Book Offで,まとめ買いした本をもとに,時事問題等を絡めて,考えていきたいと思う.憲法関係が2冊,生物関係が2冊,経済関係が2冊で,例えば,経済関係だと,ガルブレイスの,『新しい産業国家』とか『ゆたかな社会・大衆的貧困の本質』である.そのほかには,『国際私法入門』とか,ミルナーの『モース理論』吉岡書店とか,コンピュータ関係の本が数冊である.どうまとまるのかは,保証の限りではないが,どうせ誰もまとめられないから,気は楽である.ひと昔前の本も多いが,書棚から手ごろで,読みごたえのありそうな本を選んだ.
数学の補完用に,岩波講座『現代数学への入門10』, これは珍しくというのか,1000円した.トポロジーとか偏微分方程式とか,数学に疎い私には,ハードルが高いが,そこらは,ご寛恕願うしかない.もやもやとした,集合論と微分方程式の関係とか,CauchyやRiemannと微分形式の関係とか,たどりなおす機会になれば,あるいは,的外れではないのかもしれない.たぶん,岩波『数学辞典』を頼りにすることが多くなると思うが,そうしないと,数学の話など,手も付けられなくなるから.
生物は,エントロピーを食って,生物活動のエネルギーにしているといわれるが(ゲネントロピー),そこにある共役などの関係が,正則性などを手掛かりに(誰でも知っているようなことで, 複素平面Cの開部分集合D上の複素関数f’(z)=lim(h→0){f(z+h)-f(z)}/hが存在して有限であること,それがDの各点で成り立つこと),数学的に説明できるのじゃないか,とか考えると,案外つながるかもしれない.例えば,ミトコンドリアの役割をみれば,ミトコンドリアはまさにそういうためのものではないか,ということが述べられている.
その結果をもとに,どの向きに,経済や社会あるいは環境などを考えていくかとういうやり方もあるのじゃないか,意外とつながる.そういう動機を仮説として,いろいろな時事問題を考えていけば,ある種の説明が与えれるかもしれない.私の問題設定と,そのための勉強用ということで,あれこれ考えていきたいと思う.
私は,数学以前の,ギリシャ周辺の諸島のどれかにいる.紀元前2000年あたりの時代である.どうして, そんな時代のそんな場所にいるのか,目覚めてみれば,芋虫になっていたという小説気分である.ということで,以降は夢うつつの物語である.そんな昔の詳細については,はっきりとはわかっていない.要するに,青銅器時代のヨーロッパとりわけエーゲ海周辺の様子についての,大まかなナレーションである.一つは,なぜ,ポリスといわれる都市国家,共同体国家が,おそらく,ギリシャの衛星都市群のエーゲ海諸島のプレギリシャ文明との交流と征服の果てに,変容して誕生したのか,それは,ポリスは,デーモス(村)が,一つの村が発展したりその数個が結合したりしたものだが,それが,何故,機能的(邑,ムラ)を基本にすることになったのか,あるいは,その過程で,青銅器時代から鉄器時代に移り,機能的な側面が,暴走する,独走する流れになったのか.それが,ギリシャからローマへと,あるいは,中世へとつながるのか.そのとき,数学は,どういう歴史的な刻印を刻んで,誕生したのか,という疑問である.公準や公理から初めて,純粋にやっていくのが数学だろうが,数学も,その時代や場所のいきさつと無縁ではないかもしれない.
覇権主義という思想が,古代ギリシャの試みの中で,どういう経緯をたどったのか,どうして,現代でも,そういう思考から離れられないのか,ということも疑問として,ただちに生じる.単純化してみれば,ムラ(元)がポリス(集合)と闘争的に結びついて,系を動かしていく感じに見えたりする.
ロシアの不可解な戦争意欲についても,共通の要素があるのかもしれない.貧しさの均衡という,あるいは貧困への順応ということに加えて,貧困への抵抗といことが,戦争に取り込まれて,唯一,貧困に抵抗するものとしての生き残りの得られる媒体であると意識されているのではないか.何故,貧困を利用されているのに,徴兵されるのか,などという問いは響かない.そこに戦争があるから,という反応になるのだろう.プリゴジンの反乱も,戦争に行ってなんでもいいからぶち壊してきな,プリゴジンのモスクワへの逆進行なんて,何の関係もないことだから,見て見ぬふりしておきな,的なロシアの肝っ玉母さんの哲学なのかもしれない.とくに,ギリシャの衛星都市の解体,モザイク化に伴って,デーモスが本来は「別れ」を意味し,デモクラシーという言葉では,デーモスのもつ「民衆」という意味で使われている.勝手な解釈だが,「民衆」とは,貧困に抵抗する少数の人々が,最後に活路を見出すのが戦争であり,よりひどい状況へのレジスタンスという解釈もできるかもしれない.でも,本当にそういう希望を実現してくれるのは,経済的な発展だから,プーチンは,それを装う必要がある.これは,中公文庫『ギリシアとローマ』世界の歴史2,とガルブレイス『大衆的貧困の本質』を無理矢理結び付けてみたものである.貧困へのレジスタンス諸君,真の豊かさへつながろう,私一人,机をたたいて叫び出づるものである.啄木じゃないが.
