7/11,東京を中心に感染者数が増えていたり,首都圏への広がりが見られたり,年齢層が広がっていたりというので,第二波の懸念が蔓延しているらしい.エピ・センターとか,東京由来の感染の拡大とか,実際,東京の感染者数が大方を占めるから,そういう表現になるのだろうが,新型コロナが東京の風土病化しているという話まである.風土病というのと,新型コロナが単なる風邪のようになって安定するという期待が,交錯している感じである.東京がエピセンターになって,風土病化して,東京に特徴的な変異を原因とする感染の流行を生んで,そして,海外に蔓延させるという話なのだろうか.島国日本が,特異的に収束して,世界の感染状況も,不思議と収束するというシナリオになるのだろうか.感染者数がまた増え始めているということの裏に,新型コロナウイルス自体の不気味な変異が見え隠れしているようにも見える.新型コロナの風土病化という話が,ここ最近,話題であるようなので,述べてみた.抑制と原因の安定的な風土化とでも言えばいいのだろうか,下手すると,例えば,新型コロナの後遺症から,新宿・池袋に多くみられる疾患に安定する的な話になるわけだから.もちろん,科学的な根拠はないが.安易な決めつけは,風評を招きやすいことになるだろう.新宿のおねいちゃんたちは心配だが,鶯谷は大丈夫と思いたいオヤジ都合で風評を招くようにメディアが流布するとか.そういところが東京病になって固定化しつつあるとか.誤解招くといけないから,私自身はそう風俗事情に詳しいわけではない,もうまったく詳しいわけではないが.あるいは,沖縄米軍のクラスターが,独自に風土化して,新型コロナ感染拡大の新局面を招くとか.
風土化という科学的根拠をどこに求めればいいのだろうか.
現在時点では,毎日の新規感染者数の動向から,果たして,経済・社会活動を維持しながら,感染状況が改善する効果を読み取れるかどうかという話題に尽きているが,確認される数は,いわば重ね合わせの状態を通しての,我々の感覚的な確からしさの解釈的な意味づけな訳だから,そういう統計的な溝にはまったまま,解釈を付与することでリープしようという,不確定性が新たに加わるのではないだろうか.感染状況を把握したり,それを参考にして対策を行ったり,適宜修正したりすることは当然だろうが,フェーズが変わっているという表現の裏に,統計的意味が変わってきていることに反応しない安住の溝にはまり込んでいるのではないかという,浮き足立った状況がある感じもする.そういう意味では,もっと踏み込んだ説明が伴うべきではないかという意見があるのもうなずけるわけである.結局は,そういうことに対する混乱が,多少,行政や政治家などを浮き足出させて,そういう状況が市民に感染し始めている感じなのだろうか.WHOでも世界の研究機関の報告でも,現在まで,あまり楽観視できる報告はないわけだから,経済再開というムード作りとそういう現実の溝に身を置くしか政治家も身の置き所がないのかもしれない.政治都合の不確定さが,さらに不確定要素に加わるということなのだろうか.いわばこういうことも,新手の公共事業というやり口なのだろうか.不確定で不安定な状況に,ある意味無頓著に寄生していくようなパターンに慣れっこになっているのだろう.しかし,メリハリのある対策を指向せねばならない,はずではあるのだが.こういう時こそ,うまく裏をかけ,が東京圏の現実とかはないだろうか,いや,あるはずがない,わけがない,的な.無駄にみみっちい伏魔殿感覚に襲われるので,こういうことはそういうことにしておく.実際的には,意外と重い後遺症の報告が,実際,多くあるということの方が心配ごとではある.後遺症残るとすれば心配なのは,当然の感覚である.屁理屈こいて,紛ら化しやらせしてるような,そう売れてなさそうなオヤジ芸能人とかの変な影響力とか除けば.森元総理が東京五輪を中止させないために,都合のいいのを利用しているとか,そういう裏があるのだろうか? 闇公共事業費で税金無駄遣いとか.話題の政治家達も,結局,似たり寄ったりで,一時人気でごまかし詐欺の神輿とか,小泉とか石原とか.コロナ騒ぎでそこらが鮮明化したから,言い訳本出すとか.こういう仕組みはなんかうまくお膳立てされている感じがする.お膳立て見本用の文化人とか知識人とか,ゼニ稼げるのはそういう連中に限られるらしい.それ以外は,コロナなんて銭になる話じゃない,そこらの確執が,議論の,本当のところかもしれない.一方で,利害の壁を超えて協力しなければ感染症には打ち勝てない.一方で,コロナなんて,自分の影が薄くなるばかりで,どっかでうまく利用しなければならない,そういう二極化が生じやすいのだろう.簡単な構図に見えるが,そう見えたらまずいわけだから,言葉を飾るのだろう.コロナで変わってもらっては困る連中もいるわけだから,そういうのもきっといる.悪がしこい割には,こういう見え透いた構図に東京は踊らされるのか,東京はムラ社会的な不思議な現象である.
