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2020年元旦 ------ 思考と易

2020-01-01 11:28:34 | 科学(Science

謹賀新年

昨年は,K理論,確率微分方程式のさわりを書き連ねたが,買い求めてある『代数的整数論』復刻版も気になり,恒等作用素の大局的・局所的対応の束に思いを巡らし,ジグソーパズルに準えて,見つからないピースを見つけるために,思考の風景を旋回させて眺めれば,ダウジングのように,思考は,風水や易の世界観のような龍の道のありかを向くことになるとパロっていたら,ネット不調か何かで,データが消えてしまったことで新年を迎えることとなった.

今年は,その延長上で,試みたいと思っている.タイトルにある「易」は,思考の不思議な運動の観察というような意味合いで使ってみた.思考の運動群=「易」のような感じである.「易経」の内容とは関係ない.

今現在は,大晦日までには終わらせておくべき大掃除が残っており,1日2日でカタをつけなければならないと,放心状態である.と,ここまでは,とりあえず,新年のご挨拶である.よいお年を!

 


思考と確率微分方程式

2019-10-13 08:23:04 | 科学(Science

私が思考してみた経験に(のみ)基づけば,思考は確率的な考察に必ず出会うものである.思考は,思考された事実を参照しながら,因果的に結びつく思考の痕跡と因果性だけでは説明できないトポロジカルな揺らぎ双方を伴っているものであるからである.思考が経験する了解仕方とでもいうのだろうか,思考に行き詰っただけの経験と言われそうだが,私としては,この思考の試みを観察するのに小学生生活の数年を費やしたのである.確かに,どうでもいいことではあるが.

思考を「確率的考察」に置き換えて,果たして置き換えられるものなのかどうかという点は別にして,確率空間に結びつけ,確率論的なモデル方程式にまとめて,それを解くことで,つまりは,偏微分方程式を作って,その解を求めることで,自然の法則性を確認するようなことをやれば,確率解析の実際の応用ということになるのだろう.

偏微分方程式自体が確率的な考察に出会わざる得なかったのなら,私の思考と解析学の辿った道が,不思議と交叉するわけである.

『確率論の基礎』にある,確率的考察の三段階,1. 試行,2. 標識の設定,3. 確率の導入,に従えば,1. 何度も思考してみる 2. 思考の結び目のようなものにラベルをつけて標識化する,3. 確率空間上の解析にかける,という感じになるのだろうか.もちろん,自分の思考を確率論しようということ自体がはちゃめちゃなのだが,パロディとしては,案外,面白いのである.思考の結び目といってもどんなものなのか定義しようもないじゃないかという代物だから,当然ではある.しかし,不思議と,思考すると,思考に結び目のようなものができる感覚を得るものである.そして,確率微分方程式を作って,解析していく.どうやるんだという,無謀な試みの前に佇むのである.カオス輸送方程式を解析するようなものである.カオスの数理というものもあるのだから,全くはちゃめちゃというものでもないだろうが,難しいことだという感じはあるのである.

確率微分方程式を直感的に重力方程式と見れば,カオスの重力輸送方程式ということになる.カオスをどうみるかにもよるのだろうが,確か,アインシュタインの重力理論も似たような構成ではなかったろうか.重力理論を熟知しているなんてことではなくて,確か,そういうことが書いてある箇所があったという記憶に基づく話である.ランダムな作用を受けながら生成する法則世界を,ランダムさを残しながら記述する極限という意味が,確率積分I(φ)のIに込められているのだろうか.

伊藤著『確率論』で,確率微分方程式は,

あるいは,同等な確率積分方程式

が挙げられている.私は,こういう形の方程式だということぐらいしかわからないが,基本だろうから.色々な拡張や応用を経て,回帰的に新たな意味を目指して帰ってくるような,方程式なのだろうか.テイラー展開とフーリエ級数のトポロジカルな一致を微分方程式でつなぐような感じなのだろうか.テイラーとフーリエの間の奇妙な関係もわかるようでわかりにくいものの一つであるような気がしていたから.正規分布とポアソン分布の関係のような感じなのだろうか.マルチンゲールから半マルチンゲールへの回帰というか新たな道の創造というか,そんな感じのことでもあるような説明もある気がする.

仮にそういう道があるとすれば,私の思考は,隠された確率偏微分方程式の道を示した地図を発見したことになる.と言っても,書籍に暗示されていそうなこと言ったまでだが,思考と確率微分方程式というテーマも,あながち,的外れではないかもしれない.

思考,しかも,ことさら私の思考ということで言っているので,確率論と思考を結びつければ,どんなことでも構わない.極端にいえば,たとえテロリストの思考でも構わない,ということになるかもしれない.正直なところ,私的には,そんなことはどうでもいい.私の思考経験だから.テロリストの思考でなくとも,投資家の思考だったら,あるいは,法律家の思考だったら,あるいは,政治家の思考だったら,どういう思考なのかは知らないが,聞いてはみたいが,ある意味,私的には,どうでもいい.私の思考だから.私的には,むしろ,他人の考えや様々な立場からくる判断に,ことさら干渉してみせることで,自分は社会的存在なんだなんて感傷は,そう輝度が高くないという感じを言っているのだが.社会的人間的つながりは,無理にそういうポーズをとるだけでない,そういうつながりもあるだろうから,そう不自然とも思わない.なぜそう言えるのか,私の思考がそう嗜好するから.

確率論の学者は,確率論を色々と工夫しながら,応用していき,優れた結果をもたらすことは,好ましいが,微妙なところで,そのことに対する判断は注意深くあるべきだというような趣旨だと思うが,私のように,野放図にやったら,テロリストや犯罪人を生むのじゃないか,と危惧する向きもあるかもしれない.確率論に対する誤解の一つは,後者のような場合が心配になるからということだろうか.じゃ,スマセン.

 私の経験的には,例えば,3.141592.....×6.662135.....なんて暗算を普通やるだろうか.珠算の有段者を除けば,せいぜい,3×6.7ぐらいをなんとか暗算するくらいではないか,という感じが強いが,桁数の馬鹿に大きい数どうしの演算とかは,まずやらない.スマセン的な割り切れなさは残るが,そう不便もない.1,2, ..., 11234567399911, ....とか,自然数自体は,いくらでも考えられるが,気分的に繋がらない.規則は分かっているが.約数を考えたり,倍数を考えたり,数の組を当てはめたり,大きな数が何らかの法則で,まとまりを作るような世界を直結させる.自然数から整数,そして有理数というより,自然数として閉じた自然数の有理化を夢想している感じになる.数学のルールに従って具体的の場合を計算すれば,答えは一つ必ずでてくるが,法則的なまとまりを直結させて,数を夢想すれば,試行錯誤だらけになる.思考は,二つの数の世界を,知らず繋げていることになる.無限の作用によって,法則の束が特徴的な数の組みを類別するような現象が起こるものなのだろうか.無限の作用は,二つの世界で,大域・局所的に,数の組みを同時に束ねていくような作用を及ぼすものなのだろうか.こういうことは,代数的数論の対象だろうか.

野暮用にかまけて,大分,間を置いてしまった.思考には中断がつきものである.時折,思考の小さな断片が立ち現れてくる感じがフラッシュバックする程度で,思考の活動が停止したまま,時が過ぎていく.思考が動き出すまでのその間,雑音,雑念,雑事は嬉々として舞い踊る.この記事に関する言い訳としてだけではなくて,それなりに何十年生きてきた経験からの感想である.

