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数学と生命と経済と(2025年)

2025-04-15 10:14:41 | 科学(Science

Book Offで,まとめ買いした本をもとに,時事問題等を絡めて,考えていきたいと思う.憲法関係が2冊,生物関係が2冊,経済関係が2冊で,例えば,経済関係だと,ガルブレイスの,『新しい産業国家』とか『ゆたかな社会・大衆的貧困の本質』である.そのほかには,『国際私法入門』とか,ミルナーの『モース理論』吉岡書店とか,コンピュータ関係の本が数冊である.どうまとまるのかは,保証の限りではないが,どうせ誰もまとめられないから,気は楽である.ひと昔前の本も多いが,書棚から手ごろで,読みごたえのありそうな本を選んだ.

数学の補完用に,岩波講座『現代数学への入門10』, これは珍しくというのか,1000円した.トポロジーとか偏微分方程式とか,数学に疎い私には,ハードルが高いが,そこらは,ご寛恕願うしかない.もやもやとした,集合論と微分方程式の関係とか,CauchyやRiemannと微分形式の関係とか,たどりなおす機会になれば,あるいは,的外れではないのかもしれない.たぶん,岩波『数学辞典』を頼りにすることが多くなると思うが,そうしないと,数学の話など,手も付けられなくなるから.

生物は,エントロピーを食って,生物活動のエネルギーにしているといわれるが(ゲネントロピー),そこにある共役などの関係が,正則性などを手掛かりに(誰でも知っているようなことで, 複素平面Cの開部分集合D上の複素関数f’(z)=lim(h→0){f(z+h)-f(z)}/hが存在して有限であること,それがDの各点で成り立つこと),数学的に説明できるのじゃないか,とか考えると,案外つながるかもしれない.例えば,ミトコンドリアの役割をみれば,ミトコンドリアはまさにそういうためのものではないか,ということが述べられている.

その結果をもとに,どの向きに,経済や社会あるいは環境などを考えていくかとういうやり方もあるのじゃないか,意外とつながる.そういう動機を仮説として,いろいろな時事問題を考えていけば,ある種の説明が与えれるかもしれない.私の問題設定と,そのための勉強用ということで,あれこれ考えていきたいと思う.

私は,数学以前の,ギリシャ周辺の諸島のどれかにいる.紀元前2000年あたりの時代である.どうして, そんな時代のそんな場所にいるのか,目覚めてみれば,芋虫になっていたという小説気分である.ということで,以降は夢うつつの物語である.そんな昔の詳細については,はっきりとはわかっていない.要するに,青銅器時代のヨーロッパとりわけエーゲ海周辺の様子についての,大まかなナレーションである.一つは,なぜ,ポリスといわれる都市国家,共同体国家が,おそらく,ギリシャの衛星都市群のエーゲ海諸島のプレギリシャ文明との交流と征服の果てに,変容して誕生したのか,それは,ポリスは,デーモス(村)が,一つの村が発展したりその数個が結合したりしたものだが,それが,何故,機能的(邑,ムラ)を基本にすることになったのか,あるいは,その過程で,青銅器時代から鉄器時代に移り,機能的な側面が,暴走する,独走する流れになったのか.それが,ギリシャからローマへと,あるいは,中世へとつながるのか.そのとき,数学は,どういう歴史的な刻印を刻んで,誕生したのか,という疑問である.公準や公理から初めて,純粋にやっていくのが数学だろうが,数学も,その時代や場所のいきさつと無縁ではないかもしれない.

覇権主義という思想が,古代ギリシャの試みの中で,どういう経緯をたどったのか,どうして,現代でも,そういう思考から離れられないのか,ということも疑問として,ただちに生じる.単純化してみれば,ムラ(元)がポリス(集合)と闘争的に結びついて,系を動かしていく感じに見えたりする.

ロシアの不可解な戦争意欲についても,共通の要素があるのかもしれない.貧しさの均衡という,あるいは貧困への順応ということに加えて,貧困への抵抗といことが,戦争に取り込まれて,唯一,貧困に抵抗するものとしての生き残りの得られる媒体であると意識されているのではないか.何故,貧困を利用されているのに,徴兵されるのか,などという問いは響かない.そこに戦争があるから,という反応になるのだろう.プリゴジンの反乱も,戦争に行ってなんでもいいからぶち壊してきな,プリゴジンのモスクワへの逆進行なんて,何の関係もないことだから,見て見ぬふりしておきな,的なロシアの肝っ玉母さんの哲学なのかもしれない.とくに,ギリシャの衛星都市の解体,モザイク化に伴って,デーモスが本来は「別れ」を意味し,デモクラシーという言葉では,デーモスのもつ「民衆」という意味で使われている.勝手な解釈だが,「民衆」とは,貧困に抵抗する少数の人々が,最後に活路を見出すのが戦争であり,よりひどい状況へのレジスタンスという解釈もできるかもしれない.でも,本当にそういう希望を実現してくれるのは,経済的な発展だから,プーチンは,それを装う必要がある.これは,中公文庫『ギリシアとローマ』世界の歴史2,とガルブレイス『大衆的貧困の本質』を無理矢理結び付けてみたものである.貧困へのレジスタンス諸君,真の豊かさへつながろう,私一人,机をたたいて叫び出づるものである.啄木じゃないが.

葉桜の 散り行く道にたたずみて この圧倒的自然よ 迫りくる

啄木ついでに,一首.

貧困の極みは奴隷である,というが,貧困の極みは,流動性である,ともいえるのではないか.流動性とは,将来の不確実性リスクに対して保険をかけておきたい,流動性に対する支配権をもっておきたいとする心理と,それを手放すことに対する報酬という意味だが,現在を将来の期待で測る物差しということになるのではないか.将来の期待を実現する条件から,現在はどれだけ乖離しているかを割り引いて考えれば,金利が高すぎれば,そういう人口に対して,将来現世世界が狭すぎるということが生じてしまう,そこらが,奴隷制の変容を生んで,ソロンの改革等を経て,没落市民層奴隷を生んだのではないか.ポリス社会では,国家の影響が大きすぎたのかもしれない.現在的に言えば,債権の暴落という話だろうか.因果関係がはっきりしない面もあるが,どこか,通底する感じもある.

紀元前2000年ごろから始まる,ギリシャやその周辺をめぐる物語は,一筋縄ではいかない,様々な問題を生み出し,様々な工夫を行いながら,次の時代に,徐々に浸透していく的な歴史の一面も描き出しているのかもしれない.

古代ギリシャ以来の自然科学,あるいは,その周辺の影響,とりわけ,数学の変遷を並行して走らせて考えると,幾何学の公準といわれるように,幾何学の公理と同じ意味なのに,区別して使われる.公準はそういう特定の分野の公理,数学一般とか科学一般のものとしては「公理」が使われるようである.幾何学は,とりわけ,実用上の必要から発展していった学問で,ユークリッドの第5公準は実は他の公準から導けるのじゃないかと疑われ研究されたが,第5公準が独立で,他の公準から導けないこと.それと同等なものを公準として採用しても,幾何学として承認せざる得ない.つまりは,非ユークリッド幾何を承認せざる得ないこと,が明らかになって,現代の幾何学につながっている.文化的な教養を,数学のもとになったマーセマ(mathema)として,公式となっていた.数論や幾何学だけでなく,論理学や修辞学,音楽が教養の公式である.

しかし,教養ある市民,といっても,実際には,性風俗の乱れ等,現代から見れば,だいぶ,いかがわしい面もあったようだが,表向きの論述が,結局は,循環論法になって,循環論法と現実の問題の進展との間の確執が生じていることも意識されていたのかもしれない.循環論法をどう脱するか.それが,一見何の進展もなく,暗黒の時代と呼ばれる中世から,ヨーロッパ近世・近代への突破口となったということも,実際の歴史的経緯なのだろう.

『大衆的貧困の本質』では,豊かさを実現した国と,豊かさから遠ざかった国を分かつのは,「移民」である.移民は,豊かさへの充足度の足りない国からの,豊かさへの潜在力を持った人口の流出である.移民先として,アメリカや西ドイツなどが例として挙がっている.大げさに言えば,アメリカやロシアや中国は,豊かな国であり,豊かな国として発展したが,豊かさを充足しえない国に転換して,貧困への順応のみを求める国家モデルとなったのか,部分的な不均衡が熱を持ちすぎて,全体が,肺炎を起こす危険を無視できないほどになったのか,医者の診断に俟つしかない.これまでは,そういう国々は,社会主義や共産主義国家といっていれば足りたが,トランプのおかげで,自由主義国家や俗にいう西側諸国の問題になった.そこらが,西側諸国の発展や改革の契機としてとらえるべき面もあるのじゃないか論の根拠なのだろう.

移民を生み出す国と,移民を受け入れる国が,ともに発展するモデルがあれば,それがほんとのwin-winの関係というものであって,富むものはさらに富み,貧困国はさらに貧しい国になる的な,従来の思考パターンでは,win-winなんて関係は,建て前に過ぎない.この論は,もともと,インドの貧困問題を緩和するためのアメリカの援助計画を調査するためのものらしいが,意外な実証的結果がもたらされたというものらしい.実証的研究は,アメリカのハーバード大学をはじめ,ヨーロッパのアカデミズムを巻き込んだ,協力が必要らしい.米政府との深遠な対話が期待される.

一旦,代数化して,境界を延長していく,という手法が,数学的には大きな成功を収めたらしい.ちょっと思ったのだが,アルキメデスが,ギリシャの周辺で,Cauchyのε-δ論法より厳密な,で搾出法(method of exhaustion)で,微積分学の厳密な基礎付けに貢献していた,というのも,古代エジプトなどの影響もあるのか,その後,オリエントやイスラムの影響を受けて,独特にブラシュアップされてきたのか,紆余曲折を経ながら,最先端では,余剰次元の絡み合いのように,超重力,超大統一諸理論とつながっている.アルキメデスには,人外,デーモンがとりついているという評価があるようだが,機能化を包摂するような面を,当時の潮流と対置させていた感じもあるのだろうか.

個別的であることと,社会的総体として個別化されていることは異なる.A-Pmで,Pmの,財やサービスの生産素材の,外延的及び内包的変動に従って,A(労働力)の編成も変わるわけで,それが,資本の投下,再生産,剰余価値や可変資本への分割,その一部の包摂の循環・回転運動の推進力の一翼を担っている.経済学用語では弾力性とか可変性と呼ばれているようである.

ケインズは,このような紐帯を,一旦,デカップリングして,再編して結び付けようとしたのかもしれない.cと,vとmの一部固定部分は,何の条件もなく流通に投入され,いわゆる,資本主義的に包摂されているではないか.流通もいわゆる固定財も,資本主義には,可変化されて,社会的流通として,隠蔽するではないか.そういうことを利用して,社会主義国がアメリカを略奪してきたとトランプは言っているのだろうか.

私は,俗な社会主義国家など詐欺国家ぐらいにしか思ってないので,中国だろうがロシアだろうが,ならず者資本主義国家ぐらいにしか思ってないので,そういう擦り付け合いはごめん被る.資本主義は,総資本のもとで,生産や消費を巧みに制約したり結び付けながら,全体として,拡大再生産を続けている.そこには,当然,資本主義独自のトリックもあるだろうが,ならずもの資本主義にしてはいけない.そこらに関する詳細は,経済学者の領分だろうが,アメリカがゴロツキ資本主義になれば,ある意味,ショック療法にはなるかもしれないが,自由貿易なんてものは,誰でも手に余ることになる.自由貿易なんて言葉が,古色蒼然とした響きを持ち始めて,かといって,合理的な,国際経済の姿など,誰も持ち合わせていないことがはっきりすればするほど,不確実性におびえ始める.そこらに,隠蔽体質が寄り添う.そんな気がする.

例えば,生産手段を生産する産業では,すべてが,生産部門間だけで完結していて,拡大再生産を維持できるかといえば,実は,消費部門の剰余価値生産をどう可変化するかにかかっている.つまり,生産部門の固定資本部分(c)を,どう消費部門の剰余生産(m_2)で賄うかにかかっている.部門間の流動性をどう調整していくか?19世紀末のアメリカのジャーナリズムの言葉で言えば,「労働賃金の引き下げと長い労働時間,これが,労働者を合理的消費者の栄位に引き上げ,文化と文明の進歩とによって,労働者の手に入るようにされた多くの物品の市場を作り出さすべき,合理的で健全なやり方の核心なのである.」(『資本論(5)』岩波文庫)生産で生み出された蓄積を市場で流動化させろ,それが,労働者が豊かさを享受しつつ,経済を拡大する合理的な行動の核心である,といってるのだろうか.たとえて言うなら,当時,アメ車は日本車より質が高く,消費者のニーズにもかなっている.アメ車が市場を席巻するように,労働者の合理的消費者行動によるライフスタイルを徹底しよう.そうすれば,バカ売れする.売れないはずがない.ラストベルとは,それを限りなく推し進め,衰退していった.さて,21世紀の今日,どういうトリックでラストベルトを再生させていくのであろうか.

そこらは,確か,I_cとかII_cとか、I_(v+m)とか,IとかIIは,資本主義的生産物の総体,それを社会的総生産物というそうであるが,それを構成する,生産手段(第I部門),  消費手段(第Ⅱ部門)として,それらを生産する産業の,固定資本(c), 可変資本(v), 剰余価値(m)を添えて,それらを表している感じのものである.それが,案外難しい.相互に取引もあるし,相互にそういう意味の社会的な役割もあり,それぞれの運動法則もあるから.「貨幣資本は社会的生産においてはなくなる」(同上).それを,どうやって,流通に転化させるか.信用とか金融とかを,さらに,第III部門とする,捉え方,二部門説とか三部門説とか言われる奴だろうが,部門のわけ方でも説が分かれるのだから,なんか,トリックがあるのだろう.トリックじゃ,トリック!

岩波数学講座『現代数学の流れ 1』は,1905年オーストリア生まれのE.シャルガフが,ワトソン・クリック以来の現代生物学のもとを成した,DNAの二重螺旋構造の解明に肉薄した学者として紹介することから始っている.どうやって,我々の目の前にある現象の本質をとらえるか,21世紀ともなれば,我々の目には見えない現象の本質も,科学的な説明がつく何かがあるのじゃないか,という目で見ている.その一方で,何かそれらしい説明のつくものがあれば,「こうした偉大な科学的・技術的な探求の一つ一つを通じて,人間と現実との間の接触点が不可逆的に失われるのだと言ったら,誤解されるであろうか.」(E. シャルガフ)

ユークッリドの『原論』も,現代的な目で見れば,その公理体系は不十分であり,公理・公準の不正使用が認められている.そのことを,明らかにしたのはヒルベルトであって,実に,2000年の年月を経ている.しかも,少数の公理から,複雑な図形の性質を導くという,『原論』の精神の徹底から明らかになったという事実が重要である.現代なら,補助定理なども検討されて,何やら,もっともらしい公理・公準の取ってつけや不正使用もチェックされるのだろうが,意外と,そこらも,体系の豊富さに反映して,意外な事実を導くことがある.そんな混乱に乗じて,社会問題の方でにぎやかしやるような科学者も増えている.科学者の社会的責任なんて言えば,しっかりしてちょで済むが,米中新型コロナ論争ともなれば,政治臭が漂う.

日本の非関税障壁が,アメリカに対してだけでなく,日本国内のアンフェアーな制度にまとわりついているから,そういう面の是正も必要になるから,そこは時間もかかるし,気分手を付けたくないから,アメリカにかかわるような外面だけは早急に是正をかけます.つまり,そういう外交姿勢で臨むしかないという話なのだろう.なんか,そこらは,消費税廃止論や一時停止論とか,物価高,とりわけ,コメ不足が農産物の輸出品目化のひずみとか,日本農政の二枚舌政策問題となりかけている現在,なんか,煮え切らない,制度的なひずみ温存論調になり替わってしまっている.そこらが,どうゆう議論やねん的な,どっち側向いた議論やねんてきな分りにくさを演出している.コメは,牛丼にしろカレーライスにしろ,わざわざ,カリフォルニア米かってつくるわけはなく,あるいは,お店でも,コメは国産だろうと外国産だろうと,おいしい国産米でなくても,具材でごまかせば,売れるわけだし,肝心の具材を,ネズミ肉や猫肉にするから事件化するわけだし,ばか舌日本人の政策にしたがる感じもする.食の味より銀座のホステスの味の方が優先されるとか,あるのだろうか.

私は,解析学なんて,そうとも知らずに,高木の『解析概論』で読んだ経験しかないが,なにせ,数学IIBまでしか習ってないないから,高校では,文系コースと理系コースに分かれていたし,したがって,数学のIIBより難しいことは,趣味の範囲のことである.そいうことで,「アルキメデスの原則」というのは,わかりにくい.ε<a/n (1)なのに,なぜ,「εとaが与えられた正数ならば,nε>aとなるような自然数nが必ず存在する」,なのか.これが実数の性質なのか? (1)を面積の関係として考えれば,ε=0とならざる得ないが,4^n> n をもちいて,ε<1/4^n・a<1/n・aだから.点の面積の中の部分領域は面積0だからだろうか.

『解析概論』での説明によれば,放物線とその弦で区切られた部分AOBの面積Sは,三角形OABの面積の4/3倍である.その三角形の面積を取り除いた放物線と弦で区切られた部分の面積から,さらに,T_1=T/4,T_2=T/4^2,  …なる三角形の列T_1, T_2,...を作り,

S=T(1+1/4+1/4^2+...)=4/3・T

しかし,そういう操作をいくらつづけても,搾り出すというのか,取り崩すというのかは,結局,ちょっとだけは隙間が残るではないかということで,

|S-4/3・T| < 2T/3・1/4^n

を得て,|S-4/3・T|=0, したがって,S=4/3・Tを得る.|S-4/3・T|=ε,2/3・T=aと書けば,ε<a/n. アルキメデスの原則を承認すれば,ε=0以外には矛盾が生じるから,ε>0に,ε=0を認めざる得ない.という感じで説明されている.

よくわからないが,「一つの集合Sに関して或る点Aが集積点であるとは,点Aにどれほど近いところにもSに属する点が無数にあることをさしていう. ただしAが集合Sに属するというのではない」.とか,「有界なる無数の点の集合に関して, 集積点が必ず存在する(ワイエルシュトラスの定理)」と通じるものがある感じがする.

積分を教わるとき,細いリボンを考えて,その幅を無限に0に近づけた極限の値としてある区間の積分の値,面積が求まると教わるものだったように記憶しているが,これが,アルキメデスの精密論法を使って,f(x)の原始関数F(x)とそれに対するf(x),  F'(x)=f(x),あるいは,F(x)=∫f(x)dxとより一般化される.これを,集合の間の関係とみれば,より一般的になるのだろうか.若干の不連続点の可能性には目をつぶって,関数の有界性のみに依存すると考えれば,ということは,不連続点での均しをどう連続させるかにしたがって,解析が制約されるということだろうか.あるいは,そのような疑問も均されるということだろうか.どこに,均されないことが特徴として出てくるのだろうか.それにしても,文系コースと理系コースに分かれていたからとか,余計な言い訳かもしれない.だからといって,数学の性質が変わるわけでもないから.「零はすべての始まり.零がなければなにも始まらない」,コナン君の名台詞だが,ここでの零は,テニスのラブオール,「愛」がなければ何も始まらない,という,アニメのセリフを思い出した.b/aでaは0でない.a=0のときは,定義されないか,便宜的に∞とするか,つまり発散する(有限の値として出てこない)かだから,しゃれた言い回しだが,まあ,そういうものだろうと納得させる.そういう解釈以外にもあるだろうが,実際上,使われることはほぼないように思える.オールが少し気になるが.日本人だったら,あれ違うんじゃないとすぐ気づきそうなことも,出来の悪い中国人に合わせて,ごり押しする.つい熱くなって,こんなこと言ってしまうが,中国人に合わせていたら,阿保国民になるのも道理というものである.中国人はそれなりに賢いが,最近,阿保ぽいのがのさばっている.私が,中国のすごさを認めるのは,書である.カリグラッフィ,中国の書はやはり一味違う.美しいだけなら,日本の書も負けていないが,中国の書の持つ神秘性は一塩である.それを,習近平だの中国共産党だのどこのに感じるというのか.そんな感じなら中国は,台湾に飲み込まれればいい.中国が台湾の属国になるなんてことも,選択肢としてはあるではないか.大した政治でもないの,どうこう茶々入れている感じより,流石中国という,誰にもまねできない個性を持って,世界に問いかける,そんな国でないなら,大してどうでもいい.

米中対立について,大国のエゴといえばそうなのだろうが,新たな経済的な問題が醸成されて,これまでの対策では解決できない問題が生じて,世界がより緊密に協力して解決にあたる必要が高まっているのとは,分断だの一国主義だのに向かっているという,真逆のニュースが多い.そこらを,どう主導権をとっていくかという,手練手管的な面が強調されて,トランプ現象なるものになっているのだろう.そうする方が,日本で言えば,財務省問題のような内向きの問題を,外に向けられなくなって,いろいろ噴き出しているのだろう.ニューモンロー主義といえば古臭い響きがあるが,何らかの移行局面にともなう調整局面といっても,どこに向かっているのだろうか.戦争だ,革命だということだろうか.それとも国際的な新たな仕組み・制度の創設とか.結局,国民だましと,ごり押し専門のような国では,詐欺と陥れのような国では,時代の流れに乗れない.難しそうだが,そういう創造的な面とやましい面がごちゃごちゃな扱いになっている.風見鶏とご都合主義.トランプ関税が,そういう踏み絵なら,しっかり態度を示さなけばならない.幸いというか,私は時事問題に疎いので,かっこいい経済用語あるいは金融用語など使わずに,つまりはどういう話やねん的に考えるが,とりあえず,大きな流れは把握しておきたいと思う.

竹中が,万博で何百億円か中抜きしてるという話が,myYouTubeではみかけるようになった.早い話,万博のお金を横領してるとか,横流ししてもらっているとかいう話だから,仕組みに付け込んだ泥棒稼業で財を成しているという話だから,ミイラ取りがミイラになり果ててしまっているという話になるのだろう.真面目に汗流す奴は馬鹿で,銭もってるくせに詐欺横領,泥棒に手を染めてる奴は,賢くてごりっぱてな世相の反映だろうか.もしそうなら,竹中もその取り巻きもムショの飯食って反省すればいい.案外,中国の大物スパイとか取り巻きにいるのかもしれない.嘘とごり押しで他人に転嫁なんて,中朝の特徴か,日本の因業連中の特徴だから,因業資本主義論者なんだろうか.一見真面目を装った詐欺師なんてのは,世間では雑魚詐欺連中の特徴だから,竹中が日本経済を考えているのか雑魚詐欺連中のお手本なのか区別がつきにくい.バラエティ報道のコメンテータの何とかの犬と呼ばれる連中は,雑魚詐欺師竹中と変わらない.うまいことやれば,何百億とか労せず転がり込んでくるんじゃないかとか考えていそうな連中ばかりである.語るに足りない連中のもっともらしく見せたいという演出である.ビルゲーツのように,私財を寄付して社会貢献なんて考える連中なわけないし,その真逆みたいな連中だから,兵庫の百条委員の議員みたいになりたいのだろう.詐欺師同士で.

どちらも,資本循環の一断面ではあるが,P...P'とG...G’の機能と役割についてである.利潤と信用の機能と役割ということであろう.可能的商品と利子付き貨幣という感じであろうか.単に商品といえば,無媒介的商品であって,そういう差異を考えないが,そういう資本の形態が,無媒介的に現れるものとして見えるわけである.資本の総過程として,はじめてそのような物神的な性格が解析されるという,皆さんの嫌いなマルクスの『資本論』である.ただ嫌われているというだけでは話が進まないので,「信用逼迫(クレジット・クランチ)」の問題として考えてみたらどうだろうか.「しかし,日・米・英の金融自由化およびグローバルなデレギュレーションは, まさにこのケインズ政策の根底にくさびを入れて崩壊させ, 資金の流れを自由化・世界化することにあったにちがいない. その結果,  資金の流れをもう一度一国の中央当局のコントロール下に抑え込み, 一国のリセッションを回避させるために有効な政策(有効需要拡大策など)をとることは, きわめて困難になってしまった. かくして一国資本主義的なケインズ政策は, 再起不能の打撃を蒙るにいたったものと思われる」.(『複合不況』,中公新書) そういう意味では,アメリカの崩壊は,一国主義的な政策からの移行の模索であって,むしろ,日本の経済が世界から取り残される度合いを表しているのかもしれない.それを,日本の非関税障壁といっているのかもしれない.

自然人口に対して,経済人口というか,目的人口というのか言い出したら,殺風景な共産主義的人口政策のようになるが,資本の本性として,ターゲット人口として,乖離していくなんて想像すれば,そうとも思えない連中が,いつでも,そのターゲットの構成員であるように思いこみたい動機が,上級国民とか,市場の勝ち組てな表現で,アピールされるのだろう.しかし,本当はどうなのかは,誰も知らない.相対的過剰人口なんて制約で,変な意識と窮屈なご都合でやり過ごしているという感じに見える.これも一種の選民思想というものだろうか.儲けられる連中から,独立して,そういう運動体になり始める.極右化とかいう風潮も,そういうバーチャルな帰結として,先行されている現象のように見える.それを問題解決の手がかりとして考えるということと,そう思い込むというのは別ではないか.

単純に,利潤は利子と企業者利得からなるが,利子も利潤から質的に転化して,それぞれ独自の運動体になる.G...G'では,G-W...P...W'-G'と違って,実際的な時間的な制約から自由となり,貸し借りの技術的な取り決めによる形式的な関係としてのみ,運動しているように見える.では,そういう,G...G’から分岐して,質的転化を遂げて,独自の運動法則に従うようになるものとは何だろうか.ビットコインだろうか.バーチャルなんたらだろうか.そこでの,人口とは,どういうものとして捉えられるのだろうか.バーチャルでなければ,ディールだろうか.キリスト教のような宗教だろうか.GAFAMとかGAFMAXというようなところで,資本の未来を思い煩う立場にないので,金持ち世界の出来事として見逃しておけばいいのだろうか.現実経済に内在する,仮想現実としての経済なんて感じなら,悩ましい現実だらけで,誰も答えを持っていないということになるのだろう.資本主義なんて誰もわかりはしないのだから,適当に言ったもん勝ちである.

現代経済の判りづらさを,時事的な問題に照らして読み解いてみようという試みではあるが,ごく一面的な関係をみているに過ぎないのかもしれない.「その活動領域が流通過程に過ぎないとはいえ,なお再生産過程内における機能資本でありそういうものとして平均利潤の分与にあずかる商業資本に対して,生産過程にも流通過程にも機能資本としては関与せず,それゆえにまた,それ自体しては全く如何なる意味でも再生産過程内には関与せず,再生産過程外にあって,社会のいっさいの遊休貨幣資本を動員して再生産過程の流動化と拡張を媒介しつつ,それに寄生し吸着し,利潤の一部を利子として取得するところの独自の資本範疇たる利子生み資本------それは「価値を生む価値」・「貨幣を生む貨幣」としての資本の最も端的でかつ無概念的な形態である------が,本章の考察対象である」(富塚良三『経済原論』,有斐閣大学双書).現代社会では,「競争と信用」の現実体つまり銀行とか証券のことだろうが,もう一つ,最近問題となっている,オレオレ詐欺とかが思い浮かぶかもしれない.詐欺の方は,それを装って,とりあえず,果実(現ナマ)だけいただこうという調子のいいことだけ考えてやっているのだろうが,大阪万博の中抜きとか,電通とか,竹中とか,維新とか絡むと,付け入られることになるのだろう.メディアもそういうことになると大合唱じみて,組織連合詐欺のような感じになるから.さらに,トランプのディールとか.ロシア・中国の大国主義的な略奪行為とか.そこらがバレそうになると,暴走族の仲間意識のようなやらせで,例えば,SNSなどを敵役に仕立て上げる.そして,誹謗中傷を受けて,命の危険にさらされているというような,被害者を装う.テレ朝とか.仲間意識自体が悪いというのではないが,悪事隠しだから,というわけだから.

資本の絶対的過剰生産とその中での資本の希少化---競争.単に自由な競争といえば,傾向的に恐慌に導かれるわけだから,健全な自由競争を通じて,そのような傾向的法則をコントロールして,うまく恐慌などを避けて,改革していく.そこらが摩擦を起こすとき,世界的なリーマンショックだの,経済システムの暴走が問題とされる.インフレと物価高という問題も,そういうリスクの高まりとそのリスクへのコストという面もあるのかもしれない.それが,欧米でも限界に達しつつあるという報道もあるが,どうなのだろう.こういう論だてを嫌う向きもあるが,それは結構なのだが,どうやって,立てられた問題を解決できるのだろうか.解決策があればいいが,とりあえず嫌っておけばいいというのは,無責任である.とはいえ,経済プロパーでもないので,自分用の勉強がてらの疑問である.チャチャと否定されるかもしれないが,問題なのは,実質的な解決を提示できているのかということだから,どうなんだろうと思うわけである.そういうの多いから.水面下ではやられているのかもしれないが,世界経済会議でも特別招集して議論を突き合わせるてなことも必要かもしれない.突き詰めていけば,結局そういうことにならざる得ない感じはする.そうこう言っているうちに,中国などの暴走資本主義に付け込まれるなんてなれば,皮肉な話である.こいつら,どっちつかずの社会主義者じゃないのかとか,もと暴走族とかハングレのなれ合いじゃないのかとか,面白そうである.私は,日本経済の井戸であり竹中であるなんてのもいそうだが,おっさんOBとか.

なんか,井戸兵庫県政とか万博と竹中とか,事情に詳しくないものから見れば,何があったんだという疑問しか残らない.井戸県政に関しては,俗にいう水増し公共事業とか,竹中に関しては,親族企業を介して中抜けとからしいが,実際どうなのか,井戸ちゃんも竹中ちゃんも,私には関係ないから,むしろそういうことがあれば,真実を明らかにするために,その解明に協力をおしまないとか言えば,物事すっきりするはずだから,そういうもやもやも霧消するはずである.それを,パワハラとかを利用して,目を向けないようにしようとか,ほんとは,県職員とかへのパワハラなんぞ微塵も問題視してないのに,そこらほじられるとやばいとかいうことだけで話題にしようとしている.その装置の一つが,オールドメディアといわれるやつで,SNSは勢いでばらしそうだから目障りである,てな感じだろうか.それにしても,報道活動家がオールドメディア側だったり,わかりにくい感じが残る.政治屋・行政活動家の智ちゃんとか,変な接点が生じてしまう.一種のねじれではなかろうか.報道活動家と政治屋・行政活動家は,互いを利用し,利用されながら利用しようという関係なんだろうか.もちろん,そういうことが問題となることは,理解しているのだろうが,中国とかの後押しで,そっちに向いてしまうということもあるのだろうか.斎藤知事については,感じ律儀そうだが,まったく瑕疵がないかどうかは,判断していない.県職員との意思疎通とかいってるから,その周りのハラヅモリに対して疎そうに聞こえるわけで,youtubeでみて,視聴者も閲覧者も無視して,暴走する偏向報道等をみれば,闇の影響が警察にまで及んでいるとか,とすれば,その裏に,中国等の闇勢力が絡んでいるとか,問題の受け止め方に,溝ができるわけである.報道側の編集とかいうが,常識的なリテラシーもないわけだから,改竄とか捏造の類ではなかろうか.報道が捏造や改竄して,それがそのまま真実報道だいう傲慢さ,あるいは,そこにチェックをかけない杜撰さに,優秀な連中だろうから,気づかないほうがおかしい.律儀に,真面目な編成しても,おいしいところはないから,うまい汁吸える方に,捏造も改竄もできるではないかということに気づいてしまったのだろうか.世間は昔から気付いているが,頭の巡りの早い報道人にとっては,新発見なのだろう.一般人への聞き取りも,なんか,カルトの信者ぽいのだけ選んでやらせやってるのじゃないかとか,偏向報道とカルトあるいはカルト資金てな裏がありそうである.そいうことをチェックするのも編成の役割ではないのか,そこらは,チェックにかけないてな体裁で,やってるのだろうか.偏向報道する方は,そういうことを利用してやってるのだろうか.

