janpal

人生これ,雑記.

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よく判らん論争のいくつか

2013-07-21 22:49:00 | インポート
1) エネルギー政策の議論として,原発の廃炉の時期について議論が,あるようなないような話をきくが,原発の廃炉を10年後としようが30年ごとしようが,実際意味のないことではないのだろうか?

どっちみち,廃炉にならざる得ないものだということもあるが(煙はくエンジン積んだまま乗り潰す自動車というわけにはいかないだろうに),廃炉法とか決めて,実質的に(あるいは現実的に),やっていくしかないはずのものではないだろうか.工場の解体処理なわけだから.ものがものだから,そういう特別な手間がかかるというわけだから.新しい原発といっても,古いやつは,どうするんだろうか.解体業者がうまく中国や中東に横流しするんだろうか.

それと,賠償もとめられている三菱の蒸気発生器は,現実の原発では新式の方のやつではないのだろうか.そういうのは,どうするつもりなのだろうか? 現実的な説明がなされているだろうか,そういうのは現実的な話ではないのだろうか? 三菱という会社の,技術の夢のチョンボで済む話なのだろうか? 

安全性を高めた蒸気発生器つきの原子炉が,廃炉費用を賠償しろと三菱という会社に言ってるわけだから,安全性を高めた新式炉というのは,どういうものを言っているのだろうか.改良炉とか新式炉とか,話としてはいろいろあるのだろうが.「現実的」というときの「現実」はどういう意味なのかよく判らん話が多い.確かに,「ちなみにぃ」という類いのと同じように,適当いいやすいといこともあるかもしれないが.もちろん,三菱という会社が,いい加減なものしか作れない会社だなどと言っているわけではないが.むしろ,そういう,仕組み便乗の論調のいい加減さには,復興資金詐欺とかににたようなヤーチョン介入の現実をかいま見る感がある.東北,北陸はもともとそういう風土なのだろうか?

ウランちゃんは,何か悪者扱いじゃないかという感じもあるかもしれないが,ウランちゃんは,そういう人間社会(ヤーチョン介入びいきの政治家や官僚,財界老人,学者など)のご都合に利用されて,悲しい思いをしているわけだから.

経済性でも安全性でも,巨額の負担込みでなければ,もともと成り立たないものを,その利権癖というのか,慣習化というのかそういうもので,維持されてきたのだから,原発好きか嫌いかというような子供だましではなく,審査すればいいのではないのだろうか? よく判らん議論が,さすが,原発となると多いのは何故だろう.


2) アベノミックスという経済政策は,Abechan+Economicsという合成語らしいが,Abechan+Mixed Economyの合成語とも読めなくはないのじゃないか.だとすれば,何をmixするのだろう.

経済が不安定になるのは,経済があるべき成長を遂げる限り避けられない本質ではなかろうか.だから,対処するための処方箋について,いろいろと議論されるが,戦犯である,財界利権最優先の経済認識の誤りの反省の上で,市場の合理性により素直な経済政策を目指すということだろうか.情報経済として,経済の合理的成長をコントロールしてきた実行部隊が,欧米のファンドなら,その曲がり角に,日本もコミットする政策に移行するということだろうか.もちろん,経済の現実は,望むようなことばかりではないから,それを,アベちゃんが音頭とって,やっていくということだろうか.コンピュータの力も,それを知的に起業化する力も,欧米資本の力が強いわけだから,そこが政治力の現実なわけだ.そんな壁を乗り越えることが日本を取り戻すことだというのだろうが,実際,いつものように,財界老人のボケ話で紛らかされて,なにを本当はやりたいのかさっぱりピンとこん感じなのは,また,かけ声倒れということだろうか? リアルでシビアな経済戦争に対抗できるのは,日本国憲法の理念だけである,と言いたいくらい,憲法は現実的である.別な道は,うまくいかない.