例えば,「憲法改正」.子供の頃は,憲法は改正できるが,憲法の基本理念は,継続しなければならないのだから,当然,一見,些細な憲法の不十分な箇所を変えるとか,高校生ぐらいになって,憲法の前提とする社会自体が大きく変わってしまう場合に,全く新しい理念に取って代わるのか,そんなイメージだったが,これまで,憲法改正は喫緊の課題というより,一部の,紛ら化し程度の,長く自民政権と社会党野党第一党が当たり前だったからか,話題に過ぎなかったものが,世界情勢のジョーカーとして乗っけられて,バブルそしてバブルの崩壊,そして失われた20年とか何十年とか百年とかで,米中覇権抗争で朝鮮半島情勢が地崩れしては,北朝鮮がアメリカに核攻撃する準備をカードに使うなんてことに,日米の跛行的な協調路線が擦り寄る.そこでまた,憲法改正カードが現実的な効果を期待する連中の詭弁が横行する.というような,雑音というか雑念を仕向けられるというか,そういう感じも強い.日本の負け犬根性というのか敗北史観といのか,盛んに言われた時期もあったが,敗北したのは,連合国つまりアメリカをはじめとする大戦の勝者を含めた,人類社会そのものであって,その反省のもとに,国際社会の構築を目指すというのが,国連の趣旨ではなかったのだろうか.元々ヤラセ論争ぽいが,日本の敗北史観論争で,世界は変わるのだろうか.世界大戦は人類社会の敗北であるというのだから.その深い反省のもとに国際秩序を目指すことが,何が何でも敗北史観という感じしか受けない.日本向けなら,中朝やその手先のメディア利用ではないかと思ったわけである.これも雑念である.日本円が東京元になり,中国は電子マネーを国際通貨にするとか.日本は,根がセコチョンぽいのが倫理だの言ってる国だから,身の丈に合わせているのかもしれない.ちょっと話題を借用しただけであるが,これも雑念である.生き馬の目を抜く論争の利は,大分錆びついていることが原因だろうか.

それと,ノーベル賞を受賞するのは悪人か煙たい存在で,週刊誌的なバイアスしかける,しれチョン学者利権は良い人で,利権に隠れて保身捏造するのは真っ当な学者的な日本の身の丈に合わせれば,科学も衰退しても仕方ないのかもしれない.これもまたたま雑念である.

桜を見れば,俳句や和歌を楽しむ.そこから新たな大和言葉が生じ,良き御代の秩序が生み出される.半グレ貴族も安寧して,美し国は安泰である.これも雑念であるが,時の話題だから.そして,テコンドー,札幌.

ここのところ,肝心の確率的思考は,萎えたままである.もちろん,「確率論的な問題」は色褪せないが,自分自身の思考の焦点がぼけたままの感じである.例えば,確率論の一般化と拡張は異なるのか.伊藤解析は狭義の確率解析論で,一旦,マルチンゲールによる一般化を経て,新たな拡張の芽を得たということなのか,というような疑問はフラッシュバックする.可換から非可換へというような道筋に通じているのだろうか.

思考風景の各シーンを継起的にでも繋げようとすれば,例えば,ジグソーパズルのように,囲まれて残った形に似たピースを選んでおいて,一つ一つあてはめてみる.ぴったりあったピースが見つかったと安心したら,絵にならない.よく見ると,少しだけ隙間がある.じゃぁ,別なピースをと探すが見当たらない.外しておいた,ピースの山に隠れているに違いない,という時のあの感覚に似た感じが,狭義的な見方という感じなのだろうか.なんらかの位相差のようなものを感じる.それは,虚無の流動というような時空を生むのだろうか.そして,そこが私の時点であって,虚無の現存在である.ボケてはいるが.

ネットの調子が悪いのか,せっかく書いた部分が消えてしまったが,とか,数体から風水とか龍の道とか例えたから消されたわけじゃないだろうが,風水は隠れた人気が高いと聞いたことはあるが,仮令,ネット世界にカルト的検閲・操作がはびこっていても,重要なのは,ネット詐欺目的でもなければ,それではないから,どうでもいいが.要は,はっきりと了解できないから,たとえ話でつないでいるのだが,私としては,そういう記憶が蘇ることも確かである.


思考と確率解析

2019-08-23 10:35:55 | 科学(Science

文系オヤジの禁断の領域,特に確率解析へと思考の道が迷い込む.実際には,ここはどう表現したらいいのだろう.思考の道に随伴するような,奇妙にかすったような存在を感じることがある.当然,道の近辺に現れた,未知の存在だから,はっきりと,道に取り込んで考えを進めたいと思う.かするような存在を意識しながら,どっかで取り込んでやろうと思う.思考を完備化しようという指向が働く.完備化とは,「私は有限の存在であり,有限の存在であるからこそ,無限というラベル(♾)を備えた存在空間へ繋がるのだ」というと,キリスト教信者ぽくなるだろうか.有限の値を持つ何かとして,思考を観察する立場に立っているような感じである.自分自身のパロディー思考なのに,と自己ツッコミしたくなるが,そんな感じもあるのである.思考することは不思議なもので,はっきりとした持続時間も持たないくせに,時折,かすったような何者かの存在を暗示する.その存在は,思考を制御する,例えるならば,トリックスターのような意味をまとっているように直感させるようなものである.

かすったような存在を心象しようとして,私の思考の道が有限区間の集まりだとして,一様な比重のもとで,同値な類の分類に収束するようなところにいる何者かの存在ではないかと,当たりをつけようとしたりする.「モジュラー要素のような方ですか」と尋ねたとしても,返事などするわけがない.「私の思考は,マルコフ過程のスケールに入ったとか」と問い直しても,返答などあるはずがない.思考することは,とりわけオヤジの思考は,孤独なのである.--- modular(モジュラー)とmoduli(モジュライ)が区別されていないからだろうか.

確率解析は,伊藤解析のマルチンゲール理論に基づく一般化のことであるということであれば,まずは,伊藤解析のお勉強から始めるのが順当である.

下手の考え休むに似たり,ということで,とりあえず,『数学辞典 第四版」の「確率微分方程式」の項目からコピペする.

確率微分方程式論の発展も含めた概要だろうから,次のコピペも含めて,目標というか目安ということになるだろう.

どっか,私の「思考の束」に似ている気がするし,あるいは,確率微分幾何的な類似も思ったりする.理系だったら,「これを,ちゃんと,数学的あるいは確率論的に理解しろよ」,となるのだろうが,文系オヤジだから.

F_tに適合するような結合確率分布の近傍系を設定するような操作,あるいはそのような写像を作ることを,「一様」確率積分とは言わないのだろうか.「一応」確率積分ではなくて.連続な確率過程のCauchy列の極限を確率積分ということだそうだから.素数空間上のループ空間の類の列の極限とか.私の思考の束は,造語する.ふざけているわけじゃないが,こういう場面は,何故か,素数の影がチラつく感じを受けるのである.一様性は別名,近域系(systeme d'entourage)というらしいが,確率論的な<近傍>くさい.「これらの仕事(確率解析の創出)の背景にある私の考えは,レヴィ過程をマルコフ過程の,いわば接線として捉えることにありましたが,...」(伊藤著『確率論と私』)をパロって,確率過程の法線とか.

渡辺信三著『確率微分方程式』から,のブラウン運動による確率積分

 

とは,

なる写像で,定義は次のとおりである.(定義を与えるのに準備があって,それが満たされたとして,) のCauchy列をなし,ただ一つの(極限確率過程に)収束する.それをと定義する.このの確率積分といい,

と表すことが多い..... 「このようにして,確率積分はマルチンゲールとして,したがって一つの確率過程として定義されたが,tを固定したときはΩ上の2乗可積分な確率変数であり,この確率変数自身を確率積分と呼ぶことも多い」,ということだから.

