:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ フランシスコ教皇が残したもの(その-1)

2019-11-30 00:01:00 | ★ 教皇フランシスコ

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フランシスコ教皇が残したもの(その-1)

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世の中、全ての出来事は日々新しい話題で容赦なく上書きされ、記憶の過去に流れ去って行く宿命にある。フランシスコ教皇の訪日も例外ではないだろう。

 

 

手元には教皇訪日のニュースがどのように盛り上がり、どのように忘れられていくかを具体的に数値化した一つのデータがあるので、そのことから始めよう。

現在、グーグルでブログを書く人の数は日本に約290万人もいる。驚くべき数字だ。だがその大部分はささやかな発信で、富士山で言えば広い裾野を形成している。では、自分のブログが富士山の何合目ぐらいにいるか。それは、編集画面のランキングタブをクリックすれば分かる。

富士山の頂上近く、白い雪のように輝いているのは、290万人のうちわずかにトップの数千人だけだ。

ところで、教皇訪日の話題がにわかに注目を浴び始めると、普段は5000位あたりを漂っている私のブログが、めきめきとランクを上げはじめた。

11月23日には 突如 2568位 に上昇。

       24日     1747位 (教皇来日当日)

       25日     1603位 (東京ドーム教皇ミサ)

       26日     1309位 (離日の日)

       27日にはついに 811位  まで上った。しかし、

       28日になると 2239位  まで落ち、さらにずるずると5000位ぐらいまで行くだろうか?

27日の811位 は、私としては過去10年間で最高の数字で、もう2度とないかもしれない。

ともあれ、人気タレントや政治家のブログが幅を利かしているトップ5000の中に、無位無官のカトリックの一神父のブログが常態的にいるというのは珍しい現象ではないだろうか。

ここに、この教皇フィーバーが消える前に是非広く注目してほしいものがある。それは、以前にも取り上げた清水教会の保存の問題だ。

詳しいことは下にURLを記した私のブログ、そして、清水教会のある信者さんの泡沫ブログ(失礼!)に記された意見を参照していただきたいが、この問題の要点は以下の通りだ。

取り壊しの危機に瀕しているのは、1092年にユネスコの世界遺産に登録された「長崎と天草のキリシタン関連遺跡」にも匹敵する、清水教会の古く美しい聖堂。

取り壊す理由は、外国人宣教師の手になったこの種の教会建築は、日本の教会にとっては負の遺産であり、抹消されなければならない、という、誤った土着主義のイデオロギーに染まった一部のカトリック聖職者の確信から生まれたものだと言えよう。

フランシスコ教皇の訪日のモットーは、「全てのいのちを守るため」であったが、「いのちが生み出した全ての美しい遺産」を大切に護ることも、その精神に含まれるはずではないか。

フランス人宣教師の手で建てられたこの美しい教会は、静岡市当局から「重要文化遺産」の筆頭として評価されている。また、第2次世界大戦の爆撃と艦砲射撃を奇跡的に免れ、多くの傷病者のシェルターとなったもので、いまは市民と児童の平和教育の場となっている。

教会当局による取り壊しの意向を知った一般市民は、その保存を求めて8000人の署名を集めて、それをローマの福音宣教省長官フィローニ枢機卿に送った。そのフィローニ枢機卿は、今回のフランシスコ教皇に陰のように寄り添い、日本を訪れていた。

清水教会の信者たちは、保存の一助にと1300万円以上の寄付・献金を集めた。しかし、教会当局はその受け取りを拒否した。

建築の専門家は、同教会の耐震補強は相対的に少ない予算でほどこすことが可能であると言う意見書を、詳細な数字と共に論証している。取り壊す必要性などどこにもないはずだ。

そもそも、ことの発端は、古くて使い勝手の悪い司祭館・信徒会館を、取り壊して新築し、快適なものにする話ではなかったのか。なにも、それに乗じて新しい聖堂を建て、さらに古い貴重な歴史遺産である美しい教会を、民意と信者の願いに反して、余計なお金をかけて取り壊さないではいられない必然性がどこにあるのか。

