル」終わり》

 

神学生たちがつくったイエスの降誕の馬小屋


(4)復活するのはキリスト教信者だけか?

 これは意外と重要なポイントです。答えを先取りすれば、もちろんNO! です。世の終わりは待ったなしで全人類を同時に襲ってきます。そして、キリスト=メシアは栄光をおびて、輝かしい復活体を身に纏って再臨します。そして、難民キャンプで被災者に毛布を配るように、全ての死せる魂一人一人に、生きていた時と同じDNAの新品の肉体を渡して着せてくれます。

 キリスト教なんて知らなかった、信じてなんかいない、洗礼?とんでもない、もちろん受けていない、と言う人にも無差別にです。

 いやだ、俺はキリスト教が嫌いだ、そんな教義は否定する、と言う人にも、生前俺は確信的無神論者だった、今さらなんでそんなこと・・・と言う人も、私は回教徒原理主義者だった、キリスト教は戦ってでも滅ぼすべき宗教だ、今さら仲良くなんてとんでもない、ごめんだね、と言う人にも、私の教団の教祖様は〇×尊師だ、お伺いを立ててからでなければ、そんな服いただいていいものやら、私には何とも判断しかねます、と御託(ごたく)を並べるじれったい御仁にも、「いいから、つべこべ言ってないで、黙って受け取りなさい!」と叱咤してキリストは一人一人に着せていく。何しろ最後の審判の広場は、億の億倍、兆の兆乗のおびただしい数の魂がごった返すわけだから、柔和なキリストも切れる寸前かも知れません。そんなわけだから、「死んだときに渡しておいた肉体喪失証明書とよくDNAの照合するように!後で面倒が起きないようにちゃんと確認しなさいよ!」という天使たちの注意が飛んでくるかもしれません(笑)。

仏教には「一切衆生」と言う素敵な言葉があるが、その「一切衆生」つまり、はじめて理性と自由意思が十全に開花した最初の類人猿から、何十億年の人類の進化と文明の進歩の後に終末を迎えた最新鋭のサイボーグ人間まで、気の遠くなるような数の魂が肉体を纏って、この宇宙の彼方に新たに始まる天と地の中へ一斉に歩を進めます。なんという感動的な場面でしょう!

キリスト教の教えは、全ての人類を包む。宗教、信条の違いを無差別に超越し、あらゆる進化の段階の人間を包括する。大乗仏教には非常に近いものがあるようだが、この復活信仰の普遍的包括性はキリスト教以外の他宗教にはあまり見いだせない特徴といえるかもしれない。

友のために命を捨てるほど大きな愛はない。敵をも愛しなさい。右の頬を打たれたら左の頬も出しなさい。七の七十倍赦しなさい。悪に逆らってはいけない・・・・。と教えるキリスト教だけは、(それが本当に実践されればの話ではあるが)理論上は紛争の種を蒔かない唯一の宗教でもあるはずなのだが・・・・。


このあと 神学校の聖堂で子供たちとミサがあった

 

平和の王子様、幼子イエスのお誕生日おめでとう!

*** メリークリスマス! ***

 

まだ書き足りない気がするけれど、切りがありませんのでこの辺で「世の終わり」シリーズは「一巻の終わり」といたします。

 

 

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★ 世の終わりは近いのか(その-4) -あなたの死から復活までの時間は?-

2012-12-18 17:53:26 | ★ 世の終わりは本当に近いのか?

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世の終わりは近いのか(その-4)

-あなたの死から復活までの時間は?-

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先のブログのアクセス状況はそれほど悪くなかったようです。予想外にコメントが相次ぎました。これは一部の人には興味を持って読まれた印でしょうか。その中の二つをここに採録します。最初のコメントは:

     じっくり、じっくり、読ませていただきました。
     躓きかけています(涙)
     はやく続きを投稿してくださいね!

次のコメントは:

     こんにちは

     興味を持って文面を追っています。
     生死観については、少なからず興味をいだいて、
     色々な本を読んだ時期がありました。
     私のイメージは、
     見守っている家族が医師より死の宣告を受けいよいよとなった、
     臨終の際は、自分の魂が部屋の天井に浮き、
     横たわっている自分の肉体と、悲しんでいる家族を
     第3者の立場から見られ、
     自分がここにいるのに声を出しても、誰にも届かず、
     やっと自分が死んだと気づく。
     目の前にきれいなお花畑があり、
     過去に逝った身近な人が迎えてくれたり、
     死の瞬間、自分の一生の生い立ちが、フラシュバックして蘇ってくる。
     仏教、キリスト教も、生前の善悪で地獄に行くか、天国に行かれるか、
     はたまたエジプトの絵にも描かれているように・・・。
     然し最近思う事は、
     一旦は死刑の判決が出て、最高裁で無実になった人もいれば、
     無実なのに死刑にあった人も、世界にはきっと沢山あった事でしょう。
     真実は神のみぞ知るですが、結局は、
     死んでからの神のお裁きに委ねるほかないということでしょうか・・・。

     続きを早くね、  
     文中に子持ちの綺麗な女性が登場、どきどきですよ。
     神父は体調がよくなかったんですか?
                               (T. A.)