ハーバード大の留学受け入れ取り消しとかも,むしろ,日本の大学が中国等からの受け入れをやめて,当然,賛否両論咲き乱れるだろうが,お手本を示してやればいい.まじめな留学生等には申し訳ないが,なんか,大学の悪しき実態の隠れ蓑に留学生とか,学問の自由とか口実にしてる感じが強い.メディアの言う世論もおかしくなるし.実際,学問の府ではなくなっているから,偏向報道の中朝のヒョイデ工作おじさん的なのが,我学問なりと勝手に宣伝している感じになっているのじゃなかろうか.アメリカではトランプ,日本では胡散臭そうな知識人が,反知性主義者であって,しかも,自分の意見なんてないから,その時々の都合に合わせてるだけの連中だから,いうだけ無駄になるのである.当然,私は,知性というか学問には,それなりの敬意をはらっているが,偏向報道とか,早い話,詐欺番組とかゴロツキ番組という話だから,そういう連中の画策には同調できないというだけの話である.テレビの番組だけじゃないが.口真似だけ知識人的なのにはうんざりだが,まじに喧嘩させればいいのである.特に日本では.そういう意味では,トランプがんばれである.

ハーバード大生は,2×2もできないから,算数の補習が必要だとか,マジかもしれない.といっても,ゲーム理論とか,マトリックスゲームとか,アメリカが得するのに合理的な解を示してみろ,ということなのかもしれない.

私とて,subgameなのかを,考えることを考えるという寓話で例示したが,ゲームの理論といえば,米中だの,米欧だの,米露だののディールを例に,各国や各地域が有利になろうと,必死でその解を求めているものだろうし,その分,ちゃんとした情報は隠されやすいだろうし,ノイマンやナッシュといった数学史に残るような天才たちによる理論だから,力量不足の日本の環境では,期待しにくい.政治交渉だのの言葉を,ゲームの言葉に翻訳するのも,翻訳者がいないから,みんな適当に憶測を述べる.どんな戦略をとっても,プレーヤーの利得に影響しないなんて,均衡が成立しても,ゲームの成立条件である,ゲームのルール自体を脅かしながら,結局,勝ち負けの材料にするなんてことも,国際間の交渉では起こり得るから,まだ十分に体系化の進んでいないケースに持ち込んで,やんちゃ仕掛けるてことも多発するかもしれない.

ゲーム理論というのは,利害の必ずしも一致しない意思決定主体が,相手の利得を抑えて,自分の利得を最大化させるにはどう行動すればいいかを,数学的に分析する理論ということだから,共謀したり,裏切ったり,脅しかけたり,やばい状況も想定されるから,相当な状況である.パスカルなどを思い浮かべれば,ひょっとしたら,宇宙は,賭けゲームで運命を決めているなんて話にもなるのだろう.マックスウェルの悪魔なら,振り返ってみたときに,解が得られるのか,あるいは,さらに進んだ時に,なんらか閃いて,解が得られるのかは,判らない.私自身が意思決定主体なのか,その悪魔が実は隠れて私をプレーヤーにしているのか,決定できない.振り返るのに要するエネルギーと,先に進んで閃くまでのエネルギーなんて比較できないから.振り返りもせず前に進みもしないことだってありうるではないか.そこで閃いて解が得られることもあり得るかもしれない.得られないかもしれない.振り向けば解が得られるというのも,前に進めば解が得られるというのも,何の保証もないという意味では同じことではないか.しかし,思考が停止してしまっているというより,なんか思考が進展してる気になるから不思議なものである.

他愛もないことであるが,’approximate inference algorithms'とか,'new models based on kernels'とかから勝手に想像すると,佇んでいる状態は,これまでのアルゴリズムが停止して,別なアルゴリズムが勝手に走り出して,正則性などを再生することで,もとのアルゴリズムを再構成する手掛かりを得て,気分は,そのアルゴリズムを進展させているという感じに成る.

<お知らせです> Blogも引越さないといけないということで,

引っ越し先は, https://janpal-blog.hatenablog.com です.

2025年5月末日には,ここのgooブログは閉じられる予定です。


2024年(令和6年)本当に新時代の幕開けになるのか?--- (3)

2024-10-16 09:54:16 | 科学(Science

2024年はまだ2か月半あるし,あるいは,ウクライナやイスラエル・中東をめぐる動きも結節点を迎えそうな報道もあるし,間を置かず日本の衆院選やアメリカの大統領選も結果が明らかになっていく日程である.久米宏ばりのあってこブームもまだまだ余熱が残っているらしい.世の中そう変わりばえしないというのはそうだと思うが,その傍らで,いろいろなんやら浮世離れしたニュースが飛び込んできては,感覚的なずれに戸惑いながら傍観している的なことも相変わらずである.問題がどう深刻だろうと画期的な内容をはらんでいようと,御厨東大名誉教授のように,園遊会にでもお呼ばれあればそんな問題など紙くずに等しい的なのが日本での名誉というのだから,お飾りとはいえ,皇族の質も知れたものである.一部たまっごちフリークの推しで,たまごっちがAI大賞に燦然と輝くようなものである.が,そういうことを希う連中がいても別に悪いとは思わない.あくまで私の私的な感想ということで,反発上等である.園遊会は,日本会議とか右翼気取りのちょっと支離滅裂な連中が皇族取り込めるたとプーペイに自慢できる限界獲得物だから,あるいは,およがせているのかもしれない.こういうところが,感覚的で客観性に欠けるというご指摘はもっともだが,まあ,お互いさまで,痛み分けということで.別に客観的根拠というものは口数の多さや,ぽい語り口に等しいというものでもなかろうから,言論世界では,「ごもっとも」というのは痴れた論者だが別にあいてにするほどでもなから,好きなように言ってればいいという意味らしいから,格確定というお墨付きである.そういう裏構文で選挙討論,選挙演説,何も変わっていない.いつも通りの論調,政治家のアピールである.麻薬パンツ事件もキャラが愛嬌で済まされるが,珠緒は肯定的な証言をしていない.じゃ別の誰の証言が得られるのか.政治家の選挙演説の内容である.私は右翼だからこんなことが気になり結びつくのか?ところで右翼ってどういうんだ.

マルクス『資本論』,別名社会主義経済学について好意的論述をしているから危険思想だ的な感じなら,ケインズ経済学,別名マクロ経済学は右翼的だから,たぶん,芸能人や毀誉褒貶だけで実績のない学者というような世の中の退廃に関係する連中でちょっと注意信号的な,すると,私は危険思想の持ち主で,ちょっと注意信号ということになるわけだろうか.どっちにしろあまり実感はないが,世間的にはそれでフリーパスなのだろう.というわけで,私もただちょっと勉強がてらに多少の文献を読んだ程度だが,最近の若い連中も俗論まみれで,たぶん,マルクスもケインズも古臭いし,読書したりそういう議論にかかわるのもうっとうしくてやだなという連中の憂さ晴らしなのだろう.そういうことは,まあ,ある意味どうでもいいが,石破総理の下で(なんか私のおかげで逆転総理になったような感じに思えるが),日本が変わるとか,日本の経済体質が変わるとか,自身のしでかし退廃選挙に色を付けようとしているが,こういう時は,実質,国民だまし詐欺選挙というのがこれまでの日本の選挙だから,そんなことはもうゆるしませんでぇ選挙にできるかどうかが目印となる.考えてみればわかるように,本当に社会が変わり,経済が大きく変わるなら,それに説得力を持つ道筋を示すのは,よほどプロの役割であって,気分屋や話題便乗のやらせ評論家の分ではない.ケインズでもイギリスに背かれて,イギリスも新興覇権確立を企てるアメリカにそそのかされて場当たり的な失策に出たのじゃないかというようなことの前に敗北したわけだから,日本は覇権国ではないが,日本にとっての分水嶺に責を負わされることになるわけだから.マルクスもケインズも結構ボンボンな家庭に生まれ育って,キラキラネームではあるが,経済学の異端的存在でしかも巨星で,キラキラな割になんとも苦労の多い人生だったらしいが,最近は,変にヒステリックな連中が多くなって,たぶん,生成AIのコラージュコピー大経済学者しか期待できない状況になってしまっているのだろう.今年のノーベル経済学賞は実証研究の成果に対して贈られたそうだが,そうすると,統計的で実証的な経済をうたい文句にしていた計量経済とかは,あまり実が上がってないという日本の実証フェイクが証明されたということでもあるのだろうか.統計を駆使しながら実証を重んじることは正しいのだろうが,古臭いご都合の道具としてしかなされてこなかったという日本的フェイク実証主義がはからずも実証されたことになるのだろうか.日本のマルクス経済学は理屈こね回すだけで,実証経済学は実はご都合日和見フェイクなんてなったら,そういう運命しか日本には選択肢がなくなるというものであるが,そういうのでもタコ(多個)壱できるならそうやってみるしかない.

最近の話題で気になることといえば, 確定的な情報もない以上,日程の決まっているものはすぐ結果だけは知れることになるが,タイトルはそのままに,メモっていけるのじゃないかというわけで新たなページに入ることにした.

突拍子もないが,整数論というと体系的なものは高木貞治著『初等整数論』しか読んだことがないのだが,しかも,若い頃とかじゃなく,だいぶ歳いってからやっと入手できたという次第である.『解析概論』は読んだのが10代のころということもあってか,あれこれ想像しては,ちょっとテーマ以上の数学世界への扉をいくつもあけていくようで,新鮮味も感じたが,『初等整数論』は,歳行ってからの読書ということからなのか,整数論がむしろそういう基礎的性質を持っているからなのか,すごく深く潜らないとなんか新鮮な発見は得られなそうな感じがした.数学とはそういうものなのだろう.言葉で説明するのは難しいので,よく知られている定理とその証明をみてみる.雰囲気的にわかるのじゃないだろうか.

[定理1.2] aは任意の整数で,b>0ならば,

    a = qb + r,  0≦r<b, 

を満足させる整数q,rがただ一組に限って存在する.ただし文字a,b,q,r はすべて整数を表すとする.

[証] bの倍数を大きくなる順に並べたとき,実数xの全範囲を

             qb ≦ x<(q+1)b

であるような無数の区間に分けることができる.aはそれらの区間のどれか一つにだけに属することになるから,

            qb ≦ a < (q+1)b

となるqが存在する.そこで, a-qb = rとおけば(つまり,a=qb + r),(qb-qb ≦ a-qb <qb+b-qbだから)

   0 ≦ r <b

このようなq,rの組がただ一つ存在する.

整数の加減乗除を考えると,除算のときだけは必ずしも演算の結果が整数とならないものがある.そうすると定理1.2は整数の除算の結果がまた整数となるものだけから証明されるわけだから.それに,いきなり実数xとか出てくるわけだから,ある意味戸惑う.

一次不定方程式(整数係数不定方程式をDiophantus方程式,その整数解を求める問題をDiophantus問題という)の次の節にはあこがれの「素数」が来る構成になっているのだが,一次不定方程式の解法の例を見てみる.

[例]   32x + 57y - 68z =1

を満たす整数解をすべて求めよ.

まず,

x,y,zの整数係数の中で絶対値が最も小さな32をとって,

    32x + (32×2 -7)y -(32×2 +4)z =1

              32(x + 2y -2z) - 7y -4z= 1

             x' = x+2y-2zと置けば

     32x' -7y -4z =1

   同様に,zの係数4をとって,

    (4×8)x' - (4×2 - 1)y -4z = 1

            4(8x' -2y -z) +y  =1

            z'=8x' -2y-zとおけば

    4z' + y = 1 ,よって,y=1 - 4z'

            これを,z' = 8x' -2y -zに代入して,

            z' = 8x' -2(1-4z') -z

            z = 8x' +7z' -2

           これを,また,x'=x +2y-2zに代入して,

            x'=x+2(1-4z')-2(8x' +7z' -2)

         x = 17x' + 22z' -6

   これで,x,y,zを任意の整数をとるx', z'で表す式(一般解)が求まったから,問題の式のすべての整数解が得られるのである.というように,ちょっとまとめてはみたがという感じである.

しかし,そのままま代入しても1=1しかでてこないから,補遺1)での解説によれば,不定方程式ay - bx =kの一般解は,

解の一つをx0, y0とすれば,(a,b)=d(最大公約数)とすればa=a'd, b=b'dとして,

           x=x0+a't,   y=y0+b't

で与えられる.tは任意の整数.

問題の不定方程式と,もう一つの不定方程式3x + 2y -6z =2が与えられているとして,問題の不定方程式の一般解の式をもう一方の方程式に代入して整理して,x', z'だけの式を得るから,x', z'をtを使って表し,x,y,zをtだけの式で表すことができる.そしてそれが不定方程式の一般解である.tに任意の整数をとれば具体的に数字で示される整数解が得られる,というような手間がいるようである.その心は,ちょっとよくわからない.不定方程式論の理論については述べないから自分で調べてくれやという前置きもあるが,現代的な話題を交えて書いてあるような書籍があれば興味が引かれる気がするが,数論のブリコラージュになれそうではある.数学の問題を巧みに組み合わせたり,発見的に使って,難なく解いてしまうような達者(ブリコルール)が器用仕事(ブリコラージュ)をこなしていく感じだろうか.生成AIが,今時のアイドル以上にそのキャラ独自のキュンキュンな表情を作れるとからしいから,天才数学者もAIが作り出せるかもしれない.例えば,行列式の計算規則とか,行列式表示とか.

こういう時に参考にするのは,岩波『数学辞典』しかないが,現代数学の粋(すい)となるような結果の数々が唐突に挙げられていたりして,気分的にはわかった気になるが,実際はさっぱりわからない.『数学辞典』では,話題のabc予想も「不定方程式」の項目の一つになっているが,また,それによると,Diophantus(紀元3世紀頃)からフェルマ(17世紀),Euler, LagrangeからGaussへ,(その結果の2次体のイデアルや単数の理論への翻訳をへて)現代の代数的整数論へと受け継がれ,群論や圏論,表現論など多岐にわたる影響をもってるらしい.直角三角形の3辺の長さx,y,zに関するピタゴラスの定理x^2 +y^2 = z^2の整数解についてのBrahmagupta(7世紀頃)の結果,x=k(m^2-n^2), y=k(2mn), z=k(m^2+n^2)は,いかにも便利そうだし,察せられる通り,フェルマーの最終定理との関係も深いわけだろう.『初等整数論講義』の構成とほぼ同じ感じだが,高木の本には『代数学講義』というのもあるから,三部作『初等整数論講義』,『代数学講義』,『代数的整数論』なのか,4部作,『解析概論』を加えたものなのか,そういう数学史的な背景があるのだろう.『代数学講義』は書店の棚にもあったが入手しそこねている.

雰囲気的に感じは分かるんじゃないかほどにはコピペできてると思うのだが,所詮コピペの継続になるが,『数学辞典』から,コピペ盗用を続ければ(所詮,自分用の備忘メモだから.数学用語は数珠繋ぎで,たどっていかないとわからなくなるから),

不定方程式(Diophantus方程式)を解くとは,整数係数の多項式を0と置いた連立方程式

                        f_i (x_1,x_2, ...... , x_n)= 0   (i=1, ...... ,m )

の整数解(x_1, x_2, ...... , x_n)∊Z^nを求めることである.一次の連立不定方程式は単因子の理論(→可換環)を使えば,すべての解を求めることができる.2次の単独の不定方程式についても,C. L. Siegelによりすべての解を求めるアルゴリズムが求まっている.

(1) 与えられた不定方程式が解をもつかどうかを有限回の手続きで判定できるか(そのようなアルゴリズムは存在しないことを証明.1970年,  Matiyasevich).

(2) その解の個数を求めること.

(3) その解をすべて求めること.

(4) その解の性質を調べること.

など,が主な問題である.そのために,それらの問題が解けるような面白い不定方程式を見つけ研究することが課題となる.

[単因子] Rが単項イデアル環でさらに整域であるとき,環RをPID(principal ideal domain,  単項イデアル整域)であるという.PID R上の(n,m)行列Aに対して,R上のn次正方行列X, m次正方行列Yで,|X|, |Y|がRの単元(可逆元ともいう. 逆元を持つ元)で,XAYの対角成分b_11, b_22, ...... , b_ss (s=min(m,n))以外は0で,b_ssR⊂  ...... ⊂ b_22R ⊂ b_11Rを満たすものがとれる.b_11, b_22, ...... , b_ssから0を除いたものを行列Aの単因子(elementary divisor)という.イデアルb_11R, ...... , b_ssRは行列Aのみによって定まり,X,Yの取り方によらない.

[Euclid環] 整数環Zは,ユークリッドの互除法から示される通り,PIDであるが,一般化してEuclid環の概念が得られる.環RがEuclid環であるとは,Rヽ{0}から(ベキ零とか),適当な整列集合Wへの中への写像Φで,a,b∊R, a≠0なら,b=aq + r であって,r=0またはΦ(r) < Φ(a)となるq,r ∊Rが存在する,ときをいう.記号ヽは差集合AヽB=A-Bを表す記号だが.a≠0にたいしてあるb≠0が存在して,ab=0あるいはba=0となるとき,aを零因子という.a^n=0となるaをベキ零元という.行列の演算ならわかりやすいということはある.

10/28 衆院選で自公保守系連立政権過半数割れ.そして,政治もカネも,物価も賃金も目くらまし.悩む石破はカムフラージュにはいいシニア役者に変わる.野田もそいう演出に貢献ということで,与野党とも化粧が崩れる.みたいな今後が予想されるということだろうか.日本は変われなければ衰退し滅ぶ,それは,日本企業にとっても衰退や苦境に転ずるフラグがったているという見解もあるが,つまりは,成り行き任せで,その都度いいわけしてやり過ごす.政治のおごりというが,やり過ごして,オレオレ詐欺連中(あまり質の良くない政治評論家とか経済評論家とか)を既存の装置に忍び込ませて,自分たちは傍観者で,裏でにんまりしている,ということでもあるから,「おらあ,国会議員様だ」というようなポーズをとる必要はない.そこを国民は見誤る.そして,参院選でも惨敗する.という今後が見えるのだろうか.円安に動いたり,株も下げから上げに転じたり,方向感の定まらない動きだということらしいが,都合のいい解釈になるようには動かない.選挙に強い自公では暴落するかもしれないといううごきでもあるから.そのために,自民公明は議席を減らし,野党は野党でいられる役割を果たした選挙という評価になるだろうか.市場は円安株高がいいという判断になるわけだから,日本の選挙なんて影響はもともと限定的だろうが,直近はそうだが今後どういう動きになるのだろうか.

ところで,初等整数論からどういう風に深く潜るのかという手本は,やはり,Gaussなのだろう.例えば,二次不定式論の最初の方で,ax^2+bx+c=0という二次方程式の判別式D=b^2-4ac,そのとき二次方程式の2根はθ=(-b+√D)/2a, θ'= (-b-√D)/2a(これらを互いに共役な無理数という)をめぐって,  考究されているが,ちょっと思ったのだが,二次の無理数(Dが平方数でないときの二次方程式の根,その根が実数でも虚数でもそう呼ぶ)の連分数展開はゼータ関数, もちろんまんまではないにしても,なのかという感じがするわけである.そうすると,オイラーのゼータ研究から,Gaussがその根拠を探求していった結果が展開されているということだろうか.といいつつ,私の根拠は勘でしかないが.詳しい話は措くとして,勘が生じたのは,判別式ごとに類別して,「ωの連分数展開において,終項は結局判別式Dに属する簡約された(二次の無理数ωとそれに共役なω'について,ω>1, 0>ω'>-1という不等式を満たすときをいう)無理数のみになりそれらは有限個に限って存在する.」「同一の終項が再びあらわれるならば,部分商は一定の周期をもって循環するから,二次無理数は循環連分数に展開されるという定理が証明されたのである」.

簡単な例として,332/87を連分数展開せよという問題を考えれば,よく知られているように,

332 = 3×87 + 71 (a = q0×b + r0)

87 = 1×71 + 16     (b=q1×r0 + r1)

71 = 4×16 + 7       (r0 = q2×r1 + r2)

16 = 2×7 + 2         (r1=q3×r2 + r3)

7 = 3×2 + 1           (r2 = q4 ×r3 + r4)

2 = 2×1 + 0           (r3 = q5 × r4 + r5(=0))

だから,(+)を1/(a +1/b)のように連分数を表す記号としておくと, 

332/87 =3+ 1/1(+) 1/4 (+) 1/2 (+) 1/3 (+) 1/ 2 

            = q0 +1/q1 (+) 1/q2 (+) 1/q3 (+) 1/q4 (+)1/q5

            =  [3, 1, 4, 2, 3, 2]/[1, 4, 2, 3, 2] = [q0,q1,q3,q4, q5]/[q1, q2, q3,q4, q5](Gaussの記号)

リーマンのゼータ関数は,実は,ある無限母集団のエピジェネティックな母関数であり,そこで意味を有する,(-∞,∞)グリッド上に無限母集団特性を浮かび上がらせるための相互に基本的な役割を担っているのじゃないか.そのために,統計や暗号理論の根底にあるものとして,何か特別な感じを生じさせるのじゃないか,という風なとらえ方もあるのだろう.これも,『数学辞典』中のある日本人の定理から勘を得たわけである(項目「ディリクレ級数」の小島の公式とか.).「すべての自然数に対して1をとる数論的関数ρのディリクレ級数は正則な関数(つまり生成関数または母関数)を表す.これがリーマンのゼータ関数に他ならない」,「数論的関数μ(メビウス関数)の生成関数(母関数)の収束座標はまだわかっていない(リーマン予想)」.ちなみに,メビウスの関数μ(n)は,μ(1)=1, nが素数の平方を持つときはμ(n)=0, nがk個の相異なる素数の積のときは,μ(n)=(-1)^k, を満たす数論的関数.そこで、数論的と解析的をつなぐエピジェネを考えれば感じありそうじゃないかという,つまり勘である.

代表的な数論的関数(von Mangoldtの関数Λ(n), 分割数p(n)も数論的関数であるが)の(ディリクレ)生成関数として,

ρ関数(ρ(n)=1) <---> リーマン・ゼータ関数ζ(z)

メビウス関数μ(n) <---> ζ(z)^{-1}

約数関数d(n) <---> ζ(z)^{2}    ** nを約数の積で表す方法の数

σ関数σ(n) <---> ζ(z)ζ(z-1)       ** nの約数の総和

オイラーの関数φ(n) <---> ζ(z-1)ζ(z)^{-1}  ** n以下の自然数でnと互いに素なものの個数

i(n)関数(i(n)=n) <---> ζ(z-1)

が挙げられている.  

ウイルスや細胞といった生体での影響や反応を特定するのに,エピジェネ母関数というのは使われていないのだろうか? これも色めき立って強調されている感じではなく,じっくりと確信を探っている段階なのだろうか.そういう隠れたテーマのようなものは,ほかにも数多く存在するのだろうが,私の勘で探り当てられるのは,つまりは,ゼータ関数であった,なんてかっこつけであるが.こういう問題に関係の深いラマヌジャンはどうやって,数論と解析のエピジェネを稼働させていたのだろうか,ちょっと興味あるところである.

2025年からは,大統領選で勝利したし,ねじれも解消されたということだから,トランプのアメリカという影響力の下で世界が変わっていくらしいが,他方,日本はねじれるらしいが,相変わらず財務省差配おバンや,政財界の裏にいそうな,得体のしれないのか,アメリカなのか,あるいは実体のない統一協会とかいう朝鮮土俗カルトの浪速オヤジや創価の池田大作なのかの一発芸のしあがりオヤジ連中なのか,日本型ディープ・ステートという集団催眠的な連中がピーチチクここぞと偏向意見を言い出す.賢者会議とか話題になったが,いまでは,霊感詐欺や闇バイト加担論者のやらせ集団程度の実態しか見えないわけだから,私の宇宙の大賢者であり,宇宙の大勇者であるという肩書には遠く及ばない.といっても,昔のTVゲームの中でしか流通しない称号だが.そもそも実態なんてあるのかという変な幻覚で,大金を詐欺られたり,素人のヤクザバイトに殺されている人も出ているわけだから.自公連立という政治的な言い訳とは関わりないはずだが,統一協会に取り込まれた脇アマ議員とか,安部や森などの有力議員の朝鮮カルトVIP待遇とか,裏金とか,税金の横流しとかつながちゃったわけだから,国民の代表の不倫騒ぎもそういう連中の美人局にしっかりやられたんじゃないかとか,要はそういう話だから,男と女の関係は,美人局だのどうだのと付け入るスキをも跳ね返す愛情というものの重さが自覚されていなければならない,という恐竜の時代からの格言を思い出すべきであろう.究極形としては,カマキリという昆虫の時代の格言といってもいいのかもしれない.女は女を御しがたく,男は女を御しがたい,女に逃げられた男は男の恥といわれ,男はその非対称的な暴力に敵意するようになる.非対称的な変換の構造が暴力である.社会観察的には妥当しそうだが,それをそれとして判断するものも必要なのだろう.なんか身の危険を感じる.

ところで,初等整数論の深い水脈とは何なのだろうという疑問を持つ.「初等整数論とは,有理整数の整除,不定方程式,合同式などの関する初等的理論である」,ということだが,敢えて,『初等整数論講義』の構成を,まあ目次をつなげて考えると,リーマン幾何が,もし,リーマン的な数論幾何学の構築のための理論であって,リーマン格子のようなものから,リーマンゼータの零点の分布の特徴を映し出す理論の投影として考えられていたとすれば,ガウスの数論研究の後継者という位置づけもわかる気がする.しかし,なぜ,数論そのものではなく,解析学や解析幾何学という回り道をしているのだろうか.リーマンの幾何学的直感とワイエルシュトラスの厳密性といわれながら,厳密性の冗長性と直観の間隙性が共存できている感じなのだろうか.リーマンの焼失した資料の中に,例えば,リーマン格子の構成法とか,そこらを埋める資料があったとか,あるいは,何らかの手掛かりから復元の作業がなされてきたとか.これも,結構,歴史的なミステリーに含まれそうである.確かに,こういうミステリーも解決されていれば,とっくにリーマン予想も解かれていることになるわけだから,ちょっと安直な想像なのかもしれないが.『初等整数論講義』を「ゼータ関数の初等的講義」と読み替えると,ゼータ関数という水脈に沿った体系的講義という感じで合点がいく感じである.ちょっと,数学的に確かめるには難しい感じはあるが.

11月下旬現在,ネットでは,大手メディアとNHKをぶっ壊すというN党とをめぐって,既存メディアとネット報道とのやばい対決が進行しているらしい.Youtubeで動画がmyYoutube画面に多くなったので,いくつか見てみた.最初は,よくある,昔ながらの示し合わせ利権集団と,例えば夢の島埋め立てとか再開発とかの騒動と同じものかなと思っていたが,法律を利権集団の私法にしてしまっているという,なんか泉とか片山とかというメディアで有名な知事とか市長とかが,実際そういう連中のメガホンふりのような実態であるという,まあ,昔ながらの騒動が根っこかなと思ったが,また,関西の左勢力という話もちょくちょく出てきたが,共産党とか,旧社会党左派とかそういう連中のことなのか,労働組合系とか右派のことなのか,朝鮮総連系の連中のことなのか,それとも兵庫の金持ちとか超セレブとか,兵庫やくざのことなのか,物事に疎い私にはよくわからない.しかし,自分たちに都合の悪いことを犯人を仕立ててすり替えて正義を気取るとか,肝心な点は知らんぷりを決め込むとか,やり口は陳腐なことなわけだから,昔東京でもたびたび見かけた光景ではある.マイクが自動的にoffになるのじゃなく総連系ポイ役人が手動で切るとか,省内の示し合わせなのか,手柄稼ぎなのかわからないが,そういう感じで大名政治の真似やっているという感じなのだろうか.昔の兵庫の殿様が暗君だったから,といっても,どうしてもそういう面だけ残るからなのか,細川隆元のときどき頓珍漢と似た感じなのだろうか.私法化とか県庁の女性職員とかを,俺と「アレーェ」やらないと個人の恥部さらすぞとか脅しかけてレイプとか,そりゃ事実なら犯罪だろうが,そいう脛に傷は泉でも片山でも実は持っているのが政治というものだから,そりゃ大人の良識で,兵庫県民は納得してやってきたんじゃないかとか,大人って汚ないもんなんだぜ,と名台詞が復活しているらしい.それを認めることになるから,オールドメディアとか評論家知事とか市長はだんまり決め込むか,話をすり替えるしかなくなるといういい演技しているわけである.つまりは,日本には闇バイトの指示役のようなやくざ関係の集団とそのカモの集団とその周囲の関連メディアとかが仕立て唱える法律がまかり通るような状況が進行しているという,それが中華ヤクザなのか華僑ヤクザなのか,ロシアヤクザなのか,そこらの銭でも流れて,右でも左でも,社会派でも正義派でもそれになびく連中も多くいるということなのだろう.

結局,オールドメディアの情報操作,情報捏造,情報隠蔽や言論情報リンチのような私法化というのか法律捏造体質が,SNSのような有象無象のコミニケーションのチェック力に敗北したというより,そういう体質の猖獗を助長したまま,馬脚どころか墓穴を映像に残してしまった格好になるという,しかも,昔ならちょっと愛嬌も感じる的なおもろさもなくなって,やり玉に挙がっている田崎とか,おばさん論客ぽいのとか,もろ中朝工作員的な仕込み演技だけが残るという残念な言論しか大手メディアも使わなくなったということなのだろう.隠蔽したり情報操作したり法律を捏造したい犯罪者連中が勝手にやってるだけなのに,視聴者とか納税者とかには変な偏向力関係が押し付けられるてえのも大ジジババあるいは大大ジジババ世代の世情とあまり変わりばえしない.孫やひ孫はもっと若者らしい判断力で活気あってもいいのじゃなかろうか.若さは馬鹿さという言葉もあるが,年とっても馬鹿のままというのがオールドメディアには受けがいいらしい.そう視聴率はとれなくても.

県政とか,国政も,伏魔殿的なご都合法律唱えては浮ついた連中が,金庫の鍵や人事や評価やハンコだけ握っていれば,あるいは操作できる立場をつくっておけば,例え文句言う連中がいても時間稼ぎも仕込みもなんなら捏造もできるから,法も制度も利用できるてな感じでやっちまったことが,兵庫県民の民意だのSNSの影響だの邪魔でしかないから,オールドメディアのこれまた裏付けのない中立だの裏どりだの,ちゃんとやっていたしやっているといわずに,オールドメディアにはそういう枷があるはずだから満たしているはずだ的な論法だから,実は裏どりとかやってませんでしたとかだったらどうする気なのか,その敵役にSNSを仕立てて,そういう仕立て前提でオールドメディアは正義だ的な印象操作によりどころを共有したムードだけ共有させる.それは,普通に「やらせ」というものであるが,それを裏情報握っているからとかいいながら,握っている情報がつかまされ情報てな失態もいくつもあるわけだから,オールドメディアの闇と共犯し,今度は,メディアの私物化をあくまで取り繕って温存しようとすることになっていってるらしい.そこらをチェックする客観的な,例えば,大学などのメディア研究とかは存在感を全く示さない.せいぜい東大の倫理研まがいの,中朝工作員的な連中のご都合拠点でしかないようなものに過ぎない.そういう利権やご都合を軸に朝日だの毎日だの読売だのが集合しているのがオールドメディアというものだろうが,忘れるところだったがNHKも,そこは変わるはずないから,泉とか北村とか軽い変わり身示されても,どうとでもやり過ごすのだろう.左の連中とかたびたびいわれているのだから,例えば,共産党もそういうのの片棒担ぎ勢力という感じになるから,党としてどう判断し,どう追及するかぐらいのコメント出していいと思う.大阪維新だけでなく.そういえば,こんな体質は日本の大学や,新設関連機関などに共通するから,多分,なんかうまい汁の本店がそこらに身を潜めている構図になっているのかもしれない.あるいは,痴れ知識の披露ぐらい,生成AIなら児戯にも等しいだろうから,研究や実績なんてSNS以下でもにわかにもてはやされる学識経験者枠というお供えも,そういう連中も消えていくかも知らないが,超強敵としてAIプラス量子コンピュータとかがやちゃうかもしれない.おじんおばん臭いよりましかもしれないが.ことわざにある,「泥棒を捕まえてみれば我が子なり」という構文がリアルになった的な話題が,オールドメディアやオールド利権構造の自滅にもなりそうな勢いらしい.もちろん目新しさで取り繕ったようなのもあるだろうが.そこで参院選もね.