信徒の意見を聴けば反対されるのを知ってか、信徒の総意を聴こうとはせず、「補完性の原理」とかいう聞いたこともない魔訶不思議な理論を持ち出し、「信徒が事柄の是非の判断をする当事者能力を欠いている場合は、聖職者が信徒に代わって事柄に決定を下すことが出来る」という。だが、一体誰が、この信徒の群れは物事の是非を判断する当事者能力を欠いた無能力者集団だ、と言う判断を下す資格と権威を持っているというのだろう。

私の会った信者の有志達は、自主的に教会を運営し、立案し、必要な資金を調達できる社会良識に沿った正しい判断力を持った立派な信仰者だった。

対話を拒み、まるで信徒も市民も行政も無能力者、欠陥人間であるかのように見做して、「補完性の原理」を持ち出して、一部の聖職者の片寄った意思を押し付け、従順の名のもとに屈服することを強要するのは、誤った時代錯誤的やり方ではないか。

市民や信徒と対話し、その意見を入れて、共通善のために正しい着地点を、-たとえ、それが自分たちのイデオロギー的信条にそぐわなくてもー誠実に模索すべき時ではないのか。

フランシスコ教皇の発言は「すべてのいのちを守るため」という一点に立って、微動もしない「ブレない教皇」という印象を残した。安倍首相などは教皇の前ではこう言い、トランプの前ではああ言い、さらに国民に対してはまた別のことを言うなど、全く支離滅裂である。こういう手合いのことを昔から三百代言という。

フィローニ枢機卿は教皇と共に来日する前に、清水教会の状況に関して数通の嘆願の手紙を受けとっているはずだ。日本にいる間にかれは状況を直接見極められただろうか。

司祭館と信徒会館の新築のための資金負担を求められるのは、結局のところ高齢化しますます家計がひっ迫している末端の信徒たちだ。より合理的でより経済的な信徒の負担の少ない計画のために信徒と話し合い、知恵を出し合い、礼拝堂(教会)の新築と現教会の取り壊しのために大金を支出するよりも、歴史的価値のある貴重な美しい教会の耐震保全と改修を行う、より合理的で経済的な案を選択する英知を期待したいものだ。

「全てのいのちを守るために」という観点から、教皇は日本の死刑制度に反対し、核抑止力をISやアルカイダ以上に巨大なテロリズムだと糾弾し、福島の被災者に寄り添って全ての原子力発電に反対された。

日本人は傲慢な人間を非難し、プライドの高い人には一目置く傾向があるが、日本語以外の言語にはこのような言葉の遊びは存在しない。傲慢は悪徳であり、それをプライドが高いと言い換えようがどうしようが、傲慢は傲慢なのだ。

同様に、日本人は、核兵器廃絶に関して教皇に同意しながら、いわゆる原子力平和利用(原発)は容認しようとする。しかし、教皇にとっては、原子力反応炉は自然には存在しないプルトニュームという核兵器の原料生産工場であって、発電はその過程で生まれる副産物の熱を商業利用したもの過ぎないと看破している。日本に50基余りの原発反応炉があるということは、核兵器の必要材料プルトニュームを大量に生産保有する潜在的格兵器大国であることを意味する。だから、核兵器全廃の教皇の明快な提言を賞賛する人は、原発の全廃にも同意するものでなければならない。

「全てのいのちを守るために」、そして「その命が生み出した全ての美しいものを守るために」、清水教会問題に対して、フランシスコ教皇の言葉に沿った正しい解決がもたらされることが望まれる。

フィローニ枢機卿もフランシスコ教皇もどういう印象をもってローマ・バチカンに帰っていっただろうか。清水教会問題に関しても、今後の展開について、私たちは彼らに詳しく報告をする義務を負っている。市民と信者たちの思いを蹂躙した、権力のゴリ押しが行われないように祈りたい。