とか,というよりなんて写像作ったら,どうなるのだろう.nets(列)がnest(入れ子)になるとか.I(Y)で,IはIntegralの頭文字のIなのだろうが,形式的には,ブラウン運動Bによって生成される増大情報系{F_t}に適合する{Y_t}に対して定義された確率積分

を,一定のルールで,記号で表したものだから, 形式的には,そういう写像も,考えられそうだから.モジュライ空間(moduli space)上の確率解析的な.幾何構造と解析構造が結びついていそうだから.『数学辞典』では,S.K. DonaldsonとM. Gromovとか,Seiberg-Witten不変量とかが代表的らしい説明がある.確率解析の幾何構造とmoduliの幾何構造が連星しているかのような,感じを受けたりする.パロって言えば,とかの意味付けとか,関連しそうである.私のパロディー思考の束も確率解析の近域(entourage, ア-ントゥラージュ,ァントゥァ-ジュ?)付近には近づいている感じはしないだろうか.「幻覚よ」と言われそうだが,確かに,これをちゃんとやれと言われたら眩暈(めまい(vertigo), ひねって,「垂直の近域にむかへ」なんてシャレに偶然たどり着く)がしそうである.

「σ加法族はDynkin族なので,当然,である」とあるが,確率積分が,解析数論の問題,「イデアル類の数hの計算」(高木『初等整数論』)の問題にどっか類似している感じは,どうなのだろう.いまTを二次体におけるt≧N(J)なる(ある)イデアルJの総数として,

である,から,κは既知だから,hを求めることは左辺の極限値を求めることに帰するとあるが,の関係が導かれる,ここで

で,二次体K(√d)に属する単数である.dは二次体K(√m)の判別式である.不定方程式論ぽい感じのやつである.また,のような関係(左辺はDedekindのゼータ関数)が,色々なゼータ関数やL関数について成立するのではという問題とか.「似てる感じがする」というだけだから,なんなんだが,リーマン予想とか.おそらく,こういう感じの関連はあるのだろうが,正確には知らないので,言ってみた.「確率解析で,リーマン予想を解かないか」といいそびれたのだろうか(「河田敬義君の思い出」,『確率論と私』).

私の思考の道の束を偶然現象に結びつけようとすることに無理があるのかもしれない.うっかりではあるが,それもパロディーの前提ではある.無理でないとすれば,パロディーではなく「確率論」になってしまうので.私の本来の趣旨からずれてしまう.「確率論」という厳密な理論体系はちょっと傍において,パロディーの精神を貫くとすれば,次のようなことも言えるのじゃないだろうか.

私の思考の持続時間を仮に区間と見ることにすれば,私の思考と偶然現象との結びつきを考えることは,思考の持続時間という区間のmixingのようなものだから,ある種の拡散過程である.拡散過程は,ブラウン運動が均質な媒質中の微粒子の運動を記述するのに対して,必ずしも均質でない媒質中の微粒子の運動や熱の伝導を記述するもので,ブラウン運動を一般化したものである,ということだから.T=[0,∞)として,T∪{∞}上に値をとるΩ上の確率変数τは,任意のt∈Tに対して,{τ<(または=) t} ∈ F_tが成り立つとき,停止時刻(stopping time)またはマルコフ時刻(Markov time)という,だから,私の思考の道も,ある種の射影確率過程,停止時刻の増大情報列的な,になるのではないか.偶然現象の広いクラスで,このような性質が保たれるとすれば,パロってみることも案外,無駄ではないかもしれない.思考の黒体輻射なんてパロりたくもなるわけである.

葦に生まれたことが罪ではない.葦にしたって,偶然を纏って靡(なび)いているのだから,たまたま,理科室の掃除当番でやってきた小学生の私の目に映っただけなのだから,「考える葦」という対象にされたことは,葦の責任ではない.私は考える葦なのか,と考えなければならないは,人間の方なのだから.人間とは,「人間は考える葦である」とはどういうことなのかを考え続ける存在のことである,とパロってみる.パロるしかないのは,当時,昼休みにプロレスごっこして遊んでいたのも私だから.今時なら,めちゃ叱られるだろうが.

ところで,この葦,実際には,水槽に生えた,サビた矢車のような感じのある細い茎草だったが,が「考える葦」なのか.考えているのは人間だから,まるで,時間が止まったかのように,このアシを囲む光景に垂線を引くかのような記憶として刺激されるからではないか.アシを囲む光景が固定されて,立体化された時間の中で,光景が揺らいでいく感じを受けるからではないか,という印象を持ったことを覚えている.ススキがお化けに見えるのと似た,ワビサビぽい感情が瞬間届いたような感じである.私は総称としてのアシに侘び寂びを教わった,あるいは,私のアシは侘び寂びを形作った,ということになるのだろう.アシであって抹茶アイスではない.

私の思考は零(ゼロ)なのか.アシはアシとして凛としているが,見ているのは私である.私のゼロは, 凛とした葦の周囲を切り取るために,私の視界の余剰の部分を,零なる不可視に変えたのか.私の思考は,カメラで写真を撮る時のように,フォーカスを定めて,他の周囲の映像要素を切断していく.写真の撮り手は,何に焦点を当て,どのように周囲をcutしていこうかと,視線を揺らしている.私の思考は,映像芸術である,「イマージュ」はフランスのエロ映画である.

パロりすぎると単なるおふざけになるが,ほんとは,次の箇所をパロりたかったのである.

の上の分布Pに対して,その特性関数

と定義する.において,ある有限個の座標を残して他を0とおいたものをの切断(section)という.Pの特性関数の切断は,Pの射影(2.12)の特性関数である.KOLMOGOROFFの定理(§2)は次のようにいいかえられる.

の関数の任意の切断が特性関数ならば,の上のある分布の特性関数である.しかもこの分布は唯一通りに定まる.

このことを用いて無限次元の正規分布を定義することができる.」(伊藤清著『確率過程』)

(2.12)は,「Pをの上の分布とせよ.相異なるに対して,

 

なるの上の分布を定義する.これを分布Pの射影という.」である. 

自然数の集合Nを正の整数Z+のように表すなら,自然数が,まるで,極限系列へミキシングするような操作を表す記号であるかのようなイメージである.しかも,そういう記号化の二段突きのようなイメージである.添字化といえばいいのだろうか.正の整数をZ+と記すなら,当然,整数全体の集合は,Z={Z-}+{0}+{Z+}のように分解されるわけだが.

重力の系列も停止をくり返しているのだから,重力理論も重力の確率過程解析論のようなものである.類別作用のフィルトレーション(線形濾過)のようなものであるようなことを読んだ記憶がある.テンソル化のような選出作用とか, スペクトルとか.確率論の所々に,伏流のように流れが続く感じの,読む方は,理解が淀む感じの部分がある気がする.{0}+{Z+}を改めて{Z+}と書くような感じなのだろうか.つまり,N'={0} +{1,2,3, ....}={0, 1,2, ...}ということだから.私の思考がエルゴード性を獲得していくような,なんちゃってプロセスである.なんちゃってプロセスではあるが,下手すると,最新の宇宙論につながっているかもしれない.「私の思考のプロセスは宇宙論である.宇宙論の解析学である.」ということにたどり着く.なんちゃってではあるが.

確率積分に対して確率微分の方は,説明がなんかややこしく感じる.商空間の極限を特徴づけるのは,差集合なんてことなのか,フラクタルということなのか. エネルギーのスペクトル則もそこらにつながっているのじゃないか,という感じがする.法則性の入れ子が極限の世界とか.Baireとか.

全く説明にはなっていないのだが,取っ掛かりとしての直感もそう的外れではないかもしれない.エーテルの渦のように,私の思考が淀む時の表現法のようなものである.確率微分多様体論なんてことになっちゃいそうだし,もしかしたら,新説あるいは珍説になるかもしれないから.