 1番目のは、全くの匿名ですが、きっと真剣に神を求めるまじめなカトリック信者のご婦人でしょう。これまでの信仰の土台を揺さぶられて、悲痛な叫びを上げられたのではないかと察します。責任を感じます。でも、このあとの本文をお読みにならば、きっと少しは落ち着かれるだろうと思います。

2番目のは、私にメールで届いたものを、ご本人の了承のもとにブログのコメント欄に貼り付けたものです。
T. A. さんとは、グループ旅行でローマに来られた時に知り合いました。教養のあるご婦人で、クリスチャンではありませんが、私とは話がよく合います。

 では、さっそく今回の本文に入りますが、今回も長文になることをお許しください。前回、一番目のコメントのご婦人を、泣き出さんばかりに躓かせてしまった責任もあって、取り敢えず結論に届くまで筆を止めることができなかったのです。疲れたら途中の薔薇の花のところで小休止。続きは次の日にでも読み進んで下さい。

さて、ここでひとまず前回の結論を復唱しましょう。

 もしも死と言うものが、全身麻酔で五感が完全に封じられた時に人が経験するように、意識が完全に消滅し、自分の存在も時間の経過も全く知覚しないブラックアウト状態に陥ったのと同じだとすれば、しかも麻酔が一時的なものであるのに対して、肉体の崩壊に伴ってその状態から覚醒する可能性が永久に失われることであるとすれば、それは私が死によって実質的に無に帰ったのと同じで、それ自体、恐ろしくも苦しくもなんともない、実にアッケラカンとしたものだ、と言うことです。

 そこには、ぶっきらぼうなむき出しの「無」あるのみで、死んだ私はその「無」さえも意識しない、私はこの世に生まれる前に全く存在していなかったように、死と共に生まれる前と同じ全く存在しない状態に戻るということでしょう。

 私の友人がいう、言い知れぬ「淋しさ」、「寂寥」はその虚無的な期待しか持てないことから来ます。オギャーと生まれてから、愛し、憎み、悩み、苦しみ、喜び、笑い、不安におののき、良心の呵責に耐えた日々も、こだわり、執着していた全てのことと共に空しく消え去るということです。

 旧約聖書の「ダビデの子、コヘレトの言葉」に曰く。

     何と言う空しさ
     何と言う空しさ
     全ては空しい。

     私の心が熱心に求めて知ったことは、
     結局、知恵も知識も狂気であり愚かであるにすぎないということだった。
     私はこうつぶやいた。

     「快楽を追ってみよう、愉悦に浸ってみよう。」
     見よ、それすらも空しかった。

     人が労苦してみたところで何になろう。
     神が人間を試されるのは、人間に、自分も動物に過ぎないということを見極めさせるためだ、と。

       これも死に、あれも 死ぬ。

     人間は動物に何らまさるところはない。
     全ては空しく、全ては塵からなった。すべては塵に返る。
     死後どうなるかを、誰が見せてくれよう。

 お通夜のときのような沈鬱な顔で「コヘレトの言葉」を抜粋引用しているうちに、不謹慎にも思わずクスッと笑ったところがあったので、息抜きに紹介しましょう。

     一つ一つ調べて見いだした結論。
     私の魂はなお尋ね求めて見いださなかった。
     千人に一人という男はいたが
     千人に一人として、よい女は見出さなかった。(コヘレトの言葉7章27-28節)

 (ここで私は、ハハン、コヘレトお前も男だな、とつぶやきました。)

 そのあとも、まだまだ悲観的な言葉が延々と続きますが、この辺でやめておきましょう。これがキリスト教の聖典の言葉かと目を疑いたくなるような、実に痛快なまでのペシミズムの極致でした。


 私は20歳台の学生の頃、京都は鷹が峰の安泰寺と言う破れ寺に、座禅をしに通ったことがあります。澤木興道と言う師匠についていました。その老師がいかに偉い高僧であったかは、年をとってから知りました。カトリックの若者と知った上で可愛がっていただいたことを有り難く、懐かしく想い出します。

 あの頃初めて習った般若心経の中の「色即是空」と言う言葉の「空」の字の教学的意味をどれだけ理解しているか、全く自信は有りませんが、私が死と共に思う、数学的ゼロのような、物理的暗黒のような、全く取りつく島もない無機質な「無」の空虚さに比べれば、はるかにニュアンスと救いのある暖かい概念のように思われてなりません。

 しかし、あらゆる宗教が説く現世の御利益も、来世の救いも、私の理解した「死」「死後の世界」の前には全くの幻想、まやかしにすぎません。そこで支配するものは、絶対的「無」「虚無」「空」しかないはずなのです。

 お布施をすればご利益が得られると言われて信じてお金を出したのに、なんの御利益もなかったと不平を言えば、まだお布施が足りないからだと言われて、それならと出しても、出しても、まだまだと言われ、気が付いたら丸裸になっていて、それでも結局元のままという話は、聖書のイエスについての話の中にも、形を変えて「悪徳医者の例」として短く巧みに描かれています。まして、来世の幸せを約束する空手形で金を巻き上げるなんて、それこそ最悪の詐欺もいいところ、人の弱みに付け込んだ卑劣な犯罪行為でなくてなんでしょうか。

 死んだら、体が煙と灰になって失われ、憐れな魂は肉体から引き離され、5感が封じられた途端に自我も世界も時間も空間も知覚できない「無」の中に放り出されるのが人間の永遠の定めなら、宗教ほどひどい嘘はどこを探しても見つからないというものです。