こういう騒動は,私のような気の弱い人間には,案外,好みなので,もうちょっと意見や感想を綴りたいと思う.既存メディアは何もしない(実質,裏どりも検証も情報提供も)ことを決め込んでいるわけだから,PCのデータといっても,それも限られた連中とか,あるいは警察とかしか知り得ないわけだが,といっても,逆にそういうところに知られるリスクは大きいということだが,そういう犯罪計画や実行内容,あるいは不倫日記なんて,何らかのストレスでSMクラブの常連とか,そのプレー内容とか「ウ~ン,いいたい」という衝動に駆られていたとか,どうもこいつ俺らにとっても危険だぞ.早く始末しろとか,県議連中グループにやられたんじゃないかとか,考える方が理にかないそうだが,そうなると,それは警察のお仕事だから,当然,既存メディアは自粛する.このようなデマ情報とは違って,既存メディアは真実だけ伝えるからと,かしこまったいい子育ちは自然としつけられている.何とか局長と県議グループの関係とかほとんど語られない.公平も中立もそういう偏向の上でのものという,建て前あっての公平や中立ということともとれる.既存メディアも,政治家はちょっと足りん馬鹿でなければ務まらない.そこさえ心得れば,いいカモにできるのだからうまくやれよ,程度の自粛気分.そもそもパワハラだとか餌撒いて,なんか変な誘導報道になっていき,目立ちたがりの評論家等がのかっかって,しまいには,既存メディアの真実性だのという薄っぺらい言い訳に変わる.そこらの流れも,だいぶ早くから気取られて,案の定の騒ぎになっているというのが真相ではないのかと思う.そこも便乗してというのか商魂たくましくあまりぱっとしないタレント評論でけむに巻こうという,私の裏Pシナリオ通りに事は運んでいる.

「この山はただそうそうと音すなり 松に松の風 椎に椎の風」(白秋)とか「春まひるここの港によりもせず 岬を過ぎていく船のあり」,「白鳥はかなしからずや 空のあを 海のあをにも 染まず漂う」(牧水),「幾山川越え去り行かば 寂しさのはてなんくにぞ きょうも旅行く」(啄木)とか,アンソロジーックに,若い青春期の心の情景を叙景写実抒情的な空間に錨を下ろして,どんな理想を求めるかとか,現実はどう見えるかとか,「青春だな」とか「尖ったナイフ」とか「青春の嵐」とか,はいて捨てるほど満ち溢れる.そして,いつしか汚い大人や老人になって,おろしたはずの錆びた錨が,葉擦れの音も船も白鳥も,寂しさのはてなん国も侵食し尽くして,殺伐とした虚無だけが心を埋め尽くす.ハードボイルドな俺的な都会砂漠の戦士的な,まあ,似合わないから,気分だけ堪能する.

なんか,政治にまつわる不明事は,分散パッケージみたいなことが多い気がする.パッケージの中身は,例えば,奈良や和歌山とか,三重や愛知,静岡とか,大阪兵庫では異なってくるのだろうが,それに応じて,政治家だのゼネコンだのメディアなどの関与や問題封じのやり口も工夫されているのだろうと思うが,結局,利権にあずかれる連中だけの都合に改ざんされて,裏じゃそんなことやってたからなのか的なことは,調査事実の積み上げが進まないと明らかになっていかない.当然,そういう風になっては困るから,嘘でもなんでも仕立てて,止めようとする.そのために,百条委員会などの制度を利用して,木を隠すには森の中的な,人を隠すには人の中てきな,ことが,どういうわけか,変に目立ってしまって,森自体にそういうのがどれだけいるかとか,雑踏の中にそういうのがどれだけいるかとか,顔認証だの照合鑑定だのを使って特定できれば,科学捜査も画期てきになる.政治にまつわる,税の横流しだの談合だのという古色蒼然だが改まらない問題も,多少は,いい意味で隠れ財源になれるかもしれない.だから,メディアも,政治家たちのおごりや暴走も究極までやらせて,はいよくできました,おかげで必要な財源のマイニングができましたと,ちょっとほめてやればいいのである.コンプラ外れたことで割のいいのに与れるから,事業を立ち上げるとか,裏配管とか裏配線の何とかプロジェクトとか,いわゆるヤクザ政治のバラマキが行われてきたわけだから,竹中が,「市場からそういう企業は出て行ってもらう」とかいうと,竹中おろしの大合唱がしくまれ,そして,竹中はミイラ取りがミイラになったというおちで(ほんとにミイラになったのか,ミイラのふりして脂ぎってきたのかは知らないが),後片付けしようとするのと同じようなものである.SNSのおばさんなのかお姉さんなのかの騒ぎも,そういうノリでアピールしたかったのか,あるいは,そういう後片付けに利用されたのか,ちょっと複雑気分を作りたかったのか,メディアの利権癒着の限界とオールド利権構造の終焉とか,他人事どころか,いもしない他人を作り上げては,自分の鏡像を紛れ込ませる報道姿勢もバレバレだから,いまさら言葉だけ紛らかしても信頼回復なんてのにはつながらない.でも,メディアの体質は改められない.中国か北朝鮮メディアの体質だから,日本の未来への足引っ張るしか立つ瀬がない組織だから.大黒幕とか大政治家気分でメディアの正義語る,中間管理職じみた言論人とか局のジャーナリストとか,とすれば,そいつらが一番,パワハラやっているのじゃないかというので,報道部とかなんとかが神経質になっているのじゃないだろうか.ウォーターゲートでも,環境汚染でも,ジャーナリストが,交通事故に見せかけて消されたり,巨大資本産業やメディア業界全体を敵に回しても真実を明らかにしたりというのは,アメリカとか外国のジャーナリズムであって,日本のジャーナリズムなんかでは皆無に等しいわけだが,そういうかっこいい真相の解明とか,真実の放送とか,しかも,疑われているコンプラだのを着飾って,正義を装うという,やくざ報道機関の性質が鮮明になっている.そういうところが,ショーザフラッグとか,人の血を流して貢献しろとかパニクっている.おばさん記者や安手の言論おばさんの血の道の気分じゃないだから,ちょっとちゃんとしてほしいものである.戦争に加われとか,戦費負担しろとか,なんなら中国の沿岸防衛のために人の盾となって血を流せとか,やばい話を拡散業者を使って視聴者に押し付ける.日本の右翼は,売国右翼とか反日右翼とかいわれるから,日本は全部だめだめで,負け犬根性だけだから改革必要あるねと,右翼の孫たちでもいわないだろうと思う.兵庫の議員グループとか何とか委員会が裏で,そういうやばいのとつながっているから身の危険を感じざる得なくなっている状態だとすれば,県民はそういうやばいのつながりの連中のためにサービスを停止されたり削減されたりしているということになるのだろうか.そこまでいくとそもそも兵庫県に行政だの必要なのかという話にもなる.そりゃ,県民は怒るのが当たり前という話になる.得体のしれないヤクザ中華の奴隷県民という話になるから,それに,元の知事とかが1000億の穴開けた穴埋めに15000億の県庁舎とか報道されたり,SNSでは,話はそういうところまでいっちゃてて,オールドメディアはずーっとパワハラとかおねだり騒ぎで時を止めているというので,オールドメディア体質の不自然さが際立っているという対立になっているといっていいのだろうか.

私なりに一寸整理するために,

兵庫県の知事が,パワハラ体質で,県幹部の自殺を誘発するような事態に達している.例えば,いろいろなPR用の商品を俺や取り巻き連中用に進呈しろとか,気に食わない職員には難癖付けるような奴だから,もう,許しておけないというので,有志議員がオールドメディアの追い風を受けて,知事をやめさせ,その事後処理として,真相解明委員会を利用している.いわれている事実がはたしてあったのか,職員へのアンケート調査でもちょっと不可解な点も出てきて,追い風もよどみはじめ,形式的な正当性だけが根拠になり始めていたが,NHKぶっ壊す党の暴露とかSNSでの発信とかで,自殺した局長とか脅しかけて引き込んだ幹部職員のともちゃんとか,どうも被害者かもしれないともちゃんが実はカマキリ夫人的(曾祖母時代のエロ邦画のタイトル.私は,宣伝ちらしらしいのはみた記憶があるが,中身は見てはないが)な役割を果たしていたらしいとか,また,そういう有志県議ともいい関係だったらしいとか,そうすれば,有志県議のクーデタ計画の仲間割れとか,悪事隠しに仕立てられ,そういう犯罪グループの口封じのために自殺に追い込む算段が県議グループ内でなされていたということは十分考えられる.

オールドメディアがなぜ,自分たちも異様なほどの共犯関係にあったことをアピールしたいほど,コンプラとか,報道の信頼性とか,言い訳にして,横並びで自粛とか,これは,広域ゼネコン権力犯罪のような実態が隠れているのじゃないか,ということも考えられる.元知事の新県庁舎疑惑も報じられているわけだし.当然,泉とか片山とか,東国原とか,俺もそうしてほしいと普段考えている連中が,どっちが得になるかとチラ見しながらもっともらしい話で取り繕いたいという態度になってくる.というように,私は私の感想としてまとめてみるが,専門家やしかるべき立場にある連中に顔の広い信頼情報筋の話のようなものではない.そいつらが信頼あまりないのだから,信頼筋も痴れた詐欺連中かもしれないと疑ってみることも必要かもしれないが.あくまで,私の印象や感想だから,事実誤認は改めたいが,いまのところ,そういう疑いが深まるばかりなきがする.

ちょっとなんかの組織にでも縛られていそうなメディア人が言い立てる私のデマに基づく疑問を列挙してみようと思う.

1.そもそも兵庫県知事の,パワハラとか贈収賄とかの問題から不信任を突きつけるという騒ぎだった.

2. 何とか局長の内部告発が証拠になるか否かより,反知事勢力の活動計画とか実行計画とか,不倫日記とか,反知事県議グループなのか元知事の子飼いグループなのかが,やばい反社と関係が深くて,県議グループも実は,油断のならないやばいの多いから,また既存メディアも私の言うオールドメディアもぐるだから,身の危険もありうるから保険を掛ける感じでPCにデータを残していたのか.反社も含めた広域利権組織へ捜査が及ぶからPCデータも保険になりうると考えたのか.

3. バラエティ報道は闇バイトの募集をいくらでもかけられるから,最近,悪徳弁護士になり下がった若狭弁護士とか,検事OBとか警察関係のOB弁護士とかをやばい利権組織がバラエティ報道用に使っているとか.県人会という組織がマニラの刑務所代わりに県人会館?にアジトを設けているらしいとか.県人会が裏利権の再生産のための組織になってしまっているとか.もちろん誰でもという訳はなく,忖度でそういう特権は決まるのだろうが.

4.かりに事実だとすれば,結構大掛かりな組織の犯罪の闇が明るみに出るから,メディアの自浄作用なんてしょうもないことではなく,日本の構造,制度にすくうチョン介うぬぼれディープステートの実態がさらされるから,素晴らしい手柄である.メディアにも同様のことがまかり通っているのだろうから,そこらは自動的にわかっていくことになるのではなかろうか.勝ち馬券を予想するよりたやすい推論である.

実際,SNS vs オールドメディアの対決が面白いということより,犯罪慣習や習慣が日本の制度を支えている実態があって,それが統一協会とかいう朝鮮土俗カルトと融合しているような格好になっていて,法律をめぐる論争のような体裁になっていて,異様な犯罪隠しや捏造報道とか,ちょっとした政治演劇に世論を引き込もう的な反日工作的な感じがくすぶり続けているわけである.法律を盾に取った談義もすぐさま罪状が変わったり,その根拠が知らないうちに,動くゴールどころか急に出現したり消え去ったり,法律関係者が法を利用すれば暴利が得られるのじゃないかということしか考えていないような連中がメディアの御贔屓になっているという,みんな知ってる事実からなのか,また,政治家も政治家で,日本を儲けられる国に変えようとか,調子のいいことを口にはするが,実がないから,国政のともちゃんじみたのが多い気がする.実はなくてそういう言葉だけは口にするのは,よからぬ腹黒しか残らないわけだから.そうでないことを祈るが.

言うまでもないが,私のブログは社会性も希薄だし,タダブログだからイイネの数なんてそもそも関係ないし,もしかしたら,目にする人もいるだろうが,別に,自己肥大した印象を持ってもらおうという意図もない.が,デマ流そうとは思はないが,兵庫の騒ぎも,土俗カルトの代理政治行政騒ぎのような気がするから,何故なんだろうという疑問を書き記しているだけのことだが,オールドメディアの記者も,なんか朝鮮カルトに後押しされているということなのか,既成メディア自体がそういうものなのか,あっけらかんと言い立てているわけだから不思議な光景に映るわけである.

簡単に言えば,議員連中が変な朝鮮カルトの洗脳を受けていて,次期候補者だの議員だのが談合だのうまい汁にあずかっている連中だから,制度自体がカルトの隠れ蓑的になって,悪にしてもちょっとやりすぎたのがクーデタ計画とかいう形で明るみになったが,当然,かかわりを付けられたくないとか,そこらは下手して明るみになってほしくないという基軸で話を組み立てたいと思うわけだから,日本語としておかしい語り口になったり,兵庫弁とか関西弁として聞いても,多分,そう聞こえるのじゃないかとおもうが,片言日本語の建て前法律論が耳障りなほど使われたりするのだろう.外野にとっては,何とか委員会の議員のどれそれが,背任やってるとか明らかにして,仕切りなおすとかならなんだが,そういう連中が実質運用している委員会を形骸的に仕切ってやるという話に聞こえるから,日本の民主制度も終焉かなと思うわけである.国とか民主制度管理再生機構とか作って,そこに移すとかやらないと終始がつかない状況になっている感じに見える.それで,なんかやらせ人気の知事だのが,国民の意見の分断を演出するようなバラエティメディアでにぎやかしやってるふりをする.タレント評論家に規制をかける法整備をすべきではないだろうか.

基本は,ちゃんとチェックも働いて,政治・行政の健全性に信頼を受けられるということだろうが,兵庫の騒ぎは,だいぶ逸脱している話となっているというデマ情報がSNS等で明るみになって,まったく迷惑な話であるから,片山とか東国原とか,その顔利かせてなとかしてくれという,どっかの専制国家のようなロジックになっているらしい.

被団協のノーベル賞受賞を喜ばない人間も団体もある.日本のメディアもそうであるが,何故か報道はしている.それが,電力会社の一斉偽メールのようなことやれば,被団協は存在しないようにする法整備が必要であるという世論が生まれる.という片山・東国原構文.喜ぶにしろ嫌うにしろ考えるきっかけになればとか,被団協は言いそうな感じだが,それをそう受け取らないから,反日詐欺犯罪グループのようなやらせ構文がメディアで垂れ流されるわけだから,私のような根が単純な人間には理解しがたい.バカの言うことは理解できんてきな感じである.

既成メディアとかオールドメディアとか呼ばれるようになった報道機関の言い訳が,多分,建て前だろうが,報道内容に規制があるからとか,報道される側や関係者のプライバシー等への配慮がされるからとか,それらを担保するためには,報道しない自由がなくてはならないからとか言われているようだが,どうせ建て前だから,本当のところは,報道各社とか横並び体質自体が偏向し少し強引というか内部のカルト的な体制が瀰漫(びまん)して,それを消費者や視聴者といった外部の不利益に転嫁して,ますます,傲慢報道とか,朝鮮系とか中国系とかのご都合広報部隊のハングレ報道に傾いていってる状況を,不自然な形でごまかし通そうという意図が丸み見えてきな,橋本とか田崎とかの不自然な連中を仕立てようとしているあたり,日本の報道機関はもう報道機関の体をなしていない.既成メディアのオレオレ体質が隠しようもなくなり,SNSだってやってるじゃないかといういいわけを,口達者だけが取り柄だから,電波使えるのは俺らだけだら,多少のことはごまかせるというおごりの転がしでやり過ごせるという態度になって現れてしまうのだろう.うん,子供じみている.中朝メディア的な各社に監視役的なのが,毎日とか読売とか朝日とかに設定されていて,田崎はとかはその腰ぎんちゃく的な程度のものかもしれないが,変に,渋みを利かせたようなのが番組とかにヒョイ出したりする.カルトの各所の活動の取りまとめをしているようなのを何とかカルトのここらへんのドンがあの爺さんだぜ的なのが,報道機関にもいるのだろう.それっぽいのがたまに出ているのを見た人も多いのじゃなかろうか.毎日ならだれで朝日ならだれとエンドロールになんてまあ,バラすわけにはいかないだろうがバレバレな気はするが.

法における文明の衝突というのか,欧米的な法制と東洋的な法制の間の相違と補完的な関係をみながら,ある意味,法というものを多元的に見ながら,法を考えるという立場もあるのだろうと思うが,法を公法と私法に分けて,具体的には,憲法とか行政法とか租税法とか刑法などを公法,商法や民法を私法というように分類するとあるが,奴隷制も次第に経済奴隷というのか債務奴隷制になり,奴隷制自体のアンチテーゼを現出させ,奴隷制に基づく古代民主制自体を崩壊させるとか,日本でも,それらを歴史的経緯に照らしてみれば,天皇の専有財産制に私有制をどう法制の中に組み込んでいくのかの実験的なプロセスのように見えたり,意識的にか無意識にか,物事の法則性と実際的な制度の政治史,社会史的な闘争史のようにも見えたり,弁証法といえば簡単だが,ダイナミックに問いかけ続けているなにものかに気配りするという立場もあるのだろう.そいう観点は,そう簡単に結論が得られるものでもないから,紛らかしに使われる危険もあるが,現代法は,完璧ということではないが,相当に整った法制度の上にあるものだろうから,SNS以上に質の悪い既成メディアの体質に便乗する形で,元知事とか,元市長とかメディア側のカルトのおっさんボス的なのを神輿になんか裏の画策がしっぽを出している感じになっている.

メディアの追求とかよく表現されるのだけど,やくざメディアとか,ハングレメディアとかが疑われているほうが追求するわけだから,やくざのチンピラに限って法律を引き合いに出すとか,オールドメディアがヤクザ連合的にみんなそういうてまんでてなことをさしはさむ.そして,法が自分らの味方してるような印象づけをする.判例文は俺が書いている的な脱法構文のオンパレードで,世間もみんな同調しているという,やくざの絆的な気分だけ強まる.私はそういうメディアの話がそう信ぴょう性あると決めて聞いているわけではないというと,N党を代表にするようなSNSというデマ媒体に毒された影響の広がりの証拠だと話を作り始める.そこまで行くと,それはもうオールドメディアカルトといっていい体質に毒された連中をカルトのボス爺さんが裏で使っているとしか言いようがない.ナベツネ以外にもっと直接的なのメディア界では知られていないのだろうか.オールドメディア自体もそこらしっかり調べて公表するべきではなかろうか.プーペイ大使が裏にいるとかなったらスクープだと思うが.リーク情報を包装をし直してリークするのがオールドメディアだから,勘違いして,お前何様的な鉄砲玉記者とかも生じてしまうのだろう.

「一線光棍 不成人」。うむ,心にとどむべし.

教養人の引用じみていて,漢詩の一節からとると様になる.うむ。意味としては,法を手練手管に使って,むかしの公事師の裏の顔のように他人の訴訟ごとをくいぶちにして地面師詐欺のようなことを行う連中になるような道へ踏み外すなということらしい.大江戸大火と材木問屋の裏金貸し商人と悪代官と火付け盗賊改め方の時代劇的な感じだろうか.「おぬしもワルよのう」と悦に入ってても,人を成さないゴロツキ商人と役人ということだから,SNSのようなデマ媒体からは,世間の嫌われ者に分類される.怪談話にあるような負の側面へ働くこともありうるから,デマと言い切るのも,デマでないと言い切るのも,光棍のようなものだというわけだろう.

BOOK OFFで500円ぐらいだったから買った,利光三津夫,林弘正著『法学 --- 法制史家のみた --- 』成文堂からとったのだが,出典を示さずに置けば,なんか箔が付く感じになると感じたんだが,そう一般的でないだろうから,一応示しておく.法制史というと,日本の土地制度つまりは租税台帳のような変遷史とか,古代ギリシャ民主制の奴隷制の変遷とかがまず浮かぶから,法制度をどういう史実的な解釈の上で正当性を判断するかとか,案外,法の根底にあるフロンティアな領域を成しているのじゃないかてきな関心で買ってみた.現代法がそれをどのように処理して制度化されているのかということでもあるから,一つの試論としての意味もあるのだろう.あるいは,中国の法制史だの,イスラムの法制史だのといった多元性もとらえなければならなくなるのだろう.さらに現在なら,生成AI法学もできるかもしれない.人間の制度が形骸化して,光棍じみた連中がおおいから,ついAIの方がましじゃないかと期待してしまうわけである.

利光とかいう学者については全く知らないが,慶応関係の学者らしい.慶大法学部の学生がポツリと語っていたことを思い出すが,慶大法学部は,昔は,慶大付属高の生徒にとっては,落ちこぼれの選択する学部というイメージで,法学部,商学部はそういうトラウマを持っているらしい.いまでは,だいぶ格をあげている感じだが,湘南藤沢キャンパスとか芸能人的な勢いで,頓珍漢だが面白がられているのだろう.補助金記念事業の一環なのか,裏がある感じもするが,時世にはうまく便乗しているのだろう.東大の脳トレブームみたいなものなのだろうか.やらせ雰囲気を感じて,案外,嫌われ大かもしれない.その学生は,嫌な感じの学生ではなかったが,橋本とかは嫌われ者かもしれない.良純はどうか知らないが,やはりか案外かそうなのかもしれない.昔,神奈川に住んでいたこともあるからちょっと感想.私は裏表のある悪ではないが,好かれるタイプではないことを措くとしても.慶大社会学の向井とか,新宿高層ビルの原発エネルギー風俗アンケートあたりからアンケートに裏犯罪的な色が付き始めて,兵庫の騒動でも問題となっているらしい.一蓮托生の裏工作じみたのがつるんでいる実態があるのじゃないかという疑念が生じる.裏犯罪の巣窟的な余裕があるなら,補助金カットで財源確保とか,貢献するかもしれないが.利光光棍翁という号を授けたくなる実態があるのかないのかしっかり分別してほしいものである.

 

犯罪の構成要件というのか,法の適応において,具体的事件について法の具体的実現がなされることを「法の適応」と呼ぶということだから,構成要件を逃れるために,偽証を行なったり,事実を捏造したりするようなことで,法の適応を逃れようとする.兵庫の百条委員会の在り方が,そういう意図に満ちているのじゃないかという疑いを抱かせるに合理的な証拠が積み重なって来て,マスメディアのヤンチャと言うのか無責任な態度が増長させている.と言う趣旨のことを述べている訳だが,大きくいえば,それを認めれば,法を捏造する行為や,私的刑罰を承認することに等しいから,法の禁ずるところであるはずである.なんとか局長と県庁の幹部女性職員が不倫ということを超えて,県議の利権グループの何人かとも共謀しながら,告発や誹謗中傷怪文書を作成し配布したり,ということから,自殺した局長の遺書と思しきものに関与したり,脅迫によって不都合な証言を止めさせたりということ,あるいは,それらの背後で,OBや大きな企業の会長とかの威光をチラつかせたりして,大がかりな犯罪を仕組んで実行しているという疑いも,私の中では生じているが,そういう疑念が解消する事実が示されることがないので,これはもしや,マジかということに成っているわけである.

実際,そういう違法性に基づいた画策を行っているのは,SNSとか,前知事の再選を許した兵庫県の有権者であるとか,私のようにそういうデマを真に受けて,あれこれとんでもないことをさも事実である様に言い立てるようになる,反オールドメディアや,なんか,いど元知事の影響力が大きいらしいから,反いど子飼い議員グループというレッテルが貼られそうであるが,私は兵庫に住んだ事はないので,スズキ自動車とか大林組とかのゼネコンとか反社組織の自治体買収のような実態が,バブル崩壊とか安倍家庭教会政治政策とかに便乗して裏にあるんじゃないかという,そういうことを後ろ盾にして,鏡に映した自分達の姿を,SNSとかひどい場合には兵庫の有権者に見たたて誤魔化しているのじゃないか,と疑念を持ったわけである.SNSはデマ情報ばかりと殊更にvs.チックに仕立てたがっているが,実は,そういう子飼い議員グループとかオールドメディアとそういう連中の鏡映しの姿を対比してるだけなのじゃないのかと思うわけである.もちろん,自動車作ってますとか,マンション建築してますとかみんな犯罪なんて言う気はないが.馬鹿馬鹿しいけど念のため.パーケン問題も,そこらの暴走を自公が,と言うより日本の政治が政治的にコントロール出来なくなり,無責任議員たちを仕分けして,裏金問題で処分するしかなかったからそう言う表看板にしているということなのだろう.SNSも見たが投票所で投票したとうことがなんの犯罪に当たるのか,罷免された知事とか政治家が,再度当選する,信任される事は考えにくいから,不自然な,あるいは違法に当たることがあったはずだ,どこにあったかと言うと,デマばかり垂れ流すSNSの内容や普通じゃない兵庫の有権者にあったと言うわけだから,そうとう屁理屈好きの連中の言い分,言い立てである.選管にでも申し立てるつもりで,片山とか東国原のやらせ影響力をメディアか外野の誰かが仕組んだのだろうか.その根拠に仕立てられたのが,SNSとか無能な兵庫の有権者というわけだから,ちょっと思い上がりが過ぎて自らの墓穴掘ってるのじゃないだろうか.兵庫の有権者が怒ると言うより,鳥取や宮崎の有権者が怒るのが筋というものだろうが,東国原は宮崎県民を騙して逃げたわけだから,片山鳥取知事も同じじゃないか的な怒りが県民にあっても不思議で無い.特に片山元鳥取県知事は旧自治省OBらしいから,本来,そういうことを監督指導する立場の行政の省庁や地味な天下り先の大学等が,こっそりそう言う連中をしこませて自治体への中国とかの買収工作等に加担していたとなると,大ごとである.

公立の学校の給食費とか,校長が持ち逃げしたら犯罪に問われるが,私立の学校では持ち逃げ学長は犯罪に問われないなんてことがあるのだろうか.例えば,私的な借金の精算のために持ち逃げしても私的組織の中での犯罪は法的適応を受けないなんてことが,たとえ天下り引き込んで取り繕ったら犯罪を逃れる要件を満たすのだということがあるのだろうか.「一線光棍 不成人」と言う言葉を思い出すが,そういうことが,ポピュリスム政治が歪んだレトリックに依拠して,歪んだ分断を演出する原因になっているという感じになるのだろう.ポピュリズムとは何か.それは紹興酒である.漢詩にも,文字を分解して謎解きのように作られたものもあるようだから,紹興といえば紹興酒.「紹興」という漢詩の一節だとあるから.中国にも洒落た部分や,本物の価値を認められた文化や伝統もあるのに,共産党政治となると子供っぽいヤンチャじみている.紹興酒は出禁である.

こんなことを書いていたら,残り4000字ほどになっていた.まだほんの書き出しの一部分を書いただけの気分だが,兵庫県のパワハラ騒動で,大手メディアがなんとも不可解なSNS否定論とか既存メディアの偏向・捏造報道を横並びの報道しない権利とか持ち出し始めて,昔の軍部の言いなり報道機関が,いまではどっかプーペイの出先機関としてカルトの支部ボス的なディープステート黒服気取っているとか,なんか,コメンテータ連中までどう演技しようてな感じでドタバタ劇場の大根芝居でバツ悪になることを恐れるような事態になっているとか.パワハラとかおねだり騒動の原因となった県の役人の公用PCにフォルダーごと保存されていたデータ,なんか人事工作とか,女性県庁職員との不倫データとか,あるいは,委員会の委員メンバーの県議がその局長のプライバシーにも介入して,しかも百条委員会という場では,その局長側からのプライバシー保護の申請を盾にして,事実関係の隠蔽とその意図に基づいて議事を組み立てていたという疑義をもたれることになり,それもデマの一言で,ともちゃんとかの関係も「ともちゃん」といえずに別な人物にすり替えて,デマに基づく誹謗中傷の被害者を演じるてな会見まで行っている.普通に考えれば,そこまで不自然なことがまかりとおっているのは,大疑獄事件並みというものか,それを真似たチンピラ演出というものかのどちらかしか考えられない.でも,報道特集とかクローズアップ現代とかの偏向捏造報道が挙がっていたが,プーペイ出先メディアとして報道しない権利にのかかって捏造報道するてのも予想外の事態だろうから,ある意味潔い.報道特集もクロ現も,問題回の番組は見てないのだが,クロ現では,国谷カンバンキャスターとかの頃から,そういう偏向工作勢力が裏にいるらしいことが話題になっていたのか.兵庫の騒動でぽっと出したというより,以前からざわついていた問題が,いろいろ複雑に絡んで浮き出てしまった感じになるのだろうか.なんか,知事失職後の選挙で,なんかカルト縛り的なサイトにメンバー登録したのか,そういう内情の告発的な場面が流されていたのは記憶にあるから,多分,そこの場面を切り取ったものか,どっちかの番組の一部は見たがというのが,わたしごとに関しては正しいだろう.  それと,本当においしい紹興酒は例外とするということにする.

「いわゆるプライバシー権は私生活をみだりに公開されないという法的保障ないし権利として理解される」.あるいは,「知る権利」として,取材の自由,報道の自由,取材源の秘匿権が予定される等が問題とされていたが,問題の局長の遺書が県議グループのメンバーとか井戸閥の関係議員の介入した文書であったとか,その文書を不倫関係にあるメディアの女性記者が事前に取得していたとか,国民の知る権利に予定される報道機関の権利としてするには妥当でない証拠が挙がっているとか,そこらも争点になっていた感じがする.なんか,すけこましオヤジのための仕組みを作りたいという欲動に駆られてグループ化したような変な面が可視化されたような感じでもある.NHKは報道機関としての報道の権利を放棄したものと認めらるので,NHKは偏向・捏造報道を意図をもって行った.というつもりでもないのだろうが,プーペイが言うからとカルト番組制作に向かわざる得ない事情があるのだろうか.オールドメディアは報道しない偏向姿勢をとっているようだし,そうするだけの十分な事実を握ってるという感じもない.SNSの情報が私のyoutubeには溢れているが,必ずしもデマ情報といえない部分もある.例えば,百条委員会での質疑と照らし合わせるとかしてみると,ディープフェイクなんてことでもなければ,そういう質疑応答は実際なされたのだろうと確かめられるはずである.「第二章 基本的人権 六.新しい人権---基本的人権の今日的展開---」のなかで検討対象として取り上げられているものだが,どういうわけか,オールドメディアではことさらにタブー視するというのか,SNSのデマとか,報道の自由とかオールドメディアの報道内容の真実性とかという表面的な印象操作に終始して,考えさせないようにする態度がまかり通っている.こういう新しい人権の話題としては,中絶堕胎する権利とか,安楽死の問題とか,環境権とか人格的自己決定権とか挙がっているのだが,日本国民の愚民化なんてどっかの独裁国家の政策でもあるまいし,それをもって報道しない権利,既存メディアの報道内容を疑わせない権利なんて,なんとも異常である.オールドメディアの重大な違法・違憲行為がまかり通ってしまっている.日本はそんな国ではないはずなのに,一部のカルトボスとかその手下ぽい報道関係者のせいで,北朝鮮かシリアのような国になってしまっている.と,嘆いて見せても仕方ないので,そろそろ年越し蕎麦とか,お屠蘇とか,うむ大晦日である.


2024年(令和6年)本当に新時代の幕開けになるのか?---(2)

2024-05-30 15:47:11 | 科学(Science

2024年5月末だから,2024年はまだ半年程あるわけだし,これまでの危い均衡と,これからの危い均衡がどう動いていくかは,もうしばらく動向を見極める必要があるようだが,主には,ウクライナとロシア,ガザに対するイスラエル,モシトラ含みのアメリカの大統領選などとともに,米中政治経済戦争やグローバルサウスといわれることになった関連諸国の動向や選択など,世界的な節目がいつ明確なものになるのか,という関心事の中心になっているような現状である.その割には,日本では相変わらずの中身の薄い議論が盛んなようだが,日本らしいといえば日本らしい感覚ともいえる.私は,多少自国びいきというか甘い面があるのかもしれないが,そういうポーズを置くのも,無意味とは思わない.日本も過ちも多かっただろうが,他国から批判も指摘も受けられる国になるのが,そう悪いことなのだろうか.なんかやらせ中心の,反日論者の憂国論に染まったようなへんちくりんで窮屈な論調は脱するべきである.小泉だの石原だのは,そういう反日論者の隠れ蓑に都合がいいからカリスマ政治家に持ち上げられているのだろうし,和風ぶった森喜朗とかは,ちょっととがったカリスマ神輿の保険役なのだろう.都政の蓮舫か小池とかも同じような構図じゃないのだろうか.昔は,首都圏に住んでいたこともあったが,都民でないのだが,私を都知事にするというのも理屈にはかなっている.あるいは,そういう誰かが,選挙かっさらうというのも面白い気がする.統一家庭教会の舛添さつき都知事もいたわけだから,だったら,反統一協会的なこと言ってる私が都知事になってもいいわけではなかろうか.舛添もさつき自民党議員も,そこら甘い体質だったわけだから.東京も,なんか限界集落のカルト介入的な体質になって,しょぼい感じになっているのではなかろうか.日大事件の田中理事長もカルトべたよりのヤクザ代理店のような感じだが,案外多いのではないだろうか.一流でも有名大でも.日大も有名私立といえば有名私立だし.