集合関数の微分が,確率過程の形式的な空間化によるふくらみを処理して確率微分を処理するという意味では,確率微分の基礎に存在するのじゃないかという感じである.「集合関数の微分係数」(『現代数学概説II』)を参照しながら,考えてみた.「ふくらみ」というのは,集合E⊂QのmE/mQの上限であるEの正則指数

は,集合Eの``ふくらみ''の度合いを表す指数である,とあるから,集合論と確率過程の形式的なふくらみによるずれ(関係というべきだろうか)を暗示しているのではないかと,理論のというか法則性のふくらみや引き戻しのように結びつけてみたわけである.シリンダーとか柱状集合の拡張という感じだろうか.「触媒」的に微分可能な系列に変換する感じだろうか.

 

 

 


偶然と思考について

2019-07-16 11:53:39 | 科学(Science

偶然現象を考えるとき,その数学的な模型は確率空間であり,確率論の中心をなすのは,確率空間を基礎として,時間とともに変動する偶然量の数学的模型である確率過程であり,確率過程の基礎理論となるのがマルチンゲール理論(martingale)であり,マルチンゲールの限界を補うのがマリアバン解析(Malliavin calculus)で,抽象ウィナー空間上の解析である.というのが,『数学辞典』の項目から,まず,読み取れることである.

現代の確率論は,当然,専門的科学研究の一大分野であろうし,科学研究での応用も広いだろうが,私には,それは無理なので,確率的な考え方を,できるだけパロりたい.私にとって,偶然現象との遭遇は,私という思考の束と世界との回帰的推移であるから,数学的にはっきりとしたモデルの上で,体系的に論じることは,無理だからである.

それでも,私の思考の束が,回帰的に偶然事象に推移して,どうやって偶然的なラベル付けを行うのだろうとか,確率論ならP(E)とか,P(E/B)なんて感じで表せばいいのだろうが,パロるための「思考の束」だの「回帰的推移」だのという目印が,数学的,体系的な本物の確率論と,どっか似た面もあり,ずれた面もあるということを観察していくのも,一興というものである.つまり,遊びである.

 偶然現象を実在とし,それをめぐる体系的な思考を抽象ということにすれば,「実在と抽象」ということになるが,厳密に言えば,専門的科学研究としてしかその内容は無くなるわけで,それは,私には無理なわけである.

例えば,ブラックホールをイメージするとき,重力によって曲げられた時空が,グングン深い井戸のように伸びていって,ズーッとズーッといった果てには,特異点らしいものに至るというのが一般的なのだろうが,ブラックホールの底付近は,境界のはっきりしないぽっかり穴のようなもので,そこに,余剰高次元の橋がかかっていて,別な宇宙につながっているなんて感じで,想像したりするのだが,そういう想像を楽しみたいという嗜好な訳である.私の思考の束にとっては,ブラックホールの底にある橋を渡って,別宇宙に行けたら,未知との遭遇を果たしたということになろうし,状況的に渡れなかったら,ブラックホールは蒸発したも同じになる訳だから,別宇宙とは繋がらなくなるからと,ブラックホールもパロれる訳である.ブラックならホワイトという対が解けるからとか.

思考が偶然と出会う時には,思考は,ある領域へ引き寄せられながら,その領域が思考の対象の化学反応の工場であるかのように見えてくることが多い.錬金術ではないが,思ってもいなかったような反応生成物,といってもそれもラベルに過ぎないのだが,を生成して,今度は,そのラベルの持つ引力として,私の思考の束が通りかかるのを待っている感じである.ラベルになぜ引力が生じるのか.ミリキ的だからとか,それでも自分の考えたことだから,多少なりとも思い入れが生じるからとか,否定はできないが.逆に言えば,私の思考の束は,ある時,ある領域を構成して,構成された領域が,ラベル化されて,ラベルの系列を形作っていって,抽象的な空間(集合)を作るということも,考えられるのかもしれない.類領域というか<集合の集合>的な領域というか.それをフィルター付けして,マルチンゲールを考えるとか,しかし,それなら,確率論の教科書通りに考える方が生産的だが,教科書読んでもすぐには理解できないから,そう変わらないかもしれない.フィルター付き確率空間とかなぞらえても,ちょっとずれている感じもするが,まあ,そういう感じである.

私の思考の束が偶然事象とヒットする確率はπであるから,確率だから1/πとかα/πとか,そのために,時々,世界が透明な球体に見えるとか,想像するのもいけるかもしれない.ビフォンの針(床に幅hで引かれた平行線に,勝手に落とした長さlの針が平行線と交わる確率は2l/πhだということだから)程度に.思考の束のヒット率なんてのは,理論的にも統計的にも支持されるものかどうかという根本問題が残っているが.

理論的でも統計的でもない想像のついでに,「物事は多面的にみろ」とか「立体的なものの見方が大事である」と言われることがあるが,例えば,思考と偶然現象の遭遇のラベルを観察するときに,あるときは,わりと離れたところから観察し,あるときは,わりと近いところから観察しているという,距離感が生じる.それを,例えば,近い距離に感じる時を+1,遠い距離に感じる時は−1で表すことにすれば,ランダム・ウォーク(酔歩)を観察していることになる.t={-1, +1}とすれば,tと角度θを組み合わせて(t, θ)を考えることが立体的な見方ということになり,球面に収束しそうである.つまり,もしかすると,私は立体的に物事を見ていることになるのではないだろうか.とすれば,私の立体的な物事の見方は,可解析的空間上に値をとる,対応関数空間を考えていることになり,それをCで表せば,iを虚数単位のようなものと考えて,iC空間なんてことも考えられる.想像上の純虚関数空間である.私は,ICチップである,なんてシャレである.映画「マトリックス」の世界にいる感じはしないだろうか.マトリックスはダイバーシティーである.多様な見方への共感である.解析的リーマン面であるとか.数学的概念を勝手に流用してはいけないが,案外,いけてるかもしれない.私の,想像というより空想の芸術的な面が,立体的な物事の見方に通じているのかもしれない.

唐突だが,フーリエ級数に関連して,連続関数に関するWeierstrassの定理は,「約言すれば,閉区間において,連続なる関数f(x)に一様に近似する多項式P(x)が存在するのである」,任意のε>0に対して,f(x)が連続である閉区間において常に,|f(x) - P(x)|<εである多項式P(x)が存在する, (参照: 高木『解析概論』)である.ちょっとひねって考えると,私の思考の束が完備であるということが,偶然との遭遇の目安ではないか,なんてことはないだろうか.同書の,「完備というのは,直交列φ_nに他の関数を追加しても,それを直交列にする余地がないことを意味する」をひねって考えると,言うなれば,私の思考の束の佇みである. しかし,ちょっと気になるのは,メロディーは,そんな私の佇みとは無頓着なときに形作られるということである.音楽苦手な言い訳ではないが.メロディーも私を佇ませるのではあるが.

Weierstrassの定理なんて持ってきたのは,Fejerの定理を使った証明がまず掲げられていたから,ということもあるが,例えば,ユークリッド幾何学が,平行線の公理を取り除いても,また,その公理の代わりに別な公理を置いても損なわれない,むしろ,そのことによって,幾つかの非ユークリッド幾何が発見され,数学にも物理にも革命的な進展をもたらす.単に「反例」が見つかるということではない,体系的な生産性を有していた,というよく言われる話を思い浮かべたからである.