 私はイタリア人の真面目なカトリック信者と会話していて、「臨死体験」に話が及んだことがありました。すると、彼らは俄かに活気づいて、あの本、このジャーナリストを引き合いに出しながら、盛んにその多彩なレポートの内容を展開してくれました。

 冒頭で引用したT. A. さんのコメントではありませんが、内容はおおむね世界共通のようです。日本でも司馬遼太郎賞に輝く立花隆氏の著書「臨死体験」(上)やNHKスペシャルなどを第一に思い出しますが、人々が、イタリア人のクリスチャンも含めて、そのような話題に夢中になるのは、そこに死後の世界の報告が見付かるのではないかと言う、期待と好奇心をくすぐる何らかの錯覚が潜んでいるからだと私は思います。

 しかし、臨死体験なるものは、英語のNDE (Near Death Experience) に明らかなとおり、死に限りなく近づいた「生の側の体験」であって、死の境の向こう側に行って戻ってきた人たちの「死後の世界」の体験報告では断固あり得ません。

 我々の周りに死後の世界に踏み込んだのち、再び生者の世界に生還した人は一人もいません。誰一人としていない。死んだ人は、心肺が停止し、脳波が平坦になり、瞳孔が開き、体温が低下し始め、医者が時計をチラリとみて臨終を告げたその前後のいずれかの時点で、すでに永久に二度と戻れない無の世界に呑み込まれてしまったのです。だから、死後の世界はこうだったああだったと言わんばかりの紛らわしい作り話は、興味本位であれ、金儲けのためであれ、厳に慎んでいただきたいものだと思います。


 聖書に私の説の最後の保証を求めましょう。

 死者の運命について一番詳しく書かれているのは、聖パウロのコリントの信徒への手紙ではないかと思います。私の考えをはっきり伝えるために、意味を変えないように注意しながら、言葉を一部置き換えて書きました。

 死者の肉体が崩壊するとともに、意識の中に蘇生するチャンスが永久に失われるのだとすれば、「わたしたちの宣教は無駄であるし、あなた方の信仰も無駄です。更に、わたしたちは神の偽証人とさえ見なされます。」(コリント15章14節)また、「そうだとすると、キリストを信じて眠りについた人々も滅んでしまったわけです。この世の生活でキリストに望みをかけているだけだとすれば、わたしたちはすべての人の中で最も惨めなものです。」(コリント15章18節)もしそうだとすれば「食べたり飲んだりしようではないか。どうせ明日は死ぬ身ではないか」と言うことになります。(コリント15章32節参照)

 聖書さえそうはっきり言っているのならば、なぜ谷口神父は宗教家のなりをして、人に宣教し、信仰を勧め、好き放題の放縦を戒め、人に見られていなくても損をしてでも心正しく生きるように説いているのでしょうか。それこそ偽善ではないですか、いかさまではないでしょうか。

 人は魂と肉体の二つの側面を持つ一つの人格と理解されますが、それぞれに自立した二つの部分が便宜的に合体したものではありません。それらは不可分に融合していて、肉体が死んでも魂は悠々と生き続けるというようなものではありません。人間が死ぬのであって、肉体が滅びれば魂も死ぬ(聖書的表現によれば「眠りにつく」)のです。しかもその眠りは深く、全身麻酔にかかった人の消えた意識のように、完全に無に還元されたのと全く変わりのない状態でしょう。もしそれが死後永久に続くのであれば、実質上その人は死と共に滅んだ、亡くなった、死滅したのも同然で、もう命ある者として生きてはいないということす。どの宗教にとってもこの現実は変わりません。


 ようやく結論に近づきました。

 では、宗教は何の役に立つ?キリスト教を含めて、宗教団体の本音は、本当の狙いは何?やっぱり人をたぶらかして金を集めること?行い澄ました、有徳の士を装って有り難い説法をする宗教家は、一皮剥いたらその正体はお金の亡者なのでしょうか?私もその片割れなのでしょうか?

 どっこい、そうではありません。たとえ大概の宗教がみなそうであっても、キリスト教だけは例外だと言わせてください。
 2000年余り前のクリスマスの夜、粗末な馬小屋で処女マリアから産まれた幼子イエスは、長じて十字架の苦しみの中で非業の死を遂げましたが、3日目に死者の中から復活したと聖書にあります。

 数万年前からこの美しい宇宙船地球号に生まれ死んでいった無数の人間の中で初めて―後にも先にもただ彼一人だけ―死者の中から甦ったという話です。

 本当だろうか?