STAP騒動にこだわっている感じに論述したが,こだわりたいというのが,私的にはしっくりくる.いまだに,STAP細胞信者がいるとか,アンチな連中がいっているようだが,まあ,そいつら自体だいぶ胡散臭そうだから気にもならないが,私は,こだわりたいと思っている.なんか,マニラのルフィーグループの内情を都合のいいように転嫁して騒ぎ立てよう的な,変な犯罪組織の常套的なやり口を感じる気がするが,指摘すること自体は悪いこととは思わないが,そういう都合に限り,なんてのはいただけない.日大の田中元理事長が,話題の麻薬の代わりに,チャンコに「詣で」というヤク味を売りに商売していたなんて,アンチSTAP騒動なんて,反社詐欺グループのようで気持ち悪い話である.吉村とか難波とか,研究者なのかそういう闇グループの子飼いなのかと疑わせる連中が,ひょっこり出てくるのも,ある意味,それなりの情報を与えてくれる.また,日本の経済誌のように,これまた胡散臭いやらせに乗っかかって,総括だのとやりだすのだから,アンチSTAP連中の示し合わせやらせを検証するのと同じような検証が必要ではないだろうか.アメリカからも釘をさされているようだから尚更.小池金融詐欺都政と便乗蓮舫立憲とか,小泉だ安部だ森だに続いてなんてのも,変な話である.銭には群がる民意とか.そういうのの対応するのが,吉村だったり,金子や高橋だったりするのも,おもろい情報である.そういう連中の雑魚手下のようにふるまっているのが芸能人の良純とか,話題の詐欺名義貸し有名人連中とか.しょぼい話である.池上とか何とかもだから善人というわけでもないわけだから.

アンチSTAPの本が,研究不正だの,研究倫理だのと騒ぎたがっているが,あんまり,触れ込みやったほど話題でもなく,そう評価されてもいないこと見ると,変な闇がそいつらの方に深いのじゃないかと疑ったりするが,科学と倫理なんてテーマも,ネアンデルタ-ル人の遺伝子がどうたらで,新型コロナの重症化リスクとか,あるいは,ウイルスと細胞の細胞膜接着に発見された新たな知見とかだけでなく,案外,stap問題でわきに追いやられた観点とも関係するのじゃないかと,せっかく,沖縄で研究していた経歴も持つ学者がノーベル賞ももらっているのだから,ちょっとは注目してもいいのではなかろうか.およそ,科学ジャーナリズムの予想は外れる決まりだが,そこらも予想を外しているのだから,ちょっとは,科学的観点から注目してもいいのではないだろうか.そういう検討から,科学研究と研究倫理の具体的な本当の接点が立ち上がってくる面もあるのだろう.やくざのやらせしのぎのような騒動捏造の吉村とかじゃ,倫理なんてやくざかハングレのおちゃらけご都合程度のものである.

なんか,中途半端な騒ぎ便乗的なことも多いから,ついくだくだと言ってしまった.きりがないので,小泉も石原もstap騒動のときの吉村程度の裏で持ち上げられている連中に過ぎない,It would not be an exaggeration to say so.(そう言っても過言ではないだろう),と私なりの結論で結ぶことにする.This idea is incarnated by the fact that ~(この考えは,~という事実によって実際に得られる). ~に当たる部分が突き止めにくいとか,関与が迂回的で慣習的に隠蔽されているとか,そういうことも考えられるわけではあるが.英語ではどう言うのか的な問題として考えてみた.簡潔なwitを利かせながら伝わる英語文に翻訳するには,フレーズの丸暗記とかが一番だろうか.

複素数z=x+iyに対して,共役複素数をz'=x-iyとおく(普通はzの上にバー).ρ=x^2+y^2とすれば,1/z = (1/ρ)z'.  これは,複素数の逆数,一般に除算が回転と拡大・縮小の積あるいは変換の合成を表している.数IIBどまりの文系人間には,数IIIの最初で習いそうなこんな事実も,計算自体は簡単だが,気にもかけないかもしれない.複素数自体を中学か高校のいつ習ったかさえも覚えていない.理系の人間ならこんな事実からどこまで行くんだろうか.極小解析からゼータ関数までとか,相対性理論までとか,あるいは,パラレルワールド,多宇宙論までとか.理系の連中だって,ゼータ(リーマン)予想は解けてないし,極小解析もコーシーの丸暗記かもしれないし,多宇宙論も仮説のままだろうし,すすきと私の情報暗号論と違わないのじゃないかとか思うと気が楽である.理系は理系の大変さはあるのはわかる気がするが,なぜか,せっかくの努力も大人の事情で周回遅れとかに誘導されているとなると,お疲れさんとしか言いようがない.計算問題だされたり,実習のレポートの期限に追われたりするのも数学だろうが,ちょっと腰おろして空を眺めてたら,定理とその証明がふーと浮かんで消えたというのも数学なのだろう.文系人間に言わせれば,後者の方が圧倒的に理想である.実際,数学書を読んで,定理とかその証明は,その時にはたどれても全く記憶に残らない.思い出すには,またその数学書を読み返すしかない,ということも多いのだが,霧や靄のようにしか感じていないという実感である.「せっかくアーベル」から「非アーベル」への拡大・拡張なのか,不思議な入れ子構造なのか,どういうことになっているのだろう?

A地点でユリの花が咲いているのを見つけ,A地点とは異なるB地点でもユリの花が咲いているのを見つけた,というのと, A地点で見つけたユリの花がB地点でその本性とともにはめ込まれたという場合,私は,私と外界との極限的な境界点を動かしていることになるのだろうか.また,A, Bとも異なる地点で,ユリの花のようにその地点ではめ込まれるものもないのに,何故か,極限的な境界点が動くようなこともあるのだろうか? そこがはっきりしないと,あるのかないのかさえ怪しい,私の思考論理経路が定まらないことになる.または,そういうこともあるものさと認めて,非因果的な思考論理経路を受け容れてみるとかということもあり得るかもしれない.そういう意味では,因果性の成り立つ極限の世界を取り換えながら,思考論理経路を何度も振り返るような世界が環境世界というものかもしれない.

ところで,因果律(causality)というのはどういうものなのだろう.未来の入力が過去の出力(過去の入出力関係)に影響を与えることはないとか(『数学辞典』「制御理論」),消滅定理のようなものなのかとか,古典的波動の意味でも場の量子論的粒子の意味でも,遅延Green関数G⁺は因果律を与えてくれるが,しかし,両方の意味での因果律が一致するのは反粒子が存在しない場合だけである(『量子力学II』岩波講座)とか.粒子の生成・消滅とか.非因果性の影響を,実験的に確認する方法はないのかとか.原因があって結果があるという意味の因果律が,因果律を表す関数の境界条件として具体的に定められることを意味するようになるということかもしれない.A地点で見つけたユリの花が,B地点でその本性とともにはめ込まれる本情として境界条件を定めるものに化身しているなんて考えれば,芭蕉俳句の核心が得られるのかもしれない,と想像してみた.「閑さや岩にしみ入る蝉の声」てな感じなのだろうか.

リーマンの『幾何学の基礎をなす仮説について』は,中央公論の世界の名著シリーズ「現代の科学 I」で読んだが,リーマンの論文を読んだのは,朝倉の『リーマン論文集』を手に入れるまでは,この論文一編きりだった.印象としては,特に,終りの方で,連続多様体と極微の世界との関係が不思議な説明で書かれている,という感じだった.「すなわち離散的多様体では計量関係の原理はすでにこの多様体の概念のなかに含まれていますが,連続的多様体ではその原理をどこか他のところから付け加えねばなりません.それゆえに空間の基礎をなす実在的なものは離散的な多様体をなすか,それとも計量関係の基礎は,多様体の外部にあってこれに作用している拘束力のなかに求めねばなりません」.ここらは,場の粒子と実在の粒子とか幽霊場的な場合と対応するのだろうか.あるいは,A地点でユリの花を見つけたことが,境界条件として化身して,私s1の視点から,私s2の視点へ移行させたことに対応するのだろうか.私とススキではなく,私とユリというファンタジーも,数学とか物理のロジックとはかけ離れた,蓋然性の大きいものだが,みょうにこだわりが消えない.

リーマンの1854年6月10日,ゲッチンゲンでのコロキウムで,教授資格取得のために講義された論稿だそうだが,ガウスが感銘のあまりその帰途でずっこけたとかいうエピソードも残っているらしい.ガウスをずっこけさせるほどの内容を持った講義だったのだろうが,アインシュタインの相対性理論の先駆けとか,量子論的相対性理論(素粒子論など)のモデルとなる内容が含まれているのではないかとか,『現代の科学I』の解説では,「もちろん彼(リーマン)もまた空間とは本質的に違う時間を,どのようにして空間化すべきかという問題にまでは立ち入っていない点では,やはり19世紀的であった.しかし彼は他方で幾何学の諸前提が無限小で妥当するかを問題にし,離散的な多様体としての空間でも考察の対象としていたことは,いまのべた素粒子論の現状からみて注目すべきことである」,とある.とすると,空間の時間化までは19世紀にはたどり着いていたということなのか,x_i=x_i(t)←→t_i=t_i(x_i)のような感じなのか,まあ,通例のごとく,難しい話がそこには挿入されてくるのか.そこらを,私は,私とユリのファンタジーという文系イメージに変えてみたい.空間というカプセルに包み込むように,時間というカプセルに包み込むのか,境界のない入れ物のようなものなのか.

ニュートンの時間概念は,ニュートン的な物理・数量体系が矛盾なく成り立つように定められたものであるということだが,時間を類別して,同じ類においては同じ法則が成り立ち,異なる類の間になりたつ関係を新たに立てていくという見方の転換が必要になるのだろうか.「本質の立場は一般にReflexion(反省)の立場である」.とすると,A地点でみつけたユリの花の客観性あるいは実在性と概念がB地点で統一的に顕在して,環境知的に理念(Idee, イデー)化する.(ヘーゲル)哲学ぽっく見せかけて例えてみるとこんな感じだろうか.多様体というものも,類別された空間,例えばモジュライ空間(等角写像同値,等角同値類とか)などから,新たに構成された空間ということであれば,時間というものが類空間を取り換えながらどのように新たな法則を成り立たしめるものになるのかという感じのものになるのだろうか.

同一視することで,剰余類群に線形性という位相を導入して,あるいは直和分解して,その族MとMの部分加群の関係の保存系を一次準同型写像dでd *(ほんとは\circ) d=0を満たすものとの組を複体といい(M, d)で表す.dは微分作用素あるいは境界作用素と呼ばれる.とすると,A地点で見つけたユリの花は,B地点では動く微分構造と見なければならない,ということになるのだろうか.コホモロジーの消滅つまり消滅定理とすれば,微分構造が動くということは,より高い異なる次元から,ユリの花の再来の地平を見定めているという感じになるだろうか.デリダだったかフランクフルトだったかの「地平」というイメージぽく述べると,こんな感じだろうか.デリダだったら,ユリの花ではなくダリアにしておけばよかった感はあるが.

話を単純(primitive)に貼り合わせるようなことをやってるだけだが,小平『複素多様体論』の「はじめに」には,「変形理論は,コンパクト複素多様体Mは有限個の座標近傍を貼り合わせたものであるからMの変形はその貼り合わせ方を変えることである,という単純(primitive)な考えに基づく」とある.さらに,「この考えからMの無限小変形はコホモロジー群H^1(M, Θ)の元で表されることが自然に導かれるが,Mの手近な具体例に当たって見るとdimH^1(M, Θ)がMの定義に組み込まれたパラメータの有効なものの個数と一致したのは不思議であった」とつづく.私のユリのファンタジーがダリアのファンタジーに変われば,多様体の変形が得られるということだろうか.超曲面とかアフィン多様体とか関連が深そうだが,モジュライ空間とかタイヒミュラー空間とかアクセントを感じる話題につながるのだろう.有名な公式では,e^{iπ}=-1の数学的含意という感じだろうか.

A地点で見つけたユリの花を摘んで,B地点で見つけたダリアの花をA地点に植え替えると,私はA地点というイベントから,A'地点というイベントに改変(modification)あるいは手術(surgery)したことになる.真面目に言うと,複素多様体Mから新しい複素多様体M’(’はうえに波線のかわり)=(M-W)∪W'=(M-S)∪S'を作る操作を改変とか手術という.S⊂Mなるコンパクト部分多様体S,S⊂W_1⊂[W_1]⊂W⊂Mなる領域Wとする.あるいは,A地点というイベントの外部領域をB地点というイベントの外部領域と貼り合わせて,コラージュ・コピーのようなUmwelt(環世界と訳されるそうだが,私は環境の捉え方がわからないので環境世界という感じでイメージしている)をつくる感じだろうか.

集合全体の集まりを領域(classあるいは「宇宙」と言葉でイメージする)とみて,数学的にはっきりとした対象の間の関係として,集合論のパラドックスを解消して,その部分classの関係を再構築していくという背景が見えたりするが,はっきりとした数学的対象であるという条件を構築するには,集合という概念を破壊してclassという新たな概念を構築する,ひっそりとした操作が必要なのだろう.文系人間には,専門分野でひっそりとそういう操作を前提されると,理解するのがやたら難しくなるので,できれば,明示して説明してもらいたい感じはある.それと,AIでコラージュ・コピーを作り出していけば,私と環境世界が,普通に感知される世界と並行して溶け込むような体験世界を実現できるだろうか.そうなると,アニメもAIが作ることになり,アニメ文化も世界のあちこちで普遍化していくことになるだろうか.

(与えられた対象,射, 合成)の総合概念をcategory(カテゴリーあるいは圏)という. 具体的な例として,すべての群を考え,2つの群X, Yの間にある複数の準同型 X→Yの全体をHom(X, Y)と書く. その元f, g, ......を射(functor)とよびf∈Hom(X,Y)あるいはf: X→Yと書く. 合成と呼ばれる射の演算から得られる射g \circ(小さい丸) f ∈ Hom(X, Y)が定められている. 圏の公理により,圏は単位的半群を作る.  (ユリイベント,ダリアとのコラージュ,コラージュ・コピーイベント)と考えれば,ユリやススキのファンタジーはカテゴリー論に属することになるのか. 多様体の変形理論もそういうことになるのだろうか. 

相対性理論は厳密な物理理論のお手本のように考えられている. だから,その規範理論としての性格から,相対性理論を疑うのではなく,量子力学のほうを疑ってかかる. しかし,相対性理論の方を疑ってみる立場も必要ではないかという話が,湯川秀樹の言葉にある. そうすると,量子論的相対性理論を考えるということになるのではないだろうか. 相対性論的量子論と双対的に. さらに,そうすると,私のユリのファンタジーは,独立して動き,展開するアニメーションのように,私の思考とコラージュしながら,思考論理経路を構築しながら,環境知的な経験の道行きを歩く体験世界を顕在させていることになるのではないか. 個性を持った暗号情報のようになるだろうか. 

戦争や金融犯罪等に対するAIの危険性が,AIへの規制を整備するべきという話になっているのだろうが,わたしは,ユリのファンタジーの方が面白い. ファンタジーも持たない人間がAIを規制しても人間社会の方が先に壊れるかもしれないではないか. 現実的には,生成AI等に関する規制がどれほど的を得ているか,また,限界を示していくのか,観察し続けるしかないが,ファンタジーなんて言っても相手にされないだろうから,じっくり楽しみたいところである.

数学の群という概念はどういうものかを超簡単に説明してみる.自然数全体の集合Nに足し算という演算(記号で+)を併せて考えるとする.2+3=5とか10+13=23とか,足し算という演算によって,必ず,自然数の仲間の数字が決まる.そこで,(1)自然数のどの数字でも,足し算の結果がその数自身になる数を単位元(e)とよぶことにしm+ e= m,  (2)各自然数mとの足し算の結果が単位元になるそれぞれの数の逆元が存在する m+m'= e, というルールで考えてみることにする.これらの条件を満たす自然数は存在しないので,単位元eに相当する数0と,各自然数mの逆元にあたる数たち(ーm)を加えた数の集合M(整数全体の集合)を考えることになる.今度は,掛け算という演算(記号で×)を考えると,自然数全体の集合から,正の有理数全体の集合Qを考えることになるが,単位元は1だし(m×e=m),逆元は各々m’=1/mとなるから(m×m'=e).足し算も掛け算もと考えると,単位元は足し算の場合は0, 掛け算のときは1となり, 逆元は,足し算の場合は-m, 掛け算の場合は1/mというようになる.しかも,掛け算の場合は,0も負の有理数も考えた普通の有理数を考えていることになる.自然数→整数→有理数→実数→…と考えれば違和感はないが,群として考えるとプッツンしそうである.さらに,1の原始n乗根とか考え合わせると,ますますプッツンしそうである.極低温電子顕微鏡+生成AI判定システムなんて顕微鏡をのぞいてさらに微細な構造を見分けろなんてことになったら,コラージュコピーのいくつものパターンから真正の像を選び取るような感じになるのだろうか.そういう顕微鏡があったとしても,のぞける機会はほぼないだろうから,ユリとダリアのコラージュから寓話を楽しむことぐらいしか現実味が生じない.あるいは,専門機関等が公表するのが当たり前の時代になるとか.これがほんとのディープフェイクなんて政治・軍事利用されたら,という懸念にどう対処できるのだろうか.

「現象の因果関係の認識は,本質的には,われわれが現象を無限に小さいものにまで追跡していく正確性にこそ基づくのです. 機械的自然の認識でのここ何世紀かの間の進歩はほとんど,無限小の解析学の発明と,アルキメデス,ガリレイ,ニュートンにより発見されて今日の物理学が用いている簡単な基本概念とによって可能となった構成の正確性のみのおかげであります. しかしこのような構成に必要な簡単な基本概念がいまだに欠けている自然科学の諸部門では,因果関係を認識するために,顕微鏡が許す範囲内で空間的に微細なところまで現象を追究します. そうですから測り得ないほど小さいものでの空間の計量関係は,無用のものではありません」(『幾何学の基礎をなす仮説について』)

正則(regular)とか,全微分(total differential)とか,複素解析とか多変数解析とかの基礎概念に当たるのだろうが,文系にはややこしそうな聞きなれない数学用語の一つである. 正則といえば微分可能とか,全微分といえばΔz=AΔx + BΔy + ερの主要部Δx, Δyに関する一次式dz=(∂z/∂x)Δx+(∂z/∂y)Δyのことであるとか. ρは定点(x, y)と動点(x+Δx, y+Δy)との距離で,ρ→0のときε→0とか(高木『解析概論』). ついでに,dzは(x, y)において曲面z=f(x,y)に接する平面を表すとか,あるいは(流通座標を用いるが,)これが接平面の定義であるとか. 

同値概念を定義して,その同値関係に基づいて対象を類別して,対象の間の関係を定めていくような感じの古典的なモデルということが,コーシー=リーマンとか有名な理由なのだろうか.例えば,タイヒミュラー空間について,『数学辞典』からかいつまむと,解析的に有限なリーマン面R_0は,種数gの閉リーマン面からn個の点を除いたものである.このときR_0を(g,n)型という.(g,n)型の任意のリーマン面Rと,R_0からRへの擬等角写像fとの対(R, f)全体を考える.2つの対(R, f), (R',f')が同値であることを,f' \circ f^{-1}がRからR'へのある等角写像とホモトピック(homotopic)であることと定義し,その同値類[R, f]全体をR_0を基点とするタイヒミュラー空間といいT(R_0)と書く.逆写像f^{-1}が印象的だが,保存系とか改変ということに関係しているのだろうか.log e^{-1} = -log e =-1とか遊び感覚で参考になるだろうか. 

2024年7月14日遊説中のトランプ狙撃される. これも画面向かって左耳たぶ(本人右耳たぶ)貫通も,見た目そう大きな損傷ではなかった感じに見えた. 貫通したからなのか. 他に3人死傷とあるからおもちゃではなさそうである. 運がよかったのだろうか. 着弾して破裂するなんてことも聞くが,そうしたら命も危なかったということだろうか.        

銃のことは知らないが,火薬入りのテープをカチンカチンと点火して,パンパンと音を出す銃しか手にしたことがないので,銃に詳しいコメンテーターに解説任せるしかない. ヤクザ関係の芸能人評論家とか. そっち方面の姐御藝能人とか文化人とか. 案外古いやり口の焼き直しのようなやらせ騒ぎがメディアでも多い気がする. 小池都知事3選にしても,統一教会だの裏金だのでダメージを予測できる自民が昔の公明や社民のように股下何とかバリにやってるというだけのことを,ステルスとかいえば新味があるように思っている腹黒い政治家の申し訳程度のことをメディアの一部がえらく持ち上げるてな感じなわけだから,旧態然のやり口の焼き直しか二番煎じなわけである. そういう連中がとっついていそうなのが石破とか小泉構文というやつではないのだろうか. 中曽根あたりからカルトポピュリズム的な感じが強まった気がしているが,勝新太郎がパンツに麻薬隠しても,元気になったかどうかはわからい的な,よる年波ということもあるし,そんな政治文化はいつまで続くのだろう. 結局,日本は政治家の二号橋が壊れ落ちるまでは改まらない. そういう,昔の政治文化にのかかって政治を語るかっこだけしていれば憂国の若者のような演出でメディアがお手盛りする. そんなところではなかろうか. 

ロシアの核は中国北京にも向いていようが,東方への活動を活発にすると言いながら,横須賀を核攻撃すると脅すなんて話は,中露核戦争論を緩和するには大賛成という論者もメディアでもてはやさないのだろうか. あるいはモスクワをロシアの中央部に移すとか. もともとノマド拠点のようなところだから発想としてはあり得るのじゃないだろうか. プーチン構文. そして,極右ユダヤ主義構文,確かに,変な構文問題に世界がほんろうされている感はある. 蓮舫構文というより立民内部の腹黒構文で沈んだ感もあるのだろう. 民主党末期を思い出させるから. 立民の負け選挙密売商売のような感じだろうか. 蓮舫ー小池のヤクザの民事介入的な都議選に石丸構文という逃げ道を作った感じだろうか. 候補者のせいというより自公だの立憲だのの体質が垣間見える選挙であったのはむしろ良かったのではないだろうか. 

・ウクライナはNATOに加盟し,ロシア構文に戻ることはない. 

・イスラエルは,反イスラエル勢力を根絶するまで軍事行動をやめない. 

・アメリカは,トランプにもどって,米ロV.S.NATO・EUの世界情勢の分断も辞さない. (米露 vs. NATO・EU. アメリカはNATO離脱して,EUとは敵対するというわけだから,対中姿勢を変えないならば理屈上は米露中 vs. NATO・EUの第三次世界大戦をもくろんでいるということも成り立つ.もちろん,中露にはありがたい仮想のシナリオだが.EU内部でもそういう亀裂を生じているような話もあるから.v.s. = see above と間違えただけだが,つい言い訳がましく話を取り繕いたい).

・中国はそんな情勢が中国への攻撃に代わるのでなければ都合がいい. 

大雑把に,こんな感じで,世界の対立が演出されやすい構図を描かせたがっている. ご都合勢力の攪乱戦術にも見えるし,あるいは,図星を突かれて逆切れしているとも見える. あまり話題にならないが,メディアでも論じられているものであって,全くメディアでは報道してないというものでもない. 話題性をうすめて,中露の闇金に依存していそうな得体のしれない論者が,TVなどで盛んに言い立て始める. ハルキウへのロシア軍の侵攻が,支援離れとかモシトラとか絡んで,芯のない論者がなびき始める. 旧統一教会のサイコぽい高額詐欺が,地裁高裁の判決を最高裁が差し戻したという件も,裁判・法律通の腹にしまっていた風な,結局誤った見立てで,旧統一教会問題も薄まっていくのではないか的な自民のステルス思惑が,萩生田自民党都連の辞任になったとは考えられないだろうか. もしかしたら,私が都知事選に出ていたら大量獲得票で,都知事選,都政は変わっていたかもしれない. なんてことはないが. しかし, こういうことの目くらましのために,人口減少とか,若者へのステルス負担増とが悪用されているということは,一つの論点ではないだろうか. 健やかに強く生きられる環境づくりは,理想に過ぎないが小池や蓮舫の現実的に聞こえるが詐欺に過ぎない政策論よりはよいはずである. 

実際,政治事は,本当は何を意図しているのかはっきりしないものも多い. 最近は,さらに,夏場の怪談のような得体のしれない話も多い. そうなると,ヒトの想像力の数だけ,あるいは,そういう制限もなく,幽霊は出たい放題になる. しかし,古来から幽霊と呼ばれるものには,何とも言いようもない制限があるように思われている. 怨念や生霊の祟りでもそういう制限があるきがする. 電磁物理で有名なクーロン相互作用も,あるいみ,そういう幽霊的な存在の存在の制約を表している感じなのだろうか. 質点という概念(ボスコビッチのマッハ主義的な概念)とか,電子とミューオン(質量だけ200倍異なるだけ)とかクォーク(単体では見つかっていない)とか,重力の近接作用への還元(アインシュタイン)とか,それだけ聞いても,分かるようでよくわからない,基本的な構成粒子や時空の問題も,幽霊的な存在の制約と分類と似た感じがしてくる. 例えば,素粒子に拡がりをもたせて,時空の方にも拡がりを持たせると,コラージュコピーのような感じで,時空と素粒子の相互作用が素粒子の存在制限内部に還元されて,電光掲示板的なON-OFFのパターンで表されるようになるとか? ここらまで来ると,朝永の相互作用表示の意義が強調されている感じがある. 

源氏物語の女の生霊が祟り殺すとか,素粒子論のような物理の究極理論の指向のようなこと,あるいは政治事や国際紛争なども,私のファンタジー思考情報論の文学的変換で,大概のことは,それなりに読み解けるという自慢話にはなりうるかもしれない. ニュートン力学が内蔵している問題点を,功罪はあるだろうが,ある意味包み隠してしまった流れになり,量子論や相対性理論という新しい物理学の誕生と進展によって,包み隠されていた本質的な問題の再提起を促し,相対性論的量子力学のような新たな地平で再構築されて,重要な知見に貢献するといった流れのようにも読める.例えば,Coulombの法則は,2つの小さな帯電体の電気量をq, q',2つの帯電体の間の距離をrとすると,その間に働く力fは,それらの電気量の積に比例し,距離の二乗に反比例するという法則(f∝(qq')/r^2, ∝は左辺と右辺は比例関係にあるという感じだろうか)が精密な測定から結論されたというものであり, ニュートン力学の立場から電磁気学を扱う基礎となるものであるということだが,非因果性の影響を実験的に確認する方法に使われたり,物質・エネルギーの存在の条件に内部化したりするカギとなるような概念になって保存されれるのか,コラージュコピーだからというのは,だいたい,こういう話は,数学者がリーマン予想などを論じることに本能的な危険やリスクを直観するように,科学評論家もどきも敬遠したがる.私は,文系の科学苦手人間だから,全く平気だが,なんかそんなポーズが世間にはある気がする.だったら,核兵器も実際撃つまでは,科学評論家の見立てなどあてにならないものだと,自ら言っているような態度に見えるが,変なものである.軍事評論の方が,科学的な面は兎に角としても,リアリティがあるのもうなづけるが,原発だの核兵器だのウイルスだのは,変な詐欺師ジャーナリズムが我が物顔で嘘ばかり言ってる右翼なのか, 読売の斜陽ナベツネリズムのか,ネットとはそもそも前提が違うのではないか.石破も小泉も,付け込みやしけ込みがうまいというので,ポスト岸田だのどうでもいいような,ちゃっちいやり口に共感が集まるのじゃないかと,実績など聞いたことのない慶応閥だの,小物のうぬぼれが旺盛なのだろう.ナベツネイズムの金魚の何とかのような.ハングレヤーチョン閥がバックなのか? プーペイ閥とか? そこで,自民が野党に転落するとややこしくなるので,第一党になった政党は私を総理にするとなれば,日本はまっとうになる,というやらせを総動員するというのはどうだろう.

石破だけだと慶応閥批判になるが,小泉息子批判だと一橋批判となるのだろうか? なんか,福沢諭吉だの小幡甚三郎だの足立寛だの荘田平五郎だの小物のハングレ逆上せの大将のような石破後継という感じになるが,一橋もなんかそういうのになびいて魂売った有名大という感じがするわけである.なんかあったんだろうか? こう大学閥もだらしなくなっては,独学でしか勉強てしたことのない私には,朝鮮かどっかのやらせ教育機関じゃないかという印象しかない.スタップ細胞騒ぎのとき一部ネットだけで話題だった,吉村(子宮頸がんワクチン騒ぎで帝京医学部の副学長的コピーじゃないか的な疑義がかけらていたからなのか)また難波(どういう裏か知らないが)が反スッタプの旗手のようにもてはやされていたが,そういう事情背景の時世の申し子に仕立てたかった勢力でもあったのだろう.ワルが偽善に付け込みしけこむやり口そのものではないだろうか.私は結構,いい子で正直に生きたので,小物悪のやらせいい子捏造には敏感なのである構文.付け込みしけこみがいつの間にか主になって,その動機となった利害とか私利私欲が目的化して,あらゆるものがそういう私利私欲や利害の道具でしかないような錯覚にとらわれる,てのが政治屋的であり,そういう政治屋的なゆがんだ行為ではなく,カッコつきのイマージュの総体を身体的な行為として記憶する.見過ごされている事実関係を発見したり確認したりしながら,政治的行動につなげる.これが,俯瞰力を持った政治的立場というものであり,政局だの権謀術数だのと,お手盛り皿かコップの中で踊っているような最近の政界のやらせ持ち上げとは異なるのである構文.なんか,私の方が大物政治家なんじゃないかと思いたくなるものいいであるが.もっともらしいこと言っても,政治家としても人間性としても信頼されていない,政治不信に悩んでいるらしい自民だの立憲だのの政治家でも政治屋でもどっちでもいいが,「そんなことない,私に限っては」なんて実はいないから政治不信なわけだから.鈴木宗男か野田か石破か森喜朗か,なんて論外だが,つまりポスト岸田は,つまり結局私か構文.不信感や疑惑的にみられている売名構文芸能人は,たぶんそのこと自体気づいていないという私の売名構文.

2024年8月5日,日経平均株価(日経225か), 終値ベースで過去最大の下げ幅-4451円28銭.しばらくは話題になるだろうからメモっておくことにする.株価も投資家心理がパニクって,大暴落をも引き起こすと最近よく言われる話だが,これも一つのイマージュあるいはイマージュのなかでも身体的行動の記憶に結びついたものとしての心理であって,二元論的な心理という話でもないのだろう.ベルグソンの暫定的な定義として言えば「物質の知覚」としての,あるいはイマージュの総体(=物質)の身体的行動の記憶としての心理ということになるのだろうか.そこでは「私の知覚」は消滅しているわけだから.そうであれば,プログラム売買とかの要因があがることになるだろうが,生成AIのコラージュコピーで株の売買すればよさそうなものである.生成AIなんてものも国家戦略レベルで極秘の裡に進められているなんてなれば,それぞれの実際の運用とか到達具合とか知らされないだろうから,難しそうな話ではあるが(とりあえずメモっておくことにする.内容の真偽については当方は一切責任を持たない).急激な為替相場の変動が主要な要因てのも,円高に動くのか,円安傾向が続くのか,急激な円高だから,現時点ではどっちかはすぐ判断つくわけで,弱いドルがどれほど戦略的戦術的な行動選択を可能にしているのかの指標という面もあるのだろうから,そういう面の分析もおこなわれるのだろう.ある程度,アメリカの当局の見解も示されるだろうから,それで少し落ち着いてくるのか,それでも日本株は下落し続けるのか,どちらにしても思いもかけない方向に動く可能性の原因にあるのは何なのか,突っ込みどころは満載という感じだろうか.(これもメモっておくことにする).

