Dr.mimaが医原病を斬る!

C型肝炎の解決を目指し、国の責任を追及するため闘っています。

背蔭河(2)

2015年05月16日 07時00分00秒 | その他


網走監獄(博物館)は5万坪、16,5(ヘクタール)の広さがあり、定員は800名であった。
「1933年12月8日(金)降雪、午前8時雪を犯して飛行、吉林、拉法(らーふあ)を経て10時15分拉林(背蔭河)着、石井および伊達氏に迎えられ背蔭河の試験場を視察した。
600メートル平方(36ヘクタール)の大兵営で、一見要塞をみる感があった。一同の努力の跡、歴然であった。
20数万円の経費またやむを得ないか。
細部にわたり説明を聞き、昼食を共にして午後2時発、自動車にて帰途につき、午後6時、夜の荒野を幾度か道に迷いつつも、中馬大尉(石井四郎)の案内にてハルビンについた。
石井は疲労のため、発熱、1時間見舞い、7時に名古屋館(長春)に投宿した。」1933年に文部省から伝染病研究所への予算は、19万890円でしたので、背蔭河の予算の規模は伝染病研究所と同程度の大規模であった。
私は、2007年秋、寒い雨の日に網走刑務所(博物館)に行ってみた。
背蔭河の広さを実感するためだったが、面積を比較すると背蔭河の広さは網走刑務所(博物館)の2倍以上もあった。
これなら実験動物1500人以上を1人1人檻(おり)に収容出来ると確信した(写真1)。
「1933年年12月24日快晴、東郷氏(石井四郎)から電話があり、父を失いなお国に帰ることなく、背蔭河の仕事に没頭しているのを聞き気の毒に思った。」
「1934(昭和9)年8月11日(土)晴、午前8時半出発、モス機にて背蔭河を訪問する。東郷部隊を訪問した。10時着。予想以上の良好な飛行場ができていた。東郷(石井)中隊長等に迎えられ、試験場を3時間にわたり綿密に視察した。」
飛行場は実験動物(人)によって造られたと考えられる。
人は幽閉し労働させなければ、死んでしまう。
モス機とはデ・ハビランド社製(英国)のDH82Aタイガーモスのことです。

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