 

関連のブログ〕 

清水教会問題「決して起こしてはならない悲劇」 (2019年8月10日)

https://blog.goo.ne.jp/john-1939/e/49b02af2166415437b07dd3a23195106

 

ブログはじめました。「清水教会聖堂の存亡危機に想う」 (2019年10月11日)

https://blog.goo.ne.jp/obatayukie1936/e/6c2892995dcc97ca217c88fd9ad025e8

 

(つづく)

 

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★ 教皇は来て、そして、去って行った 何を残して?

2019-11-27 00:05:00 | ★ 教皇フランシスコ

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教皇は来て、そして、去って行った

何を残して?

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4週間前にローマでフランシスコ教皇に会って話してきたばかりの私は、来日する教皇の姿を遠くからでも一目見たいものだと、東京ドームのミサに共同司式司祭として申し込んであった。

 幸い、入場許可の手紙が届いて、よかったと胸をなでおろした。

申し込んだが、拒まれた司祭たちもいたので心配していた。

* * * * *

以下、ドキュメンタリー風にスライドショーで追ってみよう。

教皇訪日のスローガンは「すべての命を守るため」だった。

 

余裕をもって東京ドームの指定の入り口でセキュリティーチェックを受けた。

案内された席に着いて待つこと1時間余り。

急に場内が騒然としたので振り向くと、すぐ後ろの席にいた、一見ロシア正教などの東方キリスト教会を代表す高位聖職者と思われる衣装の人たちが一つの方向をじっと見上げていた。

私もつられて振り向くと、左右の巨大なスクリーンに、トヨタ製水素燃料車のパパモビレに乗って野球場のグラウンドに入ってきたフランシスコ教皇が映し出されていた。 

最前列に近い私の席からは、総立ちの観衆と打ち振られる小旗の波の陰で、教皇がどこを移動中かはまだ確認できなかった。

 

やがてのことに、アルプススタンドの真下あたりからまっすぐ正面の祭壇に向かって伸びた赤じゅうたんの上を、パパモビレはゆっくりと近づいてきて、ようやく私のズームレンズの射程内に入った。

 

教皇は差し出される赤ん坊を何人も抱き上げて接吻した。ローマでもよく見かける光景だ。

 

その度に、ドームをいっぱいにした群衆からは万雷の拍手と悲鳴に近い歓声が湧き上がった。まるで、ロックのスターに叫びを贈る熱狂的なファン集団のような群衆心理ではないか!

 

やがてのほどに、教皇は中央の壇の上に上がってきた。

 

壇の下、最前部には赤じゅうたんを挟んで、左右3ブロックに分かれた共同司式司祭たちが、みんなお揃いの祭服を身

に纏って座っている姿がスクリーンに映った。

そのスクリーンに映った司祭たちの姿を私はカメラにおさめた。それが上の写真だ。

 

その写真を拡大してみるとスクリーンにカメラのレンズを向けている自分の姿があった。この写真真ん中後方に、ただひとり、白髪頭の私がカメラを構えている両手がはっきりと分かる。

 

聖書の朗読の間杖にすがって立つ教皇は、連日の殺人的過密スケジュールで、疲れ切っているに違いない。

そこには、テレビカメラを意識して、パパモビレの上であふれる笑顔を振りまいていた教皇とは打って変わった、疲れた老人の姿を私は見逃さなかった。 

その疲れ切った老人の姿を残酷にもこの望遠テレビカメラがスクリーンに曝す。

それをアルプススタンドの最後列までぎっしりと埋め尽くした観衆が見つめている。

ここは読売ジャイアンツの本拠地の東京ドーム。

上段最後列までぎっしり人が入り、その下には全く空席が目立たない。

5万人と聞いた。

 

