「自分に嘘がない」
…ということが、どれだけ大事なことか、長い間わからなかった。
この「嘘がない」って。
嘘をつかないこととは違うし。
あけすけなことでもない。
なんでもかんでも自己開示することでもない。
じゃあ、この「自分に嘘がない」ってどういうこと?
と聞かれれば。
「本当の自分」で生きると言っていいと思う。
「本当の自分」って。
これはこれで曖昧な言葉で抽象的。
解釈も色々あるだろうし、様々な分野で目にする機会はすごく多い。
ということは。
それだけ「本当の自分」を皆が知りたいということなんだろうなぁと思う。
「本当」の対義語は「嘘」だけど。
何も、これまでが嘘で塗り固めた自分であり人生だった…ということではなく。
エゴが主体だった、ということ。
個人的には、「千と千尋の神隠し」に出てくる 「カオナシ」が
エゴを表すのにぴったりのキャラクターだなぁといつも思う。
(あくまでもイメージ)
不安や恐れ、罪悪感や無価値感が大好物で、いくらでも膨れ上がって暴走する。
でも、暴走するがままにしておくのではなく。
「本質」から流れてくる声に耳を澄ますうちに、
エゴの養分となる不安や恐れが徐々に減ってくる。
代わりに、増えてくるのが、
穏やかさや静寂といった「本質」、つまり「本当の自分」としてのエッセンス。
といっても。
エゴが騒がしければ、本質の声は繊細だから、すぐに搔き消されてなかなか耳には届かない。
たとえ聴こえ始めても、それがエゴか本質なのかがわからない。
だからといって、あきらめたらそれで終わりだと思う。
出来るとか、出来ない、ではなく…。
愛に基づいた世界を体験したい。
その為に、人が生まれてくるのなら、その世界を見たい。
拡がり続ける「答えがない世界」に、足を踏み入れれば…。
現実は動く。
不安も恐れも薄まり、栄養不足で干からびていくエゴの声は小さくかすれて、
もはや耳に入らない。
形勢逆転✌️
エゴが見る影もなくなってきたら、放っておいても、自然に顕れてくるのが「本当の自分」。
なぜなら、最初から何も変わらず、ずっとそこに「在る」から。
これが目覚めのプロセスとも言えると思う。
エゴ主体の世界から、愛に基づく世界の始まり。
そして、そこで展開されるストーリーは、エゴの脚本ではないから、予想外の展開ばかり。
私達が肉体を着て過ごす時間は、限られている。
不安と恐れを握りしめたまま「エゴ」の脚本で生きていくか。
全体性から差し出される、愛に拡がり続ける「本質」の脚本で生きていくか。
この違いは、桁外れに大きい。
*写真は、ジジさん😺用の猫草。
葉の先に、ふるふると水玉。
…ということが、どれだけ大事なことか、長い間わからなかった。
この「嘘がない」って。
嘘をつかないこととは違うし。
あけすけなことでもない。
なんでもかんでも自己開示することでもない。
じゃあ、この「自分に嘘がない」ってどういうこと?
と聞かれれば。
「本当の自分」で生きると言っていいと思う。
「本当の自分」って。
これはこれで曖昧な言葉で抽象的。
解釈も色々あるだろうし、様々な分野で目にする機会はすごく多い。
ということは。
それだけ「本当の自分」を皆が知りたいということなんだろうなぁと思う。
「本当」の対義語は「嘘」だけど。
何も、これまでが嘘で塗り固めた自分であり人生だった…ということではなく。
エゴが主体だった、ということ。
個人的には、「千と千尋の神隠し」に出てくる 「カオナシ」が
エゴを表すのにぴったりのキャラクターだなぁといつも思う。
(あくまでもイメージ)
不安や恐れ、罪悪感や無価値感が大好物で、いくらでも膨れ上がって暴走する。
でも、暴走するがままにしておくのではなく。
「本質」から流れてくる声に耳を澄ますうちに、
エゴの養分となる不安や恐れが徐々に減ってくる。
代わりに、増えてくるのが、
穏やかさや静寂といった「本質」、つまり「本当の自分」としてのエッセンス。
といっても。
エゴが騒がしければ、本質の声は繊細だから、すぐに搔き消されてなかなか耳には届かない。
たとえ聴こえ始めても、それがエゴか本質なのかがわからない。
だからといって、あきらめたらそれで終わりだと思う。
出来るとか、出来ない、ではなく…。
愛に基づいた世界を体験したい。
その為に、人が生まれてくるのなら、その世界を見たい。
拡がり続ける「答えがない世界」に、足を踏み入れれば…。
現実は動く。
不安も恐れも薄まり、栄養不足で干からびていくエゴの声は小さくかすれて、
もはや耳に入らない。
形勢逆転✌️
エゴが見る影もなくなってきたら、放っておいても、自然に顕れてくるのが「本当の自分」。
なぜなら、最初から何も変わらず、ずっとそこに「在る」から。
これが目覚めのプロセスとも言えると思う。
エゴ主体の世界から、愛に基づく世界の始まり。
そして、そこで展開されるストーリーは、エゴの脚本ではないから、予想外の展開ばかり。
私達が肉体を着て過ごす時間は、限られている。
不安と恐れを握りしめたまま「エゴ」の脚本で生きていくか。
全体性から差し出される、愛に拡がり続ける「本質」の脚本で生きていくか。
この違いは、桁外れに大きい。
*写真は、ジジさん😺用の猫草。
葉の先に、ふるふると水玉。