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フランシスコ教皇が残したもの(その-1)
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世の中、全ての出来事は日々新しい話題で容赦なく上書きされ、記憶の過去に流れ去って行く宿命にある。フランシスコ教皇の訪日も例外ではないだろう。
手元には教皇訪日のニュースがどのように盛り上がり、どのように忘れられていくかを具体的に数値化した一つのデータがあるので、そのことから始めよう。
現在、グーグルでブログを書く人の数は日本に約290万人もいる。驚くべき数字だ。だがその大部分はささやかな発信で、富士山で言えば広い裾野を形成している。では、自分のブログが富士山の何合目ぐらいにいるか。それは、編集画面のランキングタブをクリックすれば分かる。
富士山の頂上近く、白い雪のように輝いているのは、290万人のうちわずかにトップの数千人だけだ。
ところで、教皇訪日の話題がにわかに注目を浴び始めると、普段は5000位あたりを漂っている私のブログが、めきめきとランクを上げはじめた。
11月23日には 突如 2568位 に上昇。
24日 1747位 (教皇来日当日)
25日 1603位 (東京ドーム教皇ミサ)
26日 1309位 (離日の日)
27日にはついに 811位 まで上った。しかし、
28日になると 2239位 まで落ち、さらにずるずると5000位ぐらいまで行くだろうか?
27日の811位 は、私としては過去10年間で最高の数字で、もう2度とないかもしれない。
ともあれ、人気タレントや政治家のブログが幅を利かしているトップ5000の中に、無位無官のカトリックの一神父のブログが常態的にいるというのは珍しい現象ではないだろうか。
ここに、この教皇フィーバーが消える前に是非広く注目してほしいものがある。それは、以前にも取り上げた清水教会の保存の問題だ。
詳しいことは下にURLを記した私のブログ、そして、清水教会のある信者さんの泡沫ブログ(失礼!)に記された意見を参照していただきたいが、この問題の要点は以下の通りだ。
取り壊しの危機に瀕しているのは、1092年にユネスコの世界遺産に登録された「長崎と天草のキリシタン関連遺跡」にも匹敵する、清水教会の古く美しい聖堂。
取り壊す理由は、外国人宣教師の手になったこの種の教会建築は、日本の教会にとっては負の遺産であり、抹消されなければならない、という、誤った土着主義のイデオロギーに染まった一部のカトリック聖職者の確信から生まれたものだと言えよう。
フランシスコ教皇の訪日のモットーは、「全てのいのちを守るため」であったが、「いのちが生み出した全ての美しい遺産」を大切に護ることも、その精神に含まれるはずではないか。
フランス人宣教師の手で建てられたこの美しい教会は、静岡市当局から「重要文化遺産」の筆頭として評価されている。また、第2次世界大戦の爆撃と艦砲射撃を奇跡的に免れ、多くの傷病者のシェルターとなったもので、いまは市民と児童の平和教育の場となっている。
教会当局による取り壊しの意向を知った一般市民は、その保存を求めて8000人の署名を集めて、それをローマの福音宣教省長官フィローニ枢機卿に送った。そのフィローニ枢機卿は、今回のフランシスコ教皇に陰のように寄り添い、日本を訪れていた。
清水教会の信者たちは、保存の一助にと1300万円以上の寄付・献金を集めた。しかし、教会当局はその受け取りを拒否した。
建築の専門家は、同教会の耐震補強は相対的に少ない予算でほどこすことが可能であると言う意見書を、詳細な数字と共に論証している。取り壊す必要性などどこにもないはずだ。
そもそも、ことの発端は、古くて使い勝手の悪い司祭館・信徒会館を、取り壊して新築し、快適なものにする話ではなかったのか。なにも、それに乗じて新しい聖堂を建て、さらに古い貴重な歴史遺産である美しい教会を、民意と信者の願いに反して、余計なお金をかけて取り壊さないではいられない必然性がどこにあるのか。