(私の裏アカメモ) ここ一日二日では,どうも私の方が,経済アナリストだの経済閣僚だのより良い仕事をしたようだ.ポスト岸田だのうざい売込みしか能のない若手も含めて政治家などおこちゃまレベルである.それは措くとしても,実際,まだまだ注視が必要だとか,下げすぎとか上げすぎとかそれらしいことは言ってるアナリストの弁もあるから,そこも冷静に検討していく必要がある,はずである.とりあえず,ご苦労なことである.やっぱり,ポスト岸田は結局私ということになるのか.

(南海トラフ地震臨時情報) 8月8日,宮崎県沖日向灘を震源とするマグニチュード7.1の地震発生.最近,テレビ解説者などには,悪質な詐欺誘導評論家(橋本とか(TVなどに出ているどれかの).さすがに東国原とか地元を政治屋的に悪用しようなんて悪質なことは分別つくだろうが)も我が物顔で出演しているようなので,SNSなどでの詐欺情報に注意.

気象庁マグニチュードとか,モーメントマグニチュードとか,理科年表(手持ちの奴はちょっと古いやつだが)では,7つほど上がっているマグニチュードMの決め方(定義の仕方,定義式)による違いらしいが,モーメントマグニチュードの定義は,M_ω = (logM_0 - 9.1)/1.5というものだそうである.それはそれとして,要は,いつどこでどんな大きさの地震が起きるかなんて予測できないから,パニクらずに,デマなどに惑わされずに(そのうち,シレーッと詐欺便乗的な橋本のようなコメンテーターもでてくるから),局所的局時的事態でも身を守る心構えをということらしい.

大規模な地層の変動があれば,私などは山から転げ砕かれる石とかわらず,家が崩れれば粉々に壊れる家具と変わらないが,そういう変動の一部分であるにかかわらず,リスクミニマルな均衡状態なのか日常というものが,リスクマキシマルの暴走というべき局所的局時的事態に最大の弾力性を持つかもしれないというわけだから.運よく無事で済めば,それはその事態として評価され直されるのかもしれないが.こういうcarryを発生させる.そういう緊張感もなく悪事に専念する輩もいるから,carryings-on(不正行為,悪事,おふざけ,大声をあげて騒ぐこと,いちゃつくこと)という英単語もできたのだろうか.

好きな女の子といちゃつくことは地球よりも重いはずなのに,不正行為とか悪事と同じなのかと,あれれと思うかもしれない.私が考えるに,英語も案外おおくくりな面があって,そういう疑問は感性に乏しい野暮というものという感じではないだろうか.そういう野暮な連中の屁理屈は永田町のぶら下がり政治評論家にまかせておけばいい.麻生がどういっただの,二階派がどういってるらしいだの,結局,自民党のご都合が国民の政治行動を振り落とすのだというロジックを受け容れろという,権力べたり寄りのジャーナリズムの体質そのものを表しているに過ぎない.そういうもたれあい体質が,ファクトチェックなど邪魔者でしかない,自分には不都合だと本音を言いたくても,バツが悪くなるから,変ないいわけで取り繕う体裁を利用しようとするわけである.そこらを増長させた面も,統一原理問題やパー券裏金問題にあるから,いまだに,朝鮮系の土俗カルト詐欺をかばう言動が政治家や政治評論家に見られるのではないか.ちょっと,鈴木宗男問題に似ている気がしないだろうか.それとも,詐欺だろうと朝鮮系の土俗カルトだろうとなんだろうと,結構うまい汁吸えているわけだから,そういう連中の岩盤票が,小泉息子や石破などは取り込みやすいから(多少,お調子者ぽい面があるから)利用できるのではないかということだろうか.学閥云々も,慶応閥はもともとそういうのだろうが,昔の一橋派という名門というより,世相の経緯で中朝に魂売ってるようなの多くなってるのじゃないか的な軟弱さを感じる面もあるのじゃないか的な感じを覚えるわけである.原理教の安部がさつき議員を抑えるために憲法改正を利用したなんてこともちゃんとした弁明もなくうやむやにするから,変な政局を捏造するような田崎だのなんだの(田原が仲介して朝鮮系の裏とつながっているのだろうか)をTVバラエティーが重宝しているのも,政治不信の一因ではないだろうか.そういう意味では,朝鮮系の工作がポスト岸田騒ぎに,自民党改憲案に仕込まれているわけだ.自民党プーペイ改憲およびプーペイ自衛隊なんてなったら,日本もちゃんとした国家として認められるかどうか不安になるわけである.私は,中核から統一原理までいるようなサークルにいたことがあるが,どっちにしろ普通に良識ありそうな感じだったが,桜田淳子の旦那がちょっと闇を感じさせるやつだから,そういう面は分けて考えるべきなのだろう.桜田ファミリーは詐欺の首謀者でもないなら詐欺カルトから脱会すればそれで済む問題だから,自民党のうす腹黒い体質の改善にむしろ貢献すればいい.米露中vs.EU-NATOなんて仮想的なシナリオをうそぶいている私の発言の方が,リアルに考えると相当やばいわけではあるが.

円安ということは,円の価値が低下するということなら円への需要は高まり所得効果をプラスにするが,実質マイナスにするようなら,円は下級財ということになる(「需要の法則」law of demand).金利差を利用して,そのプラス効果を,ハイリスク・ハイリターンのアメリカの金融商品にキャリーする.というのが,円キャリートレードという見立てなのだろうか.同じような手法がとられるだろうから,その状況に応じて不安定な状態が続くのかもしれない.とすれば,アメリカは通貨ファンドなどを使って,その戦略的戦術的行動選択の可能性を組み込んでいることになるから,これは相当の軍師でなければ乗り越えられない.このうだる暑さの中, 複雑な油断ならない分析,策をひねり出すのは至難の業である.黒幕としていそうな経済界とか労働組合とか,右翼だ何それのドンとかも含めて,御大層なガキの悪ふざけ程度のポスト岸田自民党総裁選なんぞ,児戯にも等しい.私の裏アカウントを調べれば(実は,持ってないのだが),もっと酷評がつづられている.という裏アカコメント.

使い慣れない経済学用語で語ったので,辞書的定義だけ書き出しておく.

*** 需要の法則(law of demand) ある財に対する需要は,価格が下がれば増大し,価格が上がれば減少する,という法則.これは,価格変化のもたらす所得効果と代替効果により説明される.---> 右下がり需要の法則.

*** 右下がり需要の法則(law of downward-sloping demand) 需要曲線には,一時点においてある財の価格が下がれば需要量が増えるという,価格と需要量とが逆方向に動く関係が示され,これはグラフ上では曲線の左上から右下へのスロープとなる.このことをいう.

*** 所得効果(income effect) 消費者行動の分析において,任意の財の価格下落はより高い無差別曲線の実現をもたらす.その場合,その高次の無差別曲線の実現は,価格を一定にして貨幣所得が増大することによっても可能であり,このように仮設的に考えられた貨幣所得の増大による当該財貨の需要量の変化を,その財の価格下落にともなう所得効果という.それがマイナスであるような財は下級財と呼ばれる.

*** 代替効果(substitution effect) 消費者選択の理論において,ある財の価格の変化が他財の需要量に与える効果から所得効果の分を差し引いたもの.具体的には,同一の無差別曲線上の動きをいう.

*** 無差別曲線(indifference curve) 同一の効用または生産量を与えるような諸財の組み合わせを示した曲線のこと.消費者行動の理論では,2財の座標で説明すれば,無差別曲線は原点に対して非凹の曲線で示され,原点から遠い位置にある曲線の方がより高い効用水準に対応し,また2つの無差別曲線は互いに交わることはない.

私は,ある財というところを円という通貨商品と置き換えればどういうことになるのだろうと考えてみただけだが,円安とか(世界同時)株価暴落とか円キャリートレード説とか当面,話題としては消えないだろうからという動機で,考えてみただけである.対数曲線のような需要曲線と右下がり需要曲線の関数関係てどういうものなのだろとか,これはあるいは素数暗号的な新たな関係が隠されているのではないかとか考えてみれば,ちょっと面白い面もあるかもしれない.

話題性だけで言えば,パリ五輪ということになるのだろうが,私は,運動音痴というほどではないが,パリ五輪もダイジェストだけみた.柔道は学校体育の時間にならった程度で,専門的なことはわからないが,女子柔道家の号泣とか話題らしいが,本人,一瞬の技を決められてしばらく事態を呑み込めなかったといってたから,そういうものなのだろう.柔道の専門はそのために技を磨いているわけだから,私ならそれも当たり前かと思うわけだが,ビデオで再生されているシーンをみると,内股という技なのか,大外という技が体を崩される起点となって,内股にかけようとしたところを流されて,相手がその流れを体落とし的な踏み込みで刈り取った感じだったが,もしかしたら,瞬間,その流れを自分に引き込みなおす手がかりも感じていたのかもしれない.無意識に,一瞬の勝機を感じるようなことを会得できそうだという感慨が表れたのかもしれない.漫画のように素人がお話作るとこういう具合になるのである.競技は違え,積極的なメッセージを感じる五輪選手もいたのだろう.スポーツのことは部活でやってた以外よくわからないが.

裁定取引(arbitrage)というと,経済のマネー化でバブル崩壊をもたらした大きな要因として話題になっていたが,要はキャリー取引のようなものだから,ただ,失われた30年とか50年とか言われた年月を経ても解決されない.というより,asymptomatic(一見,徴候がないように見えるという感じだろうか)な経済の組成化の動きというか構造化の動きが,予測できないような運動の法則のように独自に動き出す.例えば,なぜ豊かさの中の貧困がもたらされるのか,地域差や時間差も横断,縦断して展開され,独自の運動の記憶のように貫徹されるのか.二次的な経済分析というと誤解が生じそうだが,古典的な視点の限界や誤りを超えて,さらに,三次的四次的な分析も包摂するような動揺する一般化や普遍化を観察できる立場があるとよいのかもしれない.古典的なといっても,突き詰めると,なんか哲学問答というのか形而上学的というのか,そんな難しさがあるから厄介なものだが,仮想的な三次四次的な延長をくぐって,ニュースにもなるような経済的イベントというのか事象を身体的運動の記憶の反照として位置づけなおす,予見可能性として弁証化するてな感じになるだろうか.デリダの「差延」とか,フランクフルト学派の「再来の地平」とか,アルチュセールの「徴候的読み」とかが示唆するところだろうか.マルクスの『資本論』にある「弁証法とは資本(論)の記述自体」とかが底本というところだろうか.ケインズなら『雇用・利子および貨幣の一般理論』の一般(理論)という含意の複眼性という感じだろうか.思いつくまま列挙してみたが,ここら,感じ取っているところが共通している感じを受けるが,長い伝統的学問思想基盤のなのだろうか.

古典派経済学というと,「リカードおよびジェームズ・ミルならびにその先行者たちを包括するために,マルクスによって発明された名称であって,私は,リカードの追随者たち(J.S.ミル,マーシャル,エッジワース,およびピグー)をもその中に含めることを慣習としている」(ケインズ),ということだそうだが,結局,どういう分析の立場に立って経済を見るかによって,その範囲も含意も変わるのだろうが,ケインズもマルクスの発明になる古典派経済学というとらえ方にはのかっているというわけだから,そういう関係が鏡となって,相互の経済学体系の異同がくっきりとしてくるということなのだろう.AIが,経済に関するデータをさらに蓄積し,アルゴリズムを進化させて,ケインズ経済学やマルクス経済学の,それぞれの新たな発見や問題点の明確化,あるいは共通のそれらを指摘するようになれば,案外,対話型AIとして,刺激的になるかもしれない.対話の結論が,第三次人類滅亡全面核世界大戦だなんてなることを怖れるという話は必ず伴うだろうが,それも,ていどはさまざま,現実味も様々というのが実態だろうから,私はあまり興味ない.程度も現実味もAIが判定できているという前提で,悲観論も楽観論も出てくるわけだから,AIがはたしてそういう判定をするのかどうかは,現在,知らないわけだし.

『原典による経済学の歩み』のケインズの節を読み返したりして,株だ債権だ通貨だという預託ゲームで大金手にした話など,ネットで話題の景気のいい話とは無縁なのだが,すると,必然的に,円安株高から円高株安なんてしょぼい話だけ残されることになるわけで,自民や立憲の党首選挙のようなものだから,考えるだけばかばかしいが,1970年代半ばの出版だから古いのだが,私にはちょっと面白かったりする.経済発展の動因を,投資が先行し,それに等しい貯蓄が生じるように所得が決定されるとみるか,貯蓄が先行し投資がその資本蓄積に応じて決められるとみるかという,投資乗数理論を投資先行説とするか貯蓄先行説とするかという相対する見方が可能だが.ケインズの立場は前者であるということである.マルクスの立場は前者なのか後者なのか,「蓄積せよ」というように資本家の衝動を言い表している点や,「ここがロドスだ.ここで跳べ」とか,少々無理な貯蓄動機を投資優先でルビコン川を渡らせる的な表現もあるから,意外とややこしい.投資乗数理論は,所得決定つまり雇用量決定を担う理論だということだから,意外とややこしいのも,もっと大きな転回のロジックが隠されているという見方もできるのかもしれない.「セー法則」とか「経営と所有」の分離とか再結合とか,「金利生活者の安楽死」とかの話題も,こういう文脈の中にあるという話だから,有名なテーマだったわけである.

レジュメ(resume)代わりに,というよりメモ代わりに,『経済学の歩み』から,用語説明にあたる部分だけ抜き出すと,

まず総供給関数と総需要関数,その交点での極大期待売上金額Dである有効需要について.

ZをN人雇用して得られる産出物の総供給価格とすれば,Z=Φ(N)を総供給関数とよび,DをN人雇用して企業者が受け取ると期待する売上金額とすれば,D=f(N)を総需要関数とよぶ.D>Zの場合,企業者はN以上に雇用を増大させ,Z=DとなるNの値のところまで,生産諸要素をめぐる競合が生じ,競合により生産費を高める刺激が存在される.そのようにして,雇用量は総供給関数と総需要関数の交点で与えられる.この点において企業者の期待利潤が極大となるから.総供給関数と交わった場合の総需要関数の点におけるDの値を有効需要とよぶ.

なんか,企業者の極大利潤追求に左右される雇用水準が,インデックス化されて,投機市場の売買の元手になり,雇用水準あるいは所得水準がキャリーされていくという感じな話に見えたりするが,そうなんだろう.日本の経済が複雑だという,縦型支配とか二重構造とか,賃金格差とか犠牲と繁栄とか言われることと関連しているのだろうか.ひいては,日本経済がどうこう言ってもアメリカのポチという話とかも関連するのだろう.デリケートな動きにも対応したうえで,行動を決めていかなければならないだろうから,ポチにはポチの悩ましい面もあるのだろうから,すぐにどうするべきだというわけではないが.経常面を破壊して,その破壊の程度を指標化してその指標を独立した商品として売買する投機市場で渡り合うには生成AIをプレイヤーにするしかなさそうだが,現在どこまで進んでいるのだろう.

森喜朗とか安倍晋三とかのまめなカルト癒着部分とか,そこらから逆照射すれば,気の抜けた問題行為だといって個人の不可解な嗜好で片付けられそうな,地方も含めてパー券自民や政治地面師屋の野田とか小沢立憲の犯罪性も問えるのではないかと思う.腹黒組織犯罪隠しだから.嘘で防衛され,世間もそれくらいでなびくんじゃないか的な組織的犯罪隠しにほころびが生じたから,自分都合の法律や憲法解釈が憲法や法律だてな倒錯が共感を呼んでいるわけだから,そういう空気感や居心地がつまりは判断の前提にある論者も多いのだろう.そういう連中の右顧左眄と有権者や国民多数の我慢の限界の対立のエネルギーの差が核心に言い及ばない議論の体裁をメディアが演出しているのだろう.麻薬をパンツに隠して, 果たして元気になったのかという演出右翼の紛らかし話題作りのようなものである.座頭市とかいっても知らない人も多くなっているだろうが,女座頭市というのもあるらしいがそれは別として,新しい時代の政治だ社会だといっても,いまだに昭和ちょい悪右翼の演出頼みてえのも,あるいはプーペイ工作員的な連中頼みてえのも,シラケる原因ではなかろうか.逆に考えれば,隙を狙うようなやり口がはやっているぞという情報にもなるが,反面教師的に役立てるという手もあるかもしれない.

意味があるのかないのかわからないが,自民や立憲の党首選,衆参院選,兵庫県知事への不信任成立,森喜朗がパー券や統一教会がらみの介入したとみられながらなんか言えないとか,安部が韓国土俗カルトを自民のVIP待遇にしたとか,立憲も政局密売で,だったら,立憲も解党して自民に合流しておけばよさそうなものだが,そうしないところに価値が生じる的な,民主末期の状況に限定販売とか.円や株価も方向が定まらない動きの中,急激な変動をなんとかコントロールする手しか打てないのじゃないかとか,政治家は,国民そっちのけでシラきり通すアピール満々にしか見えない.なんだったら,蓮舫とか上川とか,そして煙たい野党議員とか,無党派で新党を立ち上げるとかやっちまえばいいのである.だって,それくらいしか,選択肢のこらなくしているわけだから.小沢解体屋というより地面師詐欺師という政治家といった方がしっくりくる感じがする.何だったら,小泉も,石破や高市とかは参戦しないだろうけど,新党に合流すればいい.安部の統一協会VIP待遇とか,政界の取り巻き連中の下心とかがポピュリズム政治の実態なわけだから,たいして問題にならない.裏商売の善人たちが日本の政治家じゃ,法も社会もよくわからん感じになるのである.というわけで,ついつい脱線してしまった.

「かくして,われわれが社会の消費性向とよぶものが与えられているとするならば,均衡雇用水準,すなわち,雇用者に全体として雇用を拡大することも縮小することも誘引しない水準は,経常投資の数量(雇用がその与えられた水準にあるときに総産出物に対して社会の人々が消費することを選択する量をこえている分を吸収するのに十分な経常投資の量が存在しなければならない)に依存するであろうということになる.次いで,経常投資量は,われわれが投資誘因とよぼうとするものに依存し,そして投資誘因は,資本の限界効率表と各種の償還期限と危険の貸出しに対する利子率の複合体との間の関係に依存していることがわかるであろう.」

「均衡における雇用量は,総供給関数Φ,消費性向χ,および投資量D_2に依存する.」「Φ(N)-χ(N)=D_2, 雇用量Nは有効需要D=D_1+D_2に依存する.」 D_1は社会の期待消費支出量,D_2は期待新投資量.

「かくてわれわれは,消費性向とよぶところのものを,賃金単位で測定した所与の所得水準Y_wとその所得水準からの消費への支出C_wとの間の関数関係χ,C_w=χ(Y_w)として規定するであろう.」

雇用は契約だから,しかも自由な契約だから,均衡の成立のなかでの類型(投資の予想収益とその生産費)の限界効率,つまり,類型の収益で与えられる年金系列の現在価値をその供給価格に丁度等しくさせる割引率,で最大のものが資本の限界効率と呼ばれるものになるから,競争やそのゲームから得られるお得感からも自由なのである.お得感が欲しいというのと,稼いでいる青年実業家になりたいということがほぼ同義に使われていることを考えれば,案外身近な感覚である.

不確実性が,初期値の設定によって不可避となるのであれば,初期値を一定にして確実なものにするか,一定条件を満たすが,そこに内蔵される不確実性を反映させるかというケースが考えられそうだが,後者の場合,予想が外れるリスクは常に生じるわけだから,仮に正しい予想が得られたとしたら,正しい予想値をマイニングしたという利益を手に入れられる.これが投機動機となって,利子は流動性を犠牲にすることで生じる対価であるという流動性選好説に結びつく.ちょっと,話題性優先で,勝手な解釈をいってみたが,案外,ありそうな解釈だから怖いところである.短期(n期間)利子率i_1,  n期間時点で買うr年据置利子率i_3,長期(n+r年)償還債権の利子率i_2. 不確実性が存在しない場合,(1+i_2)^{n+r}=(1+i_1)^n(1+i_3)^r.あるいは,ケインズが用いたndr=1d{n+r}/1dn. ndrは利子率i_1でr年間据え置く結果元利合計が1ポンドになる第n年における債権の現在の値.

現実の資本主義経済が,ケインズの主張通りに行動しているわけではない.低金利の下でも,企業の大きな内部留保の存在によって,利子率や資本の限界効率を投資決定の決定要因としない独占的投資計画が支配的となることが,その説明として挙げられる.独占と発展,独占資本政策の動態が,例えば,ウイルスとその作用のように,あるいは,動枠的な作用のように,既存の観察からの新規的発見やあるいはそれらの結果の破壊の一種のブラウン粒子のように,イマージュの総体の運動の身体記憶のように立ち現れる,なんて感じで動いているのかもしれない.というのも,そろそろ字数制限超えそうだからである.ケインズの経済理論については,『原典による経済学の歩み』講談社と『コメンタール ケインズ/一般理論』日本評論社からのつまみ食いである.

残り1400字ほどなので,経済の芸能化というのかペダンティズムというのもあるから,経済理論なんて儲けはないうえに,アホチョン連中からハラスメント受けやすいという面もありそうである.せいぜい,時の話題にのかっかって,お店のおねいちゃんたちの気でも引ければ儲けという程度のものである.その分,気は楽な問題であるが,経済問題がなんか空々しいは,景気のいい話が現実にそうそうあるわけでもないから,気分だけしたっていたいということも一因としてあるのだろう.その言い訳に使われるのが独占資本主義論というのも悩ましい問題である.アカデミックな経済理論のまわりには,官製経済理論とメディア経済理論が三つ巴であるらしいが,結局,経済の現実と対峙するような経済理論はないということなのだろうか.そこで生成AIの描くコラージュコピー経済理論が待望されるわけである.経済に対する信頼情報は生成AIから得られるから,バカな政治家だの官僚だの,経済界だのの話は,どんだけ間抜けな人間味が伝わるかだけのしろものと受け止められるから,案外,安定するかもしれない.

無意味な改行で空行ができて文字数を消費してしまっていたので,残り4000文字ほど残っている.せっかくなので,『原典による経済学の歩み』から,目を引く箇所をコピペすることにする.一寸思ったのだが,これもコラージュコピーの文字数換算みたいなものなのだろうか.私は,生成AIの文字数換算による字数制限に制約されている.

「経験は投機的動機を満足する総貨幣需要は通常は利子率の漸時的変化に対して連続的に反応していることを示している(投機的貨幣需要の変化と利子率の変化を関連付ける一つの連続的曲線が存在する)」.「取引動機および予備的動機を満たすために保有される現金量をM1, 投機的動機を満たすために保有される現金量をM2とする.」

「これら二つの現金の区分に対応して,二つの流動性関数L1およびL2をもつ.M=M1+M2=L1(Y)+L2(r).  L1はM1を決定するところの所得Yに対応した流動性関数であり,L2はM2を決定するところの利子率r(L2はもっぱら経常利子率と期待状態の間の関係に依存する)の流動性関数である.L1はYの増加関数,L2は利子率の将来についての期待の状態が与えられるときにはrの減少関数として記述することができる」.

「コメンタール ケインズ/一般理論」では,関連して「資本の希少性理論」が論じられている.

ケインズの「一般理論」は難解なイメージがあるが,例えば,ケインズの経済学はイギリスの(ための)経済学であり,ケンブリッジスクールの身内サークルの経済学であって,外から見ると,隠語的な話も多く,どういうことを言っているのか了解するには,おやじが若者言葉を理解するには別途ギャル語辞典のようなものが必要となるとかという感じで,覇権大国の凋落と新覇権大国の台頭の象徴のように,実際採用されているのは,アメリカのケインズ理論であるとか,その背景事情も一癖ありそうである.金本位制復帰とかその具体例として挙げられている.そういうことはあっても,ケインズの経済理論が21世紀の世界に有効な視点をもつことを再認識され始めている,というのが現状のようである.こういういくらかでも内容のある学閥とか学的サークルなんてものがほんとに実在するものなら,わたしはそれもありじゃないかと思う方だが,慶応閥のようにもどき芸人のやらせ商法のような学閥が実態というのだから,そりゃなしでと思うのである.日本会議とかいう変なアホチョン連中の下請け学閥ぽくって,なじめない.

マルクスの『資本論』については,以前にも言ったように,高校2年生のころ,学校の図書館の世界の名著シリーズの棚の中からあずき色の『マルクス・エンゲルス』借りて(しばらくして,ペーパバック版の2冊本になっていたが),内容は「解説」と『資本論』の一部省略されているようだが翻訳というものだが,徹夜して読んだのが最初だが,なにせ,そもそも経済とは,あるいは経済学とはさえ,たぶん言葉としては知ってたと思うが,ほぼ白紙の状態で読み始めて,とにかく読み通すかと思いながら読んだことを覚えている.その後,国民文庫版の資本論全巻を生協で買って読んで,まあ,一応,まっとうに読んだことにはなるだろうくらいの満足感を得ている.当時は,『資本論』第一巻の商品物神ぐらいまではだいたい暗記していたが,あれなんだったけという箇所に引っかかったときはそこを読み直してみるという感じだったので,完全な暗記ができていたわけではないが.もちろん,マルクスの『資本論』が,社会や歴史あるいは政治や宗教,法律,哲学などに広範な影響をもつもので,向坂逸郎は蔵書10万冊だったそうだが,数冊,あるいは数十冊でへとへとの身には,それだけ読んでも知識量は増えないから効率が悪い読書に違いないと,納得するようにしている.マルクス自身の読書量も常識外れだったのだろうが,大英博物館の蔵書を,経済理論や統計,経済史,社会運動史とかにわたって(もともと法学,哲学,文学関係もよんでいたのだろうが),あるいは数学の文献まで読み漁っていた生涯だったらしいが,読書量と知識量は必ずしも比例しないという気慰みで対応することにしている.それと,不思議な感覚なのだが,「商品の物神的性格」は何故か記憶から消えていて,読み返しても覚えられない.岩波新書で大塚久雄とか「物神性」理解の重要性を説いていたと思うが,何らかの「心理状態に依存する」という話でもないだろうが,ちょっと構造的なメカニズムが隠喩されているのだろうか.ちょっと正確ではないのだが,『資本論』は,もともと,労働プチブルご婦人方の勉強会サークル用のパンフレットとして書かれたもので,そういう熱気も現在に受け継がれているのだろうか.気の弱い私にはちょっと御しがたいが.そこも普通に言えば,経済学批判で萌芽を得た経済学体系プランの基底部分を大成させたものが『資本(論)』で,マルクス・エンゲルスはその一応の完成をなして死んじゃったから,その後の進展の混乱を後継者たちが醸し出しているらしいが,あるいは,右翼的な攻撃というのか悪用に使われたり,アカデミズムのペダンティズムに堕落したり,面白みも薄まって,マルクス『資本論』は終わったらしい.マルクスでは,「カネ」というのは一般的等価形態にある商品であるから,お金があれば大抵のものが買えるのもカネがそういう商品だからで,拝金主義はそれを倒錯して感じる変態オヤジの意識のレッテルに過ぎない.

ケインズ三部作というものを挙げるとすれば,私の印象では,といっても客観的な根拠はないが,かじり読みした解説書の部分とかからの印象で選ぶとすれば,(1)『確率論』,A Treatise on probability, 1921, (2) 『貨幣改革論』,A Tract on Monetary Reform, 1924, (3) 『雇用・利子および貨幣の一般理論』,The General Theory of Employment, Interest and Money, 1936.  (1) 『確率論』はケインズ自身の学生時代の苦い思い出が背景にあるとか,「論理学」と「確率」についてのケンブリッジ的特徴というのか伝統というのかとか,<a/h>とか,「aというのは確率の高いと考えられる命題を表し,そしてhというのはaの理論前提を構成している命題を表している.そしてh/a =1の場合,それを「確実」(certainty)というふうに定義している.」(『コメンタール ケインズ/一般理論』の「確信の状態とは」.論理学で言えば確率命題という感じだろうか) 普通に私たちが考える確率論とはちょっと異色なものだとか(ベイズ確率ポイ感じは受けるが),それと経済学とのかかわりとか,気にはなる問題をはらんでいる感じだから,(2)『貨幣改革論』は,比較的読みやすいというか,経済用語のわかりやすい説明としても読めそうだから,(3) 『ケインズ一般理論』は,主著の位置づけだろうから.  

流石にそろそろまとめるには,あと,生成AIによるコラージュコピー経済論を論じなければならないが,マルクスは資本主義の完成期をイギリスの古典派経済学を検討しながら,ダイナミックに経済学批判体系として大成し,ケインズは,覇権大国イギリスの衰退期における,資本主義の変貌期の経済を,新たな発見や破壊を通じて,対処する方法を開いてたとすれば,それらをさらに俯瞰知的に,あるいは環境知的に実現する理論が現在求められているのかもしれない.それを,私のちょっとした思いも込めて,コラージュコピー経済理論とすればいいのじゃないかという提案である.

W-G-WとかG-W-Gとか,「単なる持ち手交換」に過ぎない図式が,商品の物神的性格を表す図式となり,W-G, G-WとかG-W, W-Gの闘争的結合に結果し,資本主義成立の条件である本源的蓄積から自律して資本主義の運動の推進力として保存される.マルクスのこのような解析も,ケインズが,古典派経済学の第二の公準をセー法則およびその下での完全雇用の前提での不完全な理論として,非自発的失業を認める理論へ一般化するときの念頭にあったのかもしれない(参考: 世界の名著『ケインズ・ハロッド』の「解説」部分).

 

 

 

 

 

 

 


2024年(令和6年)本当に新時代の幕開けになるのか?

2023-12-31 12:01:33 | 科学(Science

 

確率論に基づく情報理論を,私のファンタジーな作り話と対照しながら,案外と,重なっている部分もあるじゃないかと,まんざらでもなく,2023年は過ぎた. 

2023年の主な事件としては,SARS-CoV-2(新型コロナ感染症)が,阿保ポイ議論も多いが,少し,落ち着きを見せてきたとか,ロシアによるウクライナ軍事侵略,パレスチナでのハマスによる残虐行為とイスラエルによる掃討壊滅をうたう軍事的報復,日本では,売国カルト団体の政治利用が,国政や地方政治の闇につながって,パー券裏金錬金術問題として,政党政治の根幹を危ぶませている的な騒動に発展している,などがあげられる. 日大事件でも,ジャニーズ事件でも,宝塚や自衛隊事件でも,なんか,不気味な闇につながっていそうな空気が広がっている. 事件が表面化すると,岸田総理もマニラのルフィなんて仕立て黒幕も似たもの同士に見えるから面白いものである. そういう意味では,林真理子ではなく,安倍晋三がマニラのルフィ役なのだろうが.

 

Off Houseで,4000円弱で購入. 少し,整理できた. 歳の割には少しシャレた感じじゃなかろうか.

整理タンスとして良い感じなので安く購入.

 

Hilbert空間は,無限次元ベクトル空間Xの上で定義されるノルム空間(X, || ||)であり,ノルム(ベクトル空間XからRへの写像x→||x||でノルムの条件を満たすもの)が内積から決まる非常に特別なBanach空間(S. Banach, N.Wiener)である.Banach空間はノルム空間であるが,ノルムから定まる距離関数d(例えば,d(x,y)=||x-y||と定める)に関して,(X, d)が完備距離空間であることをいう.距離空間が完備であるとは,すべての基本列(Xの点列{x_n}において,lim_{m,n→∞}d(x_m, x_n)=0が成り立つこと.Cauchy列)が収束することを言う.測度論まで行けば,確率論は,こういう背景の上に成立しているというわけだから,確率論的な情報理論の背景的基礎理論ということになる.そして,それは,そのままでは,大きくかけ離れたものであろうが,うまく考えれば,私のファンタジー思考の基礎づけにもなるものなはずである. 

私のパロディー寓話のように,そのアルゴリズムによるサンプルがなかなか見つけられない理由は,何らかの(時系列)の極限としての分布の漸近的自由性を示しているといえるだろうか.「もしそれぞれ一定の長さをもち互いに離れているいくつかの区間を時間軸上に取るならば,この時系列の任意の汎関数のこれらの区間に対する分布は,これらの区間が互いに離れていくにつれて独立な分布に近づくことである」.「これは,非線型予測,非線型濾波,非線型の状況での情報伝送の評価,濃厚な気体や乱流の理論などに関連した多くの問題を合理的に矛盾なく取り扱うのに最も有望であろうと思われるプログラムである」.(『サイバネティックス』第3章).

