自燈明・法燈明の考察

祈りが叶う、叶わないについて②

 さて、話を続けます。「思考を具現化する能力」を人の心が持っているとしても、人々は実際にこれを実感する事は出来ていません。何故なら大半の人達にとって、この人生とは実に不如意な出来事が多くあるからです。

 しかし私は、やはり「思考を具現化する能力」は全ての人達に備わっていると思います。ただそれと共に理解しなければならないのが、この世界はけして自分一人で生きているわけではないと言うことです。



 この事については、天台大師の一念三千という教理の中でも「三世間」という事で示しています。この三世間とは「五陰世間」「衆生世間」「国土世間」という事を指しています。

 「五陰世間」とは、人の心にある「色受想行識」という五つの特性から成り立つ場所であり、端的に言えば「個人」の内面にある世界だと言えるでしょう。
 「衆生世間」とは、人々が集まる場所をであり、端的に言えば「人々の集まる社会」と言えます。
 「国土世間」とは、人々が集まる環境(空間や場所)の事であり、これは心のあるもの(有情)ではなく、能動的な心を持たない(非情)ものです。

 この「三世間」で示されているのは、一人の心の働きが、社会を作り出し、その社会のある土地や空間という環境とも相互に影響しあう関係であると言うことを現しています。

 天台大師の一念三千の教理で優れた処は、人の心とは個人の内面に留まるものではなく、社会とも相互に関係性を持ちながら働くだけではなく、その社会の土地や空間という、環境とも相互に関係性を持つことを理論としてまとめ上げている事です。

 例えば私が憂鬱な気分で職場に行ったとします。職場には多くの人達が活動しています。そこには前向きにモチベーションを維持しながら仕事をする人もいれば、イライラしている人も居るでしょう。此等は「五陰世間」にあたります。そして職場の雰囲気とは、出勤した私を含めて職場にいるそれぞれの人達の心模様によって醸成されていきます。これを「衆生世間」と呼びます。
 結果としてその職場の雰囲気が、その場所、具体的には事務所内の整理状態にも現れていきます。これは「国土世間」に当たりますが、良い雰囲気の事務所であれば明るく整理整頓され、悪い雰囲気の事務所であれば雑然としています。そしてそんな事務所の雰囲気は、それぞれ個人の内面の心に影響を与えてしまうのです。

 少し前置きは長くなりましたが、私達が「思考を具現化する能力」を持ち合わせたとしても、それが具体的にそれぞれの周囲に具現化するという事は、この三世間で示されたように、同じ社会に住む一人ひとりの心と相互に関係性を持ちながら、具現化されるという事なのではないでしょうか。

 ここで一つの思考実験的な想定をしてみたいと思います。ある会社に一人の創価学会男子部員が居たとします。彼の祈りは「給料を上げたい」でした。これは個人の思考の中の話です。しかし会社では昇給枠が決まっていて、そこは一人しか昇給枠がなかったとします。
 その時、昇給の査定対象として彼以外に二人いたとして、この男子部員以外の人にも、それぞれ別の思惑があります。一人は「自分の業務スキルを上げていきたい」というものを考えており、もう一人は「別の会社に転職したい」というものかもしれません。
 また昇給枠を判断するのは上長であり、その上長の思惑は「昇給により、会社の発展のためにも能力ある社員のモチベーションを何とか上げたい」という事を考えていたとします。

 さて、男子部員が日蓮の文字曼荼羅に必死に祈ったとして、果たしてその「祈りが叶う」事はあるでしょうか。査定枠に入るのは上長の思惑や、その上長の査定のための観察眼に依るところも多くあります。

 結果、男子部員の祈りが叶い、彼が昇給したとします。その場合、もしかしたら「業務スキルを上げたい」と思っていた社員は、この昇給評価に現れた会社の姿勢に落胆し、会社を去るかもしれません。そしてそんな彼の姿を見て、残りの一人もより転職に対する気持ちを強め、結果として上長の思惑である「能力ある社員のモチベーションアップ」すら挫くことになるかもしれません。

 この場合、男子部員は自分の祈りが叶った事で、創価学会の信心の確信を深めたと勇躍歓喜するかもしれませんが、会社としては、この査定の結果はマイナスにしかなりませんし、それによって多くの人の思惑や祈りに似た気持ちを挫くことにもなってしまいます。

 また男子部員の祈りが叶わず、「業務スキルを上げたい」と思っていた社員が昇給したとしましょう。この場合、この社員は喜び、より仕事に邁進した結果、もしかしたら彼のスキルを上げることにつながるかもしれません。するとこれを見ていた「転職を考えていたの社員」も、この職場の査定基準を理解し、自分自身の業務スキルを磨く必要性に気づき、仕事に励むようになるかもしれません。
 祈りの叶わなかった男子部員は「なんだよ!こんなに祈ったのに給料上がらねーのかよ!祈りなんて叶わねーじゃん!」と創価学会に対する不信感がアップするかもしれません。しかし職場の状況は、上長を含めて向上するかもしれないのです。

 創価学会もそうですし、多くの宗教では「この信心で必ず祈りは叶う」と言いますが、その祈りが叶うか叶わないかは、三世間でいう「衆生世間(社会)」の上で、多くの人達の心の中にある「思考」にょる相互作用によって、結果として「叶うケース」もあれば「叶わないケース」も出てくるのではないでしょうか。
 個人が「祈り」によって「思考を具現化」する能力があったとしても、そこには祈りというか、そこに対する思いの強さや、他者との関係、そして他者の思考、またすでにある状況も相互に影響しあいながら具現化していく事であり、単に個人の祈りや思いが、いつもそのままストレートに具現化するものではないと思うのです。

 また少し話を変えますが、量子力学で言う「月は私達が観察する事から存在する」という話があります。これを聞いた時、私はこの様に思いました。

「いやいや、例え私が見なくても、月は間違いなく天空に存在するではないか」

 確かに私一人が観察しなくても、この世界には月は存在し続けています。しかしこれは私以外の誰かが常に月を観察しているから存在しているのであり、もしこの宇宙の中で月を観察する人が一人も居なくなった場合、本当にこの月は存在し続けるのでしょうか。もしかしたら、その様になった時には月というのは量子力学の説の様に、存在しなくなってしまうのかもしれません。これについては誰も証明する事は出来ないのです。

 かつて1930年代、物理学者のアインシュタイン博士と、インドの詩人であり思想家であるタゴール氏は対談しましたが、そこでタゴール氏は以下の様に語りました。

「しかし月は、あなたの意識になくても、他人の意識にはあるのです。人間の意識の中にしか月は存在しない事に変わりません。」

 つまるところ、この世界に存在するものとは、人間の意識(心)の中に存在するものであり、その人間が観察する事により具現化しているのかもしれません。そして多くの宗教で説いている「祈りが叶う」というのも、そういった働きによる一つの事象なのかもしれないのです。


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