 彼は私が2時間後に麻酔から醒めたように、足掛け3日目に(実質的には死後30時間余り後に)死者の中から復活しました。それも、臨死体験者のように死に限りなく近づいた生の側をうろうろした後にこちら側の世界で覚醒したのではなく、人類で最初でただ一人、生と死を分かつ境界線を越えて死後の世界に踏み入り、一旦本当に死んだ後、復活体と言う新しい肉体を身にまとって、この世の彼方にあるもう一つの世界へ、彼岸の世界に復活したのです。

 マリアの子、人間キリストは、創造主なる神の権能と威光を身にまとって、人類を支配していた死の呪いを打ち砕いて、まず自分自身が死者の中から復活し、全ての人類を死の軛から解放して、神が定めた世の終わりの日に、一人一人の眠れる魂に復活の肉体を新たに創造して纏わせ、蘇らせるというのが、キリスト教の教えです。

 これは、人類古今東西のあらゆる宗教の中で唯一キリスト教だけが説く特徴的な教えで、その素晴らしいニュースを伝えるのがキリスト教の使命です。

 すべての宗教を信じて死んだ人が、私の言う無の中に滅んで、そこに永遠にとどまる運命にある時に、キリスト教だけは、専売特許のように復活の喜びを高らかに宣言するのです。

 キリスト教によれば、イエスは無の中に消え失せて何も残らなくなるはずの死の滅びの運命に力づくで介入し、人が長い眠りに入っても、世の終わりの復活の日には必ず肉体を取り戻して復活し、もはや死ぬことのない新しい命を勝ち取ることに成功しました。

 たとえ世の終わりまでの時間が何億年、何十億年であっても、その間、目を見張るような人類の進化の過程をフォローすることもなく深い眠りに入っていたとしても、本人にとっては、死の瞬間と重なる同じ瞬間に復活の体をもって甦ることになるのです。

 ある瞬間、唐突に優しい看護婦さんに「谷口さん、気が付きましたか?」と呼び掛けられるときのように、優しさと威厳を備えたイエス・キリストに、「さあ、起きなさい、目覚めなさい!」と声をかけられて、この世の生を終えたと思った次の瞬間に肉体を返してもらってあの世で復活のいのちの中に蘇るのだとすれば、そして、それを教えるのがキリスト教の使命だとすれば、そしてそれが事実であり真実であるならば、私は決して詐欺師でも、いかさま野郎でもありません。私の名誉は回復されて、真っ当で実直な宗教者として、臆せず人前に立つことが許されるのではないでしょうか。

 神様は、時空の中で気の遠くなるような長い進化の過程を経て歴史を刻む宇宙に人間を置いて、しかも、そのすべての人間を全く同じ条件で平等に扱うことのできる絶妙な仕組みを考え出されました。すべての人は、オギャーと生まれてから、長短様々な個人の歴史を歩み終えた後は、死の瞬間の次の瞬間に復活の命の中に抱き上げられるように計画されたのです。たとえ、一点に重なって見える死と復活の二つの瞬間の間に、ある人は30億年、ある人には100万年、ある人には1000年時が経過していようとも、またある人はたまたまこの世の生を享受している最中に、突然世の終わりの日に遭遇し、文字通り死んで眠りにつくとすぐに復活の命に移行するとしても、すべての人にとって、生まれて、この世の生を生きて、死んですぐ復活するというパターンとメカニズムは全く同じで、平等であるわけです。

 一人一人、この進化する宇宙の中に登場する場面は違っても、一人分の人生を全うした後は、死と共に「長い無の眠り」の中に待機して、世の終わりの日に全員一斉に同時に喜びの歓呼の声を上げて復活するわけです。

 めでたし、めでたし!

 何か狐につままれたような気分になりましたか?ごもっともです。

 まだ説明を要する無数の付帯的疑問が渦巻いていませんか?無理もありません。

 そのために、次回の付録のブログが用意されています。あらかじめ言っておきますが、私はカトリック教会が伝統的に維持してきた信仰の根幹にかかわる教え、例えば、神の審判、天国、地獄、死者のための祈りの価値、etc. を何一つ否定したり変更したりするものではありません。ただ、教会の中でしか通用しない古いおとぎ話的で幼稚な解釈や理解に対して、現代人の知性の批判に耐えられるより実際に適った表現を模索するにすぎません。

 あと数日で、十字架によって復活の命に道を開かれた宇宙の王さま、幼子イエスの誕生日、クリスマスの祝い日が来ます。共に祝いましょう。

メリークリスマス!

なんだかコメントがたて続いているようですね!         

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★ 世の終わりは近いのか(その-3) -あなたの死から復活までの時間は?-

2012-12-15 17:40:24 | ★ 世の終わりは本当に近いのか?

これは実験です。実に危険なギャンブルです。目を楽しませるほどの写真はなく、べた文字の本文は今までで一番長いからです。読まれるか、読まれないかは、24時間経過して、「編集画面」の「アクセス解析」を開けば一目瞭然、読者の審判の結果がそこに出ているでしょう。失敗だったら、もうこのやり方は使えません。失敗でなかったら、時々こんなブログの書き方も使えるということでしょうか?

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世の終わりは近いのか(その-3)

-あなたの死から復活までの時間は?-

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 このブログを書いているわたしは、人の子の種が拡散すべき宇宙の広大さと、宇宙空間を旅することのできる速さの限界から考えて、世の終わりは何億年も、それ以上も経たなければ来ないだろうと考えています。

 とにかく、人類の歴史が数万年、長くても25万年ぐらいしか遡れず、文明らしいものが花開いてからでは4-5千年がせいぜいであることを思えは、世の終わりは途方もなく遠い未来のことのように思われます。

 しかし、世界はそうであっても、私の寿命の残りがそう長くはないのは疑い得ない現実です。長くてもあと5年か10年。明日知れぬ命です。

 心を入れ換えて最後だけはまじめな日々を、と頭では思っても、それも物憂く先送りしている間に、突然死神に追いつかれ、心ならずも浮世に「あばよ」を告げるのがせいぜいのような気がしてきました。

