偶然現象を考えるとき,その数学的な模型は確率空間
であり,確率論の中心をなすのは,確率空間
を基礎として,時間とともに変動する偶然量の数学的模型である確率過程であり,確率過程の基礎理論となるのがマルチンゲール理論(martingale)であり,マルチンゲールの限界を補うのがマリアバン解析(Malliavin calculus)で,抽象ウィナー空間上の解析である.というのが,『数学辞典』の項目から,まず,読み取れることである.
現代の確率論は,当然,専門的科学研究の一大分野であろうし,科学研究での応用も広いだろうが,私には,それは無理なので,確率的な考え方を,できるだけパロりたい.私にとって,偶然現象との遭遇は,私という思考の束と世界との回帰的推移であるから,数学的にはっきりとしたモデルの上で,体系的に論じることは,無理だからである.
それでも,私の思考の束が,回帰的に偶然事象に推移して,どうやって偶然的なラベル付けを行うのだろうとか,確率論ならP(E)とか,P(E/B)なんて感じで表せばいいのだろうが,パロるための「思考の束」だの「回帰的推移」だのという目印が,数学的,体系的な本物の確率論と,どっか似た面もあり,ずれた面もあるということを観察していくのも,一興というものである.つまり,遊びである.
偶然現象を実在とし,それをめぐる体系的な思考を抽象ということにすれば,「実在と抽象」ということになるが,厳密に言えば,専門的科学研究としてしかその内容は無くなるわけで,それは,私には無理なわけである.
例えば,ブラックホールをイメージするとき,重力によって曲げられた時空が,グングン深い井戸のように伸びていって,ズーッとズーッといった果てには,特異点らしいものに至るというのが一般的なのだろうが,ブラックホールの底付近は,境界のはっきりしないぽっかり穴のようなもので,そこに,余剰高次元の橋がかかっていて,別な宇宙につながっているなんて感じで,想像したりするのだが,そういう想像を楽しみたいという嗜好な訳である.私の思考の束にとっては,ブラックホールの底にある橋を渡って,別宇宙に行けたら,未知との遭遇を果たしたということになろうし,状況的に渡れなかったら,ブラックホールは蒸発したも同じになる訳だから,別宇宙とは繋がらなくなるからと,ブラックホールもパロれる訳である.ブラックならホワイトという対が解けるからとか.
思考が偶然と出会う時には,思考は,ある領域へ引き寄せられながら,その領域が思考の対象の化学反応の工場であるかのように見えてくることが多い.錬金術ではないが,思ってもいなかったような反応生成物,といってもそれもラベルに過ぎないのだが,を生成して,今度は,そのラベルの持つ引力として,私の思考の束が通りかかるのを待っている感じである.ラベルになぜ引力が生じるのか.ミリキ的だからとか,それでも自分の考えたことだから,多少なりとも思い入れが生じるからとか,否定はできないが.逆に言えば,私の思考の束は,ある時,ある領域を構成して,構成された領域が,ラベル化されて,ラベルの系列を形作っていって,抽象的な空間(集合)を作るということも,考えられるのかもしれない.類領域というか<集合の集合>的な領域というか.それをフィルター付けして,マルチンゲールを考えるとか,しかし,それなら,確率論の教科書通りに考える方が生産的だが,教科書読んでもすぐには理解できないから,そう変わらないかもしれない.フィルター付き確率空間とかなぞらえても,ちょっとずれている感じもするが,まあ,そういう感じである.
私の思考の束が偶然事象とヒットする確率はπであるから,確率だから1/πとかα/πとか,そのために,時々,世界が透明な球体に見えるとか,想像するのもいけるかもしれない.ビフォンの針(床に幅hで引かれた平行線に,勝手に落とした長さlの針が平行線と交わる確率は2l/πhだということだから)程度に.思考の束のヒット率なんてのは,理論的にも統計的にも支持されるものかどうかという根本問題が残っているが.