3) 日本国憲法は,アメリカの占領政策のためのおしつけ憲法という理由が,改正の理由に挙げられることがあるが,占領地であり,押しつけられていたのは,ヨーロッパ中心社会の普遍性の方であって,いうなれば,連合軍であれ,世界が占領地であり,世界が押しつけられた歴史の呪縛に,大戦という形で敗北したことの,自覚のことなのであって,「敗戦国日本」という極東の哀れな国だけの話ではない.その自覚の上での普遍の原理に依拠してしか,本当に現実的な独立国の姿はない.このことは国際社会のエゴを超えた事実である.憲法前文は,そういう意味では,「革命宣言」という性質のものである.それを自由とよぶ.戦前の日本の一番の功績は,この革命的自由を受け入れたことである.焼け野原のあわれな敗戦国日本の現実の,その果てにある革命的現実の自覚,日本人としての誇りである.他に,ヨーロッパの自覚,アメリカの苦悩に伍するものが日本にあるだろうか? だから,改憲案は,自覚といい苦悩という現実の放擲だというのである.放擲しない自覚を残すもの,それが英霊である.

言うまでもないが,これは私が日本国憲法から感じ取ったものであって,個人的な感想である.ついでに言えば,小,中,高とかけて折々考えた,憲法の私なりの姿である.プチ自慢である.

やはり,憲法の言葉を直接読んだときの,落ち着いた異次元感が印象が強い.内容も,深く判ったわけではないが,感じ取れるし(五七調とかそういうことではなく.五七調の翻訳文だという話もあるようだから),というところが,私の,一番の動機だろうか.

憲法を自分なりに考えたことのある国会議員ていないのではなかろうか.そんな気がする.まあ,国会議員はヤーチョンの方が受けがいいからかもしれないが.国会議員の3/0の賛成と,0/3の賛成のどちらかがやはり,今の,政治の現実ではなかろうか? 野党も,与党も,野田や仙谷に限らず.また,政党,派閥に関わらす,利権の草スパイみたいなものだろうから.もともとネジレなどないのでは.


日本国憲法前文

「日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し,われらとわれらの子孫のために,諸国民との協和による成果と,わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し,政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意し,ここに主権が国民に存することを宣言し,この憲法を確定する.」

私なりに,現時点で,この前文がどういうことを言っているのか推測してみる.まず,戦争という形で,世界の多くの,甚大な犠牲の上に,人類的成果やその可能性を遂行する継続的努力が破壊されたが,そこに残された普遍なるものによって決意されるものを権利として持つものを国民と宣言し,それによってなされる世界の人々との協働による変革の成果を確保・保持する.それが自由である.その上に,政治行動を制度化する.日本国民は,その権利を有するものとして,憲法によって確定される.諸国民として確定される人間との相互のそれによる革命宣言である.主権とは,決意されたものを権利として持つという普遍性である.国民主権である.憲法の制定とは,この革命的普遍性の確定である.憲法改正は,それに答えうるものでなければならない.われらの地位の名誉は,そのようなものでなければならない.

政治的に一番問題にすべき箇所は,
「日本国民は,恒久の平和を念願し,人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて,平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して,われらの安全と生存を保持しようと決意した.」
だろうか.もしかしたら,これが九条の根拠となっている考えられているのかもしれないが,私なりには,ここも,言うなれば,人類社会の,文化,文明の,あるいは人類社会の原理の新たな革命的変革の立脚点として宣言された,日本国民および諸国民が深く対話することによって,その自由の成果たる平和を確保し,その自由の根拠の上で,相互の対等の関係を維持し,立っていくことを確認していることではないかとおもう.しかし,多分,こういう解釈は,崇高すぎて,下司(ゲス)好みの政治家レベルでは,理解困難なのかもしれない.「崇高」だから,国民統合の象徴たる天皇の地位の方があってるような気がするが.崇め尊ぶべきものとして,象徴化されているわけだから.政治家は崇め尊ばれるんだという,隠せない奢りの感情がついでてしまうのではなかろうか.ヤーチョン崩れに限ってそうなのかも知れない.


簡単に言えば,戦争は,人類社会の基礎を現在および将来にわたって破壊する行為であり,人類社会の基盤を形成する政治行動の敗北である.日本国は,その認識を出発点として,世界の人々とともに,新たな人類道徳の普遍(政治道徳の法則)のもとに政治行動を行う国民である,その認識に立てば,諸国民の政治行動は,その普遍のもとに協働するものであって,その成果を正当に分有するものである.ここに主権が国民に存することが宣言されるのである.いわゆる,国民主権である.この憲法によって,日本国民が確定されるのである.いうならば,国家,国民としての独立宣言である.その深い先人の自覚を尊ぶべきなのである.

