自燈明・法燈明の考察

祈りが叶う、叶わないについて①

 さて、いきなりですが今回は祈りが叶う、叶わないという事について、今の私が考えていることを記事に書いてみます。

 創価学会では、新規会員の募集活動である「折伏(しゃくふく)」と言われる事で、勧誘の際に「この御本尊様は祈りとして叶わない事なんて無いよ」という言葉を言います。これは何も創価学会だけではなく、顕正会でも同じ事を言ってるようだし、宗門の方でも語っている様です。

 だからいざ創価学会に入会してから、この言葉を信じて勤行を行い、お題目を唱え、みな「願望成就(願いが叶うこと)」を期待しますが、結果として何も変わらなかった場合には「何だよ!何も叶わねーじゃねーか!」となり、辞めてしまう人もいたりします。

 また真面目にこの叶わない事を紹介者や幹部に聞くと、そこで言われるのが「広宣流布の願いなら叶う」とか「しっかりと学会活動しなければ駄目だ」と、まるで後出しジャンケンさながらの指導をされて、そこから創価学会の活動の深みに巻き込まれたりする人もいますよね。



 また中には本当に祈りの叶う人いたりして。そんな時には、その祈りの叶った事は「御本尊様のお陰」「創価学会の信心のお陰」という事で、そこから創価学会の事を信じて、より活動の深みにはまり込んでしまう人もいます。(私がこのパターンでしたねー)

 ではこの祈りが叶うという事、また叶わないという事は一体どの様に捉えていけば良いのでしょうか、そもそも祈りが叶うわけねーじゃん、という人も居れば、いやいや祈りは叶うんだよ、と自信満々に答える人も居ます。果たしてどちらが正解なんでしょうか。

 私が思うにこの「祈りが叶う」というのは、人の心が潜在的に持っている働きだと言うことです。

 近年になり、量子物理学でも「シュレディンガーの猫」という思考実験でこれに関連する事は語られてます。私は量子力学論の専門家でもないので、細いことを説明することは出来ないのですが、概要的な事を言えば、極微の世界では「人が観察を行う」という行為が、実験の結果に影響を与えてしまうという事が有ると言うのです。
 具体的な話として、「光」というのは波としての性質と、粒子としての性質を併せ持っているらしく、どちらの性質が観測できるかは、実験者の観察により変わってくるという話があります。
 何やら雲を掴むような話なんですが。信じられますかね。この事から極微の世界の理論からすると「月は私達が観察するから実在する」なんて事が、真面目に議論されたりしているのです。



 そこらかこの「シュレディンガーの猫」という思考実験の話も出てきており、簡単に言えば毒の入った容器を入れた箱の中に、生きた猫を入れて蓋をすると、箱の中には「生きた猫」と「死んだ猫」の2つが存在していて、観察者が箱を開けた瞬間に、どちらかに収束して「生きた猫」もしくは「死んだ猫」になると言うのです。

 もう訳が解りませんよね、この理屈。

 ただこの理屈で興味深いのは、観察者の行為で、現実の世界が変わるという考え方で、これについては幾度もこのブログで取り上げていますが、人の心が環境を作り出すという、この事は大乗仏教の思想にとても親しいという事なのです。

 近年、欧米で話題になっていた「ザ・シークレット(秘密の法)」という本では、人は己の願望を叶えることが出来ると言う事が言われており、そこそこのベストセラーになっています。私も数年前にこの本を購入して読みましたが、その内容はと言うと、かなり以前に創価学会の川田副会長が「教学研究」という冊子の中の論文で書かれている事と、瓜二つの内容でした。

 これを知った時、私なんかは「何や、創価学会の教えというのはニューエイジ思想なんか?」とも思いました。何故なら「具体的にイメージしろ」「それが”叶うといいな”ではなく、”叶った”という感謝の心で生活しろ」という内容で、そのまま「ザ・シークレット」の話とダダ被りでした。

 しかしここでちょっと考えなければなりません。
 仏教でも「心如工画師」という経文や、十如是や一念三千などの教理により「人の心の中の思考から現実が作り出される」「自分の心と生きている環境は不二なんだ」と言われても、では実際に「祈りが叶う」という事は、それほど生活の中では実感できないし、むしろ祈ろうが何をしようが「祈りが叶う事はない」という事が大半では無いかと思いますよね?

 こう言うと創価学会の活動家や、宗門関係者などは「そりゃ信心によるべしだ、日蓮大聖人の仏法を知らぬ輩の言いそうなことだ」としたり顔する事でしょう。

 そもそもそんな簡単に「思考が具現化」して「祈りが叶う」のであれば、人は苦労しないし、もっと楽な生活や楽しい生活が出来るはずだろう。多くの人はその様に思う筈です。人が自分の祈りを何時も叶えられるのであれば、多くの人はお金持ちになる事でしょう。また不慮の事故も無くなれば、病気で望まない形で死ぬことも無ければ、人生で苦しむ事も無いはずです。

 「いや、人が楽に祈りを叶えては、それはその人の為にならない。これはご仏智によるもので、凡夫如きには計り知れないものなのだ」なんてしたり顔する創価学会会員や宗門の人の顔が目に浮かびます。

 確かに人生というのは不如意なもので、中々思い通りにはなりませんし、人生自体が苦悩の連続という人も多くいます。

 でもこれは一体どういう事なんでしょうか。単に宗教の教義のドグマ的な話なのでしょうか。

 量子力学では「人が観察する行為」で実験結果が変わると言い、人がこの世界を造り出しているという理論が近年言われていて、大乗仏教では「人の心が現実を造り出す」と説かれており、欧米では「ザ・シークレット」という書籍でこの事が述べられていて、多くの人に共感を得ています。

 しかし現実には「祈りが叶う」なんて事は、容易く実感できないし、多くの人は不如意な思いで人生を生きている。

 これは如何なる事で、この様に生活実感と相容れない事になっているのか。
 そもそも大乗仏教の教えというのは「妄想の教え」であり、量子力学で言われる「人の観察という行為が実験結果に影響を与える」という事もたわ言なんでしょうか。それとも「宗教のドグマ的な問題」であり、そこには「信心」とやらが関係してくるのでしょうか。

 この事について、もう少し掘り下げて、考えを進めてみたいと思います。
(このブログでも似た掘り下げは以前にやっていますけどね。。。)


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