葉桜の 散り行く道にたたずみて この圧倒的自然よ 迫りくる
啄木ついでに,一首.
貧困の極みは奴隷である,というが,貧困の極みは,流動性である,ともいえるのではないか.流動性とは,将来の不確実性リスクに対して保険をかけておきたい,流動性に対する支配権をもっておきたいとする心理と,それを手放すことに対する報酬という意味だが,現在を将来の期待で測る物差しということになるのではないか.将来の期待を実現する条件から,現在はどれだけ乖離しているかを割り引いて考えれば,金利が高すぎれば,そういう人口に対して,将来現世世界が狭すぎるということが生じてしまう,そこらが,奴隷制の変容を生んで,ソロンの改革等を経て,没落市民層奴隷を生んだのではないか.ポリス社会では,国家の影響が大きすぎたのかもしれない.現在的に言えば,債権の暴落という話だろうか.因果関係がはっきりしない面もあるが,どこか,通底する感じもある.
紀元前2000年ごろから始まる,ギリシャやその周辺をめぐる物語は,一筋縄ではいかない,様々な問題を生み出し,様々な工夫を行いながら,次の時代に,徐々に浸透していく的な歴史の一面も描き出しているのかもしれない.
古代ギリシャ以来の自然科学,あるいは,その周辺の影響,とりわけ,数学の変遷を並行して走らせて考えると,幾何学の公準といわれるように,幾何学の公理と同じ意味なのに,区別して使われる.公準はそういう特定の分野の公理,数学一般とか科学一般のものとしては「公理」が使われるようである.幾何学は,とりわけ,実用上の必要から発展していった学問で,ユークリッドの第5公準は実は他の公準から導けるのじゃないかと疑われ研究されたが,第5公準が独立で,他の公準から導けないこと.それと同等なものを公準として採用しても,幾何学として承認せざる得ない.つまりは,非ユークリッド幾何を承認せざる得ないこと,が明らかになって,現代の幾何学につながっている.文化的な教養を,数学のもとになったマーセマ(mathema)として,公式となっていた.数論や幾何学だけでなく,論理学や修辞学,音楽が教養の公式である.
しかし,教養ある市民,といっても,実際には,性風俗の乱れ等,現代から見れば,だいぶ,いかがわしい面もあったようだが,表向きの論述が,結局は,循環論法になって,循環論法と現実の問題の進展との間の確執が生じていることも意識されていたのかもしれない.循環論法をどう脱するか.それが,一見何の進展もなく,暗黒の時代と呼ばれる中世から,ヨーロッパ近世・近代への突破口となったということも,実際の歴史的経緯なのだろう.
『大衆的貧困の本質』では,豊かさを実現した国と,豊かさから遠ざかった国を分かつのは,「移民」である.移民は,豊かさへの充足度の足りない国からの,豊かさへの潜在力を持った人口の流出である.移民先として,アメリカや西ドイツなどが例として挙がっている.大げさに言えば,アメリカやロシアや中国は,豊かな国であり,豊かな国として発展したが,豊かさを充足しえない国に転換して,貧困への順応のみを求める国家モデルとなったのか,部分的な不均衡が熱を持ちすぎて,全体が,肺炎を起こす危険を無視できないほどになったのか,医者の診断に俟つしかない.これまでは,そういう国々は,社会主義や共産主義国家といっていれば足りたが,トランプのおかげで,自由主義国家や俗にいう西側諸国の問題になった.そこらが,西側諸国の発展や改革の契機としてとらえるべき面もあるのじゃないか論の根拠なのだろう.
移民を生み出す国と,移民を受け入れる国が,ともに発展するモデルがあれば,それがほんとのwin-winの関係というものであって,富むものはさらに富み,貧困国はさらに貧しい国になる的な,従来の思考パターンでは,win-winなんて関係は,建て前に過ぎない.この論は,もともと,インドの貧困問題を緩和するためのアメリカの援助計画を調査するためのものらしいが,意外な実証的結果がもたらされたというものらしい.実証的研究は,アメリカのハーバード大学をはじめ,ヨーロッパのアカデミズムを巻き込んだ,協力が必要らしい.米政府との深遠な対話が期待される.