・マクロファージ[macrophage] 動物体内のすべての組織に分布し,侵襲した異物や自己の体内に生じた死細胞などを選択的に捕食し消化する機能(食作用)を有する大型のアメーバ状細胞の総称(Metchenikoff, 1884). 生体防御だけでなく,個体発生や変態の制御,組織維持にも働く.単芽球(monoblast)→前単球(promonocyte)→単球→マクロファージに至る.マクロファージは,分解されたペプチドを抗原としてリンパ球に提示する抗原提示細胞としての機能も担う.また,この過程で,種々のサイトカインやケモカインを産生し他の免疫細胞の機能を制御する.さらに,細胞障害,炎症反応の惹起,細胞間質の分解など,細胞性免疫におけるエフェクター機能を発揮する(effector-cell).
・好中球(neutrophil) 血液細胞系譜の顆粒白血球の一種.成熟好中球の核は2〜5葉に分節していて,血管透過,組織への遊走に適応している.好中球は短命で,寿命は1〜2日.好中球系譜は未熟な分化段階より,顆粒球コロニー刺激因子(G-CSF),顆粒球-マクロファージコロニー刺激因子(GM-CSF)に反応し増殖するが,反応後も受容体を発現し,刺激を受けるとアポトーシスを抑制し寿命が延長される.
・血小板(platelet, thrombocyte) 血栓細胞.造血幹細胞より分化した巨核球(←分葉核)から,細胞質がちぎれて生成する血液細胞の一種.核以外のすべての細胞小器官を含み,細胞膜に形成される受容体が刺激されると,凝集して止血血栓の形成が誘導される.がん細胞との細胞間相互作用によりがんの転移形成に関与することもわかっている.
免疫・防御機構を誤認識させながら,誤作動を誘発して,ウィルスが免疫機構を出し抜くようなカラクリに,血栓が特徴的に現れているということだろうか.無核化する仕組みとか,関連するのだろうか.例えば,ワクチンが,このようなウイルスの攻撃に強力かつ安全に寄与するものであることが願われるが,どこまでわかっているのか定かでないのは気がかりではある.ウイルス感染の直接的な症状というより,奇妙に人体の機構を戦略的にか戦術的にか,スキャンしているような不気味さが,NHKスペシャルなどから感じられるが,
GO TO アジア圏ユビキタス風土病などという期待が欧米中心にあるのだろうか.感染を収束させたいということは変わらないだろうから.武漢風土病で終わっていたはずだと,米中がやり合っていたというニュースもあったわけだから.風土病だから,というより,感染終息のシナリオとして,しかも,そういうシナリオが交差免疫的に強力に働くという,神ががり的な経過を経る的な,期待なのか,願わくばということなのか,ということにも通じそうな話ではある.実際は,WHOもそういう終息は難しと言っているし,そもそもこういう趣旨の話でもないのだろうが,
例えば,宗教も中朝カルト化して,ペットを散歩させてるふりをしながら,車にひき殺させて厄介払い的な,生死観の売り物的な政治化が蔓延しそうだとか,創価学会とか都市部は多いのだろうから,話題になるのではなかろうか.GOTO 中朝カルトやらせ死を考え直そうとか.田舎でも,老人の痴情話に仕立てて知人を装ってカツアゲしてるようなカルトもたれ合いが多くなったとか.アンリ議員とか,私は,井上アンリの方を思い出すが,そういうのの神輿議員だったのではないかとか.