理論的でも統計的でもない想像のついでに,「物事は多面的にみろ」とか「立体的なものの見方が大事である」と言われることがあるが,例えば,思考と偶然現象の遭遇のラベルを観察するときに,あるときは,わりと離れたところから観察し,あるときは,わりと近いところから観察しているという,距離感が生じる.それを,例えば,近い距離に感じる時を+1,遠い距離に感じる時は−1で表すことにすれば,ランダム・ウォーク(酔歩)を観察していることになる.t={-1, +1}とすれば,tと角度θを組み合わせて(t, θ)を考えることが立体的な見方ということになり,球面に収束しそうである.つまり,もしかすると,私は立体的に物事を見ていることになるのではないだろうか.とすれば,私の立体的な物事の見方は,可解析的空間上に値をとる,対応関数空間を考えていることになり,それをCで表せば,iを虚数単位のようなものと考えて,iC空間なんてことも考えられる.想像上の純虚関数空間である.私は,ICチップである,なんてシャレである.映画「マトリックス」の世界にいる感じはしないだろうか.マトリックスはダイバーシティーである.多様な見方への共感である.解析的リーマン面であるとか.数学的概念を勝手に流用してはいけないが,案外,いけてるかもしれない.私の,想像というより空想の芸術的な面が,立体的な物事の見方に通じているのかもしれない.
唐突だが,フーリエ級数に関連して,連続関数に関するWeierstrassの定理は,「約言すれば,閉区間において,連続なる関数f(x)に一様に近似する多項式P(x)が存在するのである」,任意のε>0に対して,f(x)が連続である閉区間において常に,|f(x) - P(x)|<εである多項式P(x)が存在する, (参照: 高木『解析概論』)である.ちょっとひねって考えると,私の思考の束が完備であるということが,偶然との遭遇の目安ではないか,なんてことはないだろうか.同書の,「完備というのは,直交列φ_nに他の関数を追加しても,それを直交列にする余地がないことを意味する」をひねって考えると,言うなれば,私の思考の束の佇みである. しかし,ちょっと気になるのは,メロディーは,そんな私の佇みとは無頓着なときに形作られるということである.音楽苦手な言い訳ではないが.メロディーも私を佇ませるのではあるが.
Weierstrassの定理なんて持ってきたのは,Fejerの定理を使った証明がまず掲げられていたから,ということもあるが,例えば,ユークリッド幾何学が,平行線の公理を取り除いても,また,その公理の代わりに別な公理を置いても損なわれない,むしろ,そのことによって,幾つかの非ユークリッド幾何が発見され,数学にも物理にも革命的な進展をもたらす.単に「反例」が見つかるということではない,体系的な生産性を有していた,というよく言われる話を思い浮かべたからである.
人文・社会科学の分野ではそういうことはないのか,と考えると,意外に,あちこちに,とりわけ,日本国憲法の体系にもあるのじゃなかろうか.体系的な生産性によって,実際的な物事に実定性を付与して対応するような,「規則と命令」とか,「法律と条約」とか.憲法学者の学説が論争を持つこと自体は,憲法を誤らず保持していくには必要なことであると考えるが,もしかすると,最近の憲法の学説論争には,そういう問題意識やそれに基づく深みが欠如しているのかもしれない.憲法改正の目玉の,自衛隊の明記も,要は,日本国軍を明記するということなわけだが,日本国軍は憲法違反であるという学説もあるから,軍人の矜持が損なわれるから,という首相の説明だから,軍人の矜持を損なうから,学説に論争があってはいけない,というのでは,軍部クーデタ国家のような日本国という感じにならないだろうか.自衛隊は,侵略戦争を目的とし,恐怖や威嚇による略奪成果をもって,日本国に利益をもたらす,という話より,任意に合憲的に,対米軍事要求を受け入れられるということなのだろうが,憲法論議として理解できるだろうか.ご都合? 安倍政権や自民党政権が,そのために改憲論議したいということなら,改憲偽装クーデタのようなものである.しっかりした,憲法論議が期待される.なんてわけである.日本における憲法論争も学説自体が怨念学説のようなものだから,しかも日本国憲法をめぐる論争自体がそういうものだから,「怨念学説論争に決着をつけようではありませんか皆さん」というのなら,支持できるのだが,そこら政治家的に曖昧な物言いになっている.モリカケ問題が,安倍政権の実体なのか,自民党の偽装クーデタ勢力のやり口なのか,詰め切れない野党の隠れ共謀なのか.
参院選挙なので,つい脱線したが,問題の視点に類似性を感じたから,ちょっと述べてみた.
