:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 姉の葬儀ミサの説教(上)

2018-08-23 00:00:11 | ★ 日記 ・ 小話

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姉の葬儀ミサの説教(上) 

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 私は7月23日の姉の告別式のミサの福音朗読個所として、ルカの15章の「放蕩息子のたとえ話」の全文を読んだ。やや異例な選択ではあったが、私は姉の天国への花向けとして是非それを読み、説教ではそのたとえ話に新しい解釈を試みたかった。

若かりし頃の姉の姿 

その「放蕩息子のたとえ話」は次のように始まる。

  ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、「お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前を下さい」と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。「父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。『お父さん、わたしは天に対しても、又お父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください』」と。そして、彼はそこを発ち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。」しかし、父親は僕(しもべ)たちに言った。「急いでいちばん良い服を持ってきて、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れてきて屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。」そして、祝宴を始めた。(ルカ15章11節-24節)

 私の説教はこのたとえ話を土台にして始まったのだが、いざ改めて当日の説教を再現しようとすると、自分がどんな表現を用いてどのように展開したか、記憶が薄れてよく思い出せない。録音したものを文字に起こすような具合にはいかないものだ。そこで、私が言ったつもりのことを自由に再構築してみようと思う。

 姉は、私と正反対の性格で、「真面目」を絵にかいたようなところがあった。若くして修道会に入り、会の規律を忠実に守り、上長の命令に従って勉強のためにパリに送られれば、言われた通り勉強しかしなかった。何年もパリにいて、修道院と大学と図書館の3点以外のところには足を運んだことがないというから開いた口が塞がらない。私だったら、勉強はほどほどに、与えられたチャンスを最大限に利用して、パリの面白いところを貪欲に体験しつくしたに違いなかった。

 聞くところによれば、いつの間にかフランス語、英語、イタリア語、スペイン語などを身に着け、アフリカに送られては、現地の若い修道女の養成指導などに当たっていたと思われる。日本に帰ると、一時は横浜の修道院にもいたが、最後は中落合の聖母病院で外国人患者の受付やドクターの問診の通訳をしながら、80歳の誕生日を目前にこの春まで現役で働いていた。たとえて言えば、ルカの福音書の放蕩息子の兄のような生き方を生涯にわたり貫いたと言ってもいい。

 私はと言えば、父親に逆らい、家族の平和を乱して出奔し、好きなことは何でもしたが、好きなこと以外は何もしてこなかったように思う。世界中を渡り歩き、放蕩の限りを尽くしてやっと我に返り、遠ざかっていた教会の門を叩き、54歳で辛くも神父になりおおせた。

 しかし、聖書のたとえ話によれば、私のような人間でも心を入れ替えて父親の家に帰ってくると、全ての罪は許され、父親の愛に抱かれて天国の宴に迎え入れられることになるというから、有り難くももったいない話だが、すべては神の愛と憐みの業であって、自分には何ら誇るところがないことを知っている。

 ところが、ルカの福音書のたとえ話によれば、生涯を忠実に、まじめに勤め上げた兄は、天の御父の弟に対する偏愛を目の前にして、憤然として宴席に入ることを拒んで外にとどまり、天国の宴に入りそこなうことになっている。放蕩息子のたとえ話の後半にそのあたりのことが描かれている。曰く:

  ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕(しもべ)の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。「弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたと言うので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。」兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし、兄は父親に言った。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、小山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして返って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。」すると、父親は言った。「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しむのはあたりまえではないか。」(ルカ15章25節-32節)

 ロシアのエルミタージュ美術館で見た巨匠レンブラント晩年の代表的宗教画「放蕩息子の帰還」

父が憐れな息子を抱く場面には、まだ野良で働いているはずの長兄がなぜかそこに居合わせて、きあう父と弟を高い位置から厳しい面持ちで冷ややかに見下している。たとえ話の前半と後半を一枚に描いている。これがレンブラントの理解した兄の姿なのだ。

 弟が出奔して以来、ひと時も彼のことを忘れることのなかった父親の愛を、兄は生涯父のそばにいながら全く理解していなかった。兄にとっての父は、長男とは名ばかりの自分を、召使や奴隷と変わりなく義務と労働に縛り付ける厳しい主人のような存在だった。心のどこかでは、財産を手にして出て行った弟の身勝手と自由をうらやみ嫉んでさえいたかもしれない。つまり、彼はずっと父のそばにいながら、そんな父を愛してはいなかったし、弟のことも愛してはいなかったと思われる。

  言い換えれば、兄は義務の観念から父のそばを離れず、忠実に自分の務めを果たしてはいたが、日々喜びをもって生きていたわけではなく、ただ辛抱して父に忠実に仕えてさえいれば、いつか父の家督を継げることを期待し、あの不埒な放蕩者の弟は遠い土地で野垂れ死にでもすればいい、くらいに思って自分を納得させていたに過ぎなかった。

 だから、兄は父の弟に対する処遇に納得できず、弟のために父が開いた宴席に頑として入ろうとはしなかった。 

 父は説得をあきらめ宴席に戻り、その後、日没が迫ると召使はいつも通り家の門を閉じた。外では空腹と寒さが襲ってきたが、何よりも耐え難いのは暗闇の中の孤独と寂寥だった。夜遅くまで続く祝宴が天国ならば、これはまさに地獄そのものではないか。

 そして、翌朝召使が門を開けると、そこにはもう誰もいなかった。

 聖書の中の数あるたとえ話の中の最高傑作と私が考えるこの「放蕩息子のたとえ話」が、人間の生き方のパターンをこの兄と弟の二人のどちらかに振り分けるものだとしたら、私は姉の死を前にして大きな戸惑いを禁じ得ない。私のようなダメ人間が、父の愛と憐れみに救われるのは、もったいない話だが有難いことだ。しかし、あの愛すべき忠実な姉が、たとえ話の兄のような運命を自分で選び取ることにならざるを得ないのだとすれば、それはどうしても納得がいかない。もしそれ以外に落としどころが無いのだとすれば、聖書の記述は間違っていると言いたい。

 私は告別式ミサの説教の中でこの問題に対する納得のいく答えをきちんと出して締めくくったつもりだが、火葬場の時間厳守の制約を受け、自分の思いのたけを十分に展開するだけの余裕を与えられなかったので、列席者の心に果たしてどこまで私の真意を伝え得たか心もとない。

 今回はここで一区切りつけ、次回では結論の部分をもう一段掘り下げて、説得力をもって展開してみたいと思う。


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