一旦,代数化して,境界を延長していく,という手法が,数学的には大きな成功を収めたらしい.ちょっと思ったのだが,アルキメデスが,ギリシャの周辺で,Cauchyのε-δ論法より厳密な,で搾出法(method of exhaustion)で,微積分学の厳密な基礎付けに貢献していた,というのも,古代エジプトなどの影響もあるのか,その後,オリエントやイスラムの影響を受けて,独特にブラシュアップされてきたのか,紆余曲折を経ながら,最先端では,余剰次元の絡み合いのように,超重力,超大統一諸理論とつながっている.アルキメデスには,人外,デーモンがとりついているという評価があるようだが,機能化を包摂するような面を,当時の潮流と対置させていた感じもあるのだろうか.
個別的であることと,社会的総体として個別化されていることは異なる.A-Pmで,Pmの,財やサービスの生産素材の,外延的及び内包的変動に従って,A(労働力)の編成も変わるわけで,それが,資本の投下,再生産,剰余価値や可変資本への分割,その一部の包摂の循環・回転運動の推進力の一翼を担っている.経済学用語では弾力性とか可変性と呼ばれているようである.
ケインズは,このような紐帯を,一旦,デカップリングして,再編して結び付けようとしたのかもしれない.cと,vとmの一部固定部分は,何の条件もなく流通に投入され,いわゆる,資本主義的に包摂されているではないか.流通もいわゆる固定財も,資本主義には,可変化されて,社会的流通として,隠蔽するではないか.そういうことを利用して,社会主義国がアメリカを略奪してきたとトランプは言っているのだろうか.
私は,俗な社会主義国家など詐欺国家ぐらいにしか思ってないので,中国だろうがロシアだろうが,ならず者資本主義国家ぐらいにしか思ってないので,そういう擦り付け合いはごめん被る.資本主義は,総資本のもとで,生産や消費を巧みに制約したり結び付けながら,全体として,拡大再生産を続けている.そこには,当然,資本主義独自のトリックもあるだろうが,ならずもの資本主義にしてはいけない.そこらに関する詳細は,経済学者の領分だろうが,アメリカがゴロツキ資本主義になれば,ある意味,ショック療法にはなるかもしれないが,自由貿易なんてものは,誰でも手に余ることになる.自由貿易なんて言葉が,古色蒼然とした響きを持ち始めて,かといって,合理的な,国際経済の姿など,誰も持ち合わせていないことがはっきりすればするほど,不確実性におびえ始める.そこらに,隠蔽体質が寄り添う.そんな気がする.
例えば,生産手段を生産する産業では,すべてが,生産部門間だけで完結していて,拡大再生産を維持できるかといえば,実は,消費部門の剰余価値生産をどう可変化するかにかかっている.つまり,生産部門の固定資本部分(c)を,どう消費部門の剰余生産(m_2)で賄うかにかかっている.部門間の流動性をどう調整していくか?19世紀末のアメリカのジャーナリズムの言葉で言えば,「労働賃金の引き下げと長い労働時間,これが,労働者を合理的消費者の栄位に引き上げ,文化と文明の進歩とによって,労働者の手に入るようにされた多くの物品の市場を作り出さすべき,合理的で健全なやり方の核心なのである.」(『資本論(5)』岩波文庫)生産で生み出された蓄積を市場で流動化させろ,それが,労働者が豊かさを享受しつつ,経済を拡大する合理的な行動の核心である,といってるのだろうか.たとえて言うなら,当時,アメ車は日本車より質が高く,消費者のニーズにもかなっている.アメ車が市場を席巻するように,労働者の合理的消費者行動によるライフスタイルを徹底しよう.そうすれば,バカ売れする.売れないはずがない.ラストベルとは,それを限りなく推し進め,衰退していった.さて,21世紀の今日,どういうトリックでラストベルトを再生させていくのであろうか.
そこらは,確か,I_cとかII_cとか、I_(v+m)とか,IとかIIは,資本主義的生産物の総体,それを社会的総生産物というそうであるが,それを構成する,生産手段(第I部門), 消費手段(第Ⅱ部門)として,それらを生産する産業の,固定資本(c), 可変資本(v), 剰余価値(m)を添えて,それらを表している感じのものである.それが,案外難しい.相互に取引もあるし,相互にそういう意味の社会的な役割もあり,それぞれの運動法則もあるから.「貨幣資本は社会的生産においてはなくなる」(同上).それを,どうやって,流通に転化させるか.信用とか金融とかを,さらに,第III部門とする,捉え方,二部門説とか三部門説とか言われる奴だろうが,部門のわけ方でも説が分かれるのだから,なんか,トリックがあるのだろう.トリックじゃ,トリック!