人文・社会科学の分野ではそういうことはないのか,と考えると,意外に,あちこちに,とりわけ,日本国憲法の体系にもあるのじゃなかろうか.体系的な生産性によって,実際的な物事に実定性を付与して対応するような,「規則と命令」とか,「法律と条約」とか.憲法学者の学説が論争を持つこと自体は,憲法を誤らず保持していくには必要なことであると考えるが,もしかすると,最近の憲法の学説論争には,そういう問題意識やそれに基づく深みが欠如しているのかもしれない.憲法改正の目玉の,自衛隊の明記も,要は,日本国軍を明記するということなわけだが,日本国軍は憲法違反であるという学説もあるから,軍人の矜持が損なわれるから,という首相の説明だから,軍人の矜持を損なうから,学説に論争があってはいけない,というのでは,軍部クーデタ国家のような日本国という感じにならないだろうか.自衛隊は,侵略戦争を目的とし,恐怖や威嚇による略奪成果をもって,日本国に利益をもたらす,という話より,任意に合憲的に,対米軍事要求を受け入れられるということなのだろうが,憲法論議として理解できるだろうか.ご都合? 安倍政権や自民党政権が,そのために改憲論議したいということなら,改憲偽装クーデタのようなものである.しっかりした,憲法論議が期待される.なんてわけである.日本における憲法論争も学説自体が怨念学説のようなものだから,しかも日本国憲法をめぐる論争自体がそういうものだから,「怨念学説論争に決着をつけようではありませんか皆さん」というのなら,支持できるのだが,そこら政治家的に曖昧な物言いになっている.モリカケ問題が,安倍政権の実体なのか,自民党の偽装クーデタ勢力のやり口なのか,詰め切れない野党の隠れ共謀なのか.

参院選挙なので,つい脱線したが,問題の視点に類似性を感じたから,ちょっと述べてみた.

のΩは,標識つまりラベルの見本空間だし,Fは,Ωの部分集合の系で,特定の条件を満たすσ加法族とか完全加法族とか呼ばれるもので,Pは集合関数で,確率の公理を満たす性質を持つとき,Ωの上の確率測度と呼ばれるものであるが,私の「思考と偶然」は,その中を彷徨っている.明確な定義ができないから当たり前であるが,彷徨いながら,確率論的な体系を移り行くとすれば,どういうことになってしまうのだろう.案外,絶景に出会えるかもしれない,という期待感もなくはない.ある集合の部分集合の系に積分を定義するのが積分の拡張なら,積分論の拡張の包括的解析学的な感じなのだろうか.定義も何もされないまま彷徨っている私の思考が,確率解析と遭遇するのも偶然任せではあるが.私の思考が偶然事象の領域に遭遇したことになれば,例えば,[-π,π]の中に包含されて,f(-π)=f(π)というように完結されて,しかもそのような回帰によって推移するとすれば,重力のように偶然事象に作用するかもしれない.そのような作用によって,絶景が開けたら,儲けた気分になる.妄想かもしれないが.妄想は楽しめるのだが,確率論の入り口にも立っていないことになるから,微妙な立場である.

Wiener過程(ウィナー過程)は,ブラウン運動の数学的模型で,ランダムウォーク(酔歩)問題の連続化といえるものであり,加法過程といわれる確率過程の例である.まとめると,こんな感じだろうか.私の思考は,Wiener過程のような抽象(理論)の周辺を出入りしている,不審な酔いどれ思考ということになるのだろう.好奇心(curiosity)という酒に酔って,ふらつきながら歩いている人影のようなものだろうか.私は,酒はたまに嗜む程度だが,酒に弱いからではなく,酒癖としては,飲むと眠たくなるだけで,酒にそうこだわりがあるわけでない.ワインといえば,赤玉,メルシャンなんていうと,今時の娘っ子には笑われるくらいのものである.

「積分 の数学的意味づけ」が難しいということだが,形だけ眺めていると,物理でいう相互作用の統一,電磁気理論とか,電弱統一とか,さらに強い力や重力も統一しようという物理学の思想の表現ぽくも感じられる.確率微分方程式というのは,実は,確率積分方程式のことである,とかあるが,微分を,一旦,積分形に直して,数学的な意味づけを確立したものが確率解析ならば,確率論的統一理論解析てな感じになるのだろうか.『現代数学の広がり2』「二次形式と確率論」,岩波 現代数学の基礎,参照.

すごく頭のいいAIや機械学習,あるいは,正しい理論だが完全な理論ではないアインシュタインの相対性理論,あるいは,生命の神秘や,政治経済を含めた社会的な事象への貢献など,ちょっとどうしようもないくらい広く深い,理論的関連や応用を確率論は持っているのだろうが,パロってみるのも,意外といける感じがする.表面的には言われることがあるが,ファインマンや朝永振一郎と伊藤清がほぼ同時発生的にそれぞれ理論に到達したという感じなのだろうか.令和時代のテクノロジーの進展のキーワードの一つなのだろう.パロりながら見ていくのも,時代遅れをいくらかでも緩和しようというオヤジ世代のむなしい努力なのである.

 

オヤジ世代の虚しい努力を滲ませるのが道教の思想への述懐であるが,私気分的に解釈すると,名を持たないことは天地の始まりのことであり,名を有することは,万物を生み出す母体である.無欲でもって,その見慣れない不思議への好奇心を放ち,欲を馳せてそのズレを観察する.無欲な好奇心も欲を馳せた観察も,もっと深い自然の道へ注ぎ込む一対の働きである.正統な解釈には程遠いが,オヤジ気分には十分なのである.「道」とは,偶然事象の持つ法則性のことであり(前書で,「ランダムであるがゆえに成立する法則性」として,代表的なものに,大数の法則,中心極限定理,大偏差原理が挙げられている),老子は,つまり,増大情報系(エントロピー)と向きあう人の道を説いた,という感じの解釈に通じる.「加法過程は時の経過とともに独立な増分が加算されていくことによって生ずる確率過程であって,」(伊藤著『確率過程』)とある.それは,最近は鳴りを潜めたが,酔拳や太極拳などのアクション映画や健康志向の人気の根になっている.映画評論風にもパロれるわけである.勝手に記号で書くとすれば,F_{|t−s|}の道である.

自分の心身の動きというのか,型というのかが,相手の動きや型に自然に細分化(refinement)されて,自然に,臨機応変に流動していく,そういう呼吸の動きが独特というような話は,太極拳などについては聞いたことがあるが,私の思考の束が偶然現象に近づいて包摂されるといっても,私自身は,大地に印された道の上を歩いているだけであるから,歩いていく途中途中で,考えを巡らすだけである.歩いている私を囲む風景と,私の思考の束が関わろうとする風景が,一対のように私の前に現れる.これも思い込みかもしれないが,ある種の遠距離相関といえるだろうか.

時候のご挨拶.

 

私の思考の束は一本,二本,...., と数えられるものなのだろうか,と自問することがある.思考の道が偶然事象にヒットした回数だから,何回という風に言うべきだろうが,何回というときには,私の思考の束が,あるとき偶然事象にヒットしたということだから,何度思いを巡らしたかは,捨象されていることにならないだろうかと.確率的にありえない思考の道もあるいは古典論的な決定論的な通常の思考の道も含めて,私は思考を巡らしているわけだから,それらが捨象されるということは,常に一本の思考の道を歩いている状態に射影されていることになるのではないか.その射影された道の上に変動量X_n=x_nをとって,変動x_i - x_jが偶然の影響を受けながら,ある量(例えば,∫f(x)dxという量)に(確率的に(in probability, i. p.) )収束していく.てな感じに.ちなみに,絶対値の中のΣのついた項はリーマン和と呼ばれるものである,というので借用した.偶然の影響が持つ法則によって定められるものになっていく.つまり,情報路のようなものに変わっていく.思考とは「情報」という確率過程である,情報解析とは確率解析である,つまり確率積分方程式というのか確率微分方程式を解くことである,常微分方程式や偏微分方程式,あるいはシュレンジンガー方程式を解く理系のお勉強のように,ということになるだろうか.どうしようと思ったりする.

ここで,私の思考の束は,1次元ブラウン運動に回帰したことになるのではないか.Gauss過程というものでもあろうか.だから,確率論の大家の伊藤清がGauss賞という国際数学ノーベル賞?

ランダムウォーク!!! 現時点で,まだ昼なので,酒ではなくコーヒーを飲むことにする.