のΩは,標識つまりラベルの見本空間だし,Fは,Ωの部分集合の系で,特定の条件を満たすσ加法族とか完全加法族とか呼ばれるもので,Pは集合関数で,確率の公理を満たす性質を持つとき,Ωの上の確率測度と呼ばれるものであるが,私の「思考と偶然」は,その中を彷徨っている.明確な定義ができないから当たり前であるが,彷徨いながら,確率論的な体系を移り行くとすれば,どういうことになってしまうのだろう.案外,絶景に出会えるかもしれない,という期待感もなくはない.ある集合の部分集合の系に積分を定義するのが積分の拡張なら,積分論の拡張の包括的解析学的な感じなのだろうか.定義も何もされないまま彷徨っている私の思考が,確率解析と遭遇するのも偶然任せではあるが.私の思考が偶然事象の領域に遭遇したことになれば,例えば,[-π,π]の中に包含されて,f(-π)=f(π)というように完結されて,しかもそのような回帰によって推移するとすれば,重力のように偶然事象に作用するかもしれない.そのような作用によって,絶景が開けたら,儲けた気分になる.妄想かもしれないが.妄想は楽しめるのだが,確率論の入り口にも立っていないことになるから,微妙な立場である.
Wiener過程(ウィナー過程)は,ブラウン運動の数学的模型で,ランダムウォーク(酔歩)問題の連続化といえるものであり,加法過程といわれる確率過程の例である.まとめると,こんな感じだろうか.私の思考は,Wiener過程のような抽象(理論)の周辺を出入りしている,不審な酔いどれ思考ということになるのだろう.好奇心(curiosity)という酒に酔って,ふらつきながら歩いている人影のようなものだろうか.私は,酒はたまに嗜む程度だが,酒に弱いからではなく,酒癖としては,飲むと眠たくなるだけで,酒にそうこだわりがあるわけでない.ワインといえば,赤玉,メルシャンなんていうと,今時の娘っ子には笑われるくらいのものである.
「積分
の数学的意味づけ」が難しいということだが,形だけ眺めていると,物理でいう相互作用の統一,電磁気理論とか,電弱統一とか,さらに強い力や重力も統一しようという物理学の思想の表現ぽくも感じられる.確率微分方程式というのは,実は,確率積分方程式のことである,とかあるが,微分を,一旦,積分形に直して,数学的な意味づけを確立したものが確率解析ならば,確率論的統一理論解析てな感じになるのだろうか.『現代数学の広がり2』「二次形式と確率論」,岩波 現代数学の基礎,参照.
すごく頭のいいAIや機械学習,あるいは,正しい理論だが完全な理論ではないアインシュタインの相対性理論,あるいは,生命の神秘や,政治経済を含めた社会的な事象への貢献など,ちょっとどうしようもないくらい広く深い,理論的関連や応用を確率論は持っているのだろうが,パロってみるのも,意外といける感じがする.表面的には言われることがあるが,ファインマンや朝永振一郎と伊藤清がほぼ同時発生的にそれぞれ理論に到達したという感じなのだろうか.令和時代のテクノロジーの進展のキーワードの一つなのだろう.パロりながら見ていくのも,時代遅れをいくらかでも緩和しようというオヤジ世代のむなしい努力なのである.
オヤジ世代の虚しい努力を滲ませるのが道教の思想への述懐であるが,私気分的に解釈すると,名を持たないことは天地の始まりのことであり,名を有することは,万物を生み出す母体である.無欲でもって,その見慣れない不思議への好奇心を放ち,欲を馳せてそのズレを観察する.無欲な好奇心も欲を馳せた観察も,もっと深い自然の道へ注ぎ込む一対の働きである.正統な解釈には程遠いが,オヤジ気分には十分なのである.「道」とは,偶然事象の持つ法則性のことであり(前書で,「ランダムであるがゆえに成立する法則性」として,代表的なものに,大数の法則,中心極限定理,大偏差原理が挙げられている),老子は,つまり,増大情報系(エントロピー)と向きあう人の道を説いた,という感じの解釈に通じる.「加法過程は時の経過とともに独立な増分が加算されていくことによって生ずる確率過程であって,」(伊藤著『確率過程』)とある.それは,最近は鳴りを潜めたが,酔拳や太極拳などのアクション映画や健康志向の人気の根になっている.映画評論風にもパロれるわけである.勝手に記号で書くとすれば,F_{|t−s|}の道である.