岩波数学講座『現代数学の流れ 1』は,1905年オーストリア生まれのE.シャルガフが,ワトソン・クリック以来の現代生物学のもとを成した,DNAの二重螺旋構造の解明に肉薄した学者として紹介することから始っている.どうやって,我々の目の前にある現象の本質をとらえるか,21世紀ともなれば,我々の目には見えない現象の本質も,科学的な説明がつく何かがあるのじゃないか,という目で見ている.その一方で,何かそれらしい説明のつくものがあれば,「こうした偉大な科学的・技術的な探求の一つ一つを通じて,人間と現実との間の接触点が不可逆的に失われるのだと言ったら,誤解されるであろうか.」(E. シャルガフ)
ユークッリドの『原論』も,現代的な目で見れば,その公理体系は不十分であり,公理・公準の不正使用が認められている.そのことを,明らかにしたのはヒルベルトであって,実に,2000年の年月を経ている.しかも,少数の公理から,複雑な図形の性質を導くという,『原論』の精神の徹底から明らかになったという事実が重要である.現代なら,補助定理なども検討されて,何やら,もっともらしい公理・公準の取ってつけや不正使用もチェックされるのだろうが,意外と,そこらも,体系の豊富さに反映して,意外な事実を導くことがある.そんな混乱に乗じて,社会問題の方でにぎやかしやるような科学者も増えている.科学者の社会的責任なんて言えば,しっかりしてちょで済むが,米中新型コロナ論争ともなれば,政治臭が漂う.
日本の非関税障壁が,アメリカに対してだけでなく,日本国内のアンフェアーな制度にまとわりついているから,そういう面の是正も必要になるから,そこは時間もかかるし,気分手を付けたくないから,アメリカにかかわるような外面だけは早急に是正をかけます.つまり,そういう外交姿勢で臨むしかないという話なのだろう.なんか,そこらは,消費税廃止論や一時停止論とか,物価高,とりわけ,コメ不足が農産物の輸出品目化のひずみとか,日本農政の二枚舌政策問題となりかけている現在,なんか,煮え切らない,制度的なひずみ温存論調になり替わってしまっている.そこらが,どうゆう議論やねん的な,どっち側向いた議論やねんてきな分りにくさを演出している.コメは,牛丼にしろカレーライスにしろ,わざわざ,カリフォルニア米かってつくるわけはなく,あるいは,お店でも,コメは国産だろうと外国産だろうと,おいしい国産米でなくても,具材でごまかせば,売れるわけだし,肝心の具材を,ネズミ肉や猫肉にするから事件化するわけだし,ばか舌日本人の政策にしたがる感じもする.食の味より銀座のホステスの味の方が優先されるとか,あるのだろうか.
私は,解析学なんて,そうとも知らずに,高木の『解析概論』で読んだ経験しかないが,なにせ,数学IIBまでしか習ってないないから,高校では,文系コースと理系コースに分かれていたし,したがって,数学のIIBより難しいことは,趣味の範囲のことである.そいうことで,「アルキメデスの原則」というのは,わかりにくい.ε<a/n (1)なのに,なぜ,「εとaが与えられた正数ならば,nε>aとなるような自然数nが必ず存在する」,なのか.これが実数の性質なのか? (1)を面積の関係として考えれば,ε=0とならざる得ないが,4^n> n をもちいて,ε<1/4^n・a<1/n・aだから.点の面積の中の部分領域は面積0だからだろうか.
『解析概論』での説明によれば,放物線とその弦で区切られた部分AOBの面積Sは,三角形OABの面積の4/3倍である.その三角形の面積を取り除いた放物線と弦で区切られた部分の面積から,さらに,T_1=T/4,T_2=T/4^2, …なる三角形の列T_1, T_2,...を作り,
S=T(1+1/4+1/4^2+...)=4/3・T
しかし,そういう操作をいくらつづけても,搾り出すというのか,取り崩すというのかは,結局,ちょっとだけは隙間が残るではないかということで,
|S-4/3・T| < 2T/3・1/4^n
を得て,|S-4/3・T|=0, したがって,S=4/3・Tを得る.|S-4/3・T|=ε,2/3・T=aと書けば,ε<a/n. アルキメデスの原則を承認すれば,ε=0以外には矛盾が生じるから,ε>0に,ε=0を認めざる得ない.という感じで説明されている.
よくわからないが,「一つの集合Sに関して或る点Aが集積点であるとは,点Aにどれほど近いところにもSに属する点が無数にあることをさしていう. ただしAが集合Sに属するというのではない」.とか,「有界なる無数の点の集合に関して, 集積点が必ず存在する(ワイエルシュトラスの定理)」と通じるものがある感じがする.