一部英語だったのと、希に片言の日本語の他は、教皇の説教などはすべてはスペイン語だった。

 

スクリーンにはその説教などの内容が日本語の字幕で伝えられる。

 

説教が終わって、ミサは佳境に入る。

 

聖別されたパンとぶどう酒は、キリストのからだと血に聖変化する。

そのパンは5万人の中のカトリック信者たちにバックスタンドまで短時間に整然と配られた。

さすが全てを任された広告代理店「電通」さんの手際の良さだ。彼らはイヴェントのプロなのだ。

 

 やっとミサが終わって、身を引きずるようにして祭壇を降りる教皇。超人的な意志力だ。

 

翌日26日午後、空港に教皇の姿があった。

 

きもののお嬢さんからサヨナラの花束が贈られた。顔には笑みが戻っていた。

 

ホッとして、気が緩んだのか、何でかは分からないが、大笑いする教皇の姿があった。

 

天皇やトランプや阿部さんが、こんなパーフォーマンスを思いつくだろうか。

13億の信徒の頂点に立つフランシスコ教皇は、タラップを操縦する地上スタッフの手を取って労をねぎらった。

 

さらに、機内に入る前に胸に手をやって地上の人々に丁寧に会釈して別れの挨拶を忘れない。

 

その視線の先には見送りの偉い人達は一人もおらず、長時間、最後まで冷たい雨の中を傘もささずに立ち尽くした名もない地上スタッフや整備員たちだった。

 

最後の挨拶を終えると、くるりと背を向けて機内に消えた。

 

特別機にはバチカンの国旗と日の丸が風にはためいていた。

 

牽引車に曳かれて滑走路に向かう特別機は、JALではなくANAだった。

 

お疲れ様フランシスコ。サヨウナラ!

次の教皇訪日は何年先だろう。前回(そして初回でもあった)は38年前の聖教皇ヨハネパウロ2世だった。

その時、40代初めだった私は、ドイツで働いていて参加を逃した。

 

 

教皇は来て、そして、去って行った 何を残して?

この問いに即答するのは難しい。少し時間をかけて考える必要がありそうだ。

私の心に何が残ったか? あなたの心には?

その波紋は今、広がり始めたばかりだ。

 

 (つづく) 

 

 

 

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★ ローマの報告(そのー2)

2019-11-12 13:22:25 | ★ 教皇フランシスコ

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ローマの報告(そのー2)

教皇フランシスコに盆栽献上(つづき)

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見えますか?教皇の白い帽子の右上、盆栽の陰のおでこの禿げたカメラマンがとらえた写真が翌日のバチカン機関紙「オッセルバトーレ・ロマーノ」の8面に載っていた。次の写真がそれだ。

 

 

この写真に添えられた記事を翻訳すると、

 バチカン広報紙、≪オッセルバトーレ・ロマーノ≫(政治と宗教の日刊紙) 

2019年10月31日号(8面)教皇の一般謁見(10月30日水曜日の関連記事)

 

11月に予定されている日本への使徒的旅行を目前にして、教皇フランシスコへの

二鉢の盆栽の寄贈は重要な意味を持っている。

森高氏は、ジョン谷口神父と共に「これらの盆栽は樹齢150年のものでございま

す・・・。」と説明して、教皇様にそれを贈った。さらに、「思い返せば、2004年

のことですが、私たちはすでに二種類の合計30本の桜の花の咲く苗木を聖教皇

ヨハネパウロ2世に奉納し、今日それらはバチカン庭園で素晴らしく咲き誇ってい

ます。」と付け加えた。

 

盆栽の一行と別れた私は、古巣のローマの神学校に居を移しした。

  