ゴーツーは悩ましいでは,社会の透明性も悩ましい.AIだのITだのも裏公共事業費の忖度給付ではないのかと疑われているから,国民の多くが乗ってこないのかもしれない.アンリ並みに「日本を変えたいから」とうそぶく説明しかないわけだから.私は,変な中朝カルト宗教なのか,カルト哲学の生死観のコロナ便乗売りに,日本人が多くのっかかるとは思わないが,一部に画策しているのがいるだろう.小泉とか石原とか.GOTOカルト化して政治ヤクザ儲け話化とか.GOTO アンリ化とか.
ヤクザは新型コロナを恐れないから,宴会奨励金とか.私は,こういう案で経済を回せると思うわけである.議論の余地はないから,議論のする必要もないのである.死なんて概念は,薄っぺらい知識で傲慢を裏に隠して詐欺のお膳立て道具にするくらいのものなのである.中朝の論者には,あるいは中朝の手先的な論者には,なんかそんな体質が目立つ気がする.日本だからよそ事気分で適当に騙せるという変な憍慢あるのだろうか.歴史問題なのだろうか.詐欺して歴史問題に関わろうという商売根性なのだろうか.GOTO 「都合いいように日本は混乱してね」的な,紛ら化しいこともはびこっているのかもしれない.
要するに,どうでもいいような論調にしないと,日本は持たない歴史的経緯や事情が裏にあるということなのだろう.リモート講義すると酷さがバレるからそうしたくないという事情もあって,あまり進まないのだろう.そうでなければ,タブレットなどを充実して体制も整えると国も言ってのに,ボトルネックがあるというのは,そういうことではなかろうか.学術的な機関の歴史問題は,ウイルスだけだと,妙に他の分野にも影響が出てきて,色々と裏事情がバレるから,マズイと感じている連中を調整していく必要があるからというだけのことではないだろうか.新型コロナでも経済でも,実際,話題のつまみ喰い的な論者が跋扈しているようだが,どっちにも見識のない詐欺押しかけ販売論者が増えているのだろう.そういう風土文化が近畿圏とかどっかにあるのだろうか.ピラチョン的な驕慢シナリオがバブル以来まかり通っているのだという勘違いが,メディア関係者にも多い気がする.
GOTOキャンペーンもそういう体質が,経済へのテコ入れを謳い文句に,公明創価学会などのピラチョン体質迎合で露呈してしまったということではなかろうか.創価学会嫌いだからというより,韓国の文体質なのか知らないが,ピラチョンの勘違い意識が目立つ気がするからである.創価学会系のダイエットオバハン旅行で賑わえばいいのではなかろうか.GOTO創価の掠奪支援キャンペーンとかになっていそうな感じもする.コロナ禍もそういうのばっかダマシゼニに絡もう的な構図になっているのではないだろうか.感染も広げず経済を回すには,日本国内に限って,全員に税金詐欺のための軍資金を配布する方が,理にかなっている気がする.10万でも誰も迷惑に思うわけではないから.
