Dr.mimaが医原病を斬る!

C型肝炎の解決を目指し、国の責任を追及するため闘っています。

満州国衛生技術廠

2015年05月18日 07時00分00秒 | その他
1934(昭和9)年3月中旬満州国衛生技術廠の所長人事が伝染病研究所内で問題になった。阿部俊男(東大、大正8年卆)は長崎医大の教授から2年ほど前、伝研に転出したばかりだったので、伝研に残りたいと断った。
しかし宮川米次の強い希望で満州国衛生技術廠(以下満州伝研)に行かざるを得なかった。
1934(昭和9)年の7月21日から1ヶ月の予定で宮川米次と阿部俊男は満州の医事衛生視察のため出張した。宮川米次は背蔭河で進行し、成功し始めているある実験の視察(第4性病)、阿部俊男は満州伝研の視察もあったであろうが、宮川米次の「満州国に於ける見聞」の代筆の役目を負っていただろう。
1934(昭和9)年9月21日午後6時には主席者114名という非常に盛大な送別会催され、10月には阿部俊男(東大、大正8年卆)が、満州国衛生技術廠(長春)に所長として赴任した。
満州伝研は、99,150㎡(約10ヘクタール)の広さであった。  
阿部赴任の翌年すなわち1935(昭和10)年12月16日には田中正稔(まさのり)、加地信および委託浅田順一、島崎正雄、菅野征らが伝染病研究所から派遣された。
田中は阿部の片腕として期待されていた。
 田中正稔は、柳澤謙の同期であり、ともに背蔭河の工場で働いていた。
背蔭河の実験は1937(昭和12)年秋で終了となったので、通称満州伝研は背蔭河と同様の研究を続行するために造られたものである。
「工場」従業員の数は約300人であった。
1936(昭和11)年から昭和12年にかけて、柳澤謙が2年間BCG未接種者(144人)とBCG既接種者(162人)の経過観察を行っているが、観察できた総数は306人であった。
1938(昭和13年)年6月9日田中正稔交通事故で死亡した。
 阿部は田中の代わりに柳澤の赴任を要請したが、満州のことを良く知っていた岳父(義父)の助言によりそれを断り、代わって高橋義夫に行ってもらうことにした。高橋義夫の赴任時期は明確になっていないが、彼は1936年(昭和11年)9月2日(水)フランスのパスツール研究所に2年間の予定で留学していた。
彼が満州国衛生技術廠副所長に赴任したのは田中の死後まもなくであろう。
高橋義男(北大、昭和9年卒)は満州伝研では子供たちの腋窩(わきのした)にBCG接種を行っていた。
阿部は戦後ソ連に抑留され、1947(昭和22)年シベリアで死亡している。

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