:〔続〕ウサギの日記

:以前「ウサギの日記」と言うブログを書いていました。事情あって閉鎖しましたが、強い要望に押されて再開します。よろしく。

★ 私は何になりたかったか = ヘルマン・ホイヴェルス(2)

2018-11-09 00:05:00 | ★ ホイヴェルス師

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私は何になりたかったか(2)

ヘルマン・ホイヴェルス

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米軍払い下げの聖イグナチオ教会旧司祭館の前をパナマ帽を片手に颯爽と歩くホイヴェルス主任司祭。執務室はカマボコの左端の粗末な小さな平屋建ての中にあった。

 

早速「私は何になりたかったか」の続きを読もう。

二番目のあこがれは木樵になることでした。

ある日のこと、森にかこまれた生家に船会社の人がやってきました。カバンからはピカピカ光る長い斧、のこぎり、ロープなどがとり出されました。大木の運命は決められたのです。

木樵はまず、生家の西側にそびえる一本のカシの大木の根もとを掘りました。やがて大きな斧が打ちこまれ。のこが引かれると、一人はロープをもってハシゴをのぼり、梢の冠のなかの大枝にロープを結びつけます。そこで、手をもっているすべての人がよびあつめられました。ちょうどそこに一人の乞食が通りかかりました。もちろんその乞食も大歓迎です。問題はこの大木を生家の屋根の上に倒さないように、指揮者は、決められた方向に引き倒すよう一生けんめいです。木ははじめ少しだけふるえます。掛け声がだんだん大きくなるにつれて、木はますます大きく一方に傾き、戻る力が弱まったとき、ようやく引き手には逃げることが命じられました。私はまだ小さくて、この引き手の名誉にあずかることができませんでした。ただ倒れる大木の運命を、恐れをもって見守るだけでした。大木は大音響を森じゅうにとどろかせてうち倒れ、もはやじっと大地にねむりこんでいます。

そばに立っていた父は、私につぎのことわざを教えてくれました。

Wie der Baum fällt, so bleibt er liegen.

これに似たことわざは日本にはないようです。これには少しきびしい意味が含まれています。―――人間の運命は死ぬときに決まる(もし木が屋根の上に倒れたら大罪です)と。

三番目のあこがれは左官屋でした。生家の壁は、トイトブルゲルワルトの山から切り出された石でできていました。しかし、ちょうどそのころ建て替えられたパン焼き小屋には、初めてレンガが使われました。このレンガ積みには大工の息子も手伝っています。錘をつけた糸をたらして、まっすぐに積み上げられていく赤い壁に、わたしはたまらない魅力をおぼえたのです。

私は母のところに行って、自分も大きくなったら左官屋になるのだと主張しました。母はそのときにも、べつに反対はしませんでした。

しかし、六、七歳になったときです。父母は、私たちが将来どんな方向に向かうかを決めるべき、まじめな問題にぶつかりました。(つづく)

これは、実に短い一節で、一見するところ、彼の将来を決定づける最後の部分へのただのつなぎのように見受けられます。しかし、実際はそうではない。毎週の「紀尾井会」に集まる学生たち(当時は東大生も早稲田も中央も・・・実にいろいろな大学から来ていた)には、ちょうどイエスが弟子たちにはたとえ話の意味を説き聞かせたように、この短いドイツごのことわざを丁寧に説明してくださった。

Wie der Baum fällt, so bleibt er liegen.

ヴィ―  デア バウム  フェルト、ゾ―  ブライプト エア  リーゲン。

人間の運命は死ぬときに決まる(直訳:木は倒れたときの状態で、横たわったままに残る)

私は、師のことわざの解説を、今も明快に記憶しています。師が鋭く指摘している通り、これに似たことわざは日本にはないようです。」と言う師の指摘は実に正しい。

日本人の意識の根底には、いつの頃からか一般的に広がった人生観、つまり、前世があって、現世があって、来世があると言うメンタリティーがあります。ところが、上のことわざは、それには全く馴染まない、まさに水と油の世界観、つまり、神は森羅万象を「無」から創造し、人間には誕生から死までの一回限りの人生を与え、神だけが知っている死の時まで、一方通行の時の流れのなかを生き、死の瞬間にその魂の状態がそのまま固定され、その状態によって、その人間の復活後の永遠の命のありかたが決まる、という全く妥協も融通もきかない厳粛な事実を告げているのです。