 ままよ、その時はその時。死んでから冥土でゆっくりと世の終わりの日に神の前でする釈明、命乞い、の準備をすればいい。どうせ、死んでから世の終わりが来るまでには、気の遠くなるような時間があるのだから・・・・、と言うところで前回は終わりました。

 ところがどっこい、そうは問屋が卸さないらしいぞ、と言うことに最近ハッと気が付いたのです。どういうことでしょうか。

 この夏に私は日本で手術を受けました。手術室に入る前に、看護婦さんが、点滴や場合によっては輸血やらのために右腕の静脈に太い針を刺してくれたはずでした。手術室に入ると、手術台の上の大きな照明が印象的でした。麻酔薬はマスクからではなく例の針から静脈に入るらしく、執刀医と麻酔のドクターとの会話が聞こえてきました。

     「麻酔が効いてきませんね?!」

     「アッ、腕がパンパンに腫れてきた。針がちゃんと入っていないんじゃない?」

     (静脈に入るべき麻酔液が組織に溢れているな、と思いました。)

     「急いで左に差し替えましょうか?」(やや動揺した麻酔医の声でした。)

     「いや、今やったら痛むから、麻酔が効いてきてからのほうがいい。」

     (そして、その次に聞こえた言葉が)

     「谷口さん、気が付かれましたか?」

 と言う看護婦さんの声でし。見ると点滴の針はいつの間にか左腕に差し替えられていて、そこは手術室に行く前の元の病室でした。
聞いたら、約2時間が経過していました。しかし、私は麻酔が効いてから覚めるまで、時間の経過を全く意識していませんでした。

 あらためてあの時の会話を正確に思い返してみると、

    ① 「急いで左に差し替えましょうか?」

    ② 「いや、今やったら痛むから、麻酔が効いてきてからのほうがいい。」

    ③ 「谷口さん、気が付かれましたか?」

 この3つのセリフは、全く中断のない一つながりで、①→②→③へとよどみなく推移し、②と③との間に2時間の時間の経過があり、手術がおこなわれていたことを示す何の痕跡も介在していません。

 全身麻酔によって一時的に5感が機能を停止すると、その間、人は完全な眠りに入り、夢も見ないし痛みも感じない。時間の経過を全く経験しない。そして、麻酔から醒めると、意識を取り戻し、感覚を取り戻し、再び時間の中に生きはじめる。

 今回、麻酔から醒めるまでの時間はわずか2時間でしたが、これが大手術で7、8時間かかっていたとしても、結果は全く同じだったに違いありません。5感が封じられると、人間は時間の経過を知覚しません。麻酔が効いた瞬間と醒めた瞬間は一つに重なる同じ瞬間で、そこには飛躍も不連続もありません。SF未来冒険小説の主人公のように、人間が冷凍されたまま何万年も宇宙旅行をして、目的の星に近づいてから解凍されて意識が戻る時も、全く同じ体験をするでしょう。麻酔された肉体は覚醒を待って生きたまま待機しているが、心肺停止の冷凍冬眠状態でも肉体が保存されている点では似たようなものです。

 他方、人間が死ぬと、肉体は機能を停止し、その後焼かれて煙と灰になるわけですが、死の瞬間からあとは、全身麻酔が効き始めたときと同じように、外界を知覚せず時間を全く経験しないでしょう。意識は消滅し何も経験しない。自我そのものも消滅したと言ってもいい。全くのブラックアウトです。これが、死の冷酷な現実なのではないでしょうか。そして、肉体が滅びてしまったら、その状態から醒める手だてもはや永久に失われてしまいました。

 人間の意識は脳のうちに働き、外界や時間の認識は五感に全面的に依存しています。人間には不滅の霊魂があるなどと宗教は(キリスト教も)教えるが、霊魂が機能するのは肉体あってのことでしょう。肉体がなんとか無事でも、たかが麻酔一つで私の自我は、意識は、世界は、時間は完全にブラックアウトしたではありませんか。なんと儚いことでしょう。そのとき、主観的には私は完全に消滅し、無に帰したのではなかったでしょうか。死は肉体の単なる一時的機能停止などと言う生易しいものではありません。それは肉体の崩壊、肉体の喪失、魂と肉体の永遠の別れです。しかも、魂の自我も意識も一方的・全面的に肉体に依存しているので、肉体の機能停止と崩壊に伴って完全に無力化され、つまり、無に帰してしまうのです。魂だけがあったとしても無きに等しく、事実上無と化してしまったも同然です。その意味で、死んだら魂など当てにならないと言ったほうがよさそうです。

 唯物論者、無神論者、科学的経験主義者の生死観はその意味で全く正しいのです。死ねば終わり、何にもなくなってしまって、ハイ、それまで。オ・シ・マ・イ!一巻の終わりです。

 心中(しんじゅう)ものの田舎芝居ではないが、主人公が「ドボン!」とばかりに大川に身を投げる時のあの滑稽なセリフ「死んでも命がありますように。ナンマイダブ、ナマイダブ、ナマイダブ・・・・」は、生者の楽観的な期待を反映してはいるが、現実はそんな甘いものではありません。死んだら、黄泉に下ってのんびり、なんて悠長な話どころではないでしょう。黄泉なんて空想の産物。実在すると証明されたわけではありません。