増改築なった神学校の聖堂の正面には、キコの壁画がすでに完成している。

キリストの誕生から十字架上の死と復活、昇天、さらに世の終わりの最後の審判までを、仏教でいえば曼荼羅風に描いたものだ。

フレスコ画ではない。金箔の上に絵の具を乗せた仕上がりで、その面積はバチカン博物館付属のシスティーナ礼拝堂にミケランジェロが描いた最後の審判のフレスコ画よりもやや広い。世界中からの巡礼が見に来るのだが、今朝もアメリカからのグループが絵の説明を受けていた。

10年余り院長秘書として住んだこの神学校を訪ねた今回の目的は、「教皇庁立アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の一部として東京に帰って来るはずだった「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」が現在どんな状態にあるかを、自分の目で確かめることだった。

 

  

 

神学校の大聖堂の脇の階段を上がった2階に、日本のための神学院が独立したチャペルを持っている。チャペルの中には、保護の聖人の聖遺物と共に、日本語の掛け軸が今もかかっている。

 

土曜日の朝、久しぶりに日本のための神学生たちと共にミサを捧げた。

 

 

ミサ後の集合写真。中央右側の紫のストールをつけているのが、現在の院長アンヘル・ルイス神父。

中央が私でその周りに8人の神学生。左から2人目のトモヒロ君は日本人。あとは、世界各国からだ。

写真を撮ってくれているマテオ君を入れて、神学生総勢9人のミニ神学校。

少数と侮るなかれ、宣教に関しては意識の高い精鋭部隊。日本語もそれなりに上達して即戦力がある。

神学校は健在だった。ローマにある限り安泰で、これからも教皇様ご自身の手で

毎年1-3人の新司祭が、日本のための宣教師として叙階され続けていくだろう。

 

バチカンが考えた「アジアのための教皇庁立レデンプトーリス・マーテル神学院」は東京に置かれることを前提に立案された。それは、第三千年紀のアジア全体の宣教の中核拠点となるはずだった。それが予定通り東京に置かれれば、上の「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」もその「教皇庁立の神学院」の一部として、東京に上陸するはずだった。

そもそも、同神学院は聖教皇ヨハネパウロ2世の励ましによって「高松教区立」として1990年に設立されたもので、設立者の深堀司教様が在位中は多数の若い司祭を輩出したが、司教の代が変わると、閉鎖を余儀なくされた。しかし、その消滅を惜しまれた教皇ベネディクト16世は、それをご自分の神学校として「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」と名付けてローマに移植された。同教皇の生前退位後も、それはフランシスコ教皇に受け継がれ、存続していた。

もともと、同神学院のローマ移設は、移設当時の関連文書が示す通り、いずれは日本に返すための暫定的な措置だった。新教皇フランシスコは、すでに期は熟したと見て、教皇庁立の「アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の一部として日本に返す案を承認されたのだろう。その案が再び日本の教会の反対にあって拒絶されると言うことは、バチカンにとってはまさかの想定外の出来事であったと思われる。

これは、アジアの教会、そして特に日本の教会にとって貴重な贈り物になるはずであったにもかかわらず、まるで真珠を泥の地面に投げ捨てるような扱いになってしまった。しかし、フランシスコ教皇は黙って身をかがめてそれを拾い上げ、泥をぬぐって、そっとマカオに置かれた。マカオにしてみれば、思いがけない棚ぼたの恵みであったに違いない。

以上が、ローマの教会と日本の教会の間で起きた、3代の教皇を巻き込んだ神学校を巡る今日までのドラマだった。

マカオと聞いて、人はピンと来ない意外な選択と思われただろうか。しかし、イエズス会出身のフランシスコ教皇には、マカオはフランシスコ・ザビエルの時代のアジア宣教の重大な拠点として記憶されていたはずだ。しかも、その選択はただ過去のセンチメンタルな記憶だけによるものとは思えない。

習近平の終身国家主席になる可能性が見え隠れし、かつての中国の皇帝のような絶大な権力を手中に収めつつあるが、中国の無神論的共産党一党独裁があっけなく崩壊する日が来たら、マカオは再び中国大陸宣教の橋頭保として脚光を浴びるかもしれないのだ。