数学の3大予想が,リーマン予想を除いて解決されたというので話題になった頃があったが,過去にアップしたファイルを思い起こすのも,私のファンタジー情報論をそれらしく仕上げていくのに有益ではないかと思うわけである.数学や数理の世界では劇的な成果がふんだんに取り込まれているのだろうが,それ自体が素人には難解極まりないものだが,現在また今後の各分野への貢献も,余程,注意深くみないと見極めにくいものなのだろう.本来,数理科学の世界はそういうものなのだろうが,私のファンタジー情報論が,案外,そういう世界とそう孤立したものでもなく,ファンタジーはファンタジーなりに,それらの中から,価値の高いヒントを得られれば,ラッキーというものである.あるいは,数理科学自体が,そういう全体的な進展の層を作り出しながら,突出した成果を結実させる本性が備わっていなければ,巨大な資本や軍事力でそのような成果を独占し,進展を独占しながら,民主主義でも独裁専制政治でも勝手に作っていくようなものになるのだろう.ビッグ科学の世界の当然の側面と考えられることなのだろう.ファンタジー情報論は,そういう面も相対化しながら観察できるものである必要がある.しかし,情報社会のインフラにかかる費用,科学的な価値やそれらのもたらす成果への寄与を見極める費用など,圧倒的な格差があるが.でも,私のファンタジーは私のファンタジーだからめげる理由が無い.巨大資本のそういう側面には,実際,圧倒されぱなしなのだから,いまさら,世界の分断などという話に新鮮味は無い.固定化されたやや観念的な側面だけで,世界が決まっていくと考えるのも危険な感じもするわけである.

 

 

どういう意義を持つ予想なのかの概観を得るのに役立ちそうなので,ワイルズのフェルマーの大定理の解決に続いて,ポアンカレ予想のペレルマンによる解決の概要を説明した次のプレプリントを掲載する.

 

 

参考書は『解析概論』,『現代数学の流れ2』,岩波書店,だが,基礎事項らしいので,コピペっておく.


数学の未解決問題も,量子あるいは素粒子の不可解な性質も,さらには,人間社会のおぞましい争いも,その本質には,非可換類体への学習や増殖があるなんてことは,たぶん,言葉の行き過ぎかもしれないが,興味深いことではあると思われる.『サイバネティックス』第9章「学習する機械,増殖する機械」の冒頭で,「生物組織を特徴づけるものとわれわれが考えているの現象に,つぎの二つのものがある.学習する能力と,増殖する能力とである.この二つは,一見異なっているようだが,互いに密接に関連している.学習する動物というのは,過去の環境によって,今までとは異なる存在に変化することができ,したがって,その一生のあいだに,環境に適応できる動物のことである.増殖する動物というのは,少なくとも近似的には,自分自身と同じような別の動物を作り出すことのできる動物のことである」.今風に考えると,AIとオートマトン・コンピュータあるいはITというものが浮かぶが,現代戦の革新としてドローンの様々な可能性がとりざたされるのも,ドローンが,AIやオートマトンの人間の戦争の道具としての適合性からなのかもしれない.戦争という愚かな行為と,学習という特徴が,一見真逆に見えながら,相携えて組織されることにつながるのかもしれない.

量子コンピュータ,あるいは量子計算論(D. Deutschの提唱)でもオートマトンや形式言語が計算モデルや生成モデルとして重要な役割を果たしていること(『数学辞典』,「形式言語理論とオートマトン」),正規表現を一つの例とするようなチョムスキー文法とか,Lシステムとか,形式言語理論もいろいろあるようだが,生物の自己再生とか,進化とか流体など複雑系のシミュレーションとしてのオートマトンの研究とともに重要視されているというのだから,私のファンタジー情報論も無縁ではないということもできるのではないか.無理矢理感はあるが.

しょうもない話だが,パー券問題が賑わっているようだが,パー券問題を掘り下げると,日本の保守主義がパーポンポンになる的な日本社会の断面につながるからだろうか.その砦の一つが麻生マーメイデゥ古参重鎮というわけだろうか.そういう意味では,麻生じゃなくても林真理子でも同じじゃないのだろうか.売国総連系の評論家とかも.国会議員だけのポストの忖度や金銭の融通だけならそう大したことないはずだが,根が深いから問題になっているのじゃないのだろうか.知らぬ存ぜんぬを気取っている御厨みたいな立場のバツ悪い感じのも多いからじゃないないのだろうか.議会制民主主義だの建て前正論気取るような態度は許せないが,御厨という個人を責めるつもりはない.類似の連中はどこにでもいそうだから.私のように素朴な感覚しかないものにとっては,そういう手の込んだ悪知恵に興じる類のも世の中にいるのだなと驚きであるが,案外多いかのかもしれない.注意すべきである.なにせ,パー券問題の違法性を派閥議員自体も認めているわけだら.そこ偉いということでもある.

もし派閥がなくなっても,自民党は,パー券ムーンマザーばりの霊感商法のノウハウが身についたのだから,十分しのげるのじゃないだろうか.できれば,本物のというかイメージ通りのマーメードゥのほうがいいが,現実は難しい.森元総理とかは,蚤の心臓といわれる裏腹に,ヒトデナシのムーンマザーかばん持ち的な居心地のいい立場を手放したくないのだろう..そういう連中のペースにメディアの一部ものっかかっているとい構図だろうか.政治が楽になるし,パー券なくても裏金できるから.カルト化反社団体のあがきに付き合わされることになるから,政治改革も熱があがらないという国民のバランス感覚なのだろう.でも,なにか熱くなれるものも欲しい.だが,企業でも政治でも役所でもメディアでも,内部の腐敗には触れられたくない.お調子の良さは共有したい.それ自体を罰する法律はない.あほくさい話である.ムーンマザーもマニラのルフィもすごく人間的にいい人的な,新時代の価値観なのか古い連中のやらせなのかわからないが,ちょっと違和感が生じるのだが.会計士も秘書もカルト反社の信者なら,そういうことで身構えている可能性もあるわけだから.こんな話なら,幼稚なジジイでもすぐ思いつくはなしではある. 

こういう話で終わると,なんか陰気臭いだけに終わるので,「派閥」というのは,factionとかsectとかcliqueとかの訳語のようだが,『広辞苑』では,「出身や政党政派や特殊な利益などを中心にして結びついた仲間」とある.問題となるとすれば,政治と金などの話題に便乗して,カルト化反社の仲間集団を政治家が後生大事にする風潮が,安部一強などと言葉を変えながら,謎の何とか姉妹のように演出,浸透していることではないのだろうか.「派閥」の辞書的な定義に従えば,「派閥」は,カルト化反社に極限化せざる得ないという,理論的に正しい帰着となる.麻生がギャングのボス気取った格好で派閥存続をいうのも,まっとうなアピールである.甘っちょろくカルト化反社に傾いた安部派や岸田派とは違うのである.そういう派閥の実情が相俟って,居心地の良いカルト化反社の恩恵に未練がましい政治家が,もっともらしい言い分を立てるという,お決まりの芝居が公演されているのだろう.

法の趣旨を破壊して,居心地がいいのだから,カルト化せざる得ないわけだし,それに,感覚もそうなるのも道理というものである.要するに,人間の社会組織に生じやすい利権装置なわけだから,政策集団に限定するといっても,政策案自体がどういう評価能力で評価されるのかとか,政策も一つの決断であるなら,その決断の影響,結果を多様な国民生活にどう了解してもらえるのかとか,考えに入れる必要を感じるが,そんなことは,上っ面ばかりの議論からは排除されるだけのことである.

頭の悪い国民と頭の悪い国会議員が覚えたての「政策」という言葉をうたい文句にしても,バカの集まりはつまりはバカしか生まないわけだから,また,カオスな状況になって,バカは利権などには逆に鼻が利くから,政策なのかカルトなのかわからないものになり,バカな国なりに滅ぶ.なんて,こんなことも考えられなくはない.もちろん,そうなってはならないが.

例えば,政策への右翼介入的な指摘が表に出ると,作業員や会社員装った芸能人が,やらせインタービューに答えている的なマニアックな話題にまぎれさせて,民意を捏造するようなことはよくやられている手段らしいが,離島の建設作業員に紛れ込んで,都合よくインタビュー受けてた有名俳優の二世三世の姿もばっちり放映報道されていたこともあるわけだし,政治改革なんてのも,その類に分類されるようじゃシラケるわけである.

『概説I』から,集合の濃度(cardinal number, power)の定義をみると,集合全体の領域('宇宙' universe)をUと表すとする.M, N∊Uである二つの集合M, Nに対して,MからNへの全単射が存在するとき,M~Nと書く.~はUにおける同値関係である.Uをこの同値関係で類別したときのMの類をp(M)で表し,Mの濃度という.MとNの濃度が同じであるとは,MとNが全単射同型である(MとNの間に1-1の対応がつく)ことと同義である.

区間[0, 1)をJ=[0, 1)で表し, aを可算の濃度(すべての自然数の集合N={1,2,3, ....}の濃度のこと)とすれば,区間Jの濃度はp(J)=2^a=10^aで, 2^aをcで表し連続の濃度と呼ぶ.また,実数の集合RからRへの関数の集合の濃度は2^cに等しい.例えば,2^mというのは,p(M)=mなる集合Mのベキ集合(Mの部分集合全部の集合)の濃度のことであることに注意.

たったこれだけでもパニクりそうになるが,情報量の作り方との類似を考えれば,尚更である.勝手に連想すれば,演算子・作用素濃度とか,量子化暗号濃度とか,ハイゼンベルグ行列とかデルタ関数濃度とか,言葉だけ乱舞する感じになるが,そんなことまでわかれば,結構,自慢にはなるかもしれない.連続体仮説のような立場から論じられる場合も多いかもしれないが,想像は刺激されるのだろう.超電導だのメソスコピックだの複雑系のシミュレーションだのという連想も当然わいてくる.

結局,私のファンタジー思考のように,世界をすこし広げていって,つまり世界の階層を作っていって,そのような拡張された世界('宇宙')をはっきりとした対象として類別する原理には,ススキ自身の世界と私の世界を双対させる根拠があるのかないのかという問いを投げかけるものであるということであろうか.

連続体仮説の説明では,可算の濃度をa, 連続の濃度をcとする.a<m<cとすればm=aまたはm=cとなるという仮説である.nをa< nである任意の濃度とすれば,n< m < 2^nを満足するような濃度mは存在するか存在しないかという問題を一般化された連続体問題というそうである.なんか,0-1法則とか,集合列の極限という概念にも通じそうではないだろうか.「ススキと私と'極限'の概念」が数学ギャルと出会う物語なんてのもおつなものであるが,とにかく,パロディーだから.

私の音楽センスと私の数学センスが共鳴するような世界観の基礎にパロディー情報理論が控えている.問題なのは,音楽の評価は,小学校六年間を通じて恒常安定的に5段階評価で評価3を維持していたことである.グランドピアノが学校にあったのだが,本格的な楽器に触れたのは,ハーモニカとかカスタネットとか縦笛除けば,そのピアノの鍵盤をランダムに弾いてみた経験だけである.

ランダムにひいてみたメロディーならざる音の世界には,誰か知らない女の子の少し哀しい気持ちが流れ込み,それを気遣う大人らしい気持ちが靄のように寄り添っている,ちょっと不思議な予感のようなものである.その後,ある女の子が病気で亡くなったらしいということを耳にしたから,どういうことなのだろうと思ったわけである.小さい小学校であったから,明確な会話としてそのような話は聞いていくても,他の話題に紛れさせてか,それらしいものを知らず観察していたということもありうるわけであるが.私にとって了解できることは,でたらめなピアノの音とそこに現れた予感だけであることには違いはない.

私とベートーベンの違いは,おそらく,絶対非音感を持つか絶対音感を持つかという事に加えて,でたらめな音それは雑音と呼ばれるのであろうが,そういう音に私の日常世界の事実との接点となるある種の形象化の働きと,メロディーのような構造を持った音の世界にそのような形象を掴み取る働きの差にすぎないのだろうと,子供向けのベートーベンの伝記を読みながら思ったのである.「違います」という断定の声も聞こえなくはないが.

天使の旋律のような音楽に満ちた世界は,あの世とんでるような世界のイメージになるが,ベートーベンも,おそらく,音の形象化と旋律の形象化の対立や融合や崩壊,そして,あるいは昇華,そのことを音楽にしていく働きに,音と旋律との間にあらたな距離感を表現していくのかもしれない.音楽評価3の変らぬ音楽観と音楽家の音楽観の本当の差は評価しようもないが.もちろん,私の音楽センスに対する評価としては妥当であると納得はしているのだが,こういうこだわりは不動なのである.

岩波の数学講座や数学辞典から,1834年,スコットランドの運河で,ラッセルという人が観察した孤立波,このような底の浅い水面でみられる浅水波(ソリトン波,solitary wave)の運動を記述する方程式(KdV方程式)が,1895年,流体力学の一般的な方程式の浅水波近似によって,Kortewegとde Vriesによって得られた.KdV(Korteweg - de Vries)方程式は,非線型波動のモデル方程式である.1963年頃,M.D. KruskalとN.Zabuskyは,計算機によってこの方程式を数値的に解いて,パルス状の孤立波が衝突を繰り返しながら粒子のように安定にふるまう現象に出会い,これらの孤立波をソリトン(soliton)と名付けた.KdV方程式が無限個の保存量を持つ一種の可積分系で,逆散乱法(与えられた問題を微分作用素や差分作用素あるいは行列を用いた形に表示したLax表示でKdV方程式などを表したものをLax方程式といい,KdV方程式の遠方で急減少する場合の固有値問題をポテンシャル散乱問題とみなし,散乱の逆問題の解法により固有値問題Lψ=λψのポテンシャルuを復元して,KdV方程式の解uを求める方法)によって厳密に解けることなどが明らかになった.KdV方程式を二次元空間に拡張したものがKP(Kadomtsev-Petviashvili)方程式である.ソリトン方程式の代表的なものに,これら以外に,戸田格子の運動方程式,Sine-Gordon方程式,非線型シュレディンガー方程式などがある.

ソリトンに関しては,概要,こんな感じであるが,私の雑音音楽理論にもソリトン解が存在する.ような気がする.素朴に考えると,例えば,集合を領域('宇宙')という概念に拡張して,数学の基礎には集合論があるを,数学の基礎には領域('宇宙')論がある,という言い換えは妥当しそうである.自然数全体の集合Nという無限集合の部分無限集合の一つには,素数全体の集合Pがあるが,そこにはゼータ関数のゼロ点にかんする未解決問題(リーマン予想)がド~ンと控えている.ゼータ関数は,アインシュタイン方程式やH. L. Montgomeryの相関予想(pair correlation conjecture )など,意外なつながりをもっているらしいのだが,shock wave していそうな難しさを感じる.ゼータ関数はどんな作用素のLax方程式の関数になっているのかという疑問はすぐに気づかれそうだが,よくわからない.ゼータ関数は,数学的な事実の未知のネットワークに生息する関数なのかもしれない.ススキ自身の世界と私のファンタジー思考の未知のネットワークように.だいたい,ススキ自身の世界なんてものと私の世界の接点なんて捉えようもないが,普通に私が見ているススキの姿以外には,植物図鑑などで調べるしかしょうもないが,ありもしないかもしれないネットワークを見つけたいという話になるわけだから,だいぶ冒険である.ダウンジング? それとも,マイニング? (楕円関数やリーマン面,広田良悟とか佐藤幹夫とか,京都学派とか,ランダム行列とかPainleve方程式とのつながりなどアカデミックな成果や展開については,『現代数学の広がり2』岩波講座を参照).

ついでなので,実際,『数学辞典』等からのコピペ盗用であるが,Painleve方程式について,簡単にまとめると,複素領域で定義された微分方程式論では,微分方程式により定義される新しい特殊関数を発見することが目的の一つである.Painleve方程式とは,動く分岐点をもたない2階有理的微分方程式を6つの型の標準形に分類したものである.その一般解をPaileve超関数とよぶ.

これらの型の方程式が,(VI)型が線形常微分方程式のモノドロミー保存変形を通じてえられることが,Fuchs,そしてその他の型の方程式についても,R. Garvierにより確かめられた.

各方程式にたいして定まる,xの有理関数を係数とするyとzの多項式H(x; y, z)を使うと,Painleve方程式は,dy/dx = ∂H/∂z, dz/dx = - ∂H/∂yと表される.解(y(x), z(x))に対して,(d/dx) logτ(x) = H(x; y(x),z(x)) により定数倍を法として定められる関数τ(x)をτ関数という.

各型同士が,極限操作(?)のようなことを通じて,  ある型から別の型が得られる(退化)という関係で結びついている.未知のネットワークを極限操作で関連付けるなんてことになったら,ススキと私の世界にかけ橋ができるてなことはないかもしれないが.Painleve方程式は,非線型方程式の可積分系の理論という動機で研究されたかんじもあるから.

イスラエルのガザ虐殺,ウクライナのジレンマのニューズが,あたかも,ロシアやイスラエルの極右のデマゴギーのように日本や欧米の政局を彩っているかのような報道が多い気がする.もちろん,報道として客観的に判断される事実を報道するという報道の中立性を否定するのではないが,失敬な話,意図的に,中立を気取り,盾にしてそういう業界の寄生虫というのか機嫌取りを,やらせで盛り上げよう的な報道も多い.ネタニヤフが鬼畜根性でガザの住民を人間以下の存在とみなして,自分の政治家としての保身だけを優先して惨状をこれ見よがしに演出しているという批判もあると聞くが,だいぶ小物のうぬぼれ日本の報道界も似たり寄ったりではないのだろうか.のど元過ぎれば,世界の軍産複合体の圧倒的な陰謀には誰も逆らえないという言い訳に終始するのだろうが,それなら,軍産複合体は,月のウサギに任せておくのが一番である.ロマンがあるから.やってるのは,ただの人間なのだし,変態の着ぶくれに過ぎないわけだから,さっぱりとしたコスチュームに着替えてもらって,人間らしく振舞ってもらえれば十分である.そうでなければ,神への畏怖や,信仰の試練としてなぜ嘆く.なぜ,言葉として記される.神への冒涜と神を軽んじて神殺しを図るおぞましい内的邪教信仰を見透かされる恐れからなのか.

イスラエルは表向きの厳格な一神教の実は,悪魔信仰か,無神論の共産主義国家だというのもありかもしれないが,宗教は貧者や弱者のアヘンということも言われるが,私自身は,もっと,緩いものでも構わないくらいの感じでいる.宗教的右翼なんてのは,神も自分以下だと思っている連中のヒーロー気取りに過ぎないのではないか? それとも,人類の信仰の完成は,神による人類の滅亡という自虐史観に殉じるのがイスラエルということなのだろうか? とにかく,人殺しで人類を惑わすな,イスラエル国民でもガザの住人でも,というのが私の薄い信仰の立場である.

日本では,自虐史観なんてのは,カルト反社と欲の皮突っ張った学閥一派の連合のようなものだが,イスラエルもカルトユダヤ教というのが実態なのだろうか?

ウクライナでもイスラエルでも,実際の状況はどうなっているのか,関連して,ロシアの内情はとか,中東の思惑はとか,ただでさえ実際わからないし,伝えられないのに,さらにその真実の輪郭もかすんでいって,フラストレーションも増幅していく.私なども,戦争を知らない世代に入るのだが,戦争や紛争ではそういう事態は当然に伴うものなのだろう.リアルな世界にとっては常識なのだろうが,ロシアは連邦崩壊とかロシア自体がノマド帝国化するのではないかとか,イスラエルは迫害や侵略への恐怖と領土拡大思想の二律背反を盾に,政治指導者の強硬姿勢を演出し続けなけらばならないとか,世界の政治指導者の共感が世界の分断という感情を支える価値観の温床にすり替えられやすくなっている.分断などといっても,主には,現政治指導者のキャッチコピー以外,具体的な内容は定まりがないわけだから.個人レベルでは,分断なんて通常運転なわけだから.双方が「分断」という言葉を共有しながら,双方がさらに分断を深める情報戦を繰り広げる.高度な戦術を仕掛けあっている.なんてのも,結局,ふにゃ~とした分断された戦利品として稼げるものと意識せずとも損する側のそれぞれの既得権に変わっていくみたいなことで終わるのだろう.「分断」の意図や結果,その後の影響まで計算できるのである.兵法家なら当然である.キングダム? 小娘軍師?

オーソドックスに考えれば(?),所有資本を軍事体制にダイレクトに結けることで,権利者体制の保身を謀るbetを仕掛けているのが軍国主義というものだろうから,圧政の拡張以外,現実的帰結はないわけである.内部矛盾をそらすためには,局時的状況の必要に応じて,例えば,ハンガリーや台湾のような国に干渉を仕掛ける行動に出る.当然,緊張を高めるし深めるし,その影響の拡大を図るだろうから,さらに世界の分断は内部化し,アンダーコントロールですと言いながらディスコントロールをわき目にしながら,うまく利用しようとする.局時的にはそういう状況が自然なものになる.例えば,「流動性の罠」とか経済の法則として考えれば,資本主義経済の解明ということになるだろうし,軍事に結び付ければ軍国主義になるだろうし,あるいは,専制主義や社会主義になるだろうが,資本主義の法則の悪い方の一分枝ということになるのだろう.ロシアも中国も,あるいはイスラエルも,資本主義vs共産主義という図式より,ならず者国家カテゴリーに入れるかどうかという議論のようだから,資本主義の病理の進行の度合いに対応しているのだろうか.所有資本というのは,スーツにバッジを付けた金貸し資本のようなものだから,ある意味,なくては困る面もあるわけだから.

部門間の関係でもそういうことは成立しているわけだから,無茶苦茶やれるということは,生活基盤の略奪を許すということだから,北朝鮮のように餓死者を出しながら兵器に依存するという状態が蔓延することにつながるわけだから.そんなことは忘れて,議会も政治も経済界も踊りだす.勝ち組の特権だという広告が街にあふれだす.私は点滴で栄養補給していたことを除けば,1日しか断食したことないので,まったく許されんことだと断言する.

数学の基礎概念であるadele and ideleを読み込むというのも正統なやり方に思える. ススキ自体の世界と私のファンタジー世界を考え続けようとすれば頭が痛くなるが,何らかの構造(位相)をもとに考えれば,案外と,ススキの世界と私の世界に橋が架かるようなものが見つかるかもしれない. といっても,adeleだのideleだのという数学用語自体が,準同型とか,素イデアルだの整域だの,素因子だの制限直積だの頭の痛くなる数学用語で定義されているのだから,加法演算を持つ自然数の集合とか,乗法演算を持つ整数の集合とかをもとにイメージを確かめるか,飛躍して,高次元時空を作り出して,あれこれ想像して楽しむとか,リーマン予想も解いてやると意気込んでみるとか,そして,ススキと私の世界の謎を解くとか,そういう動機付けをしないと持ちそうもない.

ごく最近,パー券問題に関連して,自民党の青年部が,中央・地方の垣根を越えて,女の尻は偉大である. 日本の議会制民主主義の根幹を問いただすのは,女の尻であるという,偉大な教訓を得たらしい. 原始,女の尻は太陽であった. その真実が2024年に甦ったのである. 日本の将来はすべてうまくいく. 問題のない教訓である. 問題だと騒がれるのは,教訓を得られるもののほほえましい特権である. それに,やり得に興じているわけでもなく,少々苦い教訓を得て大人になりかけているわけだから,温かく見守りたい. 

ススキと私のファンタジーも,もしかしたら,私自身が半信半疑であることを除いても,意外と,深い問題につながっているのかもしれない. 宗教哲学についても,神の言葉だの仏の言葉の意味だの宗教家も学者も,ほんとは,たいして知りもしないで適当に体裁つくろっているの多そうだし,政治家も,そんなものより,都合のいい児玉とか笹川とか右翼ヤクザとかムーンマザーの裏金の方がご利益があるとか,多少,うさん臭くても,ご利益目当ての道理を後押ししてやろうとか,そういうことらしいので,少なくとも,相対的に,私のファンタジーは,必然性はなくても,より深い意味を持つ可能性がある. しかし,自民党だって,利権として化けそうなことを知ったうえで,青年部にそういう活動をさせているのだろうから,議員の教育的観点からもよい実習の機会を仕込んでいるというわけなのだろう. 利権グループのごり押しロジックはこれまでの疑獄事件等でばれているから,うまく成長の証にでもなれば,それがおてがらという手は残っている.度胸はないがコソコソとそういううまい面には顔出しておきたいという,森元総理とか野田元総理とかはよく似たオーラがある. 私のは,単に自分の趣味からのことだが.

数学記号や式が混じる文章を書くときには,できるだけ文字数の少ない説明で済むようにとか,数学記号もAとかBとか,fとかgとか,*とか/とか+とか-とか→とかの組み合わせで済むような感じが楽だとか,TeXのような,簡単な文章作成にも使えるが,フリーのDTPソフトを導入して,文章の見栄えやバランスも整えてくれるがソフト自体がオーバースペックな性能を持っているから,ネットで検索しながら必要なことを調べて文章を作成して,それをコンパイルして(そこらはボタンポチで済むが)PDFにして画像として貼り付けるくらいしかできないので,時間と手間が思う以上にかかる.

素因子(prime divisor)の辞典での定義は,1変数代数関数体の場合は,体k上の超越次元1の有限生成拡大体KでもってkがK内で代数的に閉じているものをk上の1変数代数関数体と呼ぶ.kの元の値が0となるようなKの(加法的)付値の同値類をK/kの素因子と呼ぶ.

環Rのイデアルp(p=Rでない)は,R/pが整域(2つ以上の元を含み,零因子を持たない可換環)であるとき素イデアルという.イデアルaについてaを法としてベキ零な元の集合をaの根基(radical)といい√aで表す.環Rのイデアルqは,q=RでないかつR/qの零因子がすべてベキ零のとき準素イデアル(primary ideal)という.この時,p=√qは素イデアルで,qをp準素イデアルという.一般のイデアルaをa=q_1∩…∩q_nと準素イデアルの交わりで表すことをaの準素分解という.この表現が,(1) どのq_iを除いてもaと一致せず(2)i=jでないとき√q_i =√q_jでないという条件を満たすとき,√q_iの集合はaによって定まり,準素分解の取り方によらない.これらの√q_iをaの素因子または随伴素イデアルと呼ぶ.

これだけでも,心地よい風がスーゥと頭の中を吹きすぎるように感じる一部天才は別として,頭痛がしそうである.イデアルだの,拡大体だの,局所コンパクト群だの,さらには,それらが,拡大や縮小といったことに従ってどういう挙動を示すのかなど,ちょっと一服でもしないと持たない.

岩沢『代数関数論』では,体Kの付値(数体における絶対値の概念を一般の抽象的な体に拡張して得られたもの(関数))ν_1, ν_2に属する正規付値(値群Gが有理整数全体Iと一致する付値のこと.ν*(a)=(1/e)ν(a)とおいてえられる.)ν*_1, ν*_2が一致するときν_1, ν_2は互いに同値であるという.この同値関係によりKのすべての付値が類別される.その各々の類のことをKの素因子とよぶ.

集合全体の領域(class)('宇宙' universe.ラッセルの逆理など参照)による類別の方を考えたいが,族(family)という社会においても(社会においては家族というものであるが)基礎的単位ではあるが,数学では集合の元の列あるいは写像のことだが,およそ窮屈にも感じる場から精神的にも自立しながら,人格を展開していくような苦悩と成長の物語的な設定が,高度な数学になればなるほど重要になる的な感じがする.

そこで,制限直積(単位可換半群の族の制限直積を直和と呼ぶ場合もある)とは,Λ(ラムダ)を添字集合とするα系の族(S_λ)が与えられたとき,2つの元x=(..., x_λ, ...), y=(..., y_λ, ...)に算法αを施した結果をxαy = (..., x_λαy_λ, ...)と定義して得られるα系Sを直積といい,直積Sの元x=(..., x_λ, ...)のうち,有限個のλを除いてx_λ=e_λ(単位元)となるものの集合は,Sの部分α系を作る.これを,α系の族(S_λ)の制限直積という.これも単位α系となる.

o_pとかu_pといった特定の群に対して定義された制限直積をアデール(環)とかイデール(群)という. 

集合というのか宇宙が,ある種の構造を備えた部分集合を構成しながら,幾葉にも重なった世界を単葉な世界の貼り合わせとしてとらえさせる.そんな世界観も感じるが,リーマン面もそうであるがド・モアブルの公式 α^n=e^{iny}=cos(ny)+isin(ny) も示唆深いのかもしれない.

小学校で習うような算数の事実,合成数は素数の積で表すことができるとか,自然数同士の演算では,足し算は自然数の答えが出てくるが,引き算の答えは自然数でないものもあるとか,掛け算でもそうだが,整数同士の掛け算では,-1×2=-2だが(-1)×(-2)=2とか,自然数同士の掛け算の時よりちょっとだけ手間が増えるとか,そういうことを,演算系の部分系の間の関係とみるとか,方程式の解の集合の場合の関係を調べるとか,そこがまた,ちょっとめんどくさい感じに素人には感じられるとか,意外と悩まされるところである.ちょっとめんどくさくても,しっかりやったやつが数学のできるやつなのだろうが,科学の世界も,だいぶ倫理観の欠如した連中も多いようだが,そういう状況も非対称性という言葉で表現できるだろうか.

STAP細胞騒動でも,原発の再稼働でも,新型コロナでも,そういう非対称が目立つ感じがいまだにくすぶっている.例えば,STAP細胞でも,論文の取り消しをSTAP研究実験チーム自身が申し出てるわけだし,科学的に不正と判断されたことが4件かそこら確定しているようだが,NHKの特番では,論文全体の80%,90%も不正だらけだと言ってた老生物学者もいたが,算数もできないほど耄碌している生物学者がのさばっている現状があらわになっただけだが,世間には,そういうのをありがたがる科学関係者もいるのだろう.そういうアホチョンサイエンスは,科学的な検証もおかまいなしで垂れ流されるわけだから,これもやはり何らかの非対称がはびこっている証拠なのだろう.80%なら分子は4だから分母は5となるが,5て何の数字なのかさっぱり説明がないわけだし,耄碌しているかぼけているしか考えられない.自民党のパー券裏金問題でも,森元総理は,ちょっくら融通してもいいんじゃないか,まあまあ,うまいこと続けられるんじゃないかぐらいのことなのだろうが,森元総理関与か否やなんてなると政界びっくり箱というわけだから,これも何らかの非対称の存在を証拠づけている.分母についてもその他も説明がないわけだから,4/5×100はわし以外は80%になるとか計算できないから,わしの言い分は科学的に完全無欠じゃ,とボケの変な特別感がにじみ出て,愚民や凡俗な科学者は付き従うのだと確信して疑わない本音が出てしまっている,としか合理的な判断はできない.それが,サイエンスの最大の問題である.

「過去は思い出せるが,未来は思い出せない」ではなく,「過去は思い出せないが,未来は思い出せる」という,「記憶にありません」的な,疑獄関与の政治家や昔は政商とかフィクサーとか呼ばれていた連中の決まり文句は,手駒の政治家連中にはあまりご利益がなさそうである.私のファンタジーでは,「予感」ということで,「時間の矢」の悪用の意図はないのだが,アナログ時計のように今日の3時から明日の6時を思い浮かべられるというだけでない何かがセットされた状態を考えざる得ないということなのだろう.自民党は改憲の党だから,ムーンマザーのご機嫌をうかがいながら改憲案をまとめるが,流石にまずいので,修正案を出す予定である,という安部改憲論も,修正案自体がどういうものになる予定なのか議論も伝わらないが,とにかく,霊感詐欺憲法まではまずいから修正案を出させるということは,安部自身も言っているわけである.「記憶にない」が,改憲案の修正の方針には記憶が刻まれている.さつき議員もだんまり決め込むし,メディアもなんか気分タブー視し始める.「記憶にない記憶が意図的に刻まれ始める」.プーチンも習近平もそういう状態なのだろう.似てるわけである.イスラエルはどうか知らないが,グローバルサウスもプーチンや習近平がそうなら,それを利用しながらやっていくしかないじゃないかという気分でつながっているのかもしれない.