信徒の意見を聴けば反対されるのを知ってか、信徒の総意を聴こうとはせず、「補完性の原理」とかいう聞いたこともない魔訶不思議な理論を持ち出し、「信徒が事柄の是非の判断をする当事者能力を欠いている場合は、聖職者が信徒に代わって事柄に決定を下すことが出来る」という。だが、一体誰が、この信徒の群れは物事の是非を判断する当事者能力を欠いた無能力者集団だ、と言う判断を下す資格と権威を持っているというのだろう。
私の会った信者の有志達は、自主的に教会を運営し、立案し、必要な資金を調達できる社会良識に沿った正しい判断力を持った立派な信仰者だった。
対話を拒み、まるで信徒も市民も行政も無能力者、欠陥人間であるかのように見做して、「補完性の原理」を持ち出して、一部の聖職者の片寄った意思を押し付け、従順の名のもとに屈服することを強要するのは、誤った時代錯誤的やり方ではないか。
市民や信徒と対話し、その意見を入れて、共通善のために正しい着地点を、-たとえ、それが自分たちのイデオロギー的信条にそぐわなくてもー誠実に模索すべき時ではないのか。
フランシスコ教皇の発言は「すべてのいのちを守るため」という一点に立って、微動もしない「ブレない教皇」という印象を残した。安倍首相などは教皇の前ではこう言い、トランプの前ではああ言い、さらに国民に対してはまた別のことを言うなど、全く支離滅裂である。こういう手合いのことを昔から三百代言という。
フィローニ枢機卿は教皇と共に来日する前に、清水教会の状況に関して数通の嘆願の手紙を受けとっているはずだ。日本にいる間にかれは状況を直接見極められただろうか。
司祭館と信徒会館の新築のための資金負担を求められるのは、結局のところ高齢化しますます家計がひっ迫している末端の信徒たちだ。より合理的でより経済的な信徒の負担の少ない計画のために信徒と話し合い、知恵を出し合い、礼拝堂(教会)の新築と現教会の取り壊しのために大金を支出するよりも、歴史的価値のある貴重な美しい教会の耐震保全と改修を行う、より合理的で経済的な案を選択する英知を期待したいものだ。
「全てのいのちを守るために」という観点から、教皇は日本の死刑制度に反対し、核抑止力をISやアルカイダ以上に巨大なテロリズムだと糾弾し、福島の被災者に寄り添って全ての原子力発電に反対された。
日本人は傲慢な人間を非難し、プライドの高い人には一目置く傾向があるが、日本語以外の言語にはこのような言葉の遊びは存在しない。傲慢は悪徳であり、それをプライドが高いと言い換えようがどうしようが、傲慢は傲慢なのだ。
同様に、日本人は、核兵器廃絶に関して教皇に同意しながら、いわゆる原子力平和利用(原発)は容認しようとする。しかし、教皇にとっては、原子力反応炉は自然には存在しないプルトニュームという核兵器の原料生産工場であって、発電はその過程で生まれる副産物の熱を商業利用したもの過ぎないと看破している。日本に50基余りの原発反応炉があるということは、核兵器の必要材料プルトニュームを大量に生産保有する潜在的格兵器大国であることを意味する。だから、核兵器全廃の教皇の明快な提言を賞賛する人は、原発の全廃にも同意するものでなければならない。
「全てのいのちを守るために」、そして「その命が生み出した全ての美しいものを守るために」、清水教会問題に対して、フランシスコ教皇の言葉に沿った正しい解決がもたらされることが望まれる。
フィローニ枢機卿もフランシスコ教皇もどういう印象をもってローマ・バチカンに帰っていっただろうか。清水教会問題に関しても、今後の展開について、私たちは彼らに詳しく報告をする義務を負っている。市民と信者たちの思いを蹂躙した、権力のゴリ押しが行われないように祈りたい。
〔関連のブログ〕
清水教会問題「決して起こしてはならない悲劇」 (2019年8月10日)
https://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/49b02af2166415437b07dd3a23195106
ブログはじめました。「清水教会聖堂の存亡危機に想う」 (2019年10月11日)
https://blog.goo.ne.jp/obatayukie1936/e/6c2892995dcc97ca217c88fd9ad025e8
(つづく)