まず,元号が平成から令和になったこと.
ほぼ60歳の天皇だから,あと20年くらいかなという話題もあるだろうが,改憲問題だとか,中国問題だとかは,一応別にして,日本国の象徴としての立場堅持を表明しているのだから,基本は変わらないということなのだろう.昭和オヤジにとっては,当たり前といえば当たり前だが,メディアの皇族報道には,なんか,中韓くさい色付けを感じたりもする.日本人は,こういうことに,そんなに特別な変化を見ているだろうか? 奇妙な意図を乗っけたぼかし誘導的な何かを感じる.中韓も有史以来,あまり先の見える連中でないから,今後のアジア情勢も不安だらけという心理もあるのだろうか.対して日本も,有史以来,アジアの覇者でもなければ,世界の重鎮でもないが,無関与でもない.要は,アメリカは,EUは,ロシアは,どう動いていくのかに左右されるだけのことを,議論装って,メディア詐欺やろう的なのがはびこるだけである.常のことではあるが.
北朝鮮が,アジア情勢の熱戦の貯水池役を果たしていて,もっとこじれたら,米中戦争に発展するとかなれば,令和の最大トピックスとなるのだろう.不安ですね,そうなるでしょうかね,さてねえ,というのが,バラエティーの常連になるかもしれない.
メディア批判したいわけじゃないが,最近,時事に疎くて,目につくことといったらこんな感じかなと思うわけである.中韓の国家としての嫌味体質は,日本の一部にも中韓三流国扱いの議論したがるのもいたから日本にもそういう体質はあるのかもしれないが,小うるさいババア趣味というものである.政治家とか局の囲われ娘とか隠れ二号とかだけが,女性の視点からの論点なんてことも,令和でも続くのかもしれない.意外と,話題の多くが,そんな裏ぽいものを感じる.それと,隠れ中韓カルト信者とか麻薬とか,日本社会になくてはならないほど浸透しているとか.
何が難しい時事問題なのか,最近さっぱりわからない. そうなものなら,今時の若い子のお立ち台風景を放映してもらう方が,すけべオヤジにはありがたいと思う程度である.麻薬芸能人が捕まるとか,カルト詐欺がバレるとか,中韓戦争, 米中戦争勃発する方が,メディア的には面白いに決まっているから,あとはごまかしだから.韓国は,なんか変な自信過剰が,べトナムでこけて,放心状態とか.しかしまあ,状況や情報の読み違えは,韓国が貯水池とかだと,案外,うまく役割分担しているということになるのだろうか.
じゃあ,日本の役割は,となると,アメリカの指示通りやりおおせて,韓国の轍を踏まないように,出来るだけコアな問題には近づかないようにすることぐらいしかなさそうである.なにせ,韓流が浸透しているから,失敗するに決まっているから.そういうことへの不満は,金子とか高橋といったメディア論客で,気をそらしておけばいいのである.五輪相再辞任とか.
時事問題について物言うと,なんか上から発言になってしまうが,まあ,どうせ聞く人いないから,気楽な個人の意見である.真に受けられても,それも困るし.
時事問題に限らないのかもしれないが,例えば,米中貿易戦争とか貿易摩擦とか,当然,そこには政治的な要因も含まれるという前提で議論されるだろうが,何かしら,無限を有限の延長と捉えて,その延長の先にはこういう結論が導かれる,だから,これは斯く斯く解釈すべし,という論法が,多数を説得するためのテクニックなのかわからないが,よく使われる.しかし,実際は,さして無限への延長を見すえてはいないし,多少,その時点で,見えていることのリストを披露しているに過ぎないことが多い.何ヶ月後にはどうとかいう先ではなく,現時点が要請する延長というのか現在点の膨張というのか,それさえ,説明されずに,これから先の現実が語られることが多い.そこが説明されたものなら,無限の未来の限界として,眼前の未来を見ることができるのだろうが,そういうことは少ない.天皇の象徴性とは,そういうものであって,単なる未来の無意味さではないと思うわけである.
象徴天皇制は,近未来に期待されるAI社会に似ているのだろうか.現憲法にしたがって,天皇は国民統合の象徴であるとすれば,日本国の存立の条件のもとで,様々な現実や立場,思い描く未来の,「統合」としての象徴なわけなのだろうから,その統合のあり方に責任を負う国民を象徴するという意味もあるのだろう.それに対して,最近パラパラと見受けられるのが,日本衰亡論とか,置き去り論とかだが,中国の覇権のもとでは,日本はアジア圏の異端であって,そのうち世界地図から消えるのだからというのが,反日の論拠なのだろう.利になるうちに黙って,中韓に貢いでおけということだろうか.他方で,アメリカから軍備増強や再編のための約束を迫られ,OKという返事を出さざる得ないという,ビジネスゲームのコマのひとつになる.中韓の因業な腹のうちにもNO, アメリカの軍事ディールにも再お勉強を迫るというのが,健全な態度なのだろうが,さてどうなのだろう.
