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平和体制の論理と実践 ------ あるいは,論理実践の帰結的基盤としての平和体系

2015-08-21 09:23:48 | 科学(Science

 戦争もゼニであるということからいえば,国どうしの安全保障も密談ゼニ儲けが何より優先するということもあるのかもしれない.したがって,上の,算数の問題も,大掛かりな,安保疑獄のゼニ儲けの論理を提供するものになりうるかもしれない.算数も結構役立つのである.わかりにくそうなところを,ちゃっかり利用して,兵器の売買密約とか絡めないと,儲けられるはずがないわけだから.ビットコイン化すればどうだろうか.防衛省の密談組だけが,ちゃっかり,大金せしめるというのより,公平で開かれたものになるかもしれない.できれば,実質的な平和への貢献を基準にしたいのだが,無理だろうか.

安保関連法案や日本の終戦記念日が重なって,戦争をどう考えるか的な話題が多いので,気にはなるのだが,そういう論調で気になることは,やはり,どこか隔絶した異常事態への対応の問題であって,そこで拠るべき基準は,とにかく,軍事力であるという話の筋に,逃げ場を求めている感じなことである.無理をしながら,戦時体制に編成して,無理をしながら軍事体制を維持するという,国家エゴの体制維持が国際社会の現実であり,現に,核兵器も化学・生物兵器も拡散して,そのうち,非国家テロ組織も,保有勢力となるじゃないか,というのが,理由の一つらしい.それが望ましい,国際社会の秩序であるという見識なのだろうか.戦争を悪として断罪して,平和の秩序を基盤に置くとしたのは,アメリカをはじめヨーロッパや旧植民地勢力ではないか.ネオナチなどの台頭で,欧米やその関連国が国際秩序の構築を放棄したというのだろうか.私個人から言わせれば,バカな人類の選択であり,ロクな世界にならないに決まっていると,直ちに判断できる.旧日本軍の軍人が,あまり戦争を語りたがらないのも,日本軍に日本兵が殺されたからというのも,あるのじゃなかろうか.国際秩序は,敗走する,あるいは迷走する日本が,提言したものでも,作ったものでもないことは,事実である.だが,戦争経験した年取ったおじん達が,「戦争みたいなものは,ありゃ,やっちゃいかん」という言葉から,未来につなげる選択をするのが,戦争体験を訊くということではなかろうか.そういう言葉はそういうものではなかろうか.「やっちゃいかん」というのだから,ごまかしなどではなく,「せんようにする」ということではないのだろうか.いやなら,「戦争したいから戦争するつもりだ」と言っておけばいいのである.わたしは,「せんようにする」という返答をとったから,こういうことに関しては,そういう立場を変えるわけにはいかないのである.戦争中どうゆうことがあったとか,軍の実態はどうだったとか,そういう話一切なしの,唐突な,おしゃべりではあったが.

中公文庫『日本の歴史24』では,日本が軍部暴走の無責任体質で,戦争に埋没した理由として,当時の日本の立憲主義のトリックがあると締めくくってある.大日本帝國憲法下の帝國日本が,立憲主義に基づき,臣民の権利等をある程度補償するものであり,アジア進出が,民主的な理由と規律を伴ったものであったというような話が,ときに,言われるようなことに関係するのだろう.しかし,それは,立憲主義のトリッキーな形態のもとで,狂走に転化する立憲主義の不安定な形式的安定であるということなのだろう.「しかし天皇は,憲法ではすべての責任の外にあり,しかも大正期以降は,原則として実質的権限を行使しない存在になっていた.こうなれば,この体制は多頭支配になり,無責任体制になるのは自明のことである」.

そういうものの一つとして,「統帥権独立の原則」があるらしい.統帥権は天皇の大権であり,政府や議会の関与すべきものではないという考えから,天皇の権威強化の制度だそうであるが,それが,実質,軍の独立性と,政府や議会の軍への従属性をもたらすことになるように,事態は進行して行ったのだろう.政府も議会も「軍と右翼の尻馬に乗った」粗忽者だというわけである.こういう流れが,ワシントン軍縮(あるいは軍事制約)条約やロンドン海軍条約の締結といった,力の均衡配分で危機管理しようとする国際連盟を中心とする国際政治の流れのなかで生じているわけである.(『日本の歴史24』, 中公文庫)

力の均衡配分による国際危機管理は,国際社会の危機管理のゆるみや無能化を露呈していくが,原子爆弾は,それらを一挙に手中にする,国際的な政治リーダーのソリューションとして,降臨したのだろう.したがって,核による抑止という発想そのものが,核兵器がそのようなソリュ−ションたり得ないものであることの認定以外のなにものでもなく,平和の実質的構築は,核兵器体系ではあり得ない.核抑止論依存は脱却すべく進むのが,アメリカをはじめとする国際政治の指針である.

さて,実質的な権限を行使しないといっても,多頭支配体制を統一しているのは天皇だから,多頭支配の無責任体質を問えるのは,神様と呼ばれるものであり,父母のような実質を求められるものであるが,それが存在してもしなくても,神様や父母は,すなわち,天皇ということになるというので,「天皇万歳」ということになったのだろう.すなわち,「神国日本」.

