肝臓病を専門的に学ぶため、私は1977(昭和52)年4月から翌年3月まで国内留学という形で「肝と免疫」というテーマで、京都大学内科に籍をおきましたが、私に特別な課題が与えられた訳ではなかったので、博士論文の手伝いと、肝グループのリーダーの先生の車の運転手が主な仕事でした。
お陰で免疫の基礎を学ぶことができました。京都観光では研究室でも私が最も詳しいとも「いやみ」を言われました。
その後京都の仕事では満足できなかったので、当時関谷千尋を通して、旭川医大の内科教授並木正義(北大医学部、1952年卒)の紹介状をもらい真弓忠(まゆみ まこと)(東大医学部、1962年卒)を訪ねました。彼は東京都臨床医学研究所WHO肝炎センター(1977~1985年)の所長で、東南アジアや日本のB型肝炎に関する多岐にわたる研究をしていました。
彼を訪ねると、まず帰りなさいと言われ、帰れと言われても3ヶ月分のアパート代を前払していましたので、すぐ帰るわけにもいかず、1ヶ月だけ居座ることにしました。その後、真弓先生のところでは、検査技師や若い医師の面倒を次々と見てもらうことになりました。
彼の率いるWHO肝炎センターは、大きな検査工場のようでなところで、彼はそこではカリスマ的存在であった。
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その後京都の仕事では満足できなかったので、当時関谷千尋を通して、旭川医大の内科教授並木正義(北大医学部、1952年卒)の紹介状をもらい真弓忠(まゆみ まこと)(東大医学部、1962年卒)を訪ねました。彼は東京都臨床医学研究所WHO肝炎センター(1977~1985年)の所長で、東南アジアや日本のB型肝炎に関する多岐にわたる研究をしていました。
彼を訪ねると、まず帰りなさいと言われ、帰れと言われても3ヶ月分のアパート代を前払していましたので、すぐ帰るわけにもいかず、1ヶ月だけ居座ることにしました。その後、真弓先生のところでは、検査技師や若い医師の面倒を次々と見てもらうことになりました。
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