Dr.mimaが医原病を斬る!

C型肝炎の解決を目指し、国の責任を追及するため闘っています。

柳澤謙の青春時代

2015年05月20日 07時00分00秒 | その他


彼は学生時代の思い出を次のように述べている。
「東大医学部在学中、夏休みに東京市療養所(現国立国際研究センター国府台病院)に、2ヶ月半くらい毎日通って結核の勉強をした。
ここでは結核の臨床ばかりでなく、病理、細菌、血清学、免疫学などの研究を行っており、学生の私にも親切に指導して下さった。
夏休みも終りに近づき、9月半ばには大学もはじまるので、お世話になった先生方にお礼の挨拶にゆくと、岡先生を除く先生方は来年の夏もまたおいでといわれた。
岡治道先生だけは、来年の夏は結核の基礎研究をやっている伝研の佐藤秀三のところへ行きたまえ、僕が紹介してやるからといわれた。
3年生の夏休みには、いわれるままに佐藤秀三のもとで勉強することにした。そこで私は見習学生として、まず菌の染色、培養を習い、ついでモルモットを用いての実験、結核菌の感染方法、経過の観察、ツベルクリソ反応の検査、解剖所見など一通り教えてもらった。その頃は結核症に対しては予防接種もなく、治療の特効薬もなかった。
万が一発病したら、安静にして栄養のあるものを摂り、きれいな空気を吸うということ以外に治療法はなかった。
早期診断としてのツベルクリン反応の陽性転化が、結核の感染と如何なる関係にあるかも、いまだ研究中という時代であった。
 伝染病研究所は東大の付属研究機関であったが、その気風は極めてなごやかで、上下の区別もさしてなく,教授連と一緒に野球をしたり、夜はビールをくみかわすといった風で、僅か2カ月半程の見習生活であったが、10年の住み家のように感じた。この時私は,卒業後はここで結核の研究を一生やろうと
と決意したのである。」
ところが四年目には何を実習したのか、その記載はなかった。
背蔭河に行くための特殊研究をしていたと考えられる。
背蔭河では人の生き造りをするのだから、実験動物(人)を生きたまま殺すための訓練は必要である。ホルマリン付けにした人間の解剖実習も初めはいい気のするものではない。
1989(平成2)年7月2日旧陸軍医学校跡地に100体を超える人骨が発見されたことと無関係ではあるまい。
「伝研に東京帝大医学部から私も含めて5人が基礎部門に入った。臨牀の方には、7人入ったので、1931(昭和6)年度の卒業生がいい合わせたわけではないが、一度に12人も伝研の門をくぐったことになる。」と語っている。
確かに柳澤謙は、1931年4月30日付けで伝染病研究所技手として採用されていた(「実験医学雑誌」雑報、15巻6号)
 先にもBCGの超音波処理のところで書いた、伝染病研究所の矢追秀武は著書「私の70年史 」のなかで「柳澤謙を知ったのは、1937(昭和12年)年4月30日であった(メディカル・カルチャー、1965)と書いており、柳澤謙が1931年春から1937年春までの6年間背蔭河にいたという証拠となった。


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