アメリカの,原爆投下も,ロシアの進出に対してアメリカの実力を示しておくためだったとか,アメリカの核の優位を示すためのデータを取るためだったとか,軍事戦略上の難点を吹き飛ばすためだったとか,憶測も含めて,今日でも,いろいろ言われているが,日本の立憲主義のミラーイメージを原爆で表現したという感じにならないだろうか.欧米にも,厭戦感や苛立ちや不安もあり,日本の帝国主義的立憲主義国家をミラーイメージとして,徹底的な破壊をもって解決するということが,シンボル的な表現になったということはないだろうか.その上で,再建されるべき姿をもってしか,戦後国際社会は,日本を受け入れようがないとか.

ポツダム宣言(米英華,1945年7月26日)では,無条件降伏しなければ,ナチスおよびドイツへの武力行使におけるよりも,比較にならないほどの軍事力の最高度の使用によって,日本軍および日本国本土を破壊に至らしめる意志と準備を有している.遅延も条件の変更も認めない.受諾の場合,「無責任なる軍国主義が世界より駆逐せられるまで」また「日本国の戦争遂行能力が破砕せられたることの確証あるに至るまで」占領下に置く.カイロ宣言の条項は履行される.民主的権利や産業や貿易は,再軍備を行うような場合を除いて,認められる.などのことが書かれてあるが,ポツダム宣言の受諾は,「我儘なる軍国主義的助言者」に統御されることで,無責任なる軍国主義的犯罪に至った日本国が,理性の経路を履むべく再生する決断をする 時期を画することである.つまり,そういう将来が許されるということだろう.安保が,性質を変えて存続するといっても,「無責任なる軍国主義の駆逐」を目的とするものであって,理性の経路を離脱するものではあり得ない.安保法制が違憲であるということは,理性からの離脱のおそれが強いということではなかろうか.矮小なる「我儘なる軍国主義的助言者」とアメリカのご都合が結びついているように見えるところに,国民の安保の動向への不信感も生じているのではなかろうか.

[軍事同盟の限界と安全保障]

論理的な整合性をいうなら,軍事同盟の限界を意識せざる得ない国際情勢の変化を考える必要があるのではなかろうか.具体的といえば中国とか北朝鮮とかいうような抽象的で,嘘混じり的な,国際情勢分析ではなく,アメリカやEUやロシアも含めて直面する,安全保障の軍事同盟化路線が限界にきていることを,丁寧に説明すべきではなかろうか.そうすることが,国際平和秩序にとって未来志向となる動きに沿うのではなかろうか.

実際,国連の求心力が低下して,国家や国家地域がエゴ丸出しに抗争し合う平和秩序は,調整が難しいに決まっているが,しかし,実質的に国際平和の秩序を担う機関が不必要というわけではないだろう.口先だけの,国際情勢だの現実だのという言い訳がまかり通るほうがおかしい.安保関連優先株で,投資詐欺はかるような,少数派パラダイス学者もいるのではなかろうか.安全保障や日米安保や国際情勢を語る器が足りないのを,なんらかのコネで,政治家などが按配しているのが,この国の実情かもしれない.竹田くんだろうか.皇族ビジネス損失の補填騒ぎだろうか.米軍もうまくそういうの利用する風潮になっているとか.

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非対称のトリック

2015-08-13 15:23:19 | 科学(Science

1=1,                                                    1=1,

1+2=3,                                                1+3=4,

1+2+3=6,                                            1+3+6=10,

1+2+3+4=10,                                      1+3+6+10=20,

1+2+3+4+5=15,                                  1+3+6+10+15=35, 

1+2+3+4+5+6=21                               1+3+6+10+15+21=56,

1+2+3+4+5+6+7=28,                          1+3+6+10+15+21+28=84

..........................                                    ........................

4-1, 10-4, 20-10, ...とすると

3, 6, 10, 15, 21, 28, 36, ....

これは,つまり,多角数のなかの,三角数の列(n番目はn(n+1)/2)である.また,3+6, 6+10, 10+15, ...とすると

9, 16, 25, 36, 49, 64, .......

つまり,四角数の列(n番目はn^2),3^2, 4^2, 5^2, 6^2,7^2, 8^2,....となる.

これが,

 

微分して,項を加えたりして,

また,

のような級数に織り込まれているという感じだろうか.(いわゆる,オイラーの月と太陽)

 

から,

xを −xに変えれば,

[2つの式を加えれば,

この式は,

とおいて,対数の計算に用いられる.

のようにおいて,繰り返し当てはめれば,むりやりだが,エイゼンシュタイン級数の原型のような形になる気もする.]

さて,x=1とおけば,

は,『解析概論』にもある.

アーベルの定理

から,

この右側の,の級数展開は,

のFourier展開からもとまる無限積,

 と,sin xの無限級数展開を比較してもとまる(Euler).

 

自然数,1,2,3, ...の列もダテではないという感じである.無限が,o(ε)→{1, 0}みたいな数理世界につながるとか.