積分を教わるとき,細いリボンを考えて,その幅を無限に0に近づけた極限の値としてある区間の積分の値,面積が求まると教わるものだったように記憶しているが,これが,アルキメデスの精密論法を使って,f(x)の原始関数F(x)とそれに対するf(x), F'(x)=f(x),あるいは,F(x)=∫f(x)dxとより一般化される.これを,集合の間の関係とみれば,より一般的になるのだろうか.若干の不連続点の可能性には目をつぶって,関数の有界性のみに依存すると考えれば,ということは,不連続点での均しをどう連続させるかにしたがって,解析が制約されるということだろうか.あるいは,そのような疑問も均されるということだろうか.どこに,均されないことが特徴として出てくるのだろうか.それにしても,文系コースと理系コースに分かれていたからとか,余計な言い訳かもしれない.だからといって,数学の性質が変わるわけでもないから.「零はすべての始まり.零がなければなにも始まらない」,コナン君の名台詞だが,ここでの零は,テニスのラブオール,「愛」がなければ何も始まらない,という,アニメのセリフを思い出した.b/aでaは0でない.a=0のときは,定義されないか,便宜的に∞とするか,つまり発散する(有限の値として出てこない)かだから,しゃれた言い回しだが,まあ,そういうものだろうと納得させる.そういう解釈以外にもあるだろうが,実際上,使われることはほぼないように思える.オールが少し気になるが.日本人だったら,あれ違うんじゃないとすぐ気づきそうなことも,出来の悪い中国人に合わせて,ごり押しする.つい熱くなって,こんなこと言ってしまうが,中国人に合わせていたら,阿保国民になるのも道理というものである.中国人はそれなりに賢いが,最近,阿保ぽいのがのさばっている.私が,中国のすごさを認めるのは,書である.カリグラッフィ,中国の書はやはり一味違う.美しいだけなら,日本の書も負けていないが,中国の書の持つ神秘性は一塩である.それを,習近平だの中国共産党だのどこのに感じるというのか.そんな感じなら中国は,台湾に飲み込まれればいい.中国が台湾の属国になるなんてことも,選択肢としてはあるではないか.大した政治でもないの,どうこう茶々入れている感じより,流石中国という,誰にもまねできない個性を持って,世界に問いかける,そんな国でないなら,大してどうでもいい.
米中対立について,大国のエゴといえばそうなのだろうが,新たな経済的な問題が醸成されて,これまでの対策では解決できない問題が生じて,世界がより緊密に協力して解決にあたる必要が高まっているのとは,分断だの一国主義だのに向かっているという,真逆のニュースが多い.そこらを,どう主導権をとっていくかという,手練手管的な面が強調されて,トランプ現象なるものになっているのだろう.そうする方が,日本で言えば,財務省問題のような内向きの問題を,外に向けられなくなって,いろいろ噴き出しているのだろう.ニューモンロー主義といえば古臭い響きがあるが,何らかの移行局面にともなう調整局面といっても,どこに向かっているのだろうか.戦争だ,革命だということだろうか.それとも国際的な新たな仕組み・制度の創設とか.結局,国民だましと,ごり押し専門のような国では,詐欺と陥れのような国では,時代の流れに乗れない.難しそうだが,そういう創造的な面とやましい面がごちゃごちゃな扱いになっている.風見鶏とご都合主義.トランプ関税が,そういう踏み絵なら,しっかり態度を示さなけばならない.幸いというか,私は時事問題に疎いので,かっこいい経済用語あるいは金融用語など使わずに,つまりはどういう話やねん的に考えるが,とりあえず,大きな流れは把握しておきたいと思う.
竹中が,万博で何百億円か中抜きしてるという話が,myYouTubeではみかけるようになった.早い話,万博のお金を横領してるとか,横流ししてもらっているとかいう話だから,仕組みに付け込んだ泥棒稼業で財を成しているという話だから,ミイラ取りがミイラになり果ててしまっているという話になるのだろう.真面目に汗流す奴は馬鹿で,銭もってるくせに詐欺横領,泥棒に手を染めてる奴は,賢くてごりっぱてな世相の反映だろうか.もしそうなら,竹中もその取り巻きもムショの飯食って反省すればいい.案外,中国の大物スパイとか取り巻きにいるのかもしれない.嘘とごり押しで他人に転嫁なんて,中朝の特徴か,日本の因業連中の特徴だから,因業資本主義論者なんだろうか.一見真面目を装った詐欺師なんてのは,世間では雑魚詐欺連中の特徴だから,竹中が日本経済を考えているのか雑魚詐欺連中のお手本なのか区別がつきにくい.バラエティ報道のコメンテータの何とかの犬と呼ばれる連中は,雑魚詐欺師竹中と変わらない.うまいことやれば,何百億とか労せず転がり込んでくるんじゃないかとか考えていそうな連中ばかりである.語るに足りない連中のもっともらしく見せたいという演出である.ビルゲーツのように,私財を寄付して社会貢献なんて考える連中なわけないし,その真逆みたいな連中だから,兵庫の百条委員の議員みたいになりたいのだろう.詐欺師同士で.