 リーマンなどの華やかな銀行業を去って、神父修行の道をうろうろ模索していた不安定な時代に、離婚して幼い息子を二人抱えた、若く美しいS・ゆり子さんと言う女性と知り合いました。才色兼備にパトロンがついて、中央線の沿線に画廊を任されて成功していました。しかし、早くに癌を発症し、長い入院生活を強いられました。私は彼女を洗礼まで導いたのですが、彼女は死を恐れ、特に肉体的苦痛を極端に恐れました。しかも、彼女の癌の末期には、その恐ろしい痛みが避けがたいものと予測されたのです。

 幸い、小金井にある桜町病院のターミナルケアーホスピスに入ることができて、医師と本人の合意のもと、寿命を極端に縮めることのないぎりぎりの量までモルヒネを増やし、彼女は痛みをほとんど感じない朦朧とした意識の中で最後の日々を過ごすことになりました。

 病院のチャペルでミサをして、聖別した小さい丸いパンを持参して、枕元で「ゆり子さ~ん!」と呼びかけると、閉じた瞼の裏で眼球が動いて、「は~い」と言う可愛らしい返事が、遠くの森の奥から響いてくるような細い声で返ってきました。全身麻酔と弱い意識状態との境界線上を彷徨っているかのような印象でした。そして、ある日、彼女のかすかな意識も死と共に無の世界へと消えていきました。


 私の友人に理科系の頭脳の持ち主の自称無神論者がいます。彼は、身体機能が緩慢に死に向かって低下していく難病を抱え、それと上品に仲良く付き合いながら、「死は全く怖くない」と言います。私の全身麻酔が効いた瞬間から始まったあの状態が終りなく続くことを指して「死」と定義すると仮定すれば、今の私はその考えに完全に同意できます。むしろあんな楽なことはありません。

 仮に、麻酔で眠っている状態の終わりのない延長と死とが同質のものだとすれば、そんなもの恐ろしくも苦しくもなんともありません。

 「なんともない」、と言うのさえも正しくありません。なんとも「ない」、とか「ある」とか言う主体そのものもないからです。もうそこには何も存在しない、その状態を敢えて言葉にすれば、無、虚無、空と言うべきでしょうか。私もない、他者もない、世界もない、明るくもない、暗くもない。

 しかし、彼は言います。死は全く怖くはないが、死を思うとき言い知れぬ「寂寥」を感じる、と。私もその彼に共感します。それはそうでしょう。死と共に私が無に帰するのなら、今まで生きてきた意味はどうなるのか。私の歴史は、私が存在したという証しは、その痕跡は全く無意味なものだったのか。私が愛していたもの、執着していたもの、心配したことも、煙のように消え去って何も残らないとしたら・・・・。今生きていること自体、なんと空しいことではないでしょうか。

 もし私が死んで肉体が滅びるということが、麻酔によって五感が封じられるということ以上ではないとすれば、死は即ち私にとってすべての終わりで、その後は「無」のみがあると言わざるを得ないのでしょうか。そうです。「死」のあとには、全くぶっきらぼうに「無」があるのみです。

 これが神父=谷口幸紀がたまたま手術の機会に経験した全身麻酔の体験から導き出した「死」の全理解とその最終結論でした。
建前上、「友のために命を捨てるほど大きな愛はない」と説き、「隣人愛と赦し」を説き、「永遠のいのちの約束」を説いてきたカトリック神父の本音です。

 八方から、この嘘つきめ、ペテン師、詐欺師、いかさま野郎、・・・・と言う罵声が飛んできそうですが、ここは、こそこそと舞台の袖に逃げ込みを決めるしかないようです。では、ごめんなすって!

 そういえば、東京にM・七郎氏という友人がいます。彼は、私を彼の知人・友人に紹介するとき、大真面目な顔をして、彼独特のユーモアと照れを交えて、あたりかまわず「気を付けて下さいよ。こいつは似非神父、詐欺師、大ペテン師ですからね!」と、一言添える癖があるのです。私は、この場面では全くお手上げで、ただ苦笑いをかみ殺してその場をしのぐしかないのですが、いまこうして自分の本音を吐いてしまってみて、「はてな?彼はもしかして真実を語っていたのではなかったか?」とふと思い当たる次第です。

 しかし、どうかお願いだからここで躓かないで頂きたい。話はまだ終わったわけではないのですから。是非とも次回をお楽しみに。見事な舞台のドンデン返しを見極めるまで、どうか最終評価をお控え願いたいのです。

(つづく)

コメントいろいろ出てきました。もっと増えるかもしれません。↓          

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★ ローマの結婚式 -「終末論」はちょっと中休み-

2012-12-12 10:58:07 | ★ 日記 ・ 小話

結婚式の披露宴は ローマ市内から車で30分のこんな牧歌的な場所であった


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ローマの結婚式

-「終末論」はちょっと中休み-

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福島の仮設住宅でカウンセリングをしている若いお友達からメールをいただきました。 

 先日また宮城県地震が発生して、忌々しい過去を思い出したこと、カウンセリングにセラピー犬の力を借りて、現在2匹の相棒と一緒にお仕事をしていること、などが淡々と綴られていました。