円周率πのような数学の普遍性や,抽象ヒルベルト空間(ノイマン著『数理物理学の方法』,ちくま学芸文庫,および「解説」)や,あるいは,(エキゾッチック)高次元空間というような,難しそうな数学の構成が,EulerやGaussような考究を通じて,見えないスレッドのようにつながっているのじゃないか,あるいは,プランク輻射公式やBメソンのミューオンへの稀な崩壊などの物理理論の構成につながっているのじゃないか,というごく当然の疑問の内実をみてみたいという動機なのだが,ちまちま,事実集めするしかなさそうである.

複素数単位iと双対性(一方が成り立てば,他方も成り立つという関係,例えば,整数とその逆数の間の双対性というような)という関係が,複雑な事柄を分類するためには必要であるということもあると思うが,恒常的な関係を保つためには,そういう分類の法則を学ぶ,あるいは感覚的に身につける必要もあるのだろう.純粋に数学的な,あるいは物理学との関係というような場面では,抽象的な論の組み立てになるのだろうが,その原理を身につけることは,身近な問題を解決する能力の向上の基礎になるということではなかろうか.そういう意味では,男も女もないのではなかろうか.そういう面があるからこそ,テクノロジーの進展を支えるものたり得るのだろう.

政治家や財界人の一部に,低俗脳の連中がいて,それを政治的な手練手管と勘違いしているのが見受けられるのは,困ったことである.俗な例えで言えば,フェラーリ買って乗り回せば,クラブの美人セクシーチイママは俺のものだと思い込むような連中のことである.だから,フェラーリに乗ることと,馬鹿な政治家であることは,本来,別な事であるが,別事にしたくない連中のことである.👍✌️.

 そういう連中の特徴は,他人をなめくさったことを言えば,他人が反応するというガキっぽいところがあるということである.それで箔付けるために,右翼だヤクザだ,あるいは,そういう関連筋といわれる財界人だの有名人だを後ろ盾だと持ち出したりしたがるわけである.オレオレ詐欺ではないが,馬鹿は馬鹿だと見極めればいいことである.

例えば,

さらに,

このような展開は,文字がn個のときも,同じようになる.

の場合を考えて,

が成り立つものとして,交換法則は成り立たないとすれば,どのようなx,y,zに対しても方程式が成り立つには,

だから,

でなければならない.(厳密には,ここでの条件が曖昧だから,分かりにくい例かもしれないが,クリフォード数など参照すれば役に立つと思う.そのときは,右辺はマイナスがかかる形である.)

はじめの三つの式ぐらいは知っていてもいいが,後の式は,知る必要もないではないか的な,そういうことを言いたがるのは何故なのか? 普通に考えれば,「良い」だの「良くない」だのをいうべきものだろうか.強いて言えば,そのようなケースの専門的な学問的な有用性とか重要性を専門家がどう解決していくかというようなレベルになれば,「重要だ」とか「そう重要なものでもない」という話も意味があるだろうが,どちらにしても,そういうことを見極めるための,それなりの素地を身につけることになるという意味では,禁止されるいわれはないのではなかろうか.

そういういいかげんなのをタレントばりの知識人に祭り上げようとするのは,ヤクザの内部分裂が影響しているのだろうか.安保関連の報道タレントも,実は,ヤクザの内紛のような,そういう影響の庇護もとに祭り上げられているのが多いのじゃないかと,疑わしいのが多いように思える.ヤクザももともと,昔なら軍部,いまなら防衛省や報道関係の闇委託業者のような存在なわけだから.昔は財閥も軍事だから,そういう面が残っているのだろう.大手メデイアも,そういう名残をとどめたいのが多いのだろう.民主主義に寄生する,右翼やヤクザのような存在は,社会にはつきものなのだろう.そういう詭弁だてで,民意を無視するのが政権の務めという連中が,ヤクザの子飼い連中がいう政権の責任は必要なのだろうか.銭がまわりにくいからヤクザに流せ的な押しの受け売り論者に,安倍政権もおもねっているのだろうか.岡田もそうだろうか.寄生カルト論者への庇護が,政治家には必要というわけだろうか.「朝まで内部抗争」とか,メディアも身内な訳だから番組組めば,社会の役に立つのではなかろうか.知名度の高いタレント論者も多い訳だから.「広域ヤクザ紛争と安保関連法案」で,日本の将来も見えて来るということで,岡なんとかとか森なんとかとか定連の論者をcastingすれば,高視聴率は約束されたようなものな訳だから.

 別に,保守的であるあるかどうかで,賛成反対ではないが,実際,物事を保つためには,その変換的な変形の成り行き等を見極めながら,その物事に責任を持つことなわけだから,安易な将校気取りでは困るわけである.あまりそういう器を感じない連中の安易な詭弁立ての声が高いだけなのじゃないかというのが,観想である.そういうことではない,物事の見極めの先に,変革も必要になることもあるのではないだろうか.平和を維持するとは,そういうことではなかろうか.見かけや皮相な普通の国論は,普通以下の国の言い訳に過ぎないから,普通の国になる前に,ヘコムことにもなりかねない.そういう,凡俗な投機感覚で取りつくろうことはよくないので,見つめ直すべきではなかろうか.

 

 

 

 

 

 


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