1 はじめに
松尾芭蕉は、源義経ファンだと言うものを何件か見た。
そこで、芭蕉が涙を流す場面を、奥の細道でピックアップして、検証する。
2 芭蕉の泪
(1)平泉
三代の栄耀一睡の中にして、大門のあとは一里こなたにあり。秀衡が跡は田野に成りて、金鷄山のみ形を残す。先づ高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河なり。衣川は和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入る。康衡等が旧跡は、衣が関を隔てて南部口をさし堅め、夷をふせぐと見えたり。偖も義臣すぐつて此の城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠うち敷きて時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
ここの平泉を見ると、源義経が討たれた平泉に、芭蕉が興味を持って訪れた事が分かる。さて、「義臣すぐつて此の城にこもり、功名一時の叢となる」とあり、義経に従った義臣に芭蕉は感心があると言える。義経にはあまり関心がない。
(2)佐藤庄司旧跡
月の輪の渡を越えて、瀬の上といふ宿に出づ。佐藤庄司が旧跡は、左の山ぎは一里半ばかりに有り。飯塚の里、鯖野と聞きて、尋ね/\行くに、丸山といふに尋ねあたる。これ庄司が旧館也。麓に大手の跡など人のをしふるに任せて泪をおとし、又かたはらの古寺に一家の石碑を残す。中にも二人の嫁がしるし先づ哀なり。女なれどもかひ/゛\しき名の世に聞えつるものかなと袂をぬらしぬ。堕涙の石碑も遠きにあらず。寺に入りて茶を乞へば、こゝに義経の太刀、弁慶が笈をとゞめて什物とす。 此城、神亀元年、按察使鎮守府将軍大野朝臣東人之所置也。天平宝字六年、参議東海東山節度使同将軍恵美朝臣葛修造。而十二月朔日 と有り。聖武皇帝の御時に当れり。昔よりよみ置ける歌枕多く語り伝ふといへども、山崩れ川落ちて道改まり、石は埋れて土に隠れ、木は老いて若木にかはれば、時移り代変じて、其の跡たしかならぬ事のみを、こゝに至りて疑なき千歳の記念、今眼前に古人の心を閲す。行脚の一徳存命の悦び、羇旅の労を忘れて泪も落つるばかりなり。
芭蕉が涙したのは、義経に従った佐藤庄司の嫁たちの「二人の嫁がしるし先づ哀なり」の行いにである。
(3)一笑塚
卯の花山くりからが谷を越えて、金沢は七月中の五日なり。爰に大阪よりかよふ商人何処といふ者あり、それが旅宿を倶にす。
一笑といふ者は、此の道にすける名のほの/゛\聞えて、世に知る人も侍りしに、去年の冬早世したりとて、其の兄追善をもよほすに、
塚も動け我が泣く声は秋の風
小松といふ所にて
しをらしき名や小松吹く萩薄
此の所太田の神社に詣づ。実盛が甲、錦の切あり。住昔源氏に属せしとき、義朝公より賜はらせ給ふとかや。げにも平士の物にあらず。目庇より吹返しまで、菊唐草の彫りもの金をちりばめ、龍頭に鍬形打ちたり。実盛討死の後、木曾義仲願状にそへて此の社にこめられ侍るよし、樋口の次郎が使せし事ども、まのあたり縁紀に見えたり。
むざんやな甲の下のきり/゛\す
4 義仲寺に芭蕉の墓あり
芭蕉が、望んで墓としたのは、木曾義仲が眠る大津の義仲寺である。
さて、木曾義仲を滅ぼしたのは、誰か?源義経他関東武士団である。
その義経を芭蕉が、好きとなるだろうか?彼が涙したのは、義経に最後まで従う忠臣どもである。義経に、自分の将来を託し、最後まで従った。芭蕉も忠義と共に、生きたいと思っていた。それを叶えるのは主君である。義仲は、最後まで従う忠臣が多数いた。そう言う主君に憧れていたのでは無いか?