「私は,一杯のコーヒーを飲んだ」という文は,それは,閉σ加法族F[X],つまり,情報系にイデアル化されたようなものである,と翻訳されるではないか.「任意の閉σ加法族Fを情報と呼び,」(伊藤『確率論』)だから.また,だから.イデアルであるなどとは書いてないが.

どっちにしろ,所詮,文学的な表現に過ぎないが.まるで,私の思考が切り分けられて,小さな小部屋に綺麗に収められて,点のように,コーヒーのほろ苦い香りに溶け込んでいる,そんなひとときを嗜むかのように,..., なんて柄にもないことは,無理である.実存主義文学なら,男は,標本箱を手にして,小さな区画にピン刺しされて収まっている死骸,蝶という実存のパラダイスどもを,苦々しく凝視していた,なんて感じになるのだろうか.一応,私も文学音痴ではないことも示しておかなければ,誤解が生じるかもしれない.私の思考の束は,標本箱の蝶のように,実存主義者の眼差しの上に拡張されて,コーヒーの香りに同化されていることになるのだろうか.

AI文学書けそうな気がしてきた,なんちゃってである.例えば,熱拡散方程式のような微分方程式を,無定義の物事の間の関係に結びつけて,同型の確率微分方程式から,未知の現象を発見し,新たに現象を仕分けていくような趣旨を持った文学をAI文学と名付ける,などとすれば,少し,特徴が出てくるかもしれない.

`Axiomatically, mathematics is concerned solely with relations among undefined things.' (Feller, 『確率論とその応用』のイントロから.「 明らかに,数学は,もっぱら,無定義な物事の間の関係に関わるものである.」),ということだから,例えば,チェスゲームのように,もっぱら,1組のルールで規定される物事に関わるものであるわけだから,方程式の形が同じなら,物事が編成し直され,拡張された現象として仕分け直されることも含まれそうではないか.例えば,カオスとか,ソリトンとか.もちろん,数学なら,数学的にちゃんとした意味を持ったものでなければならないだろうが,AI文学なら,もともと曖昧だから,ちょっとした特徴付けくらいにしか,言いようがないわけである.Actually, `Intelligence'.  まあ,「知性」というものよ, がAIとか.

「知性」は,私の無駄に巡らした思考の道の挙動にかかっている.「すべてのP零集合を含むσ加法族を閉σ加法族という」(伊藤『確率論』),「任意の閉σ加法族を情報と呼び」だから,P(φ)=0(φは空集合)もそれに含まれるわけだから,無駄に巡らした思考の道の挙動が,解析的拡張の是非をコントロールしている感じになるのではなかろうか.解析的延長の手続きの拡張が,測度論には含まれていた,ということになれば,確率論の測度論的公理化の知性を巡らせていた,なんて,都合良くならないだろうか.「A`I'だね」(「まあ,「知性?」というものかな」)とか言われそうではあるが.

ランダムウォークから変分問題,あるいは「観測問題」へ,オイラーは,その道筋の持つゆらぎを明らかにするために,変分を通って,たどり着こうとしていたということになるだろうか.「任意の部分集合A⊂Ωの指示関数(indicator function)1_Aを

で定義する.これは事象Aがおこれば1, おこらなければ0という値をとる確率変数である.」だから. この定義を前提として,「Ωの有限分割Δ={ξ_1,..., ξ_n}のξ_iの中の見本点が出現したことを知った場合におけるA⊂ξ_iの条件付確率」ということだろうから.それによって,「Pは,積分形で,

と表される.」だから.P(A)でいいから.量子空間?  私のような文系人間には,ここらの意図が確定できない.当たりはつけられるが.小さな小部屋も,ω∈A1+A2+...+Amてな感じなのだろうか.結合確率分布とかP(ω)とか.

偶然現象をパロろうという意図だからなのか,私の思考の道は,重力のない世界に,私という観測者が関わることで,重力を生み出そうとしているような感じに見えてくる.重力は観測者の存在によって生み出されるもので,偶然現象の対象化された世界には,そもそも存在しないかのような感じである.ブラックホールのない宇宙も,ブラックホールだらけの宇宙も,両義的な存在根拠を持っているのだろうか.宇宙は両義性の合一である,という見方もできるだろうか.両義性の混合から,質量の欠損が生じる的な.フィルター付けとか単位的半群(くりこみ)とか.メルロ=ポンティの哲学は両義性の哲学とも呼ばれ,そして,「哲学とは,宇宙論である」,という回想的な随想をこじつけようとしたわけであるが,どうなんだろう.パロディーということであれば,半群は結合系という二つ名どころか,三つ名(単位的半群はくりこみ群)を持っていたなんて,ことでありんす.

集合算で,が成り立つ.高々有限個を取り除いても極限は変わらない.まるで,A_jをA_{j+1}に移す操作のようである.{A_j}を{A_{j+1}}に移すとすべきだろうか.集合列{A_n}の上極限および下極限,

を眺めながら,極限といえば数列の極限,これは,集合列の極限とか,思いにふけるわけである.上極限,下極限,両者が一致するとき,それを集合族{A_n}の極限と呼び,単調な集合列は収束する(極限を持つ),単調増加,単調減少に応じて,

とあるから(『概説II』より).単調な時は,max{A_n}とかmin{A_n}を取る操作に見えたりする.

積分は,時間が,適当に順番を変えて,距離(測度)という質量を作っていくような,そういう関係を,集合族を定義域とした関数μ(A)でくりこんでいく感じなのだろうか.物理的には相対論,数学的には(D, μ)-可測とか.相対論を持つ物理を実用的,その数学的意味を数学的とすれば,実用面と数学的理論面という区別をつけることになるのかもしれない.ある意味の,<合一>を目指しながら.私の確率論と歩いた3ヶ月足らずの,実感一週間程度の,パロディーの道は,ようやく「実用的と数学的」の意味がわかる気がする程度のところまできた.なんて感じだろうか.

 

 

 

 






令和時代からの私のブログ

2019-06-11 11:19:30 | 科学(Science

Amazonに注文して,書店で見かけて買いそびれていた,文庫本を手に入れた.

若い頃ならいざ知らず,いまさら確率論という気もしなくはないのだが,気分的に,名著復刻版を手にした重みは感じる.早速,『確率論と私』のI, II, IIIまで読み飛ばしたが,「実在と抽象」とか「哲学とは自分AIであるがトラップでいっぱいである」とか,パロった感想を乗っけている段階である.同書のIの「 忘れられない言葉」に,おそらく広い意味でということなのだろうけど,哲学とは宇宙論である,という知り合いのお姉さんの言葉を巡って随想してあるが,久しぶりに,哲学なんてものを思い出した.もちろん,私は哲学プロパーでもなんでもないので,岩波文庫などで読んだ,ルソーなどの思想家の本を読んでいた高校の頃を記憶である.ほとんど考古学趣味的なスタンスだったのだが,当時は,マルクス哲学というよりマルクス的な解釈でどう論じるか的なことが,やはり,主流であった気がする.小学校に入りたての頃は,哲学とは,私が巡らす思考の総体である道行きである,ぐらいに捉えていたのだが,年取るとともに,そういう道行も,だいぶ,間延びしてくるものである.私は理系の人間ではないが,デカルト,カント,ショウペンハウエルとかヘーゲル,マルクス,サルトルとか,どっか不完全燃焼気味に感じる感覚は,理系も文系もなさそうである.「実在と抽象」とパロって乗っけたかったのは,数学・物理・生物学が,重力波は物理だし,騒動を仕組まれたSTAP細胞とか,ESとかipsとか,遺伝子改変とかは生物学だし,リーマン予想は数学だしで,案外,光が強く当たりだした感じがするからである.