絶対に失敗しないソ連差し向けのプロの殺し屋の銃弾2発を至近距離から腹部に受けた聖教皇ヨハネパウロ2世は、奇跡的に生還した。その結果無神論的共産主義国家ソ連は崩壊した。ならば、フランシスコ教皇の努力如何では、中国の無神論的共産党一党独裁体制が崩壊するという奇跡が絶対に起きないと言い切れるだろうか。その日に向けて、2万人の中国語を話す宣教師の養成が急がれている、と言う話がカトリック教会の中にある。本当だろうか?

しかし、予断は許されない。もし習近平が力を伸ばし、香港を手中に収め、余勢をかって何らかの口実を設けて台湾に電撃作戦に打って出れば、トランプが2-3か月をかけて反撃の態勢をようやく整えた頃には、中国の台湾実効支配はすでに完了していて、手も足も出せない後の祭りということもあり得る。商売人トランプは一銭の得にもならないベトナム戦争の二の舞を大国中国相手にするはずはない。そのようなことになれば、マカオの地位も危うい。「教皇庁立アジアのためのレデンプトーリス・マーテル神学院」の撤退、立地の見直しも必要になって来るかもしれないのだ。

その時、再び最有力候補として浮上してくるのは、地政学的に見てもやはり日本を措いて他にないように思う。高松教区立の「レデンプトーリス・マーテル神学院」を閉鎖に追い込むためには、バチカンを相手に日本の全司教が一致団結したと言われているが、「教皇庁立アジアのためのRM神学院」の東京設置を水際で阻んだのは、必ずしも全司教一致ではなかったと言う話がある。だから、次には三度目の正直で、少なくない数の日本の司教が教皇様の意向を受けいれて実現する希望がないわけではない。その時はじめて、元高松教区立の「レデンプトーリス・マーテル」神学院問題も最終決着を見るだろう。

反対に、もし、マカオの環境が今後も平穏で、「教皇庁立」の神学院が順調に軌道に乗れば、遅かれ早かれ、アジアの各地にマカオの神学院の分身(支部)が置かれることは容易に考えられる。日本のどこかにマカオの支部が置かれれば、フランシスコ教皇の手で、ローマの「日本のためのレデンプトーリス・マーテル神学院」がその支部と一体化する形で日本に帰ることも夢ではなくなる。

聖教皇ヨハネパウロ2世、ベネディクト16世、フランシスコと3代の教皇を巻き込んだ「レデンプトーリス・マーテル神学院」問題を巡るローマと日本の司教団との軋轢の構図は、いずれかの形で必ず解決を見なければならない。

フランシスコ教皇の来日が、この問題について何らかの新しい展望を切り開くことを切に望みたい。 

 

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★ 教皇フランシスコに盆栽献上

2019-11-01 16:42:08 | ★ 教皇フランシスコ

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教皇フランシスコに盆栽献上

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ローマ空港に届いたばかりの盆栽の点検・手入れに余念のない森高準一氏。翌日、教皇フランシスコに献上されるのだが、ここに至るまでには、苦節15年、執念の日々があった。その歴史を辿ってみよう。 

 

 

話は30年近く前に遡る。リーマンブラザーズなどの国際金融業に見切りをつけた私は、50歳で神父を志して教会の門をたたいた。しかし、全ての門は固く閉ざされていた。恩人の高松教区の深堀司教様は、最後の望みを託して私をローマに送られた。そこで生き延びられなければ、貴方には司祭への召命はないと思いなさい、と言い渡されて

ローマでは、聖教皇ヨハネパウロ2世が1988年に設立したばかりのレデンプトーリス・マーテル神学院に3期生として受け入れられた。

 

 

久しぶりに訪れた同神学校には、刷り上がったばかりの30周年記念誌があり、その中に助祭に叙階されたときの私の写真があった。上の写真中央、黒いボールペンの先の黒髪の若者が私。