自分の心身の動きというのか,型というのかが,相手の動きや型に自然に細分化(refinement)されて,自然に,臨機応変に流動していく,そういう呼吸の動きが独特というような話は,太極拳などについては聞いたことがあるが,私の思考の束が偶然現象に近づいて包摂されるといっても,私自身は,大地に印された道の上を歩いているだけであるから,歩いていく途中途中で,考えを巡らすだけである.歩いている私を囲む風景と,私の思考の束が関わろうとする風景が,一対のように私の前に現れる.これも思い込みかもしれないが,ある種の遠距離相関といえるだろうか.
時候のご挨拶.

私の思考の束は一本,二本,...., と数えられるものなのだろうか,と自問することがある.思考の道が偶然事象にヒットした回数だから,何回という風に言うべきだろうが,何回というときには,私の思考の束が,あるとき偶然事象にヒットしたということだから,何度思いを巡らしたかは,捨象されていることにならないだろうかと.確率的にありえない思考の道もあるいは古典論的な決定論的な通常の思考の道も含めて,私は思考を巡らしているわけだから,それらが捨象されるということは,常に一本の思考の道を歩いている状態に射影されていることになるのではないか.その射影された道の上に変動量X_n=x_nをとって,変動x_i - x_jが偶然の影響を受けながら,ある量(例えば,∫f(x)dxという量)に(確率的に(in probability, i. p.) )収束していく.
てな感じに.ちなみに,絶対値の中のΣのついた項はリーマン和と呼ばれるものである,というので借用した.偶然の影響が持つ法則によって定められるものになっていく.つまり,情報路のようなものに変わっていく.思考とは「情報」という確率過程である,情報解析とは確率解析である,つまり確率積分方程式というのか確率微分方程式を解くことである,常微分方程式や偏微分方程式,あるいはシュレンジンガー方程式を解く理系のお勉強のように,ということになるだろうか.どうしようと思ったりする.
ここで,私の思考の束は,1次元ブラウン運動に回帰したことになるのではないか.Gauss過程というものでもあろうか.だから,確率論の大家の伊藤清がGauss賞という国際数学ノーベル賞?
ランダムウォーク!!! 現時点で,まだ昼なので,酒ではなくコーヒーを飲むことにする.
「私は,一杯のコーヒーを飲んだ」という文は,それは,閉σ加法族F[X],つまり,情報系にイデアル化されたようなものである,と翻訳されるではないか.「任意の閉σ加法族Fを情報と呼び,」(伊藤『確率論』)だから.また,
だから.イデアルであるなどとは書いてないが.
どっちにしろ,所詮,文学的な表現に過ぎないが.まるで,私の思考が切り分けられて,小さな小部屋に綺麗に収められて,点のように,コーヒーのほろ苦い香りに溶け込んでいる,そんなひとときを嗜むかのように,..., なんて柄にもないことは,無理である.実存主義文学なら,男は,標本箱を手にして,小さな区画にピン刺しされて収まっている死骸,蝶という実存のパラダイスどもを,苦々しく凝視していた,なんて感じになるのだろうか.一応,私も文学音痴ではないことも示しておかなければ,誤解が生じるかもしれない.私の思考の束は,標本箱の蝶のように,実存主義者の眼差しの上に拡張されて,コーヒーの香りに同化されていることになるのだろうか.
AI文学書けそうな気がしてきた,なんちゃってである.例えば,熱拡散方程式のような微分方程式を,無定義の物事の間の関係に結びつけて,同型の確率微分方程式から,未知の現象を発見し,新たに現象を仕分けていくような趣旨を持った文学をAI文学と名付ける,などとすれば,少し,特徴が出てくるかもしれない.