※STAP細胞騒動については,未だよくわからない.TVで放映された会見で「stapはあります」と言ったとか,茶化しているようだが,私は,ありますと言って当たり前だと思っている.その時の状況が悪いから,本人言いづらさを感じたのかもしれないが,逆に,ありませんと言ってたら,逆に,バッシングしたい気になる.実験の通しでの確認も本人たちは,やっているのだろうが,どこにつまづいているのか,未だによくわからない.小保方さんの代わりに,私が「stap細胞はあります」と言ったことにしておくてのは,解決にならないだろうか.メディアの方もまともなところもあれば,どっかに吹き込まれたような痴れチョンガキもいて,そこらも,ちゃんと,整理されているのだろうか.あくまで,科学研究ではあろうが,痴ガキメディアのやらせ横行では,日本の科学は,消滅する.メディアと半グレ宴会みたいなものだから.

数学は,具体的な対象の間の関連や法則を記述する経験科学として始まり,さらに,その関連や法則が抽象化されて,一段レベルの上がった関連や法則に自立していき,そして,数学の具体とは何かとか,数学的実在とは何かと,現代数学はたじろぐ.そんなものあるのかという問いには「ある」という返答が強く強調される.「数学とは,数学的にはっきりとした対象の集まりである<集合>の研究である」という感じになるのだろう.物理なら,物質は分子,さらに原子,さらに素粒子からできており,素粒子はさらに素領域のエネルギーの充填パターンで生じている.そこに至るには,色々と修正が加わったり,理論の変革が生じたりする,という感じだろうか.最近は,湯川のマルの理論とか素領域論とかは(文庫本の湯川著『創造への飛躍』が手っ取り早いかも),ほとんど耳にしないが,超対称性とか,重力波天文学とかの実在として存在しているのだろうか.

論理学なら,抽象に始まって,実在というものを要請できるかどうかという道筋になるのだろうが,数学や物理は,実在に始まって,抽象を経て,実在の要請を見出す.「再び見出された実在」とでもいうべき実在と抽象との存在仕方が問われる.

小学生の頃の私の哲学の定義によって,<世界>は言葉のラベルである,と言い換えられる.抽象も実在も区別されないラベルである.反省とは区別することである.区別されて再び見出された抽象と実在の要請である,というように,なんちゃって思索をめぐらす.

「何してるんだい」

「考えている」

「何を考えてるんだい」

「何考えようか考えている」

思考は大概そういうものである.よく言われていることであるが,ちょっとした違和感を感じることは,関連や法則が抽象化されて,一段高いレベルに体系化されていく萌芽をユークリッドの原論はすでに備えていて,そのような特徴は他に類を見ないといわれるが,言ってみれば,生気論段階の数学であって,さらに抽象化が進み,生気論的な特徴は,原論の時代的制約とか,不完全さとか,ということで処理され,現代数学の厳密性が語られる.しかしその厳密化は,ある種の近似としての厳密性であることがわかって,そういう意味での,科学の現代性と,近未来の科学の変革の予感が,一段高い生気論のようにつきまとっている.

確率微分方程式といえば,デリバティブや株価予想などの応用で知られる,というような,応用分野のあり方に、本人戸惑い的な姿勢であることが知られている.科学の暫定性ということだろうか.原発事故でも,地震や風向きの予測を巡って,物議があったが,最近は,活断層であるとか,火山性地震とか,安全性の判断基準ということになっている.科学とその応用における,科学の暫定的な性格と言ったほうがいいのだろうか.株価の予測も原発も科学の応用であるから,応用から見た科学の暫定的な性格が問われることになるのだろう.科学としての事実が,ストレートに根拠となるわけではないといえば,語弊が生じるだろうか.もちろん,科学的事実を追求することが否定されるいわれはないが.原発が廃炉になっていくにしても,科学の暫定性のもとで,推進論的に進められることは十分ありうることだ,と私は思っている.それだけ難しい論証を強いられるという事なのだろう.問われるのは,科学としての正しさではなく,科学の応用における暫定性の妥当性だから.

デカルト・カント・ショーペンハウエル(つまりデカンショ)ともっと昔の学生はよくいうらしいのだが,デカルトは世界の名著の解説,カントは岩波文庫の三部作,あるいは三批判,ショーペンハウエルは読んだ記憶がなく,代わりに,ポアンカレの三部作が続くイメージが,自分的にはある.ヘーゲル・マルクス・サルトルも,自分的には,ヘーゲル・マルクスから論理実証主義というより,ヘーゲル・マルクス・高木貞治・素粒子論というほうが実感的である.政治イデオロギーではなく,自分史的読書経験の実際の経緯である.

ポアンカレ・類体論・相対性理論的量子力学ということにすれば,案外,今でもバリバリ現役理論という印象がある.ポアンカレはどうかという印象もあるだろうが,奇妙に,新たに蘇っている感がするのは錯覚だろうか.

思考を巡らすとき,思考は意外と連続でないことには困ってしまう.考えを巡らそうと思い立って,考えることを試してみようとしたしょっけからの悩みである.思考というものは,連続にへばりつきたい性質があるようで,出来るだけ,前後のつながりがかけ離れないようにと粘るのだが,どうしても途切れてしまう.それを連続にするにはどうすればいいのか.途切れてしまった思考を,なんとか繋いでいって,一つの道行きとしておいて,何度も辿り直せばいい.同じ道でも,その都度変わってくるが,ある種の関連は持っている.私の思考は道行きの束のようなものになって,化学反応を起こす.ケミストリーというやつである.流行語「ケミストリー」である.これを円分化作用と名付ければ,円分化は,連続化の思考を表現化するための化学作用を引き起こして,消滅原理的な分離原理のようなものではないかと思いつく.私の思考は,ようやく,微分を考えられる入り口にたどり着く.連続でないと,微分できないから.calculus(微積分)がわからなくなるから.

しかし,私の思考は,時間を持たない,というより,時間をどう定めればいいかわからない.各道行きやその部分的な区間に時間はあるのか,道行の束に時間はあるのか,t→Xなんて対応はあるのか,決められない.しかし,決めないと,t→X(正確には, )は見本関数とか道(path)といわれるものだから,確率過程がわからなくなる.普通は,tは与えられているとか,普通に考える時間変数tとすればいいのだろうけれど.Borelとか.

私がカタツムリなら,細い棒の上を苦もなく渡っていけるが,私が点にすぎないなら,棒が線であるのか点であるのか,区別するすべがない.私という観測者も点とか線とかいう対象に同化してしまって,認識しようがなくなるから.私は,カタツムリであるのか,点なのかの間を揺れ動くだけである.観測者というものを同定するのに揺らぎを考えなければ,考えるということ自体ができなくなる.揺れる女心とか揺れる眼差しとか,男が底知れぬ憧れを持つのは,自分がカタツムリなのか点と呼ばれるものなのか,揺らぐからである.そもそも,カタツムリと点では,対象化のレベルが異なるが,素粒子と時空の関係でも,カタツムリと点は棲息する.素粒子は,だから,素な相対論的量子というような意味合いだから.原子論的に考えれば,原子はクォークとか部分を持つわけだから,原子は点ではない,というのは単純に過ぎるのかもしれないが,クォークもカタツムリ化してるわけだから,点が先かカタツムリが先か混乱する.ヘルマン・ワイルの『精神と自然』,ちくま学芸文庫のはじめの方を読みながら,科学と自然の探求の深化に,確率論とワイルやアインシュタインの果たした役割が,繋がっているのだろうということで,パロってみたわけである.

カタツムリは,「・・・.変化に富んだ力の働きはみな,いかなる痕跡も残さずそれを通り過ぎてしまう.むしろ物質はあたかもカタツムリのように,自ら家を形作っていく」.ワイルにとって今や,場は「全く無力な媒介者」であり,実在もせず,それ自体の効果も及ぼすことなく,物質の状態について語る方法に過ぎない.という箇所からパロってみた.場=エーテルという感じらしいが,ポアンカレも位相幾何的に,虫に例えてあるから,面白いつながりかなと思ったわけである.前段に,ワイル夫妻の,いわゆるゲス不倫話とかあるので,大人の読み物である.