死んでから、三途の川を渡って閻魔さんに会って、そこであれこれ弁解し、駆け引きをして、何とか後生・来世の良い条件を引き出そう、なんていういい加減な交渉の余地は全くない。「人間の運命は死の瞬間の状態に固定される」、一瞬にして取り返しのきかない形で確定されるのです。

(もし木が屋根の上に倒れたら大罪です)という師の添え書きの意味は、「もし棄教、殺人、姦淫、などの大罪を犯し、回心して神と人と和解しない状態のまま死んだら、自ら地獄の業火の中に飛び込み、そこに永遠に留まるという、取り返しのつかない愚かな選択をすることになる、という厳しい警告でもあります。

だから、人間はいつ「死」に追いつかれてもいいように、日ごろから心して「神を愛し、隣人を己のごとく愛し」ながら、清い良心を保って生きていなさい、と師は教えられました。

まだ足元の明るいうちに、日のあるうちに、回心して福音を信じなさい、と言う招きです。

そして、次回は、少年ホイヴェルスはどのような進路を選んだか、でこの短編は終わります。

(つづく)

 

 

 

 

 

 

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2 コメント

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宗教消滅 (s.m)
2018-11-09 10:38:20
宗教学者の島田裕巳さんは、その著書「宗教消滅」の中で、現在のフランス、ドイツで如何にキリスト教が衰退しているかを指摘している。私の知り合いのイタリアに在住していたシスターもイタリアはもう俗化してしまったと嘆いていた。キリスト教はいずれ消滅するだろう。なぜなら歴史というものがそういうものだからだ。谷口さんもキリスト教の回顧趣味にばかり耽ってないで、少しはキリスト教の延命措置をしたらどうか。
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s.m さんへ (谷口幸紀)
2018-11-10 05:11:18
コメントありがとうございます。
久しぶりにピリッと胡椒の効いたコメントを頂いた、と喜んでいます。
「宗教消滅」まさにおっしゃるとおりです。南フランスを地中海に沿ってレンタカーを走らせてごらんなさい。絵のように美しい漁村に、遠目には教会の塔が見えて、心躍らせて近付いてみたら、入り口はX印に板が打ち付けられ、ステンドグラスは破れ、牧者も信者もいない廃寺になっていた、なんてことはざらです。
教皇フランシスコのおひざ元のローマでも同じこと、ドイツも、ソ連の衛星国の時には熱烈なカトリック国だったポーランドも、そして、もともと吹けば飛ぶような小さな日本のカトリック教会も、みんな消滅、安楽死への道を辿っています。プロテスタントだって、まじめな伝統仏教だって、一様に同じ滅亡への坂を駆け下っています。
ホイヴェルス神父さんのことをちょっと書いたら、たちまち「キリスト教の懐古趣味にばかり耽って」とバッシングを受けてて片腹痛いですが、それは私の他のブログに敢えて目を背けての無理なご注文ではないでしょうか。
共通の敵は、セキュラライゼーションとグローバリズムのなせる業、と片仮名を並べるとまた叩かれそうですが、要するに、世俗主義と拝金主義による世界規模の均一化文化との戦いで、連戦連敗の宗教界に活を入れようと言う話でしょう?
私は、「キリスト教の延命措置」と言えばあまりにも後ろ向きで同意しかねますが、前向きに「キリスト教の再生復活」には人並み以上の情熱を傾けていることは十分ご理解いただけているるものと胸を張って自負しています。
「温故知新」と言うか、初代教会の原点に返り、第2バチカン公会議の大改革を推し進め、本当のキリストのみ教えを再発見し、新しい福音化に殉ずる決意においては人後に後れを取る気はさらさらありません。
西暦紀元後400年ごろから20世紀半ばまでのカトリック教会の単純な「延命措置」は、無理、不可能、見当違いです。
1965年に幕を閉じた第2バチカン公会議の教父たちは、その事にはっきり気がついて、預言的な改革を提言しました。あらゆる後ろ向きの抵抗を排しつつ、100年かかっても、300年かかってもそれを実行に移す以外に世俗主義的無神論の攻勢を跳ね返し、神聖なもの、永遠的な価値を取り戻す手立てはありません。
s.m さんも手を携えてご一緒に戦いませんか。
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