岩波新書『憲法読本(上,下巻)』は,思い出したように読んだりするのだが,日本国憲法そのものの議論と,改憲論と言われる問題は,別ものと考えるべきではないか.例えば,ややはしょって引用すれば,(大日本)帝国憲法には緊急の事態に対処するための緊急勅令という制度があり(第八条),これを利用して,「ポツダム宣言の受諾に伴い発する命令に関する件」という緊急命令(ポツダム宣言受諾勅令)を発した.(一九四五年九月二十日)」.・・・.かような状況は,一九五二年四月二十八日平和条約の発効によって終止符を打たれるまで続いた.ただ,「日米安全保障条約」と「日米行政協定」は,平和条約発効後も残ったが,これらの条約,協定,法律は,日本国憲法の下においても,形式的には合憲なものであって,占領中に司令部の命令を頂点とする法体系があったと認められるのとは全く趣を異にする.しかし,(改憲論などの)激しい論争の的になって続いている.(我妻栄「日本国憲法の成立・構造・理念」)

参考:
大日本帝国憲法第八条(1)天皇は公共の安全を保持し又は其の災厄を避くる為緊急の必要に由り帝国議会閉会の場合に於いて法律に代わるへき勅令を発す
(2)此の勅令は次の会期に於いて帝国議会に提出すへし若(もし)議会に於いて承諾せさるときは政府は将来に向(むかっ)て其の効力を失うことを公布すへし


日本国憲法前文は,法という範疇を超えた哲学であるという話もあるらしい.私は,「法の自然を革命的に継承する法としての実定性」と思っている.何か偉そうな言い方だが,そうとしか今の段階では表現できない.法の論理とは,私にとっては,そういう問題である.「ただ,「天皇」は行政機構というにはあまりに特異の存在であり,戦争の放棄は,立法・司法・行政を超越した国の大方針と見るべきであろう」と,我妻栄はその中で言っている.「国の大方針」とはどういう意味合いなのだろうか.これも,難しい表現であると私は感じる.まあ,斯く斯くしかじか難しい.

憲法をめぐって,様々な意見や疑問があること自体は,当然,いいことだと思うが,いろいろ難しい論点も多いらしい.例えば,成立の経緯も未だはっきりしないこともあるらしい.あるいは,戦後処理を主導した国々や国際社会の問題はどうなのか.答えが確定しているのだろうか,ということも当然考えられそうである.

個別的にしろ集団的にしろ,戦争行為なわけだから,個別的交戦権,集団的交戦権なわけだから,それを根底的に合理化するなどということは,世界の国民の深い対話によるしかないように思われる.どうしても,深い対話の邪魔な国や国家集団もでてくるだろうが,深い対話の成立を前提にするのでなければ,軍部暴走外交とか,あるいは,アメリカの交戦好き勢力(とにかく利用できる国はうまく利用しよう)のポチ以外やりようがないではないか? 欧米が,交戦権の大地権者のようなものなのだから.誰にでも交戦権を認めて,その成り行きで高くも割安にも,借地料が入るような仕組みで出来ているのが,権利の自由だから,そうなはずである.交戦権も自由化されているし,核保有も自由化されているではないか? 日本には,「システム変わります」「新システムの割り増し負担お願いします」的な話ではなかろうか?

行政の便法が軍部のそのまた陸軍省のそのまた一派に牛耳られたというのは,戦時中の日本の政治の話ではなく,中国民主化のクーデタのCIAやKGBの扇動の話だろうか? 中国の政局の後塵を拝して,アメリカの一派の下部組織に日本を仕上げよう的な,なんか器量の狭い国でいいやという感じだろうか? 実体のない,政治の現実というものを作り上げて,自分達に都合いいようにと,銭だけとれるようにと,官僚や政治家が,政治遊戯しているということだろうか? ただし,国民には不公平料金で公演していますてきな^_^.  非現実的な理想だけで憲法が制定されたり,承認されると考える方が,非現実的ではなかろうか.