司祭の叙階式のあと、ローマで神学の教授資格を取ると、高松教区に戻り、母校の姉妹校の建設に取り組んだ。現在、世界に姉妹校が125あるが、高松のそれは、最初期の名誉ある第7番目だった。

神学校が建設された地元の町長さんは、過疎の地に世界から若者が集まり、地元の活性化と国際交流に貢献してくれることを喜び、東かがわ市の初代市長に就任した機会に、当時の教皇ヨハネパウロ2世に感謝をこめて日本の国花ソメイヨシノを献上しようと考えた。それが、徳島からは蜂須賀桜の苗木が、愛媛からは地元の盆栽が献上される展開とになった。

3県合同の「巡礼団」100名がバチカンを訪れ、バチカン庭園内で、教皇がお人払いして午後一人静かに散歩する小道の両側で、約30本の植樹祭を盛大に挙行してから、すでに15年の年月が経った。当時小指ほどの太さだった苗木も、今は直径12-3センチの成木になり、毎春満開の桜トンネルを繰り広げる。

 

2004年1月22日と記したステンレスの銘板は今も残っている。

 

土を洗い落とし、水蘚で根を巻いた桜はうまくいったが、土のついた盆栽は、思いがけない植物検疫の壁に阻まれて、間に合わなかった。近い将来必ずお納めすると言う言葉と写真の入った豪華なカタログを教皇に渡すのが精一杯で、実物の献上の目途は立たなかった。

事業の浮沈もあったが、今は広大な盆栽農園主に返り咲いた森高氏は、期が熟したと見て、先日、不意に連絡を取って来られた。急いでバチカンの人脈の回復を試みたが、多くは元の職にいなかった。ただ一人、元バチカン庭園担当の農学博士が、出世してまだ関連のポストにいることが分かった。

 

 

謁見の前晩、彼と夕食を共にした。受け取ったバチカンの封筒には、教皇からの白い招待状が2枚入っていた。白は教皇の色。フランシスコ教皇に親しく接見出来ることを保証するもので、他の色の招待状ではだめなのだ。

10月30日は、曇天だった。聖ペトロ広場の教皇の天蓋のある壇の右手の一列目は枢機卿、大司教らの高位聖職者の席だから、一歩退いた我々の席は、庶民としては最前列だった。案内役の衛兵は、手元のリストとカードの番号を見比べ、「盆栽の人」ですねと言って敬礼をした。

盆栽は、離れた下の方の台の上にポツンとおかれ、教皇の席からは明らかに死角にあった。どうして教皇の席の近くに置いてくれなかったのかといささか不満だったが、今さら文句を言えるわけもない。

 

 

待つことしばし、広場には何万人入っているだろうか。定刻に、はるか遠くで歓声が上がった。2000ミリのズームで引き寄せて見ると、パパモビレの上に教皇フランシスコの姿があった。

 

 

見慣れた防弾ガラスの覆いもない。彼は、世界中で一番暗殺される可能性の高い人物の一人なのに・・・。

事実、聖教皇ヨハネパウロ2世は至近距離からソ連差し向けのプロの殺し屋の銃弾2発を腹部に受けた。生ける殺人兵器として訓錬された失敗しない男は、後日、赦しを与えるために牢獄を訪れた教皇を見て、幽霊だと言って怯え、取り乱した。それはそうだろう。殺人マシーンの彼にとって、失敗は絶対に、絶対に、あり得ないことで、しかも彼は奇跡を信じないのだから。 教皇の暗殺失敗は、後のソ連の崩壊につながった。

 

群衆の間を一巡した後、

教皇はやおら正面の座に歩をすすめた。

 

今、これで私たちと教皇の距離は約15メートル。

11月25日の東京ドームでは、はるか遠く豆粒にしか見えないことだろう。

 

 