自民党の二階とか,GOTO創価文政権ゼイ泥キャンペーンの窓口役らしいニュースもあった.そういうドロドロが安倍政権には(どの政権でもという気はするが)集約しているというので,安倍や周辺のスキャンダル話として,隠蔽されてるのではないだろうか.ピラチョン中韓の意に沿わないと安倍批判で騒ぎ立てるとか,そういう連中に赤羽大臣か誰かものっかかっているという話ではないのだろうか.そうなら,安倍政権だろうと何政権だろうと同じやり口で騒ぎ立てるだけだろうから,そこら見極めるしかないのじゃなかろうか.せこいピラチョン創価会員でもモンスター官僚気取りというご時世なのだろう.池田大作自体がそういう輩だったからだろうか.つまらない問題について述べるとなると,自分でもくだくだしい話になっていることを感じる.ピラチョンの詐欺手管的な問題は,実際,あまり興味ないのであるが,世の中,保身感覚なのか,そういうの多くなっていそうだから,都合の悪いのもいるのだろうから,創価ピラチョンもたれ合い的なのに依存する体質のも,官僚とか大学とかにもいるのだろう.GOTO失敗じゃないからオイラ無謬でカシコいキャンペーンになるから.アホくさいが.
本筋からいえば,交叉免疫(cross immunity), 本来は,ある環境条件に対する適応が起こるとともに,それとは異なる環境条件に対する適応が起こることという交叉適応(cross adaptation)らしいが,異なる抗原にも適応が起こる交叉免疫という意味らしい.交差免疫と書いてしまった.しかし,交差(数学だと,極値集合論の項目とか)させながら考えることもありそうだから,意外と,結びつけられるかもしれない.それと,ケモカイン(chemokine, chemotactic cytokinesからの造語)について考えるべきなのだが,わかっていないことも多いらしいので,ちょっと,準備体操がてら,ガス抜きしておこうかなと.
生物学辞典でも解明中なことが多いと言っているのだから,判れば,結構,得する知識になるかもしれない.しかし,もし,有効な知識の集積がはかれるとなれば,GOTO紛ら化しでオラッちチャッカリてなのがはびこってくるだろうから,コロナ禍なのか,どうなのかの二極化が,またまた,生じるのだろう.メディアそんなのばっかな気がする.
そこらは,経済が萎縮なんて気にしなくても大丈夫ではなかろうか.暴動も起きてないし,GOTOピラチョン中韓秩序(あくまでこういう限定で)なんて急に期待が膨れ上がっているわけでもないだろうから.メディアはそっち傾向が高いようだが,そういうのが一部モンスター論者を演じているのだろう.NHKスペシャル--- COVID-19 ほんとはこうだ!!! なんて番組が放映されるまでは,いろいろ続くのだろう.
ニュースからだと,結局,英米欧の研究所のレポートとかが,タイムラグを置いて,信頼情報ということになっている感じがするし,その間の茶番程度の盛り上がりしか,日本の報道内容にはないのも多いのだろう.多分,そういうことについては,視聴者もわかっているから,実害も少なくて済んでいるのかもしれない.日本人が特別,反応が奇妙だというネットにある議論は,やや煽動目的な感じがする.
新型コロナ感染による後遺症なんて,もともと,ちょっとどうか分からない,仮にあっても,ごくごく稀な症例ぐらいに報道していたわけだから,にたようなことは今後もあるのじゃないだろうか.実際,後遺症が無視できないなら,病院でケアーやフォローしてもらうしかないわけだから,それも負担になって,厚生省もメディアもないことにしようなんてのは,逆に,変な話ではないか.そこまで,気を使わんでもと思う.メディアは知らないが,専門家は,苦慮はしても,対応は考えているのだとは思うが,メディアの変なゴリ押し思いやり忖度が,混乱を招いているのではなかろうか.迷惑な,メディア報道善人業者都合というやつだろうか.