これは,行儀のいい良い子の皆には少し嫌な話かもしれないが,政治家の改憲話は,逆上せ(ノボセ)チョンのヤラセ話っぽいのも多いように感じる.民主党の壊滅は,そういう逆上せチョン体質が野田や仙谷が政治家ぶってでてきたから,本性が丸見えで,さすがに票離れを招いたということではなかろうか.経団連にしろ,逆上せチョンの性格の財界家系のでもいて,何か存在意義を,改憲だ,再稼働だということにかこつけて言いたがりたいだけなのではなかろうか.要は,そういう程度の連中のボンボン気取りにまで,政治も経済もレベル落としているということではなかろうか.自民党が圧勝するのは楽なことである.そういう連中も,しおらしい場所というものはあるのだろうから.それとも,なんかうるさ方のオバン連中がいて,経団連とか政治家とか裏で操っているのだろうか.あり得そうである.学者も,言論人も不祥事表に出るのは,ちぐはぐなバランスだからである.人間そういうものである.たいした問題ではない.その程度のことである.逆上せチョンと足らんチョンの融合政治なんて,ヤク中にしか判らないではないか? といっても,政財官学の逆上せ一派というのは,昔からいるようだが.近年の政治の感じがヤク中ぽいと言ってるだけである.


八月三日現在,憲法改正問題に関する麻生発言が話題らしい.普通に考えれば,「皮肉っぽく言えば」と言い添えて,憲法をなし崩すファシズムナチスの事例をよく参考にすれば,憲法改正の現実面もよく理解した上で,国民も議論を積み重ねられるのではないか,ということだから,私は,それを,明治憲法のなし崩しの天皇制ファシズムの日本に置き換えても,高校の日本史でさえ書かれてある,受験参考書やテーマ別学習とかならさらに細かいことが書いてあるはずだろうに,ごく当然のテーマだと思う.最近,歴史認識がどうだのいうが,歴史認識を持たない言論人や扇動政治家の一部が騒いでいるだけではないのか? 歴史を軽視する風潮のキツいのは,韓国・朝鮮や中国の方ではないのだろうか.中共ボンボンの子分連中がやっているのだろうか? 中国や韓国がどういう歴史認識政治なのか知らないが,銭金に扇動されすぎる感じがする.もちろん,客観的な歴史をめぐる認識がないなどとは言わないが.むしろ,そういう努力は深く,対話してほしいものだが.アメリカやイスラエルも,国際の場で,十分対話すべきテーマではないのだろうか.テーマそのものもコントロールしながら,対話をもって決着していくというのが対話というものではなかろうか.最近,チャチすぎる扇動に傾きすぎているのではなかろうか?

繁華街にベンツ乗り回すヤクザが中国系だから,憲法もそうみえて,速く改正しなければとか,日本人が思うのだろうか? ベンツ乗ろうがBMW乗ろうがかまわないが,短絡的に中共系ボンボンの子分のヤクザの子分気分では困ると言いたいだけである.

多分,細かい経緯については,受験生の方が知識も正確だろうが,私も,若い頃,参考書などで読んだ記憶があるが,例によって,あまり細かく覚えてない,年だから.大まかに言えば,不十分とはいえ,民主的な憲法への流れを,ファシズム,またファシズムに限らず,民主的と自認する国際社会が,事実上,民主的な平和の理念をなし崩す大きな流れに加担したわけだから,ファシズムも民主的平和主義も,戦争への流れの前に敗北したわけだ.そういう意味では,ファシズムは,人類社会の政治行動の敗北の必然の分身であるとも言えなくない.戦後の国際社会とて完全なものであるはずはないが,その認識が戦後を分つ特徴でなければならない.憲法をなし崩すというのは,人類社会が成立するかどうかの試金石でもある.平和に向いているのか,平和を無能化する方に向いていくのか? これは,国際社会というより人類社会に関わるすべての国民に問わなければならないテーマである.しいていえば,ファシズムと言っても,個々に具体的な成立の事情は異なる.そこに,「ドイツを例にとるか日本を例にとるか」配慮するものがあり得るのだろう.