それはそれとして,言いたいことは,未来への統合の国民の責任は,近い未来に現実になるAI社会と根を同一にするだろうかということである.AIだから,不確実な,下手すると確率的な法則さえ乱れてしまうような現象に,ある種の規則性を見つけ出して,これまで考えもしなかった未来を描いてみせるかもしれない,という期待も生じ得る.案外,<未来>はビッグ・データだから.その処理系とのセットだから.これは,私だけが見つけた事実であるといえば,大顰蹙間違いないが,つまり,そういうものとして見なければ,「AI社会」てなんなんだということになるのじゃないか.
もちろん,日本社会に問題がないというのではないが,例えば,日本国憲法にある「象徴」性のように,日本のアジアにおける異端性は,一般性の鍵となるのじゃないかと思うわけである.押し付け憲法論は,おそらく,日本帝国軍部にも軍部の協力者にも,そういう意義を認めて,日本の実情を踏まえた憲法を作成しえたのに,占領下の憲法という形で作成・制定され,国民を仕向けて見殺しにした悪しき戦犯という立場だけになってしまうことへの不満があるのだろう.今では,戦後利権の温存という目的に変わっているのだろう.そいう立場を離れて,AIと未来というような立場で,憲法論も考えてみる時期にはあるのだろうか.中韓反日利権と旧軍部利権の癒着の根がそこにあると,巷では噂されるとかされないとか.中国も日本国憲法と同等の内容の憲法に変えれば,世界の仲間入りするのである.要は,共産党の利益を除けば,自由、平等,博愛だから,内実は担保がないわけだから.当然,共産党の利益に従うべきものに過ぎないわけだし.
貿易に関するフェアー,アンフェアーも,日本は自由経済の一員であり,ルールに基本的に従うのだが,日本的忖度というのか,一部の日本的といわれる慣習が,フェアーな経済のしつくらえの裏地になっている面があり,それが,他の国々への大義名分を取り繕う態度の中に,アンフェアーな偽善として映ってしまうということもあるのだろうか.入試は,基本公平公正だが,ある種の忖度に値する理由によって,事実上公然と,一部の利権に隠れて,点数操作がまかり通る,それを,外向きにもまかり通るように,しつくらえたような感じのものなのだろう.中韓のおごりの体質と同じものであり,日本の企業文化に隠に染み込んだものであるから,貿易に関しては,韓国の轍を踏むおそれがある.
日本の企業体質には,韓国同様,北朝鮮のセドリ共犯者のような勢力があって,そういう連中が,ミエミエの忖度不正の請負業者として結託しているという構図があるのはないか,金子とかは,そういうセドリ共犯業者が裏神輿で評論家的なことをやらせているのではないか,という疑いを持っているのである.占いも,ジボ(ギボ?)アイコとか,昔は夜の世界でぶいぶい言わせていたような感じの名前忘れたがおばさんとか,ワイドショー的に必ず出してくるではないか.それは,アンフェアーな利権構造に日米貿易が隠れ蓑として使われているのじゃないか,ちゃちいおっさん連中の痴れ知恵が,今後の米中貿易摩擦の成り行きでは,日本経済にも悪い結果をもたらすのではないか,と心配しているわけである.本音ではそんな心配してないが.その程度のことなら,別にいうまでもなく理解はできるのだが,ちゃちい中韓おっさん連中は,メディアにもアカデミズムにも幅を利かせているから.トランプ大統領が,日本のアンフェアー体質質せといっても,改まるだろうか.その仲介役が,トヨタの社長であり,ソフトバンクの代表ということなのだろう.今の野党はセドリ共犯業者のようなものだから,特に維新とか,自民党の派閥横断的な一部勢力のようなものだから,セドリ共犯対策審議会の委員に,トヨタやソフトバンクから選出すればいいのである.
巨大なマネー・ビジネスは,自由な経済のルールも食いつぶし,いわば,ルールの貸倒しで,国家や国家地域も廃墟に変えていく,的なことを,「自由か規制か」という テーマで,欧米が議論したのは,リーマンショック直後のことではなかっただろうか.もちろん,保護主義とか,保護貿易主義とかへの回帰を主張するものではなく,ルールに基づく自由な経済の進展の障害として立ち現れるマネーの暴走に対しての議論という前提ではあろうけれど.根本的な解決は示し得なかったというのが,そのときの結論ではなかったろうか.こういう観点だけが全てではないのだろうが,ジャーナリスティックな論調でもあったことも確かではなかろうか.問題だと議論されたことは,マーフィーをもじれば,結局そういう風に流れて行くということの方が,経験的に多い感じがする.中国の爆買いから,不動産爆買い,次には,リニア駅の占拠買,空港の占拠買,学校や三セクの爆買いなどが続くだろうか.普天間買いとか.アメリカ,米軍もディールとして魅力的だと,態度を変えるかもしれない.不安だが,自分だけは利に与るかもしれない,とか.ビジネスチャンスでもあるではないかと.
予想不能な関連の爆発的増殖を,マルクスなら,再生産表式論とか,ケインズなら短期金利論とかという形で示唆する構成をとるとか,これからはAI経済学とか.案外,アカデミック化したお決まり作文よりも面白そうな展開になりそうに思うのである.