 動物には癒しの力があるのでしょう。そして、「こんな相棒に恵まれお仕事が一緒にでき感謝しています。」とメールは結ばれていました。

 メールをくれた彼女自身が、心優しい、感謝(神に対する?)愛に満ちた人柄なのがしっかりと伝わってきて、こちらの心も温かくなりました。

早速返事を書きました。

 ブログを読んで下さって有り難う。

 一見ふざけて書いているように読めるかもしれませんが、ぼくはぼくなりに結構真面目に考えて書いています。(中略)生きているうちに、ぼくが神様をどんなふうにとらえているかを(貴女にも)伝えたいと思っています。

 相棒のセラピー犬ってどんな犬かな? 僕も犬が大好きで、犬たちにもそれがわかるようです。

 犬と言えば、先週土曜日、ぼくも犬と出会いました。


不審者の検分に ノシノシ やってくる牧羊犬


  

私を取り囲んだ5匹の犬たちのうち2匹


 私の可愛がっていたイタリア人の女の子が、この20年の間に立派に成長して、教会で結婚式を挙げました。頼まれてぼくも共同司式をしました。

 郊外のレストランで披露宴があったのですが、会場の手前100メートルほどの道端に羊の群れがいました。思わず車を降りて羊の写真を取っていてハッと気が付いたら、牧羊犬が5匹も、落ち着いた足取りでのそりのそり寄ってきて5方向から私を取り囲み、そのうちの3頭が私のオーバーコートの胸や肩や背中に足をかけてじゃれてきたのです。結構大きな白い犬で、一匹の顔が私の顔の前にあり、前足にずっしり体重をかけてくるではありませんか。とっさの出来事で、カメラをかばって両手で高く上げるのがせいぜい。近すぎて写真も取れませんでした。

 ワンちゃんたち、表面はあくまで紳士的、友好的でしたが、職務に忠実な顔をしていて、羊に害を加えるような素振りを見せたらただでは済まないぞ、という決意が目に宿っていました。こんなデカい犬、一匹でもかないそうにありません。身を固くして 「大丈夫!」 「大丈夫だから!」 と言って必死に宥めたら、日本語がわかったのか足を下ろして、来た時と同じ足取りで、羊の方に帰っていきました。

 

羊のところに帰っていく三頭の犬たち

 

 エリカ(26歳)のことは、小学生のお転婆の頃からよく知っています。彼女の母のパトリチアは私の共同体のメンバーで、ブラジルからの移民。露出過度のサンバが似合いそうな情熱的でむら気な人妻でした。


エリカちゃん


 そのパトリチアが、こともあろうに別の共同体のジュゼッペとデキてしまい、エリカを生んだのでした。

 さあ大変。われわれの共同体はそう言うことにはことのほか厳格な集団で、大騒ぎになりました。パトリチアと本来の夫との間にはすでに男の子がいたのですが、その夫婦仲は事実上壊れていたようでした。 さあ、どうする?

 カトリック教会は神の前(「神道」の神様ではない)で誓われた信者同志の結婚の解消(離婚)は認めません。有り得るとすれば、結婚した時点で、双方または一方に、真剣に結婚する自覚と自由な決意が欠けていたとの証言が認められるかどうかです。(手を握ってキスをしたら、もう結婚しなければならない、なんて言う強迫観念は、自由な決意とは言えません)自由な決意が欠けていたと認められれば、そもそも結婚が成立していなかったとして、「婚姻の無効宣言」を取り付けることができます。(なんだか、都合のいい詭弁だ、などと言わないでください。)

 ただ、バチカンの教会裁判所で、その「無効」判決を勝ち取るためには、馬鹿にならないほどの弁護士費用がかかります。パトリチアにはそんなお金がありません。そこで「共同体」の出番です。はじめは、なんで身持ちの悪い外国人女の尻拭いのために、長期間(2-3年に及んだかな?)大金を支弁しなければならないのか、とブースカ陰口をたたく者もいたけれど、それでも皆でがんばってなんとか結審までこぎつけました。

 ついに、パトリチアが息子の親権を得て前の結婚は解消され、晴れてジュゼッペと結婚することになりました。この結婚式も、共同体が費用を負担して、みんなで盛大に祝ってやったのは言うまでもありません。

 

 しかし、パトリチアの連れ子の男の子は新婚家庭に馴染めませんでした。家を飛び出して、グレてしまったのです。そんなこともあってか、一緒に住むまではラブラブに見えたジュゼッペとパトリチアの仲も、諍いが絶えず、せっかくみんなで苦労して一緒にして祝ってやったのに、今度は彼らが離婚寸前の騒ぎになりました。犬も食わない話ではありますが、私は心配してよくその新家庭に食事をしに行ったものです。

 

 思いがけず長い話になりましたが、これが事の顛末。


 言いたかったのは、そんな複雑な家庭の中にあって、エリカの存在は常に救いだったということです。泥田に咲く蓮の花と言うか、ごみ溜めに舞い降りた一位の天使と言うか、エリカの穢れなさ、明るさ、純真さは、みんなの慰めと救いでした。私にもよくなついていました。そして、そのまま大学の医学部を出て立派な研究者になったのです。

 エリカの結婚式は共同体の大きな喜びになりました。ここまで何とかみんなで支え切った達成感の喜びだったのです。ジュゼッペとパトリチアもこの日ばかりは立派な親の姿に納まっていました。

 