さて,憲法が現在において問いかけるものは何か.戦後の平和と民主主義の現実が,戦勝側の大国の自国の利権のための密約であるというのは,確かに常識なのかもしれないが,ソ連の権利の勢力圏図は崩壊し,中国は未だ其の実質的な地位になく,イギリスはEUの内部緊張に束縛され,アメリカは其の覇権の相対化の中で,理想主義の利権への組み替えの制限のもとにある.見方は,もちろんいろいろあろうが,このように想定した場合,日本国憲法がその現実に問うものは何なのか? 冷戦という密約の変質をもたらす現実へ問いかけるものは何なのか?

理想主義はアメリカの戦後処理姿勢のことであり,日本国憲法はアメリカ合衆国憲法ではない.アメリカの理想主義は,変質したが,解決されたわけではない.理想と現実は,互いに言葉として背反するものではなくて,歴史の一つの事実である.

エネルギー革命は,情報革命は,ips革命は,などなど,この歴史の事実への問いの上に立たなかれば,希望あるものとなり得ないだろうと思うのだが,どう模索されているのだろう.いろいろなレベルで,議論がなされ,理解を共有する活動が存在すると思うが,思うようでないことも多いのだろう.事実に問いかけ,真実に寄生する奸計を観察して,真実を見定めていく.できれば,そういう政治の言葉であってほしいものである.あくまで,私なりの憲法の言葉の了解であって,一般的には間違った了解内容なのかもしれない.別にどうでもいいのだが.

4) 米軍基地の問題は,裏銭転がしの政治家や地元業者や経済界の,ベタリより問題のような感じなのは,どういうことなのだろう.オスプレイかメスプレイか何プレイか知らないが,沖縄県民が悪いなどと言うのではないが,問題がいつも憲法だ日米安保だとか騒ぐわりに,そんな騒ぎに便乗して,裏金転がしの経済団体の安保堅持論だの,やらせ演出仕組んでくる.ヤクザ芸能プロダクションの談合かとと思わせるような,芝居が続く.チョンピラ安保やチョンピラ改憲とセットのような気がする.建前遊戯ということだろうか.つまりは,そんなコソクイ演出に塩漬けにして,政治的なはぐらかしと,選挙ゴロ優遇のごり押しをまかとおす連中がいるということではなかろうか.経済界にも労働界にも,国会議員や官僚の中にも.政治家のいい人とは,そういう連中のポチ以外にいない.その程度に,足らんチョンでないと,野田のようにいい政治家扱いされない.安倍政権が長持ちするには,野田政権ほど,足らんチョンポチを露呈しないことに限る.最近の女性国会議員は,メス足らんチョンポチ臭いのが多いのは,どうしてだろうか? それも何かのプレイなのだろうか,政財界の.また労働界の,どういう嗜好のプレイかは私には判らないが,そういうプレイ嗜好を賢い政治家ぶることと混同しているのもいるのではないだろうか.例えば,あいつとかそいつとか.政財官労界を魅了するプレイ嗜好とはどういうものなのだろうか.原発は,消費税は,憲法改正は,サクラを多く抱えた,そういうプレイ嗜好の余興のなかで決まるのだろうか.そんなことのなかで,翻弄されることを演出される沖縄県民というのも阿呆くさいだろうから,アメリカの程度の高そうなのとか,国際社会の程度の高そうなのとか,そっちを基準にしていけばいいのではなかろうか.ある意味の,ウチナンチュウとかなんとかいうやつの,戦略バージョンである.




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暑さでたるいなか思うこと

2013-07-17 03:59:55 | インポート
だいぶ応える暑い日が続く.体調よくない.サウナ気分で,自民党の憲法改正案を眺めてみる.

確かに,ある意味わかりやすい.軍隊家族の心得をしっかり持っていなくてはいけない.特に,新米の兵士のよりどころとしては,実情にあっている.アメリカ軍の新米兵士の心得にも使えそうである.改正派という議員連中が,ジジババ、おじんおばんではあるが,感覚幼くて,共感する人も多いのではなかろうか.国会議員なんて,ジジババ、オジンオバンのままごと幼稚園のようなものだから.共感得やすいのではなかろうか.自民党ままごと幼稚園派閥の中曽根グループみたいな.ままごと改憲騒動であることが判ったような気がする.アベちゃんがままごと一派とお手手つなげば,何かと都合がいいという感じだろうか.