最近,私は,危うく心臓が止まりそうになったのだが,心臓がわーと目の前に現れた感じになって,あと一回の鼓動で止まるよというようなメッセージ送ってきて,S^3の空気の塊のように自分が感じられて,ヤバイ,あと一回で死ぬかもしれない,と思ったら,スーと落ち着いてきて,こういう勝手放題をブログで書いている.私だけなのかわからないが,生命現象は,S^3と関係が深いのかという体験を,何度か味わった気がする.念のため,宗教斡旋とかとは関係ないから.不養生という具体例を示したわけである.
軽口ついでに,昔,TVで放映された,これまた,昔のアメリカ社会を描いた映画について,ハーバード出のちょっとダサっぽいセールスマンとスタンフォードだったろうか出のクールな小学校の教師だったかの確執や同僚の女性教師の揺れ動く女心を絡めたものがあったが,なんか,不思議と,すっかり変わってしまった現在の社会と,似た感じがある気がする.日本の小説なら,夏目漱石の「坊ちゃん」という感じだろうか.赤シャツとサラリーマンの確執ということになるのだろうか.赤シャツにチャラッと寄り添いたい女教師とサラリーマンの確執とかも交えて構成されていたように記憶している.女心は揺れるに任せろという教訓を,君子危うきに近寄らず的に学んだ気がする.現在の映画の設定は,世界を変えてしまうとか,アメリカのエスタブリッシュメントの意思決定や決定プロセスに直接関わるようなヒーローが多いが,その映画は,ごくローカルな場面と人物のウェスタン的な物語であった気がする.インデペンデンスデーなら,農薬散布の請負飛行士酔いどれ老人になぞらえられているのだろうか.西部劇なら,街のバーの看板小町娘と流れ者ガンマンの出会いと別れが定番だが,その現代劇版という感じだろうか.「夜明けの停車場」というと昭和オヤジには懐かしい名曲ということになるだろう.水戸黄門や金さんやサザエさんが日本の西部劇というのと同じような意味である.
世界の経済をどう調整するかというG20とかで,米中貿易戦争がどう判断・評価されるのかというのが,ごくまじかに迫っていて,たとえ玉虫色でも,本質的な影響は,ある程度避けられないといって,多分,騒ぐのだろうから,これも時事的topicsであるはずである.何に躓くかといえば,ルールというものが,もはやマネーゲームよろしく,理論的な整合性といったものの発散を認めなければ成立し得ない,ビッグデータのようなものとなっており,各国首脳もAIのような判断はできないから,とりあえず示唆しておこう的結論にならざる得ないことではなかろうか.利潤率と利子率は独立であるとか,乗数効果をちょん切るとか,ケインズ経済の解説書にもあるが,私は,資本論を読んでいるときに,資本の部門間再生産から,なぜ,ダーク・マネー経済(ダーク質量とかダークエネルギーをもじって)が自律してくるのか,よくわからなかった記憶がある.大月の資本論も剰余価値学説史もゴミに出されたので,改めて読んでいないが.「転形問題」という本に気が向いたのも、そいう理由からである.個人的な読書経験からの問題であって,アカデミックには大して問題ではないのかもしれないが,結構,現実の時事問題には通じていそうな感触なのである.アカデミックにはずれているのかもしれないが.私自身は,アカデミックも力量の足りないのが多いから,別にどうでもいいという感じでいるにはいるが.もちろん,なんちゃってではあるが.
全体と部分の総和は一致しないというような格言ぽい話に通じるのだろうが,そこに関連を見いだすことがなぜ悪いのか.議論のためのテクニカルな限定という面もあるのだろうが,結果ではない.議論のための前提も,ほとんど曖昧になることもしばしばである.こういう格言的な議論や論争は,フラストレーションを感じるまま何十年もほったらかしのことも多い.その理由が,ビッグ・データ的な関連によるとすれば,AI時代にはうってつけではなかろうか.これも歴史的な転換点のポイントの一つならば,EU,アメリカ,中国,ロシアも見極めきれずに時間を過ごすのだろう.各国が足踏みしようと,現実はAIの微笑を漂わせて行動していくだろうから.むしろ,そういう乖離を見いだすまでに,議論がなされれば,大した成果だという意味で言っているのだが.
イギリスはEU離脱だ,アメリカは保護主義だ,ロシア・中国,北朝鮮は軍事同盟ぽく動くぞだとか,日本は米中心に,ちょっと困っちゃう的な立場だとか,どこが意見の衝突になっているのかわかりにくい.
『雨の物語」の出だしから,
化粧する君の その背中がとっても 小さく見えて 仕方ないから 僕はまだ君を 愛しているんだろ そんなことふと 思いながら......
パロると,
化粧する君の その背中がとっても 分厚くみて 仕方ないから 僕はまだ君を 愛しているんだろ そう言わなけりゃ あとが怖いから......
現実と現実と信じたいものの, 人の世はそういうものであると悟れるだろうか? 情景的には,水商売の女性と頼りない男ぽい物語だろうが,パロると,一般的というか,ある意味普遍的な歌詞になるが,世界情勢も,そういうムードが漂う感じがする.背けていい現実もある気がする.フォークファンやイルカからえらく怒られるかもしれないが.