式中私は祭服を着ていたので写真が撮れませんでした。

結婚式のミサのあと 関係者が祭壇を囲んで踊ります ユダヤ教の過ぎ越しの祭りの踊りに似ています

白いドレスがエリカ 手前左のピンクのスカートがパトリチア

エンゲージリングを運んだ小さな女の子の向こう パトリチアの頭のうえの左端の男がジュゼッペ


  

婚姻証書にサインするエリカと新郎のステファノ              二人の写真を撮る女の子      

 

  

     剣のトンネルをくぐって お米のシャワーを浴びて・・・      僕は左の写真では剣だけしか写らなかった  

 

幸せそうなエリカとステファノ


 結婚式にエリカの父親の違うお兄さんの姿はなかったけれど、今はどこかで落ち着いて暮らしているらしいと聞いて、少しはほっとしたことでした。


ケーキカットはどこの国も同じ景色


 めでたし、めでたし。

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★ 世の終わりは近いのか(その-2) -あなたの死から復活までの時間は?-

2012-12-09 23:10:35 | ★ 世の終わりは本当に近いのか?


日本も寒いようだが、ローマも結構寒い。最近は、夜に0度を割ることがあるらしい

緯度は青森と札幌の間ほどだから、朝も遅い

雨が多いが、晴れた日の朝焼けは実にきれいだ


~~~~~~~~~~~~~~

世の終わりは近いのか(その-2)

-あなたの死から復活までの時間は?-

~~~~~~~~~~~~~~

  

寒いはずだ。部屋の窓から遠望できるアペニン山脈の峰は白く雪に覆われている。


さて、「世の終わり」 の話に戻ろう。

とは言っても、前回のブログに 「文字ばっかりで長い」 という意見があったので、

これからは短く少しずつ書くことにした。

  

 兆とか京とか、さらにその10の何乗とかいう、日常の生活感覚からかけ離れた宇宙の星の数のことを思えば、今地上に住む人口の70億という数字など、コンマ以下の端数、ゴミみたいに思えてくるから不思議なものだ。そんなことで人間どもは、やれ人口爆発だ、食糧・エネルギー不足だ、と大騒ぎしているのが滑稽に見える。神様は愛する人の子が食べて残るほどの食料を常に用意してこられたではないか。それは未来永劫変わることがない。それなのに人が飢えるのは、金持ちの抱え込みと無駄に捨てる行為のせいに過ぎないのだ。

 近くの銀河の3つ4つの惑星に数十億ずつの人類の子孫が住みつくまでだって、3000年や5000年の時間では足りないかもしれない。 如何に文明の進化が加速的に早まると仮定しても、今見える宇宙には140億光年の広がりがあるというのだから、人の子の種が宇宙にそこそこ拡散するまでには、今後数億年以上の時間を要するのではないかと思われる。

 そんな遠い未来のある日、神様はようやく「時が満ちた」と判断して、突然この世界の終末を告げられるのだろうか。だとすれば、私が-そしてあなたが-死んでから復活するまでに、この世はまだ長い長い進化の道を辿ることになるだろう。

 しかし、世界はそうであったとしても、私の寿命の残りがそう長くないのは疑いのない現実だ。私はこの15日に73歳の誕生日を迎える。この先長く生きるとしても、あと5年か10年がせいぜいの、明日知れぬ命と覚悟している。

 今まで実に気ままに人生を歩いてきた。良いこともちょっとはしたかもしれないが、大半は如何わしい、怠惰な、罪深い日々だった。回心をして、心を入れ換えて、最後だけはまじめな清らかな日々を送らねばと頭では思うが、それも物憂く先送りしている間に、突然死神に追いつかれ、心ならずも浮世に「あばよ」を告げるのがせいぜいのような気がしてきた。

 ままよ、その時はその時。死んでから冥土でゆっくりと復活の日に備えて反省し、神の前でする弁明、釈明、言い訳、お詫び、命乞い、の準備をすればいいではないか。どうせ、死んでから世の終わりが来るまでには、気の遠くなるような時間があるのだから。それに、この世の時間は結構気の紛れる忙しいものだったが、冥土の時間はきっと長く退屈なものに違いない・・・・。

 それでも、この世に残してきた友人・知人が生きている間は、死に遠く隔てられて対話は叶わなくとも、少しは生者の世界のことが気になるかも知れないが、それもそのうち縁が薄くなり、やがて無関心になるに違いない。その後はただうたた寝をしながら世の終わり、復活の日を待つだけなのだろうか?

 ところがどっこい、そうは問屋が卸さないらしいぞ!

と言うことに最近ハッと気が付いた。

 どういうことか・・・。

それは次回のお楽しみ。

~~~~~~~~~~~~~

 ツイッターに、「最近急にブログ更新のピッチが速くなったね」、と言うコメントが届いた。

そうです、その通り。クリスマスまで翻訳業の他は、原稿の整理とか、会議・旅行とかの忙しい予定が今のところないのです。

 二冊目の本の出版も近づいてきました。やや難産だったけど、最終「念校」の校正を終えて、先日バチカンポストのDHL国際宅急便で東京の出版社に送り返したばかりです。それが私の手を離れたのが、時間の余裕の生まれた最大の理由かもしれません。

 はたして、同じ柳の下に泥鰌(どぜう)が二匹いるかどうか? 興味津津です。

(つづく)

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