線形化操作の溝にはまり込みそうな予感の前に佇んでいる.基本的な操作だから,ほんとは,はまり込むべきなのだが,無限行列や行列の標準化,あるいはテンソル演算のようなややこしさを感じて,佇んでいるわけである.こういう操作は,経済数学でも基礎なのだろうから,多くの話題に顔を出しているのだろうが,説明はよく分からないのが多い.それに,実際的な計算となれば,コンピュータに任せるしかないのも多いだろうから.そういう計算に基づいて,コンピュータ生物学的な世界に人間は全く傍観せざる得ないのかというと,人間の側の気付きと相互作用するようなこともあるのじゃないかと,新型コロナが謎の解明の最中ということで,感じることがある.顕在的にそういう相互作用領域を捉えられるものなのかどうか,詳しくは知らないが,結構,ある気がする.こういうことも一種のゲーム感覚といえば,それはそうだろうが,新しい知的な行動変容には不可欠なのだろう.go-to way of thinking for (ゴダウェイォティンキングフォてな発音になるのだろうか,youtubeみて思った) みたいな.英語には全く自信がないが,日本政府のgo to キャンペーンで,政治キャンペーン用の日本語英語ではないかと騒がれてるらしいので.go-toは,繰り返し進行しながら,だんだんそういうあり方に傾いていくような様がこもったような形容詞な感じだが,名詞の前について,頼りとなる,とか,<皆が>助けを求める<人や場所>,ということだそうである.
7/30) 「go to キャンペーン」問題騒いでる間に,一日の感染者1000人越えという状況になり,対策の不備が問題視され,旅行もしたいし,お得にもあり付きたいし,経済は動かしたいが,米中関係悪化が熱を持ち出してきて,議論のネタには事欠かなそうだが,まともな議論は,今は気が向かない.go to ”なんか拍子抜け"で,新型コロナも拍子抜け.つまり,今の所,感染拡大し始めた頃と比較して,目立った変化は見られない.こういうことを巡って,議論戦わせよういうポーズだけが賑わうのだろうが,良いとか悪いとかではなく,「お得な方がいいには,決まってるよ」で済みそうな話を延々と続ける.しかも,案外,理屈屋以外は参戦していない.健全といえば健全な気がする.
重症化への対応というが,対応できるのは医療機関や,医療関係の研究機関だけだろうから,経済動かす連中が,「コロナ」だけじゃ経済動かないなんて言ってすませられてる状況は,気楽なものなのだろう.昭和親父から見ると,そこらが,いつも,つまり,経済だの政治だのいう連中が,動かないのか,動けないのか,動くつもりがないのか,例えば,「コロナなんて」と言いつつ,そういう論調を吹きたがるという営業パターンにどっぷり依存してるような気がする.内容を述べられないから,「経済動かさないと困るでしょう」という殺し文句に頼るという,気楽さがある気がする.なんか,そういう政財官業者なのかの縁故活動なのだろうか.
確かに,一般の国民にとっては,知ったからといってどうできるわけでもないが,ここ最近,免疫や後遺症,その他,新型コロナ関する報告も,ちらほら,ネットのニュースでは見受けられるが,あまり掘り下げられない感じがある気がする.go to キャンペーンに皆が熱狂しているからなんてのは,水差された感のざわざわ感の最中に,それは理由に上がらないだろうが,そこらの希薄感が,「経済動かさないと」のポピュリズムに共鳴しているのかもしれない.解明が進めば進むほど専門的になるだろうし,専門家の中でも専門化の感が強くなるのだろうことはわからなくもないが,とっくに,そんなことお構いなく,一般人も大騒ぎしてるのだから,大騒ぎする方が,免疫強化になるのじゃないだろうか.
結局,このページというのか記事というのかは,go to キャンペーンで紛ら化された感が強い.NHKスペシャルでは,血栓の原因として食細胞(好中球)の関与が印象的だったりしたが,マクロファージについては妙に隠されている感じもした.まだ,よくわかっていないからという理由かもしれないが,解明も完結はしていないことの象徴だろうか.無核化クローンとチトーデ(無核細胞)は別範疇なようだが,細胞進化や作用に奇妙な謎を秘めていそうなところは通じている気もする.そういうことに,手がかりとなるような話はないかなと思ったりしていたのだが,go to 散漫気分になってしまった.明示的に関わりがあるのかないのかの説明は読んでいないが,生物も自然の対象と考えれば,自然を見ても見ていなかったもの,見えずにいたものの輪郭の一部がボヤ〜ッと見える感じになるのだから,お得ではある.「気付き」はお得である.