なんて言えばいいのだろうか.日本国憲法の法体系として確定される実定性が無視されて,言葉をキラー細胞のようにちりばめながら,軍隊の死の行進のように,放り投げている感じ.私は,やはり,現日本国憲法の方が,比較とかではなく,自分の憲法として,墓に持っていける感じでいる.こういう感じが気にいらんという連中もいるのだろうが,どうでもいい.放り捨て改憲案ではなかろうか.そういえば,憲法学者がせっかくのちょろいチャンスに,あまりメディア露出してないのは,意外とケチった演出なのかもしれない.アメリカもケチっている? これはどうも怪しい.

放り捨て改憲案というのは,国民をというだけでなく,人類社会を愛し育む国際社会や国際政治を放り捨てるということになるだろう.何のためにそうするのか.中国や韓国人は底意地が悪いから,欧米人は合理主義という利己主義だから,日本人は,家族的で,軍人家族も演歌や時代劇好きな,普通にいい連中だから.そこさえあれば,他はいらないということだろうか? 中曽根家族やアベちゃん家族のいい感じを憲法にしたいという微笑ましい動機からだろうか? 一度でいいから見てみたいとまでは言わないが,そんな家族像だろうか? でも,二億円でも脱税できるような家族以外は,難しいのではなかろうか? 国民みんな二億円脱税できる国にするという公約だろうか? まあ,それなら賛成多くても仕方ないとは思う.

アメリカの9.11テロ以来,テロへの脅威に対する国際警察活動をアメリカに依存する.それに合わせて,協力各国が右傾化する,というような話になっているようだが,それも疑問だと思う.例えば,9.11テロの直後の株価の動きをテレビは一晩中流し続けていたわけだが,あれも,ニューヨークとナスダックの値動きの連動とナスダックの値動きの変転局面を(スキップスキップはいはいはいで)ニューヨークが連動し始めた頃には,株の暴落は,回避されたといってたわけだから,その時点では,すでに,アメリカの感情的な怒りを,どう説得して,事態を納めていくか,その成り行きにコミットすべきだったはずなのに,ほとんど,暴走させてしまったということではないのだろうか.もちろん,アメリカ人が皆,感情だけで動いたなどとは言わないが.しかし,その時点ですでに,事態は,素朴な感情から,国際戦術,戦略になっているわけだから(9.11はアルカイダとアメリカの共謀説もあるくらいだから),結局,誰も,事態を受け止めはしなかったということだろう.コミットするなら,タイミングとして,その時点で,やらなければ意味のないことだから.それで,自衛隊は国際協力,貢献活動ができないから,九条を変える必要があるというわけだから,ほとんど従属的,便乗的なものにすぎないというのが本当のところではなかろうか.うすうすでもある程度,多くの人は感じ取っているのかもしれないが,どの政党も説明する器をみとめられていないというのが,この国の政治状況ではなかろうか?
株の値動きで,世界経済の破綻の回避を読み取れるぐらいの連中なら,当然,判っているはずではなかろうか.その後流行らせようと示し合せたような,そんなこんなの手前味噌しか,政治家や本当は経済判らない経済界の連中には,残されていないということではなかろうか? その程度に,この国の未来は希望に満ちている.といっても,別に,絶望する必要もないだろうが.


 永田町喜劇のちょいオモロ政治家が総理の器(喜劇舞台の座長)な国だから.表面的な説明ではなくコミットする力のある説明をどの政党も期待されていないという,ある意味,楽な政治家稼業に安住していたいのだろう.アメリカの国際警察活動をサポートし,その範囲で,多少我慢していただくこともあるが,その範囲で,何にもまして,安全保障,それは日本の経済活動にも重要でありますから,その範囲で,この国にとって,その範囲で,政治家として活動してまいりたいという,パターンが,受けがいい.確かに,こんなこと言ってれば済む国民より,アメリカ人の方がもっと難儀なのだろうけど.

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