台湾治郎

自分の生涯・現在の生活

ブログ283 言葉が生まれるとき。 障害者パート1

2013-03-29 16:54:27 | 台湾
私の教師生活後半は、障害者と関わっていました。だから、彼らの話すのは、得意でした。
最初に持った生徒は、今年成人式。二十歳になりました。
彼は、脳性麻痺で生まれ、緊張すると話せません。だから、最初に彼と話すときは、彼の好きな話をしてから、勉強に入ります。
いきなり、勉強に入ると、緊張して話してくれません。
だから、最初は、野球の話。次に、プロレスのような、年末にやる、なんと言いましたか、忘れました。K1。
 私が覚えて無くても、俺が教えてくれます。
私は、カタカナの名前一回では、覚えられません。
ところが、かれは、一回で覚えます。私が覚えられないのに、かれは、一回で覚えられる。ということは、かれは、私より頭良い。
頭は、いい。けど、緊張すると・・・。
リラックスが大切。
それと、かれは、手や足がうまく動かせません。
口や心は、私なんかより、敏感。「人間を見抜く目」は、鋭い。
こころは、一緒。好きな人も、居るし、欲望もあります。もちろん、おちんちんも充分に立ちます。彼が好きな俳優は、真矢みきとか、小池栄子、年上。ボインも好きだし・・・。そういうことは、普通。当たり前。ハンデがあろうと・・・。
「にんげんだもの」
 わたしも、昔ドモリでした。なぜ話そうとすると、話せないのか、当時は、わかりませんでした。一つ言えることは、私が話そうとすると、ミンナが笑う。
笑われていると思うと、もう顔が真っ赤になり、ますます話せなくなりました。
小学校四年生から、ドモリが始まりました。
女の先生が担任。
その時から、大学に一年まで。9年間、どもりでした。
その間は、私は、人のはなしを聴く方が多かった。だって、話すより、聴く方が楽。
全然。聴く方は、黙っていれば終わります。けど、話すときは、緊張し、汗をかくから。
大学で、落語を勉強するまでの 期間。
どのように、克服したの、簡単。笑われることは、良いことと思うようになりました。
だって、落語していて、笑われないと、とても、落ち込みました。
普段、笑われると恥ずかしいのに、落語しているときは、笑われるときの方がうれしい。
私が「火焔太鼓」をやったとき、物すーーーーーーーーーごーーーーーーーーく受けました。大学三年か四年の時。人間は、P・T ・ Oで全然違うと言うことを学びました。
それ以来、人と話すことが好きになりました。
これは、私の大きな自信。
話すことに対しての自信。これは、とても大きな出来事。障害を克服することは、簡単のようでとても、大変。
ただ、みんな一緒。障害を持っているからといって、特別視しないこと。普通の同じ人間
として、接する。同情は。しない。もちろん、働いていない人には、お金をあげない。
障害を売り物にして、乞食は、嫌いです。何でも良いから、「物売り」は、OK。
ことばが生まれるには、彼に話す時間、安心。好きなことを話させます。リラックス。
もちろん、障害によっては、手も、足も、口も使えない場合があります。口を使えなくて、コミュニケーションできます。それは、「目」を使った器具。
これは、見た人でないとわかりにくいです。目で話し文字を探す機械。「あいうえお。かきくけこ。さしすせそ。」ひらがなが並んでいて。
この場所を目で教える。言葉では、説明とても難しい。大学病院とかいくと、使っている人います。
世の中には、たくさん、障害を持った方がいます。そういう人について、考えてみたいと思います。
                       再見。


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