改憲にまつわる意見を出すと,じゃあ,どんな新憲法が良いと考えるのかとか,お決まりの反応が予想されるが,議論する意味はない.ロシアや中国のように,共産党と銘打ったご都合利権を除けば,例え霊感商売国家でも柔軟に取り込める憲法体系の目論見と,どう議論しろというのだろうか.議論など一切尊重する気もなくカルトの利益以外聞く耳持たない連中の口先議論に乗っかる方がおかしいわけである.ムーンマザーとかその亡夫のような,朝鮮半島の悪霊にとりつかれたような連中の悪霊三昧が日本のお祓いになるというのも,天皇が朝鮮半島の地縛悪霊の手下だからという箔付で成り立っているらしいのだが,竹田君に解明してもらえばいいのではなかろうか.現代の安倍晴明,竹田君ということで.パー券だって,有権者に,俺の選挙資金にお前の資産提供しろといういうような選挙強盗の実態が裏に隠れているという面もあるらしいが,カルト政治なんてものの実際はそんなものだろうが,自民がなびきすぎたことがパー券問題の本質だろうと思うわけである.もしそうなら,選挙なんて,マニラの偽ルフィが動き始めて,携帯で指示されたハングレ連中が何しでかすかわからないから警戒しなくちゃ期間ということになるわけだから,森元総理は,偽ルフィの上の黒幕的な立場に押し上げられて,5人衆とかは,さてどれがマニラのルフィでしょうクイズに使われるわけである.商売思うようにもうからん的なことが,そういう連中を支えている面もあるのだろうが,自民党がカルトになびきすぎることで,水で薄めよう的なことやるから,ややこしくなっちゃんたんじゃないだろうか.保守支持基盤の地崩れに自民党自身が乗っかかった格好になるということだろうか.そこらは,おもてなしパーク君のように,あらかじめばれていることでも結局ごり押しされるようなこともあるから,そこらは,竹田清明君には注意してやってもらいたい.

ウクライナ情勢やガザをめぐるイスラエルの軍事侵攻も,情報が少ないうえに,日本のメディアのように,ちょっと,中露の工作員じみた連中があれこれ仕掛けているのじゃないか的な,ぐにゃとした偏向報道に仕向けたい報道業界の寄生虫連中が,どっかの飲み屋のVIPルームで暗躍して,言わせているのじゃないかと疑わせるようなのも多い気がする.報道業界ではある程度の影響力を持ったのに取り入っているのがいるか,あるいは,派閥を作っているかだから,内部の人間には圧力に感じる事態が起きているかもしれない.ジャーナリストもやらせで持ち上げられたようなの多いから,大根芝居うってもらって,ジャーナリスト大賞とかにかませてもらおうてなことのほうにあれこれ手を打つ方が,ずっと得策であるてなのもいそうである.昭和おやじには鼻につくのだが,小泉だ安部だという,最近,また森だと,一部のご都合にとっていい人,あるいは,都合のいい人が,実質,何たら統一家庭協会バリのウソとごまかしで,メンツを保とうとするのにとりいる体のも多かった気がする.自民党がカネにクリーンになったら,ハングレ自民党予備軍がろくでもないことしでかして,公金横領だの,詐欺だの,強盗だので暴れだすから,企業に負担をお願いして,バランスで抑制している.だから,自民党なりの社会貢献のために,政治には金が要るという,窮屈な思いを,敢えて引き受けている.という理由があるのである.そこらに取り入らないと,自民党員でも,ジャーナリストでもダメダメなのである.そういうことが,モシトラ(トランプ待望論)と変に共鳴しているという,これまた,まぎれそうな論調にすり替わるのである.スタップ騒動の時の科学ジャーナリズムとか,一部の総連系ポイ学者の便乗態度とかみれば,想像つくことである.実質,理研側の釈明や説明あるいは報告番組以外,「やだ,捏造でしょ」とか「小保方さんの見栄か,理研から銭引き出すためでしょ」とか,科学的追及のふりをして騒ぎにしては,「ということで,そこのところ,今後よろしく」てきな裏算段で動いていたのじゃないかというのもいそうである.そういう裏算段があったからと言って,スタップ細胞があるかないかという科学的な判断とは,そもそも関係ないわけだから,騒ぎ立てやすいわけである.ハングレの下見のようなものである.あるいは,そういうやり口は,カルトの特徴にすごく似ている.さらにまた,こいつに情報流すと,そういう騒ぎしかけそうだから,情報を共有しないようにしておこうと思われている,一部の学者が腹いせやった感じなのだろうか.だから,難波とか吉村とか,東大の倫理研とか,アンチ科学がもてはやしたのではないだろうか.

ある意味,つまらないからくりだから,経済も科学も三流の国になっていいのである.たぶん,アンチに持ち上げられた連中では,世界もアホバカ程度でなければ,世界には通用しないから,日本の実力相応ということになるから.そうなったら,主犯は昭和おやじということになるが,新しい時代は新しい連中が賢く作っていくのではないだろうか.

ちょっと体調を崩したこともあるが,このページのテーマもちょっと大きすぎたが,世界のほんとの関心事としては,外れてないと思う.あまり,表立って議論にならないが,現実,アメリカでも,EUでも,グローバルサウスでも動き出しているわけだから,三流国日本のレベルでは荷が重すぎるが,そのうち,議論も本格化してくるのだろう.論者不在てこともありうるわけだが,それはそれで仕方ないことなのだろう.

アメリカの若者や学生のデモについては,学生は学び提言し異論を述べる自由がある.日本だと,反社的な組織が付け込んでくるとか,ハングレ気分の学生が便乗して,興味ないという学生の都合に付け込むようなほうへ行ってしまうとか,そういう事情が,教職員の間で,学生の分断を画策するようなある種の癖が内規になってしまっている感じもする.麻薬やちゃんこの詣で別だとしても.そういうことで資格と権利義務を失わせては,アメリカの大学は,魅力のないものになる.アメリカが世界に影響を与えうる国であり,そうであることに期待を持っている国々も多い中,学生のデモの意味や意義などゴミに等しいという態度はとってほしくない.大学側も,それなりの時間をかけて,学生のデモの意味や意義と向かい合って,議論を通じて,例えば,ウクライナやEUやイスラエルやパレスチナ,さらに,今後の世界におけるアメリカの指導力につながっていくべきである.そうでなければ,アメリカも結局,ロシアや中国や日本と同じ活力のない大国として形骸化していくはずである.大事なのは,アメリカが老いているのか,活力と思慮深さを備えた国であるのかであって,政治家の年齢など,棺桶と墓の費用程度のものである.

自動筆記というわけでもないが,社会事や人文的な話題は,結局,暇人のボケ化習慣に過ぎないから,哲学や倫理,文学的ブーム,カルト偽装宗教の蔓延,さらには,法の悪用,官僚OBなどの評論家,小泉や石原などの金融強盗カリスマ政治家,脳科学者や人気哲学者,日本のエコノミスト誌なのか中華系雑誌なのかわからないような論者たち,原発やSTAP問題,COVID-19パンデミックの時にひょっこり現れる総連系の老学者や論者など,ボケ化習慣を誘いそうな環境には事欠かない.言論のBSテレビショッピングばりのムリムリ感がある.そういう点は,戦前や戦後のどさくさの中でのブームと同じまま変わりばえがない.スケベエッチもジジババの時代の方が活気があった,というような郷愁が,女の子はみんなツルんとしたあごがスーととがった同じ顔の今時のオアシスも提供する.不思議な共存関係である.

文科系ではそんなのばかりだが,理系もそう無縁ではないのかもしれない.連分数だモジュラー変形だとか,二元二次方程式だというと,理系でも古色蒼然とした感じがあるようだが,一部には,新たに注目し始めるとか,単純に,古いものより新しいものという原則が当てはまるわけでもなさそうな話題もある.最近の,円安に伴う為替介入にしても,介入嫌いのアメリカが,実質,協調介入を許可したとも見えるわけだから,さらに,どういうことを見据えているのかという議論には発展しにくいのだろうが,とりあえず,物価か燃料エネルギーの負担が減ればという話とそう対立するものでもなかろうが,なんか,どっち向きにもどんぶり議論に群がる論者が増えるのだろう.

なんか,最近のメディアとかバラエティー関係の論調が,変に意固地な感じが多いとか,もっというと,犯罪グループの裏と表の顔のような感じのが多い気がする.例えば,STAP騒動(STAP問題とどう違うのかはっきりしない感じもあるが)も,いまだに,騒動の最中にいろいろ垂れ流されていた,小保方さんのプライベートや人格の決めつけだったり,割烹着のポケットはマウスをしのばせるのにはいいアイテムだとか窃盗容儀かけたり,そういうことまで騒ぎになっていたものだったが,日本の経済雑誌「エコノミスト」でさえ,そろそろSTAP騒動も落ち着かせなきゃ的な論調が出始めると,STAP問題だったかSTAP騒動だったかの総括なんて記事掲載していたが,案の定,いまだに「研究不正」だの「捏造研究」だのとぶりかえす.つまり,総括なんてされていなかったか,総括なんてタイトル倒れになっていたかということだから,どういう謀(はかりごと)で騒動が仕立てられていたのか,どんな連中が仕組んでいたのか,ちょっとやばいやつらじゃないかてきな感じで,タブー視されている感もある.それに,笹井博士が,科学的に意味のある反論はほとんど見当たらないと言っていたが,現在でも,決定的な科学的な反論があるとは,私は聞かないが,そこらは,専門家の判断だろうが,騒ぎになった話のけったいさは科学素人の私でもわかる.強いて言えば,国立がん研とか,第三者委員会の報告報道のビデオでも見れば,科学セミプロ連中ならわかるのじゃないだろうか.科学研究の倫理とかの好例として,STAP問題が引き合いに出されるが,中国かロシアかそこら周辺かの出先機関的な科学倫理なんて,文科省か省庁にそういったところの手下かスパイが紛れ込んでいるくらいの問題であって,STAP研究の科学性の認定には関係ない.最近の科学ジャーナリズムが,カマかけと詐欺への誘導的な感じの多いのは,科学ジャーナリズム内部の問題があるのじゃないのかと疑うが,そうすると,ますます,STAP研究不正なんて題目にすり替えて,紛れ込ませよう的な論調が多くなるのだろう.経緯を見ていたなら少しはわかるだろうが,その拠点になりそうな東大の倫理研がひょこり騒動の最中に顔出して,雲隠れする流れになっているのじゃないのだろうか.日本の研究倫理なんてのが深まっていく流れよりも,闇の動機のようなものによって解体しているのが現状ということになるのではないだろうか.ついでに,「STAP細胞はあるのかないのか」とか,「STAP細胞はあります」とかよくアンチSTAP連中が言うのだが,答えは,再現検証実験の報告報道の中で答えられているのだから,「200回以上STAP細胞を作った」というから小保方さんは嘘言っている,私自身は若く見られそうな小保方さんの割烹着姿でお知らせ報道されていた映像でしか知らないが,という仕込みジャーナリストの感想をもとにメディアが騒ぎを煽った程度にしかみえないが,そういう意味では「STAP細胞はあるし,理研のお目付けもお墨付きをあたえているのだから,小保方さん圧勝」という答えである.論破論破なんて仕込み話題程度ならそういえるわけである.STAP細胞はあるかないかということより,200回作れても,それでは足りないから,小保方さんの提案で一回の実験でできるSTAP細胞を増やせるような手法に変えて再現実験は行われたが,体調とか実験に疑惑晴らしののような制限がついた影響も考えられるが,手技に影響したのかとかいう話もされていたわけだが,さらに敢えて付け加えれば,「期待していたのだが」結局,もともとの手法より減ってしまった,よって,以後の予定は中止という理由だから,あるないなんて話どころじゃないわけだし.逆に,あるないだけの疑義なら,小保方さん超楽な立場だから.ストレスのかかった細胞の半数は死に,生き残った細胞が活発に動きだして細胞塊を作りはじめ,蛍光云々という見極めもやっていたのだろうから,ただそういう細胞があったかなかったのかといわれても素人に判断つくわけないじゃないか.いまだに不可解なのは,遺伝子再構成もそうだが,染色体異常も,STAP細胞がないことの科学的に決定的な証拠と言われたものが,実はそうでもなかったという,素人の私にはちょっと判断難しいが,アンチSTAP連中が,そうなると追及無視して,ゴシップ週刊誌並みの印象操作のぶり返しやりはじめる.科学的には,専門の科学者が科学的根拠からそういう研究には関心も示さなくなるとか無視することが,科学界の結論になるという話だったと思うが,アンチはなぜこだわるのか.ご褒美もらえる裏算段に協力したのに,まだもらえてないじゃない.どういうことなのかしら,なんてことだろうか.そういうことで,これは総連系とかの組織的なやらせではないかと疑い,そこらも検証すべきではないのかと考えるわけである.科学的な有益性はないが,社会的な有益性はあるのじゃなかろうか.科学的に有益な情報は,やはり,理研にも反発があるようだが,理研の提供した説明会見番組等で述べられていた内容を確かめるのが一番だと思う.いまさら,決定的証拠になるはずの小保方さん窃盗容疑も,警察の調査ではそういう窃盗容疑に当たる事実が存在すると認められないという判断だが,これも誰がそういうビデオを証拠としてマスコミにリークしたのかとか,パタリと示し合わせたように口つぐみ始めるわけだから,それでも,STAP細胞の科学的な存否の認定に関係ないが,ちょっとやらせを感じないだろうか.そこらも,うちら知りません.そんな話もあったんですか的なすっとぼけに終始するわけだし,なんかおかしい.そういうのをマスゴミと揶揄せば一言だが,ちょっと悪質さが過ぎる気がする.中国のことわざなら李下に冠を正さずとか教訓垂れそうだが,そんなこと関係なくはめようという話だから,ちょっとハングレの屁理屈バカ騒ぎに似たものを感じる.こういうことも今更感はあるが,アンチというのがいいのかわからないが,そういう連中のはらづもりてどういうことにあるのだろう.私にはよくわからん.STAP細胞がもし認められていつノーベル賞もらうんだろうとなっていたとしても,私には,STAP細胞なりSTAP現象てどういう細胞なんだろうとか,再生医療とか難病治療とか関連の新たな発見と併せて,どういう風に具体化していくのだろうとか,そういう疑問を抱き続けている事だろうが,研究不正だの,STAP報道に限らず,福島原発事故や,新型コロナ報道も,なんか,一部のムリムリやらせ感があって,ちょっと不気味な感じがする.もちろん全部が全部というのではないが,報道自体がアメリカか露中か的な分断を演出している感じさえある(日本では,日本と北朝鮮化中国の分断とか).とすると,そういう政治的な意図が科学報道に支配的になって,科学自体はそっちのけという仕込みだけが目立つ事になるが,研究倫理だとかいうのだが,東大の倫理研のように,そういうことのカルト化拠点になる危うさを感じる.なぜ,そういう点にはメディアはタブー視するのだろうか.メディアの一部にカルト的な連中がいるからだろうか.科学報道の裏ボス的なのがいるからだろうか.それとも,科学カルトのネットワークでもあるのだろうか.そこらも,変な歪み報道に影響しているのだろうか.科学報道の森ムネオとかいそうだから.

残り4000字ほどであるが,いまさらSTAP騒動について私見をのべてみた.小保方さんの「あの日」とか,ブルーバックスのSTAP研究不正についての本が2冊か書店で見かけたが,私は読まない.小保方さんの謝罪会見について,いろいろ問題は指摘されているが,それなりに分かるし,そこでの話には齟齬もあるだろうが,そこも小保方さんなりの釈明をしてるわけだから,それはそれでいいのではないか,と思うこともあって,「あの日」にグラビア写真でも挿入してあればもっと売れたのじゃないかとか,そこらはちょっと世間の皆様に怒られそうなので,言わないことにして,まあ,そういうことで読まないことにした.高校生の頃,ペントハウスだったかもう一方の方(プレーボーイ)だったか,安かったから買ったら,古本屋のおやじに睨まれたこともあったが,昭和おやじなんてのはそういうものである.次第に,古本屋も見かけなくなったが,古書店に続く坂道を登っていく途中で,異次元のメロディーのような風を感じて,......,そういう風情が少なくなったのはわびしい気もするが,複雑な男心というものである.なんちゅってではあるが.陽の当たる坂道しか登ったことのない私が,一瞬感じた異次元のメロディーなんて,風情だと思わないだろうか.アニメにしかなさそうな体験だが,私は記憶にある.

 

 


情報(communication)と思考についてパロってみる

2023-09-29 10:30:29 | 科学(Science
  • 情報(information)というと,コンピュータやインターネットとか,そのセキュリティーの仕組みとか,軍事とか,経済分野などでは,特に,誰もが欲してやまないことは当たり前なのに,なんとなく,あまり触れたくない一大理論分野になっている. C.E. Shannonとか,ノイマンとか,N. Wienerのサイバネティクス(cybernetics)という学問分野の提唱とか,およそ,数理や言語学一般にまたがる関連が読み取れるから,規模も大きいし,国際組織も多いだろうし,一人でどうこうなる代物でない感じも強い. 

量子コンピュータなどの話題も,素因数分解イコール暗号解読ということが成り立つかどうかはわかっていない,暗号系によりけりなのではないか的なことが数学辞典には書いてあるから,少し偏った話題作りの面もあるのかもしれない. 社会的には,それでも,そういう面が関心事なのだろうから,私的にはどうでもいいが,私のパロディー思考には,暗号理論や情報理論の補強が必要かもしれないという,ファンタジーな理由から,ちょっと,テーマとしてまとめていこうかなと思い立つわけである. 

もちろん,こういうことへの注目は,結構,以前から提示されているわけだから,それでも,未だにくすぶっている話題であることをみると,いったん,私のパロディー思考に落とし込んで考えてみるのも,そう無駄ではない気もするわけである. 

ロシアのウクライナへの軍事侵略では,ハイブリッド戦とか,特に情報戦の重要性が強調されていたが,実際には,情報戦というのも,古典的な戦闘などの状況で,その評価も変わっていくもののように言われはじめたが,肝心の内容については,戦時だから,わからないというわけだから,わからない. まあ,こういうリアリティーも,私のパロディー思考とそう違わない気もしてくる.

情報科学(information and computer sciences)は,通信(の対象としての情報)や情報処理などを数理的に研究する学問分野ということだから,私のパロディ思考の風景とは違って,記号化したり,数量化された対象を数理的に扱っていくのだろうが,それでは単なるお勉強とか,軍や政治家のための諜報活動のサラリーマン仕事ということになるわけだし,私には何のメリットもないので,できれば,そういう制限なしに,自分の思考を解析してみたいわけである. といっても,政治家などは,情報を科学的に扱えないから,どっか,ご都合カルト体質になっているわけだが,それも困るので,確率過程論とかを随時参照しながら,中国や韓チョンカルトの回し者的な論調にならないようには気を付けたい. 私の観たい風景は,そういう風景だからである. 

何故,私は,ススキに,「存在はある」ではなく「存在は予定されている」という伝達を読み取ったのだろうか. 当時の小学生になりたての私には,なぜ,「ある」ということより「予定されている」ということの方が確からしく感じられたのだろうか. いまだに,理由が見当たらない. ススキの花言葉が「活力」とか「心通じ合う」とかだそうだから,うん,確かにいい感じと感じたのだろうか. 当時,ススキの花言葉など知らなかったはずなのだが. ススキから,ススキとの公開キーを渡されたということになるのだろうか. 「存在は予定されている」がアルゴリズムというわけだろうか. ススキと心通わすために. 予定された木の葉のほかに何が予定されているのか,また,そういうものはその他にどれだけあるのか. それを見つけていくというアルゴリズム. なんともである. なら,ススキに教えてもらえばよさそうなものだが,そこでは,私は私に移動している. 「仕方ないから,とにかく,自分で探すしかないんじゃないか」とTVゲームなら誰かが吹き出しそうな場面である. 

冷静に考えると,予定された存在がキーであり,それを見つけていくことがアルゴリズムなのか,私が私に移動することがキーであり,その移動を辿ることがアルゴリズムなのか,両者が必ずしも一致するとは限らないわけだが,シーザー暗号(アルファベットの各文字をk字ずつずらすという暗号)のような簡単な暗号と結局は同じものを比較しているのと同じことではないのか,という感じである. もちろん,予定された存在とか私の移動とか,明確にはわかりようもないものだから,あくまで,ファンタジーではあるが. シーザー暗号では,kが暗号キーであり,k字ずつずらすという操作が暗号アルゴリズムである,と書いてある(数学辞典). ファンタジーではあるが,同様に考えると,一挙に同時に何個も見つける,あるいは同時にいくつも私が移動するのでなければ,k=1としか言いようがないので,暗号アルファベットを生成しながらアルゴリズムを辿る感じに成る. 

データベースから自分の欲する情報を抽出した部分的なデータベースであるトランザクションを簡単に作れればいいが,そのための複号キーに当たるものは与えられていない. 自分の欲するデータがどういうものであり,そのためのキーが手元にあるならいいのだから,そいうものも同時に生成していくしか手段がない. 情報を必要とし,有用な情報を抽出したいと欲しているのは,情報を送りたいと思っているものと,その送り先の受信者だけでなく,その情報を横取りしたいといろいろ仕掛ける敵の存在もあるわけである. 情報をやり取りさせたくなければ,破壊活動に及ぶジャミングなんてことも,電子戦などではおこなわれているそうであるが,私のファンタジーは,ジャミングしても破壊されようがないから,逆に,そこらには,何者かにとって意義を有する情報がありそうだというGPS信号の代わりをしてくれそうである. ジャミングされるといっても,私が,予定された存在とか,私の移動を確認していくうちには,はたしてそこに本当に意義のある情報があったかどうかも定かでないが,何らかの修復を果たしていることになるから,不都合はないわけである. 敵にとってはどんな意義があったのだろうと,敵側に関する情報が増える仕儀になればお得である. 

私のファンタジーは,図らずも,敵の攻撃に対して強安全(semantically secure), 敵の暗号攻撃に対して最も安全な暗号系,あるいは,超強安全な暗号系になっているのかもしれない. カキーンと音がして無敵になる魔法アイテム発動ではないが,敵の攻撃に対して暗号系が安全かどうかが重要なことであろうことは,まあ,察しが付く. 「強安全」というのは,数学辞典では,選択平文攻撃や選択暗号文攻撃のいずれかの攻撃をおこなう任意の確率的多項式時間アルゴリズムが,暗号文cから平文m全体を求めることが困難なとき,その暗号系は完全解読の意味で安全といわれる. 同様に,暗号文cから平文mのどんな部分情報も求めることが困難なとき,その暗号系は強安全(semantically secure)といわれる. ということである. 

サイコロを振ってどの目が出るか,という観察を行ったとき,お約束として,出る目で可能性のあるのは,1,2,3,4,5,6のどれかであり,それぞれの目の出る確率に,等しく1/6を当てれば標本アルファベット空間{1,2,3,4,5,6}で1,2,3,4,5,6が標本アルファベットということになる. しかし,ファンタジー思考のアルファベットや暗号空間はどういうものかといえば,例えば,予定された存在を,木の葉,橋,小鳥,......, あるいは,私s1,私 s2, 私s3, ....... ,  として,その出現確率をp1,p2,p3,......, とすると考えても,10個あるのか100個あるのか,無限にあるのかも定まっていない. 仮に,予定された存在は何個あるのかと尋ねて,3個あるとか,7個あるとか,あるいは,1個だけだ(キリスト教なら,イエスキリスト以外にないから一個だけだ,という話になるのかもしれないが),p_iのi=1だけだから,すべてその前提で考えろ,なんて窮屈で頭の痛くなる制限を置かないとすれば,不定ということになる. それに,p_1=1だという話ではあるが,p_1=0(1-p_1)の場合もありうるから,サイコロを振るというより,コイン投げで1/2, 1/2を割り当てるのと同じじゃないかということになる. キリスト誕生の予定はp=1であるが(神の予定だから),もしローマ兵に殺されたらとか,母マリアが,何らかの理由(理由はわからないが)で拒んでいたらとか,そういう場合を想定して聖書の話になるのだろうから,予定が成就される確率をp_1=1/2, 成就されない確率をp_2=1/2と割り振ることに等しいという変換が生じていることにならないだろうか.  コイン投げを観察して,表が出たことを確かめれば,表の出た確率は1で,裏の出る確率は0というふうに収斂する. コイン投げの試行を無限回繰り返して,結果を記録しておくとすれば,表,裏の出る確率は各々1/2に収斂する. でも,ファンタジー思考にはそういう根拠がない. 私のファンタジーの例では,そもそも何故,私は,ススキの暗号をデコードして受け取れているのか,そこからして,謎である. まあ,もちろん,私自身のディスクールをススキが言ったことにしているだけという面はあるが,それとしても,私は,何故,「情報と確率」的なテーマを,ススキに託したのか,謎である. 託す相手がススキである確率を1/n(n < 無限大,あるいは,n→無限大)とすれば,ほとんどレアなcaseか,想定ほぼなしという感じになる. nは有限でも結構多そうだとなれば,まして無限大となれば,ほぼ0ということになるから. 

そもそも情報て何ということになると,感じとしては,情報は,何事かに関する私の知識の不確かさになんらかの作用を及ぼすもので,情報をもらうことで知識の不確かさがどれだけ減ったかを量化して測られるのが情報量である. そして,数学的に妥当する情報量の定義として,「確率pの事象が実際に生起したことを知らせる情報に含まれている情報量を, - log_2 p ビットと定義する」(以下,甘利俊一著『情報理論』から).  - log pは事象Aが起ったときの情報量であり,事象Aが起らなかったときの情報量は - log (1 - p)となる. 

話を少し一般化して,n個の事象にそれぞれ確率p_1,p_2, ...... , p_nが割り振られているとして,得られる情報の期待値は,I=-Σ p_i log p_iである. 状況の不確定度を表す量であるエントロピーを,「n個の事象がそれぞれ確率p_1, p_2, ......, p_nで発生するとき,どれが発生したかの不確定度を,H(p_1, p_2, ...... , p_n) = -Σp_i log p_iと定義し,これをエントロピーとよぶ.」 「情報を得ることによって,状況のエントロピーがHからH’へ変わるとき,この情報の持つ情報量を, I=H - H’ とする」. 何らかの関連のある事象A, Bがあり,BのエントロピーH(B)から,Aを知ったのちにも残るBのエントロピーH_A(B)を引いたものを,I(A, B)=H(B) - H_A(B)と書き,AとBの相互情報量とよぶ. 

情報を数理的に扱うために,情報というもの一般に通じる共通の本質から辿ると,『情報理論』のほんのさわりの部分ではあるが,上記のようになるということである. 確率論のおなじみの概念と重なるわけだが,情報理論あるいは情報に関わるとなると,ちょっと,集合論や確率論のときより緊張する感じがある. 「考えるて何だろう」とか「思考とは」と,改めて問うと,「あいつは,闇の洞窟から光をまとって飛び出してきたやつだ」というTVゲームのセリフのような,特別感が伴うからなのだろうか.

子供の頃の語彙力で自分の思考を繋いでいくわけだから,当然,私は,日本語で考えていた事になるが,木とか花とか,ススキとか木の葉とか,あるいは,木の葉の予定性を知って,s_rの私がs_(r+1)の私になっているとかなると,木の葉とか,ススキとか,......., あるいは,私s_rとか私s_(r+1)とかが個々のアルファベットあるいは文字ということになる.{花,ススキ,木の葉,....}とか{s_r, s_(r+1), ......., s_t}とかが標本空間というのか見本空間というのか,ということになる.「あ,い,う,え,お,か,......,ん」はどういうことになるのだろうか.それに,実際の経験では,「花」「ススキ」「木の葉」という順番でみたわけだが,「木の葉」「ススキ」「花」でも「ススキ」「花」「木の葉」という可能性もあったはずだが,そうすると,私のディスクールはだいぶ変わったものになるはずなのだが,そう劇的に異なる感じもしない.考えるということにはそういう不思議さもある.

 

2,200円のcore i7 TVパソコンを購入した.初のi7である.Windows7の入った2テラバイトのハードディスクを512ギガバイトのSSDにして,メモリ増設して,Windows10で快適である.ノートパソコンも,ちょっとまえに3,300円で購入してあった.ワンピースサングラスも1000円ほどで買ってあった.それと,珊瑚色の万年筆.ジャンクで一応使えるTVパソコンが3台になった.これで,情報科学を支配する準備は万全である.情報科学は,「通信の対象としての情報を研究する通信に関する分野と,コンピュータなどによる情報の処理を研究する計算機科学」という代表的な研究分野からなっていると書いてあるからである(『数学辞典』).なわけないが,情報を扱うには,コンピュータは不可欠であることには違いはない.個人的に使えるソフトとしては,EXCELとかRとか,octaveやscilabとか,GIMPとか,pythonとか,えらく本格的なフリーソフトの世界のレベルの話じゃないと実感しづらいが,本来,コンピュータもそういうものを実現するためのものなのだろう.ブログ書くとか,YOUTUBE動画観賞がついついメインになってしまっているが.

しかし,日本のコンピュータ環境というのか文化というのかは,私が文系人間だからなのか,ずいぶん中途半端な感じがする.工場の生産ラインでPC98は大功労者なのだろうし,理研のスパコンも世界のトップレベルなのだろうが,リテラシーというのか文化というのかは実感がない.技術力も専門的な知識の蓄積もあるのだろうが,逆に,日本独自のシステムとかなると,偏った政治家の意向にそうような素人の忖度と便宜供与のもたれあい業界になっているのじゃないのか的な感じを受けたりする.私のパロディー情報論と親和性が良さそうな感じがしてくるが,ハードウェア的な制限とか,主観的な思惑から離れて,数理的に研究するのが情報科学であるというのだが,日本では,そこらがうまく認識されていない,行政とか企業とかのしがらみを温存させたままの造作になっているのだろうか.やや恣意的に,政治家などもそこらの事情に便乗した物言いを売りにしている感じもある.その分,行政や企業や政治家にとっては,難しい解決になるのだろうか.

最近の政治関連の論調をみると,米はもちろん西側のウクライナ支援に,当然,日本としては米政権に歩調を合わせる必要があるわけだが,日本政府も,ウクライナ,インド,中東,アフリカの潜在的な新展開をあてにして,前のめりになりすぎじゃないか,そこは,狐のようにずる賢いスタンスを保つべきじゃないか,とかという不満がくすぶっているかのような話になっているが,そこらを,冷静に分析判断して,それでも,軍事侵略という手段で支配権の確立を目的とした現状変更の動きは否定する,という立場を堅持する必要があるわけだが,平和ボケしている日本というより,どこかゆるい日本という感じはそうそう都合よく変えられるものでもない. 私も,そうそう都合よくは変われないから. それに,ちょっと極端に言えば,日本の自衛隊の武器とか弾薬とか,自衛隊員を,北朝鮮と同レベルで,ロシア,ことによったら中国に提供するのが日本の幸せ的な論述にはまっているなんてことが,現実にとれるだろうか. こんなことが,国民一般の論争とは思えないが. そういう論争を演出するために,マザームーンが岸田総理を呼びつけて命じる的な寸劇を,森喜朗元総理とか,小泉元総理とか,そういう神輿連中が裏で画策しているなんて話がそんなに日本にとって肝となるだろうか. 私にとっては,女性に一般的なのかどうか知らないが,マザーの八つ当たりヒスは辟易するほど十分なので,マザームーンもおばあちゃんだし,うまくなだめられる森喜朗とか小泉とかに全任せでいいのではないだろうか. こういう政治話は,論理的に飛躍してるのか,論理的な断絶があるのか,そもそも,そんな話でもないのか,ちょっと,よくわからん感じもつよいので,適当でいい気がする. 例えば,岸田総理がマザームーンのところまで出向き,自衛隊の資源をロシアや中国に提供するなんて話が現実に生じたら,論争どころの話ではなくなるにきまっているわけだから. 日本の論争では,そういう阿保イマージュが出現しやすい. 不思議なことである. 