どちらも,資本循環の一断面ではあるが,P...P'とG...G’の機能と役割についてである.利潤と信用の機能と役割ということであろう.可能的商品と利子付き貨幣という感じであろうか.単に商品といえば,無媒介的商品であって,そういう差異を考えないが,そういう資本の形態が,無媒介的に現れるものとして見えるわけである.資本の総過程として,はじめてそのような物神的な性格が解析されるという,皆さんの嫌いなマルクスの『資本論』である.ただ嫌われているというだけでは話が進まないので,「信用逼迫(クレジット・クランチ)」の問題として考えてみたらどうだろうか.「しかし,日・米・英の金融自由化およびグローバルなデレギュレーションは, まさにこのケインズ政策の根底にくさびを入れて崩壊させ, 資金の流れを自由化・世界化することにあったにちがいない. その結果, 資金の流れをもう一度一国の中央当局のコントロール下に抑え込み, 一国のリセッションを回避させるために有効な政策(有効需要拡大策など)をとることは, きわめて困難になってしまった. かくして一国資本主義的なケインズ政策は, 再起不能の打撃を蒙るにいたったものと思われる」.(『複合不況』,中公新書) そういう意味では,アメリカの崩壊は,一国主義的な政策からの移行の模索であって,むしろ,日本の経済が世界から取り残される度合いを表しているのかもしれない.それを,日本の非関税障壁といっているのかもしれない.
自然人口に対して,経済人口というか,目的人口というのか言い出したら,殺風景な共産主義的人口政策のようになるが,資本の本性として,ターゲット人口として,乖離していくなんて想像すれば,そうとも思えない連中が,いつでも,そのターゲットの構成員であるように思いこみたい動機が,上級国民とか,市場の勝ち組てな表現で,アピールされるのだろう.しかし,本当はどうなのかは,誰も知らない.相対的過剰人口なんて制約で,変な意識と窮屈なご都合でやり過ごしているという感じに見える.これも一種の選民思想というものだろうか.儲けられる連中から,独立して,そういう運動体になり始める.極右化とかいう風潮も,そういうバーチャルな帰結として,先行されている現象のように見える.それを問題解決の手がかりとして考えるということと,そう思い込むというのは別ではないか.
単純に,利潤は利子と企業者利得からなるが,利子も利潤から質的に転化して,それぞれ独自の運動体になる.G...G'では,G-W...P...W'-G'と違って,実際的な時間的な制約から自由となり,貸し借りの技術的な取り決めによる形式的な関係としてのみ,運動しているように見える.では,そういう,G...G’から分岐して,質的転化を遂げて,独自の運動法則に従うようになるものとは何だろうか.ビットコインだろうか.バーチャルなんたらだろうか.そこでの,人口とは,どういうものとして捉えられるのだろうか.バーチャルでなければ,ディールだろうか.キリスト教のような宗教だろうか.GAFAMとかGAFMAXというようなところで,資本の未来を思い煩う立場にないので,金持ち世界の出来事として見逃しておけばいいのだろうか.現実経済に内在する,仮想現実としての経済なんて感じなら,悩ましい現実だらけで,誰も答えを持っていないということになるのだろう.資本主義なんて誰もわかりはしないのだから,適当に言ったもん勝ちである.