`Axiomatically, mathematics is concerned solely with relations among undefined things.' (Feller, 『確率論とその応用』のイントロから.「 明らかに,数学は,もっぱら,無定義な物事の間の関係に関わるものである.」),ということだから,例えば,チェスゲームのように,もっぱら,1組のルールで規定される物事に関わるものであるわけだから,方程式の形が同じなら,物事が編成し直され,拡張された現象として仕分け直されることも含まれそうではないか.例えば,カオスとか,ソリトンとか.もちろん,数学なら,数学的にちゃんとした意味を持ったものでなければならないだろうが,AI文学なら,もともと曖昧だから,ちょっとした特徴付けくらいにしか,言いようがないわけである.Actually, `Intelligence'. まあ,「知性」というものよ, がAIとか.
「知性」は,私の無駄に巡らした思考の道の挙動にかかっている.「すべてのP零集合を含むσ加法族を閉σ加法族という」(伊藤『確率論』),「任意の閉σ加法族を情報と呼び」だから,P(φ)=0(φは空集合)もそれに含まれるわけだから,無駄に巡らした思考の道の挙動が,解析的拡張の是非をコントロールしている感じになるのではなかろうか.解析的延長の手続きの拡張が,測度論には含まれていた,ということになれば,確率論の測度論的公理化の知性を巡らせていた,なんて,都合良くならないだろうか.「A`I'だね」(「まあ,「知性?」というものかな」)とか言われそうではあるが.
ランダムウォークから変分問題,あるいは「観測問題」へ,オイラーは,その道筋の持つゆらぎを明らかにするために,変分を通って,たどり着こうとしていたということになるだろうか.「任意の部分集合A⊂Ωの指示関数(indicator function)1_Aを

で定義する.これは事象Aがおこれば1, おこらなければ0という値をとる確率変数である.」だから. この定義を前提として,「Ωの有限分割Δ={ξ_1,..., ξ_n}のξ_iの中の見本点が出現したことを知った場合におけるA⊂ξ_iの条件付確率」ということだろうから.それによって,「Pは,積分形で,

と表される.」だから.P(A)でいいから.量子空間? 私のような文系人間には,ここらの意図が確定できない.当たりはつけられるが.小さな小部屋も,ω∈A1+A2+...+Amてな感じなのだろうか.結合確率分布とかP(ω)とか.
偶然現象をパロろうという意図だからなのか,私の思考の道は,重力のない世界に,私という観測者が関わることで,重力を生み出そうとしているような感じに見えてくる.重力は観測者の存在によって生み出されるもので,偶然現象の対象化された世界には,そもそも存在しないかのような感じである.ブラックホールのない宇宙も,ブラックホールだらけの宇宙も,両義的な存在根拠を持っているのだろうか.宇宙は両義性の合一である,という見方もできるだろうか.両義性の混合から,質量の欠損が生じる的な.フィルター付けとか単位的半群(くりこみ)とか.メルロ=ポンティの哲学は両義性の哲学とも呼ばれ,そして,「哲学とは,宇宙論である」,という回想的な随想をこじつけようとしたわけであるが,どうなんだろう.パロディーということであれば,半群は結合系という二つ名どころか,三つ名(単位的半群はくりこみ群)を持っていたなんて,ことでありんす.
集合算で,
が成り立つ.高々有限個を取り除いても極限は変わらない.まるで,A_jをA_{j+1}に移す操作のようである.{A_j}を{A_{j+1}}に移すとすべきだろうか.集合列{A_n}の上極限および下極限,

を眺めながら,極限といえば数列の極限,これは,集合列の極限とか,思いにふけるわけである.上極限,下極限,両者が一致するとき,それを集合族{A_n}の極限と呼び,単調な集合列は収束する(極限を持つ),単調増加,単調減少に応じて,

とあるから(『概説II』より).単調な時は,max{A_n}とかmin{A_n}を取る操作に見えたりする.
積分は,時間が,適当に順番を変えて,距離(測度)という質量を作っていくような,そういう関係を,集合族を定義域とした関数μ(A)でくりこんでいく感じなのだろうか.物理的には相対論,数学的には(D, μ)-可測とか.相対論を持つ物理を実用的,その数学的意味を数学的とすれば,実用面と数学的理論面という区別をつけることになるのかもしれない.ある意味の,<合一>を目指しながら.私の確率論と歩いた3ヶ月足らずの,実感一週間程度の,パロディーの道は,ようやく「実用的と数学的」の意味がわかる気がする程度のところまできた.なんて感じだろうか.