自分のメッセージと説教が何か国語にも翻訳されて伝えられるのを、忍耐強く聞き入る教皇。

イタリア語、フランス語、ドイツ語、英語、ポルトガル語、ポーランド語、アラビア語、その他私の聴き分けられないいくつかの言葉。

突然、猛烈な通り雨がきた。

一瞬教皇は胸に手を当てて祈ったようだった。数分後に晴天になった。森高氏は、洗礼を授かったと冗談を言ったが、顎からはしずくがしたたり、背広の下のシャツまで濡れていた。

最後の「主の祈り」はラテン語だった。そして祝福があった。

高位聖職者との個人謁見はいつも通り壇の上で行われた。その後、予想に反して、教皇は壇を降りて、一般群衆の最前列にいた病人たち、障害者たちに挨拶し、握手し、頭に手を置いて回った。その間にわたしたちは警備のものに導かれて、盆栽の前で待機した。

 

 

歴代の教皇は、個人謁見の時決して動き回らなかった。最初にパパモビレで群衆の間の通路を回った後は、最後まで壇の上の天蓋の下のポジションをキープし、拝謁を賜るものは列をなし、歩いて教皇の前に近寄るのが決まりだった。

教皇が私たちの許へ歩いてやって来る?あり得ないと思っていた。しかし今、初めて盆栽が壇の下の端に置かれたわけが分かってきた。ほんとうに教皇が歩いて私たちのところに来るのだろうか?

その瞬間が来た。通訳をしようと思ったが、森高氏は緊張してか、ほほ笑むばかりで言葉を発しなかった。  

 

私は、聖教皇ヨハネパウロ2世にも接見の機会があったが、会って、握手して、写真を撮ってもらって、ハイ次の方、という流れ作業だったと思う。

今回は記念の品までもらった。しかし、纏まった会話のやり取りは枢機卿などの限られた高位聖職者の特権だという先入観に縛られていた私は、とっさに、森高氏が誰であるか、日本にお越し下さるに先立って盆栽を献上しに来ました、盆栽の樹齢は150年で・・・、ぐらいまでが精いっぱいで、それ以上に、ここまでの長い歴史を、そもそもから説き起こすことなど、衆人環視の中、状況から言って不可能だったし、心の準備もまるでなかった。 

 

それでも、最後に蛮勇を奮って、実は、私は新求道共同体の司祭であること、そして大変な困難の中にあることを告げた。すると、「わかっている。私は貴方たちを心から愛している。元気を出しなさい!」という力強いお言葉を戴いた。もうそれで満足だった。胸がいっぱいになった。

 

 

清貧を生きたアシジの聖フランシスコを歴代教皇では初めて自分の名に選んだアルゼンチンのベルゴリオ枢機卿は、教皇になっても歴代教皇のバチカン宮殿に移り住むことを固く拒んだ。教皇選挙の時に泊まったサンタマルタというガソリンスタンド前の質素なアパートホテルに居座って、贅沢な生活に慣れ染まった高位聖職者のお歴々に、無言の模範を垂れているのだ。

アパートの入り口には、一人のスイス衛兵と独りの警備員がいるだけで、誰でも側に近寄れる。盆栽の一つは、入り口を入ったホールに置かれ、その間、もう一つは屋外で手入れを受け、適宜入れ替える手筈になっている。

 

 

謁見が終わって初めてローマの町に繰り出した。スペイン階段、カフェ・グレコ、コルソ通り、トレビの泉、真実の口、etc.。遠くの聖ペトロ大聖堂のクーポラ(丸天井)の上に登れば、眼下に桜並木が見える。

 

 

テベレ川はローマの北と南のはずれに落差の小さい早瀬があるので、それを越えての航行は出来ないが、それでもたまには船が通る。

 

冬時間に戻った11月の日は早く暮れる。夕焼けだから明日も晴天だろうか。

 

(このローマの報告、つづく)

 

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