不思議といえば,私のパロディ思考にも,潜在的に,何かしらの根源的なイマージュが前提とされていて,顕在化しないまま,パロディー思考を浮遊させている的な感じもしなくはない. もしそれがどういうものかがわかれば,[ω_1: 花,ススキ]とか[ω_2: 花,ススキ,木の葉]とか,[ω_3:妖精,犬,猫,ヤギ」とか,ある種のデータ系列が確定して,「あ,い,う,え,お,か,~、ん」の言語体系がデコードされるのかもしれない. そういう根源イマージュの存在を巨大基数の存在と同じように考えてもいいのだろうか. そうすれば,パロディ思考の不思議の側面にも,少しめどがついてくる. まったく理解していないのだが,巨大基数なんて専門用語を引き合いに出したからには,『数学辞典』からコピペ盗用すると,巨大基数の公理とは,

(i) それより小さい基数(cardinal number)に対する超越性を持ち,強い数学的命題を成立させる基数の存在を主張する.

(ii) 巨大基数κについて成り立つことは,κより小さい多くの順序数について成り立つ.

(iii) アレフゼロの性質を一般化する.

の特徴を持つ基数の存在を主張するような公理を指す.

しかし,そもそも,基数(cardinal number)というものが,集合の濃度というこれまたわかるようでわからない数学用語に関連するもので小難しい. そこで,例のごとく,数学辞典からコピペ盗用する. 

まず, 順序数αとは,

(i)  αは`β∈γまたはβ=γ'というβとγに関する2項関係を順序とする整列集合である.

(ii) β∈αならばβ⊂α

という条件を満たす集合αである. (ノイマンによる定義).

そこで,基数というのは,順序数αがαと対等な順序数の中で最小なものであれば,αは基数と呼ばれる. 整列集合(well-ordered set)とは,全順序集合Xが極小条件を満たすとき,すなわち任意の空でない部分集合が最小元をもつとき,Xを整列集合といい,その順序を整列順序(well-order)という.  こんな感じである. なじみ深いものとしては,超限帰納法や自然数の場合の数学的帰納法の基礎ということらしいが,『解析概論』の最初の対等な公理群などが印象的だろうか. 

 指示するものと指示されるもの,ノエシスとノエマの巨大基数とか. 剰余定理とか. 私のパロディー情報論というのかファンタジー情報論思考では,こんなことにリンクされる手ごたえらしきものを感じる. 

『情報理論』に,「確率的に生起すると考えられる事象があるとき,どの事象が起ったかを知らせてくれる情報の量は,事象の確率分布に基づいている」とか,「次から次へと情報を発生し,しかもこれから出てくる情報は過去の情報に依存して確率的に定まるようなものを考え,これを情報源と呼ぶ」とか,情報源を確率過程と考えるには,例えば,「木」とか「犬」 とかいう概念は,木とか犬という映像に「木」とか「犬」という記号を対応させてあるだけのことだ,というだけでなく,「木の根元に寄り添う犬」というような,ションベンしているのか涼んでいるのか,どっちともとれるような感じがまず思い起こされる. 「木の根元に寄り添う犬」の前に「に」がくる確率とか,「に木の根元に寄り添う犬」のまえに「め」がくる確率とか,まあ,「涼をとるために」とか「ションベンするために」とか,そういうことを考えていることになる. そうすると,何らかの対応関係を,「木の根元に寄り添う犬」の前に「に」が対応する値を定める関数関係をセットしなければならないことになる. といっても,確率過程論とか情報理論とかは,ちゃんとした数学的体系になっているのだろうから,それにしても小難しそうだが,変に混乱だけ誘うことになりかねないが,ちょっとパロってみるのも,案外,理解の役に立つかもしれない. 余談だが,ポーランド記法とか,優れた記法という評価が言われるのだが,プログラミング言語とか,あるいは,文化的な原動力とか,なじみが浅い分,実感が難しい.

 伊藤清著『確率過程』岩波書店の冒頭の例では,甲,乙の2人が硬貨を投げて早く表を出したものを勝ちとする. 甲から始めるとして,甲の勝つ確率は何かなどの問題を考える,という簡単なゲームポイ例が論じられている. 

甲が最初のコイン投げで表を出せば,そこでゲームは終了で甲の勝ちが確定する. 甲が最初に裏を出せば,次に乙の番(ターン)で,表を出せば乙の勝ちだが,裏が出たとすれば,今度はまた甲の番で,表が出たら甲の勝ち,裏がでれば,乙の番ということを続ける. 表をO裏をUで表せば,起こりうる試合経過は,ω1: O, ω2: UO, ω3: UUO, ......,ω∞:UUU....... と表せる. ω1は表が出るか裏が出るかは同程度に起こりうることなので,確率1/2を割り当て,残りの{ω2, ω3, ...., ω∞}全体に1/2を割り当て,同様に,ω2に1/4, 残りの{ω3,......, ω∞ }全体に1/4を割り当てる. 以下同様に続けていくと,ω1, ω2, ......, ω∞の各々に割り当てられる(分布される)べき確率はP(ω1)=1/2, P(ω2)=1/4, ...., P(ωn)=1/2^n, ......, P(ω∞)=0となる. 試合経過の全体の集合{ω1, ω2, ......, ω∞}をΩで表せば,Ωの部分集合Eに分布される確率はP(E)=Σ_(ω∊E)P(ω),部分集合Eに属する各ωの確率の和を対応させたものということになり,この集合関数P(E)を確率分布(probability distribution)という. 初項1/2, 公比1/2の等比級数の和だからP(Ω)=1であることもわかる.  

P(Ω) = 1/2 +1/2^2+...... + 1/2^n+.....+0=1ということだが,もしΣ n/2^nを計算しろとなったらどうなるのだろう. {(n+1)/2^(n+1)}/{n/2^n} (n→無限大)の値ρ=1/2は1より小さいからこの級数は収束する(ダランベールの判定法)が,結果だけ言えば,その値は2という話である. 

ネタはバレバレだが,Σx(ω)P(ω)=1/2+2/2^2+...... + n/2^n+......+0=2 (ネットででもググると,S-(1/2)Sとして求めればいい)はすべての試合経過を見本空間とするときの,見本空間の上で定義された関数である確率変数x(ω_1)=1, x(ω_2)=2, ......., x(ω_n)=n, .....,それをx(ω)と書くと,x(ω)の平均,つまり期待値を求めることに当たる. 勝負の決まるまでの回数は平均2回というわけである. また,甲が勝つ確率は,ω_nのnが奇数の時の確率P(ω_(2n+1))を足し合わせたものだから2/3というわけである. S=1/2 +1/2^3+1/2^5+...... として,4S=2+Sだから,4S-S=2,S=2/3.とか入れ子っぽい. 

しかし,私のファンタジー思考では,どうやって,こんなゲームを繰り返せばいいのか,ちょっと,途方もない. 一個しかなかった,2個しかなかった,3個しかなかった,......, を確かめる方途がない. まあ,1個はあったという前提でのファンタジー話にはなっているのだが. 

話は脱線するのだが,日本でも中国でも,あるいは,ほかの地域でも,思想的に優れているからその思想を掲げる勢力が国を作り,周囲を平定して大国になる,なんてことよりも,怪しげな適当に取り繕ったような思想を掲げて,無頼,やくざ者的な集団を取り込みながら,うまいこと権力やライバルの腐食に食い込みながら,権力を奪取し,表向き,仏教やキリスト教などの宗教を掲げるということも多いが,最近の自由主義や民主主義も実は妖俗な宗教を根幹としながら,それを取り繕うための看板宗教として,仏教的な伝統とかキリスト教やイスラム教的伝統とかを表に立てる類のものになり果てているのじゃないか,自由や民主主義がそのような定義づけされて,そこをグローバルサウスとか,統制独裁勢力の仮想の踏み台にしているような論調を演出しているのではないか,そこは,日本の政治でも同じような面があるのじゃないか,そういうことで言えば,鈴木宗男のロシア訪問も,維新の政治方針も,そういうリアリティに即して評価すべきではないか.何なら,森喜朗とか小泉とかも,ロシア訪問して,ロシアの戦争犯罪を認めさせたうえで,国際社会の進展に貢献してもらう方向に努力してもいいのではないか.バーチャル分断などだれも望んではいないのだから.自由思想や民主主義思想が無条件で善であるという話なら,自由主義や民主主義は無条件で悪であるという話が対置されるということになろうが,自由主義や民主主義がどういう負の側面を持っているかとか,あるいは,それらをどう改善するかというような本当のプロセスにどれほど機能するのかとか,そういうことも問題から消えてしまうわけだから,答えなどあろうはずがない.答えなどあろうはずもないことをうたい文句にすれば票が集まるという風潮が青木や福田や森喜朗などの政治姿勢ということになるのだろう.

確率過程論の教科書の説明なら,連続体の測度というのか,Borel集合とかルベーグ測度とかの説明という流れになるのだろうが,集合論とか群論とか,リーマンとか,分厚い数学書の説明を読み込むようなことになりそうである.Book Offに出かけて,コンピュータ関係の本を数冊まとめ買いして,『暗号技術入門 秘密の国のアリス』結城浩著,SB Creative の最初の章を読んでいるが,話の流れから,「考えるて何だろう」という自分の思考のパロディーを述べることから,暗号体系の話が相性がいいのではないかということになったが,そもそも,暗号体系の基礎的な学問的なことは,普段の生活で意識せずに利用しているたぐいの話を除けば,ほぼ無知なので,手当たり次第という状況である.例えば,超強安全な暗号系という魔法アイテムの話も,one-time pad(使い捨てパッド)とかVernam(バーナム)暗号ともいう,平文(当然,この場合には,それをビット列に変換しなければならないことになるが)と暗号化キーとして用意されたランダムなビット列とのXOR(排他的論理和)をとることで生成される暗号(cipher, サイファー)があるということで,私のパロディー思考は,ゼロ思考の列のようなものと考えられるのじゃないか,サイファーの語源がアラビア語の「ゼロ」ということだから,という奇妙な土台を得る感じがする.以前に,思考のゼロとか造語して言った覚えがあるが,それが,話の流れから,ゼロ思考列という,これまた,私のご都合造語に変わってしまった.復号のためのキーが,どうやってか伝送されてきて,そのキー(使い捨てパッドでは,疑似乱数ではなく真正な乱数を使う必要がある.だから,この暗号では,真正ランダムに生成されたビット列ということだろう)を使って,暗号を復号して平文に戻すことができる.理想で言えば,復号キー(この場合は,暗号キーと同じ)を意識する必要もなく,ススキの言葉が平文として聞こえてくれば,それにすぎることはない.ススキがマルチリンガルなのかどうかは知らないが.

『数学概説I』から,関係O(順序OrderのOかも)が,順序の公理

(1)  xOx (反射的関係)

(2)  xOy, yOz ⇒ xOz (推移的関係)

(3)  xOy, yOx    ⇒   x = y (反対称的関係)

という性質を持つとき,Oを順序関係という.台となる集合Mと一つの順序関係Oを組み合わせ定義された(M,O)を順序集合という.x, y∊Mに関して,xOyまたはyOxのいずれかが成り立つならば,x, yは比較可能であるという.Mの任意の二元がいつも比較可能であるとき,(M, O)は全順序集合(線形順序集合または鎖とも)という.一つの元(要素)からなる順序集合または空集合は全順序集合である.

ある集合Xのベキ集合に確率分布をとるとか,Xが実数の集合の場合にはベキ集合をとるのは難しいか不可能であるが,ルベーグの分解定理によって,任意の分布は,純粋不連続分布,絶対連続分布,特異分布の凸結合(convex combination)で表すことができる.

私のブレイン・ファンシーでも,通常の時間をもとにした順序関係は保たれそうなのだが,こんなことを考えて次にはあんなことを考えたとかは覚えているだろうから.

ウクライナやイスラエルでの戦争や紛争をめぐって,もともと,事あるごとに,ヨーロッパの火薬庫といわれ,いわれていた周辺で爆発が起こっている.日本に仲介や調停の役割が期待される的な話もちらほらあるが,ユニークな浪速のおばちゃんムーンマザーの気まぐれに,与野党が対応を苦慮しているような仲介や調停が見ものなのだろうか.これだけ全国的な話題になれば,政党にもいろいろ裏事情が露呈しそうな心配に配慮が働く難儀が, ウクライナにもパレスチナやイスラエルの紛争にも気遣われて気が重いということなのだろう.はては,日本人の心のふるさとである皇軍国家へ回帰を画策する右翼の思惑も働くとか,すきにすればいいのである.大概その程度で騒いで終わるのがおちだから.そういう一部の思惑が民意となり,民意と国際情勢上の国家の行動に断絶が生じるという,流行の「分断」というはやり言葉に貢献できることになる.イギリスとトルコが戦争すればいい(英がオスマントルコ勢力に対抗するためか英米の覇権交代の必要のためか,トルコにも原因があるが,英米の覇権競争に利用という意味もあるのか),という分断にも貢献できる.さらには,中露と日米が戦争すればいい(中ソ友好同盟相互援助条約,1950年.スターリン,毛沢東.EUやNATO,  日本や台湾,東南アジアでのロシア・中国の権益拡大と正当化のための第3フェーズの中露関係を宣言しているような演出アピールを行っている感じだから),という分断にも貢献できる.ロジックで言えば,そう馬鹿げてもいない.

エジプトだけに負担を押し付けるなとか,そういう話も当然生じるだろうが,そこは知らんぷりてきな,正義の安売りが宙に浮き始める.それが人類の未来であるという,なんか不完全燃焼な人類社会の態度が定着していく.ムーンマザーに貢献し尽くせ,と浪速のおばちゃんの高説が世に鳴り響く.おめでたいことである.おめでたい話をおめでたい話で笑い飛ばせない,変な評論家や専門家を名乗る連中が,メディアで小金稼ぐ.そういうご時世である.

古代においては,ユダヤの指導者は,海を割ってエジプト脱出を成し遂げ,約束の地に王国の礎を築くことになる.実際には,帝国だの王国だの,新興勢力だのの興亡が入り乱れて,そのスケール観や混沌の状況に対する感覚は,スケールは限定的でも,類似のことは,日本の歴史にもあったとしても,日本人には少しわかりにくい感じが付きまとう.シオニズム運動から,イギリスのパレスチナ委任統治の廃止でイスラエル建国とか,覇権国家の内情とか外部事情とかも絡んで,さらには,現在では,新覇権国家アメリカの中東政策も絡んで,さらに,混沌とか,中露の結束の確認とか,二極化をにおわせながらの小亀裂の股下軟膏なのかの動きやらで,オジンやオバンの意味深な腹の探り合い的な,うざい空気が流れる.うざい空気の原因はそれだから,免疫は多少はある.

案外と,中東をめぐる議論は盛んでも,その歴史的なほんとうの内容は整理されていないという,情報の少なさが印象的だが,『西洋史辞典』などから盗用しながらたどってみると,遊牧民の生活から定着して暮らしたいということで,ホームとして定めたのがパレスチナであるが,その希望も何度も撃退されたという経緯がある.イスラエル王国は,もともと,ペリシテ人への対抗のために,遊牧民の宗教的な親和性を膠着子(糊)にした宗教連合国家として建国されたとある.北イスラエル,南ユダ王国分裂後,滅亡して,外敵の捕囚(バビロン捕囚)となりながら,新バビロニアによるバビロン移住後の,新バビロニアが商業都市国家てきだったことからの寛容な政策のためか,民族としては存続して,現代にいたる.なんて感じの記述だが,細かい事実は膨大にあるのだろう.

現代に移れば,イギリスや国連,アメリカなどの後押しのもと,イスラエルとパレスチナ分割および双方の独立(パレスチナ独立という意味の強い状況だったのだろうけど),エジプト進行では,英仏米豪などが利を競って参入とか(エジプトへのイスラエルの進行では,英仏,イスラエル共和国承認では,米仏伊豪英があがっている).

同じイスラム勢力とはいえ,ハマスはイスラムを代表するものではないとか,アメリカが人道的な立場からイスラエルのハマス掃討作戦の実施は踏みとどまるようにとか,国連もエスカレートすることが分かっているから,イスラエルの立場をしても踏みとどまってほしいとか,そういうなかで,一秒の猶予ないどころか,とっくに過ぎているタイミングで,米露が拒否権で対抗とか.

 細胞接着にかかわる新たな知見のように,特定の遺伝子を選択的に作用させるような手段でもあって,とっくに過ぎた猶予をも回復するようなメカニズムが,国際紛争でも働くような手段を,国連が即座に発動するくらいでなければ,世界で生じている悲劇や惨事に対抗するのは難しい.米露や中国,イスラムにも,国際世論にもその力はないと言っているわけだから.

ギリシャやローマ,あるいはそれ以前の時代から,ギリシャ周辺の諸島にあった文明の,貿易商人,といっても強い軍事も持っていたのだろうが,歴史的には,世界史の本筋のわき役的なアクター集団というイメージだが,実は,案外,歴史の首謀者だったのではないか的なことも,世界史の参考書などでは言及されているものもあった.「海の民」とかきくと,そういう歴史的なスペクタクルを背後で感じる気がするわけである.中東やエーゲ海,地中海にまたがる民族や部族の抗争と貿易商業民族の本当の関係とか,考古学趣味ではないが,現在のような,変容グローバリズムの時代でも問いかける存在感があるのは,歴史の興味深い面である.現代だから現代のことはわかりきっている的な,エロ動画鑑賞中は邪魔しないでくれてきな,わかりやすい論調なら納得だが,それはそれで人として見極める義務もともなう.

昔は,互いの利益や必要のために仲が良かったが,時代の推移とともに親の仇的な関係になっている.そういうことが入り乱れ,それが,解決の見えない疑心暗鬼や裏切り,あるいは表向きの仲直り的な,なんかしっくりこない調整を続けている感じを生じさせる.ハマスをイランが支援しているというのだが,16世紀まつから17世紀の初頭にはシーア派の国イラン(サファヴィー朝)をヨーロッパ諸国が利用して,インド・東洋の植民地支配の連絡路としての拠点にしていたとあるが,欧米のイスラエル支持とテロ支援と批判されるイランの対立は,そういうことになるわけだろうか.

イスラム本来の寛容と協調の教えが,復讐と暴力に凝り固まったおぞましい宗教の印象に変わっているのも特徴的だろうか.仏教にしてもキリスト教にしてもそういう面はあるし,もちろん,宗教の問題だけでない理由もあるのだろうが.カリフ継承をめぐる相違以外は,シーア派(少数派)もスンニ派(正統派)も教義としては同じということだから.十字軍では,フランスやドイツがエルサレム王国を建国したり回復したりするが,封建体制の動揺やイスラム文化との交流といった中世社会の転換に影響.とあるが,東西の,社会,経済,封建体制の内部的な要因と外部への錯綜とした動因が結局はうごめいていった感じを生じる.

パレスチナ問題が,そんな高校の世界史の参考書程度の問題ではなく,極めて人道的な問題であったり,国家あるいは国家間勢力のエゴイズムであったり,宗教間の対立も極めてモザイク化されテロであったり抵抗運動であったり,経済的なホロコーストであったり,現在はそういう状況にどう対するのかが重要だということだろうが,メディアも政財界も何たら統一家庭協会まがいのも多いわけだから,細田死んでよかったと胸をなでおろしているのだろう.そういう国のメディア人道主義に実がないのは明らかである.統一協会の演出TV会見と今の日本のメディアのしょぼいやらせ体質とそう変わらない気がするのは,私だけだろうけど,まあ, そういう業界なのだろう.重大な問題が起きると,最近は,いつもなら騒ぎそうな総連系の論評部隊も鳴りを潜める感じになっているようだが,それは,メディアのエクスキューズというわけなのだろうか.これも自他ともに認める孤高の存在たる私だけの感想ということになるのだろう.つって.国民や視聴者をなめた傲慢体質は相変わらずだから.その程度の大したことない日本のメディアだから,その程度でいいのである.決してフェイク動画だけの話ではない.モーションキャプチャーすごいが,フェイク動画どうしましょう,ダメよね,的な感じでいいのである.

人が考えるということを情報理論としてとらえるという発想は,昔からあるのだろうが,「考える」てなんだろうとか,「脳をみる脳」とか,たまに話題になることもあるが,中途半端な流行で終わることがほとんどである.理論的な理解や裏付けが弱いか貧弱な論者の番宣のようなものだからだろうか.そういうことに,概ね,開放的な日本人の気質によるものだろうか.私のパロディー情報論も,(出来栄え云々を問うのは無粋というものである)そういう開放的な日本人の気質のようなものを土壌にしているのだろう.そうでありながら,例えば,イスラエルの戦争犯罪,非人道的な行動への非難に傾いている的な報道が最近多くなったが,昔の大使館人質事件だっただろうか,そこでの救出失敗も思い浮かぶが,人道的な作戦の失敗ということで話題になっていたが,メディアでは話題にしにくい状況を演出している感じもする.実のない日本人の開放性と実を深めた日本人の開放性が,ひどくゆがんで現れる傾向があるのだろうか.原始的な自然崇拝は日本にも根強いし,私は嫌いでないのだが,パレスチナの活性化された役者たちも,ユダヤ教やイスラム教だけでなく,部族宗教だったり,自然崇拝的な宗教を信じる人たちだったりするらしいから,実際,レッテルはって論じるのは難しいのかもしれない.

activeという英語には,「活動的」とか「能動的」とか,「作動している」とかという意味に,ある条件のもとに有効な集まりという意味もあるのだろうか.エーゲ海周辺や中東,インド方面への紛争や事件が生じると,数理計画法にある最適化問題のようなイメージを生じるのだが,その歴史においても,言語系統を含め謎の部分も多いというのだが,問題自体は,そういうモデルに類似していくが,その有効性を破壊していく難しさがある印象を受ける.数理計画法とか最適化問題とか言ってしまったが,言葉は知っている程度の浅薄な印象なのだが,詳しい解説とかあれば聞きたいものである.コンピュータのプログラミングなら反復計算法などが典型的だろうから,詳しい人もいるはずであるが,軍や諜報機関の作戦の秘匿のためか,あまり表立った話題にはなりにくい感じもある.国連のインテリジェンスがどういうものか知らないが,そこらの絡みも,見守っていく必要があるのだろう.ウクライナやパレスチナの出来事は,自分でどうするとかできないが,何故か,私のパロディー情報論には身近な出来事のように感じるのである.

active layerは活動層とか,active principleは有効成分とか(『ランダムハウス英和大辞典』,BOOK OFFで500円で購入.)active set method は非線形計画法の有効制約法(『数学辞典』)とか.Diligence is the mother of good luck. 「勤勉は幸運の母」ということわざだそうだが,入念に調べて,不測の事態への対処や安全を保つような準備をしておくことで,さりげない常態が保たれるという感じなのだろうか.

イスラエルのガザ制圧にみられる,第三次世界大戦への拡大の懸念だの人質ビジネスなどの問題を最適化モデルに類似していくという印象を言ったが,どういう意味で類似していくのか,その類似はどういう条件の下で成立するのか,人道的な立場なら,そういう分析をどう人質の人命や殺し合いをしている兵士や市民の安全につなげるのかという立場に変換する必要があるはずである.差し迫った,あるいは,完全な達成はすでに手遅れとなっている状況で,そういう変換をどうアクティブに維持していくのか,欲する情報はそういう内容を持ったものではなかろうか.空虚な評論家のカッコしいなのか,注目を向けたいだけの知ったかぶりの話など何の意味も価値もない.メディアの日大体質のようなものである.

ジャニーズだの宝塚だの歌舞伎界だのとグルな立場なのは,これで大手メディアという話が成り立つ.さらには,詐欺ビジネスだのカルト商売だので世間の隙間に付け込んでいるのもそうだということになる.御厨とかは,いまだに,安部派の横領キックバックは許容されるが,「テロはいけませんねテロは」といって,お偉い政治学者か何かの気でいるのだろうか.世間はどうせ馬鹿だから,銭のにおいでも嗅がせればどうとでもやりようはあるんだという,代表的に田中角栄張りの感覚が根強く残っているのだろうか.+αの銭はそういうのに忖度しないと手に入らないからとか.うざい話だが,紛争だ戦争だも似たような面あるわけだし,100人殺せば国内法では大量無差別殺人者だし,死刑無期懲役で決定だが,報復のための暗殺とか,一人殺すのにミサイルぶち込むとかやるわけだし,日本でも人質盾に立てこもったりすれば狙撃班に銃殺されるわけだから.それもこれも「議会制民主主義に対するテロですね.テロですよ」といって専門家気取れる小銭稼ぎじゃないのかと思う.

日大の薬物犯罪も,大学がむら社会的体質なら,運動とか程遠い学者や職員も,アメフトはヤクやってるらしいという話も広がっていたはずだが,早い話,誰かがうまくもみ消すのか,突発的な事件が起きたようだのどっちに転ぶかを眺めていた感じなのだろう.大騒ぎする割にはしらけたムードで終わるのだから,ありもしない,意義だのさわぎたてる昔の総連系連中の感じじゃないだろうか.OBにヤク元締め的なのが甘い汁吸っていたのか,あるいは,運動部以外のがかんでいた可能性もあるわけだから,やくざとヤクと日大という印象を世間が持ってしまうと気がかりでもやもやするとか.村社会,やくざとヤクとカルトの温床とか.そういう詐欺や犯罪を容認したり政治家の有力者や政党の内情に忖度して,改憲論議を演出したりする.御厨あたりは,「これもテロですね.テロ」とは発言しないのだろうか.

はねっかえりの学生の自治運動など制圧するために,ムーンマザーや総連系の売国運動ややくざと手を組んで,ついでに憲法改正して,日本を北か中国の手下にするために,自民党の派閥の銭のないやつらに取り入って,銭持ちの安部ちゃんや二階や麻生や森などを後ろ盾に見立てるとか.「テロですね.議会制民主主義に対するおぞましいテロですよ」と,私ならいう.日本国は,国中国のようなご都合自民党派閥内派閥の売国テロに屈したということになっちゃうわけだろうか.ムーンマザーだのそのだらしなそうないかつい風体のなにわおやじ亡夫だのが,日本の与党大物議員より上なわけだから.さつき議員も頭よさそうだから,そういう馬鹿げた改憲案に本音を言えばいいはずであるが,安部のお達しがあったから,宮仕えの分際はわきまえているアピールだろうか.

こういう問題の俗で安易な面と,原則的な重要性は,パレスチナをめぐる問題と重なる部分がある.イスラエルがそこらをどう意味づける気なのか知らないが,日本のような甘いことは言ってられない現実があるということなのだろう.日本の基本的な態度表明は,ウクライナに対するロシアの軍事侵攻の正当性は認めない.ハマスの行為は承認しないが,イスラエルの過剰な軍事的な対抗も認めない,ということだから,そこは明白だが,確かな裏付けが弱いのではないかという疑念もともなう,ということで,あれこれ付け入りたがっている勢力があるのだろう.

物事や出来事の構造と測定誤差の間の関係を考えるとすると,音素のゆらぎ,あるいは,決定の中心と周辺の双対関係として近似するということになるのだろうか.私のパロディー思考はさて措くとしても,神話や伝承を言語学や情報理論で照らし出すとき,数理科学ならブラウン運動論を代表に挙げるだろうが,ながめ読みしている西郷信綱著『古事記の世界』,岩波新書では,「葦原中国(あしはらのなかつくに)」とか「葦原のしけしき小屋」という一語の分析をしめすことで,なぞらえているように読める.確率過程とベイズ統計のような関係だという話になるだろうか.

即興で一首

靄のごとさやぎぬはれにしじまいて 我はともがら歩まんとす 

デルタ関数のような超関数と決定の中心と周辺の双対関係を同義化するような世界といえば,量子力学の世界ということになるだろうか.ということであれば,『古事記』や「伝承」を量子世界からの視線でとらえなおすことに通じ,世界観の異なる古の時代の言葉やそれが息づく環境のメロディーや形象の近傍をつないでいって,語らうことも可能になるだろうか.ネタ晴らしすると,ウィーナー『サイバネティックス』,岩波文庫を拾い読みしながらの感想である.世界の名著『現代の科学』にもあるが,ちゃんとは読んでいなかった.何か特別な「はれの空間」とススキや木の葉が語り掛けてくるような邂逅は,どこか違ったものである印象もともなうが,音と形象の相補的な見え方に変換できれば,その印象は解消できるかもしれない.ススキと木の葉は,音楽家と画家,あるいは総じて芸術家ということになるだろうか.音楽と絵画という芸術を詩がもう一つ変換する活動として,私の了解のゲシュタルトに介在するという感じなのだろうか.

「われわれが実際に行う測定は,完全な正確さでは行われない.測定誤差が長さb1b2...bn...の範囲にわたって一様に分布しているとし,b1, b2, ... のうちで0でない最初の数字がbkであるとすれば, a1からa_{k-1}までの決定,さらにおそらくはa_kまでの決定は意味があるが,それから先の決定はみな無意味となるだろう.・・・.-log_2 .b1b2...bn... . われわれはこの量をもって,情報量の正式な表式,すなわちその定義とすることにしよう」. こういう箇所が,具体的に感想を惹起する記述となる感じがする.

『サイバネティックス』では,ギブズやルベーグの対比からフーリエ級数とかフーリエ変換とかエルゴード定理とか,「時間関数f(t)の自己相関関数は,f(t)とf(t+τ)の積の時間平均である」とかあるが,時間的に周期性を持った関数との時間関数の積の時間平均と私のファンタジーと比較してみると,私s_rとか私s_{r+1}とかススキ-木の葉とか,そこからどういう周期性が見つかるのだろうか.これは意外と難しく感じるのである.それらしいものは考えつかなくもないが,例えば,だいたい,小学校からの帰宅の道すがら考えるパターンになっているとか,思考の列が過去の思考列の分岐点で新たな思考視点が加わるとかだが,自分的に確かな納得が得られない.思考の分岐点などというものを求めれば,論理経路を定めることに等しくなるともいえるわけだから,私の思考に論理性が求められることになるが,実際,こだわって考えること以外の論理性はなかなか見つからない.となると,身勝手,我がまま極まりない女神に運命を支配されているのか,ズベコウ女に牛耳られているのか区別がつかない.そこをてなづけられるのは,確率論的情報理論のサイバネティックな観点からの活動という話になるのだろうか(「不思議の国のアリス」のクローケー遊びの世界のたとえから,ふと思った).

単純に,自分のパロディー思考の条件だけで考えると,過去,現在,未来と流れていく通常の時間を,1時間後とか2時間後とか等間隔に目印をつけて,どっかその間隔の間のどこかで,s_rの私がs_{r+1}の私になったとすると,私の自己相関は,私の時間の関数同士の積の平均で類別される世界を歩きわたっているような,そういう存在の論理経過をたどっているかのようなものになる.ヒルベルトの類空間にちなんで,ファンタジー類空間論なんてできたら面白そうである.文学的には,ファンタジーの類的世界という方がしっくりいくかもしれない.自己相関(autocorrelation)を記号で書くと,ρ_h=E(X_{t+h}X_t)/E(X_tX_t)というわけだから,想像してみた.Σx(ω)P(ω)に通じるものを感じないだろうか.

ソリトンと可積分系とか,フラクタルとか,AIのシンギュラリティとか生物系の進展とか多岐にわたる現代的な問題をどういう風に役立てるのがいいのかという問題と,ウクライナやパレスチナでの戦争や紛争の経過の中で,世界がそういう問題の解消を,極右化とか軍事的な力での方向付けだけが選択されているのだというような見解に傾いているのか,利用できる傾向だと計算しているのか,あるいは,反論できないことの言い訳にしたいのか知らないが,浅薄な談義が盛んである.

パーティー券の裏金錬金術問題も,統一家庭教会問題も,結局,誰をマニラのルフィーに仕立てるかなんて殺人を伴う詐欺指示役の間の都合で話を作っているように,議員やカルトシンパのご都合調整に過ぎないわけだから.似たような傾向である.派閥は,錬金術につながれば脱法してもいいとか,カルトの霊感商法の悪質さを水で薄めて,被害者の存在を無視してもいいとか,そういう体質でごまかし通そうとか担当の政策を看板にした汚れ集団という話なわけだし.政治と金の錬金術なんて,そう耳に新しいわけでもないわけだし,昔から,それをしみこませている風体で,できる営業マン気取るなんてことは世間でよく見かけるわけだから.

私も,ニュース欄ぐらいはちょくちょく目を通すので,ついつい,しょうもない政治や詐欺話にも,一言いいたくなるわけである.芸能話になると,さらによくわからん感じがする.ジャニーズでも悪質ホスト話でも,若い女の子やおばさん連中には,萌え萌えを呼び覚ますような共感を誘う話題なのだろうか.そっちの方の熱が高いのだろう.どうでもいいが.やくざのキャッチコピーにメディアがかんでいることの反映なのだろうか.