思考と音楽と言えばいいのか,音楽は苦手というだけで,別に嫌いなわけではないので,思考と音楽の深いつながりというか深い結びつきと言えばいいのかも,否定できない.私は,思考する活動においてしか音楽を聞くことはなかったから.思考の指向する佇みの現象はメロディーである.なんて,ひそやかな体験である.私の思考の束は,2つだけメロディーを聴いている.2つのメロディーを形作ったと言った方がいいのだろうか.そういうところも,カタツムリに共感を覚える理由である.音楽は、芸術はカタツムリである.なんて,爆発する.

『確率論と私』にもどって,「確率解析では通常の微分積分学で,

という形に書ける基本等式が

と書く必要があることがわかりました.これは通常,伊藤の公式と呼ばれています.現在ではこの公式はさらに一般化されています.」

というような箇所が目を引くが,微積分学や古典力学では意味付けられない余分な項を加えないと,確率解析としては,体系としての整合性が保ち得ないということだろうか.(7次元とか9次元とか)高次複素空間を複素直線に還元できないからとか,というような狙いもあるのだろうか? f"(x)自体は微積にもあるのだから,全体として公式が,確率解析独自ということだろうか.微積分学や古典力学が,その体系化の基礎として,基本的な定式化に揺らぎを持っていそうなことは,数学や物理の啓蒙書などで見かけることもあるが,その揺らぎを包摂するような定式化という感じなのだろうか.高木の『解析概論』も確率解析的に,案外と深いということかもしれない.

私の思考の束であるカタツムリは,実際,何をみているのだろう.肝心な,こんなことがはっきりしない.各時点で観測を行い,集積した観測データを消失してしまったというのと同じことになるから,迂闊な話である.データといっても,数値的なものでもないし,記憶はあるのだが,記録ではないので,こだわらないという選択もありうる.各時刻で観測するといっても,例えば,10分置きとか,1時間置きとか,一日置きとか,そう都合よく,カタツムリの目に映像が結ばれるという保証はない.しかも,その映像は,思考の束のケミストリーで結ばれる映像なのだから,気まぐれである.のような対応が,そもそも成立しうるのかから検討しなければならない.厄介なことである.面白いことに,もはや確率論の分野の伝説的な著者自身が,自分の研究の道筋を確率過程になぞらえて語りたいような箇所も見受けられるのだから,もしかすると,そういう対話の層が,カタツムリと確率論の対話の層と言えばいいのだろうか,存在しているのかもしれない.例えば,「ホモ・ルーデンスとして」の冒頭の,「私が確率論と歩いたのは,六十年という時間でありましたが,同時に,確率過程(stochastic process)というプロセスであり, 見本路(sample path)という道でもありました」という箇所.私にとっては,遊びは,私という思考の束と世界との戯れ,なんちゃってである.

もちろん,確率論を真面目に勉強するなら,伊藤清の著書でいうと,『確率論の基礎』とか『確率論』とか,『確率過程』や,その他,確率論の代表的な著作などの教科書を読むべきなのだが,Excelもたいして使わない私には,ちょっと思想家風にパロって考える方が,楽しいというか,性に合っているのである.そういうことで,駄弁を弄しながら,偶然を科学するというより,偶然現象をパロってみようというわけである.

幸福であるとか,経済的な平等とか,平和とか,あるいは正義であるとかも,要は,政治的な立場に過ぎない,と言われるが,私のように,偶然現象をパロる嗜好も政治的なら,政治的立場とは,どういう立場として定義されるのか,さっぱり分からない.

そういう不透明感につきものの話題として,天皇は元首であるかどうかということが,よく問題にされるのだが,天皇は元首ではない.元首的な立場にあるのは,現憲法では,内閣総理大臣ぐらいであるというが,じゃあ,アメリカ大統領や,在日米軍は,元首的な立場ではないのかとか,国連はどうかとか.国民は,現憲法における元首という概念の不在において,「統合」という実態において,天皇の象徴性というべきか,元首に代替する存在であるのかとか(国民主権といっても元首という立場ではない.ということだから),実定法的解釈論争が繰り広げられる.

まあ,その悪用を企てているのが,経団連などの御都合主義団体だといえば,経団連の団体論理に過ぎないということになるかもしれないが,問題は,経団連無くしてもなくならないから,違った,解釈の道を考えざる得ない.そういうことに対する決断のぶつかり合いが改憲論というものでなければ,改憲論議とは,政治家の半グレと半芸能人の宴会に過ぎない.半グレ依存の痴れガキ連中の議論誘導では,国民も真面目に論憲する意欲は出まい.米中の思惑に都合のいい動きをするのが,痴れガキのブラウン運動だから,ちょっとは観察しがいのある言動をするように,グギ挿しておけばいいだけのことである.

消えた年金でも,不正カンポでも,痴れガキ連中は,その中をジグザグしてるだけのことだから,観察するしかないわけである.それがバカでもチョンでも.小泉の息子待遇というような感じだろうか.お勉強と思って,そういう視点も甘受するくらいの大物になることを祈るが.忖度評論にあぐら買う(あぐらも買うとなってしまったが,意外といける)ようでは,小物政治家止まりである.半グレと詐欺チョン家系が小泉一家と言われないためにも,そういう体質は改めるべきである.小泉は,契約詐欺で,政治家の顔を繕い,年金詐欺で,経団連の関心を買う的政治家だと言えば,ヘイト発言になるだろうか.その黒幕がブッシュJrとか.ブッシュJrへの,ごく少数の政官財民の忖度が,国家詐欺の実態とか.国民どうしろというのだろう.それとも,中曽根とその親派だけの忖度とか.結局,バブル招いて,弾けて知らんぷりの優越感とか.カンポ詐欺で親派への損失補填とか.

安倍は,自民党ぶっ壊しで有終の美を飾るというのが,本来の小泉公約ではなかろうか. 野党も嘘チョンだし.つまり制度詐欺に味をしめたいだけな感じだし.元首は,年金の不足分の公的保証である,なんてのはどうだろう.もらうのは高い方が理想に決まっているから.小泉は結局,シンパへの違法な損失補填を除けば,国民は我慢しろといっただけのことだから.私のこのような発言は社会主義的ではなく,資本主義的な道義というものである.不正なシンパへの損失補填は資本主義のルールで不正だから.社会主義では常態にしても.

TVなどの論客が,半グレのポチぽいのは,半グレのポチとかネトウヨとか,なんとか姉妹並みに正体不明のしか子分のいないTVのお偉いさん連中の古い体質のせいかもしれない.結局,年金の政治的な飛ばしでもカンポ不正でも,問題だけど仕方ないよね,そういうもんだよね,というための論客連中だから.桝添の中華ドレスべったりへの変節も公金横領で問題になったわけだから.サツキが個性強いから舛添も中華ドレスハニーちゃんに逃げても仕方ないよね,都政よりもね,とか.そういうことを,痴れガキ根性というのであるが,「社員も私も悪くありませんから」という言い訳の美学があるのだろう.組織の美学というのか.どうでもいいが,そういうものなのだろう.あくまで,「組織の」という紛らかしのついたやらせ美学であるから,私は,私の美学を磨こうと思う.音楽ほどに.

若者文化だとか入試のための教養のためとか,学生運動からアカデミズムとか,そういう興味はさらさらないが,最近のアカデミズムの動向なども全く知らないので,どうなっているものやらである.しかし,私の若い頃の文化の雰囲気と通じるものを持っている感じもするので,令和eraへの積み残し感は強く感じる.まあ,こういうところである.