現代経済の判りづらさを,時事的な問題に照らして読み解いてみようという試みではあるが,ごく一面的な関係をみているに過ぎないのかもしれない.「その活動領域が流通過程に過ぎないとはいえ,なお再生産過程内における機能資本でありそういうものとして平均利潤の分与にあずかる商業資本に対して,生産過程にも流通過程にも機能資本としては関与せず,それゆえにまた,それ自体しては全く如何なる意味でも再生産過程内には関与せず,再生産過程外にあって,社会のいっさいの遊休貨幣資本を動員して再生産過程の流動化と拡張を媒介しつつ,それに寄生し吸着し,利潤の一部を利子として取得するところの独自の資本範疇たる利子生み資本------それは「価値を生む価値」・「貨幣を生む貨幣」としての資本の最も端的でかつ無概念的な形態である------が,本章の考察対象である」(富塚良三『経済原論』,有斐閣大学双書).現代社会では,「競争と信用」の現実体つまり銀行とか証券のことだろうが,もう一つ,最近問題となっている,オレオレ詐欺とかが思い浮かぶかもしれない.詐欺の方は,それを装って,とりあえず,果実(現ナマ)だけいただこうという調子のいいことだけ考えてやっているのだろうが,大阪万博の中抜きとか,電通とか,竹中とか,維新とか絡むと,付け入られることになるのだろう.メディアもそういうことになると大合唱じみて,組織連合詐欺のような感じになるから.さらに,トランプのディールとか.ロシア・中国の大国主義的な略奪行為とか.そこらがバレそうになると,暴走族の仲間意識のようなやらせで,例えば,SNSなどを敵役に仕立て上げる.そして,誹謗中傷を受けて,命の危険にさらされているというような,被害者を装う.テレ朝とか.仲間意識自体が悪いというのではないが,悪事隠しだから,というわけだから.
資本の絶対的過剰生産とその中での資本の希少化---競争.単に自由な競争といえば,傾向的に恐慌に導かれるわけだから,健全な自由競争を通じて,そのような傾向的法則をコントロールして,うまく恐慌などを避けて,改革していく.そこらが摩擦を起こすとき,世界的なリーマンショックだの,経済システムの暴走が問題とされる.インフレと物価高という問題も,そういうリスクの高まりとそのリスクへのコストという面もあるのかもしれない.それが,欧米でも限界に達しつつあるという報道もあるが,どうなのだろう.こういう論だてを嫌う向きもあるが,それは結構なのだが,どうやって,立てられた問題を解決できるのだろうか.解決策があればいいが,とりあえず嫌っておけばいいというのは,無責任である.とはいえ,経済プロパーでもないので,自分用の勉強がてらの疑問である.チャチャと否定されるかもしれないが,問題なのは,実質的な解決を提示できているのかということだから,どうなんだろうと思うわけである.そういうの多いから.水面下ではやられているのかもしれないが,世界経済会議でも特別招集して議論を突き合わせるてなことも必要かもしれない.突き詰めていけば,結局そういうことにならざる得ない感じはする.そうこう言っているうちに,中国などの暴走資本主義に付け込まれるなんてなれば,皮肉な話である.こいつら,どっちつかずの社会主義者じゃないのかとか,もと暴走族とかハングレのなれ合いじゃないのかとか,面白そうである.私は,日本経済の井戸であり竹中であるなんてのもいそうだが,おっさんOBとか.
なんか,井戸兵庫県政とか万博と竹中とか,事情に詳しくないものから見れば,何があったんだという疑問しか残らない.井戸県政に関しては,俗にいう水増し公共事業とか,竹中に関しては,親族企業を介して中抜けとからしいが,実際どうなのか,井戸ちゃんも竹中ちゃんも,私には関係ないから,むしろそういうことがあれば,真実を明らかにするために,その解明に協力をおしまないとか言えば,物事すっきりするはずだから,そういうもやもやも霧消するはずである.それを,パワハラとかを利用して,目を向けないようにしようとか,ほんとは,県職員とかへのパワハラなんぞ微塵も問題視してないのに,そこらほじられるとやばいとかいうことだけで話題にしようとしている.その装置の一つが,オールドメディアといわれるやつで,SNSは勢いでばらしそうだから目障りである,てな感じだろうか.それにしても,報道活動家がオールドメディア側だったり,わかりにくい感じが残る.政治屋・行政活動家の智ちゃんとか,変な接点が生じてしまう.一種のねじれではなかろうか.報道活動家と政治屋・行政活動家は,互いを利用し,利用されながら利用しようという関係なんだろうか.もちろん,そういうことが問題となることは,理解しているのだろうが,中国とかの後押しで,そっちに向いてしまうということもあるのだろうか.斎藤知事については,感じ律儀そうだが,まったく瑕疵がないかどうかは,判断していない.県職員との意思疎通とかいってるから,その周りのハラヅモリに対して疎そうに聞こえるわけで,youtubeでみて,視聴者も閲覧者も無視して,暴走する偏向報道等をみれば,闇の影響が警察にまで及んでいるとか,とすれば,その裏に,中国等の闇勢力が絡んでいるとか,問題の受け止め方に,溝ができるわけである.報道側の編集とかいうが,常識的なリテラシーもないわけだから,改竄とか捏造の類ではなかろうか.報道が捏造や改竄して,それがそのまま真実報道だいう傲慢さ,あるいは,そこにチェックをかけない杜撰さに,優秀な連中だろうから,気づかないほうがおかしい.律儀に,真面目な編成しても,おいしいところはないから,うまい汁吸える方に,捏造も改竄もできるではないかということに気づいてしまったのだろうか.世間は昔から気付いているが,頭の巡りの早い報道人にとっては,新発見なのだろう.一般人への聞き取りも,なんか,カルトの信者ぽいのだけ選んでやらせやってるのじゃないかとか,偏向報道とカルトあるいはカルト資金てな裏がありそうである.そいうことをチェックするのも編成の役割ではないのか,そこらは,チェックにかけないてな体裁で,やってるのだろうか.偏向報道する方は,そういうことを利用してやってるのだろうか.
ハーバード大の留学受け入れ取り消しとかも,むしろ,日本の大学が中国等からの受け入れをやめて,当然,賛否両論咲き乱れるだろうが,お手本を示してやればいい.まじめな留学生等には申し訳ないが,なんか,大学の悪しき実態の隠れ蓑に留学生とか,学問の自由とか口実にしてる感じが強い.メディアの言う世論もおかしくなるし.実際,学問の府ではなくなっているから,偏向報道の中朝のヒョイデ工作おじさん的なのが,我学問なりと勝手に宣伝している感じになっているのじゃなかろうか.アメリカではトランプ,日本では胡散臭そうな知識人が,反知性主義者であって,しかも,自分の意見なんてないから,その時々の都合に合わせてるだけの連中だから,いうだけ無駄になるのである.当然,私は,知性というか学問には,それなりの敬意をはらっているが,偏向報道とか,早い話,詐欺番組とかゴロツキ番組という話だから,そういう連中の画策には同調できないというだけの話である.テレビの番組だけじゃないが.口真似だけ知識人的なのにはうんざりだが,まじに喧嘩させればいいのである.特に日本では.そういう意味では,トランプがんばれである.
ハーバード大生は,2×2もできないから,算数の補習が必要だとか,マジかもしれない.といっても,ゲーム理論とか,マトリックスゲームとか,アメリカが得するのに合理的な解を示してみろ,ということなのかもしれない.
私とて,subgameなのかを,考えることを考えるという寓話で例示したが,ゲームの理論といえば,米中だの,米欧だの,米露だののディールを例に,各国や各地域が有利になろうと,必死でその解を求めているものだろうし,その分,ちゃんとした情報は隠されやすいだろうし,ノイマンやナッシュといった数学史に残るような天才たちによる理論だから,力量不足の日本の環境では,期待しにくい.政治交渉だのの言葉を,ゲームの言葉に翻訳するのも,翻訳者がいないから,みんな適当に憶測を述べる.どんな戦略をとっても,プレーヤーの利得に影響しないなんて,均衡が成立しても,ゲームの成立条件である,ゲームのルール自体を脅かしながら,結局,勝ち負けの材料にするなんてことも,国際間の交渉では起こり得るから,まだ十分に体系化の進んでいないケースに持ち込んで,やんちゃ仕掛けるてことも多発するかもしれない.
ゲーム理論というのは,利害の必ずしも一致しない意思決定主体が,相手の利得を抑えて,自分の利得を最大化させるにはどう行動すればいいかを,数学的に分析する理論ということだから,共謀したり,裏切ったり,脅しかけたり,やばい状況も想定されるから,相当な状況である.パスカルなどを思い浮かべれば,ひょっとしたら,宇宙は,賭けゲームで運命を決めているなんて話にもなるのだろう.マックスウェルの悪魔なら,振り返ってみたときに,解が得られるのか,あるいは,さらに進んだ時に,なんらか閃いて,解が得られるのかは,判らない.私自身が意思決定主体なのか,その悪魔が実は隠れて私をプレーヤーにしているのか,決定できない.振り返るのに要するエネルギーと,先に進んで閃くまでのエネルギーなんて比較できないから.振り返りもせず前に進みもしないことだってありうるではないか.そこで閃いて解が得られることもあり得るかもしれない.得られないかもしれない.振り向けば解が得られるというのも,前に進めば解が得られるというのも,何の保証もないという意味では同じことではないか.しかし,思考が停止してしまっているというより,なんか思考が進展してる気になるから不思議なものである.
他愛もないことであるが,’approximate inference algorithms'とか,'new models based on kernels'とかから勝手に想像すると,佇んでいる状態は,これまでのアルゴリズムが停止して,別なアルゴリズムが勝手に走り出して,正則性などを再生することで,もとのアルゴリズムを再構成する手掛かりを得て,気分は,そのアルゴリズムを進展させているという感じに成る.
<お知らせです> Blogも引越さないといけないということで,
引っ越し先は, https://janpal-blog.hatenablog.com です.
2025年5月末日には,ここのgooブログは閉じられる予定です。