もともとそうだが,この記事はグダグダなので,グダグダついでに,私の感じた「死」についてエッセーしてみることにする.死について直面することは,私ぐらいの年齢なら,何度かは経験している.自分の死もそうだが,祖父や祖母,親戚,両親,あるいは,同年代の女生徒とか.持病があったということで死んでしまったという話が伝わってきて,どの子だろうと姿を思い浮かべていたのだが,その時,「死」というのは,私の思考の日常ではないか,と思った.死んだ子のおぼろげな生の時間が流れ込んだような感じである.その子の思いともわからない,時の流れである.やわらかい哀しみがつづく生き物のような時間の未来である.そんなことを感じたことはなかったので,記憶に残っている.私の日常の意識には,時に,そういう時間が姿を見せるのかもしれない,少なくとも,見える存在としてあるのかもしれないと,少し安らいだ感じで,視線を動かしていたことを覚えている.私が死ぬまでは,私の「死」は死なない,という感じだろうか.死は存在であるという直感を,いまだに,超えられない.例えば,病気のステージがどうだとか,覚悟も必要だとか,もちろん,必要な説明であるのだろうと思うが,それは医者に任せればいいのではないだろうか.死を文筆家に教わった記憶はない.漫画の死をめぐるシーンでも,死の解釈として受け入れたことはない.宗教的な精神世界に死が繋がっているのかも知らない.知らないまま死ぬことが,私には正解なのだろうと思っている.
音楽における「死」とはどういうものなのか.賛美歌なのか,「死と乙女」なのか.あるいは,どれともつかない,混沌なのか.あるいは,混沌とも異なる昇華なのか.音楽からっきしの身にとっては,永遠の謎になりそうである.ベト〜ッとした汗のようなものなのか,シャワーを浴びた後のさっぱりした感覚なのか.10メートル足らずの私の空間を流れた時間という空気のようなものなのか.死は近く遠くあるのか.死はその距離にありながら私に流れ込むようなものなのか.死は私なのか,私の影のような距離なのか.音楽は,私の死の距離を分節するものなのか.言葉は,その区切りとの邂逅で,新たな意味を付与されて,私の死に受胎するものなのか.その問いの瞬間,「知らない」としか発せられないではないか.人類が,「無知の知」を発話した瞬間なんてことになれば,遠い集団記憶のようなものなのか.あるいは,音楽の作り出す全てのものは,単なる記号の列に過ぎない,という立場もあるのだろう.「無知の知」を発した瞬間の記号列はどんな楽譜なのだろう.ジャジャジャジャ〜ンとかワオワオ・オ〜とか.ピアノ弾ける人なら,もっとまともなメロディーが流れるのだろうが.人の祖先の種族は,言葉を持っていたと考えられている,というような記述も,立派な学術表現なようだから,どう確かめられるのだろう.骨からとか,周辺の遺物の文脈からとか,考えられる,というわけだから.祖先のマリアちゃんは,一万人足らずの人口(?)の中で,どんな言葉を,どんな場面で,どう工夫しながら,喋っていたかは,知りようもないが,言葉は語られ現代に至っている.言葉というシステムと発話の作用を司る遺伝子とかあれば,確かめられるだろうか.ウイルスがセンス化したと想像すれば,言葉をもたらしたのは悪魔ではなくウイルスということになって,仰天という感じになる.もし,そうなれば,ウイルスが知のリトマス試験紙とか査読者となって,認められるように,人間の方も知恵汗かかなければならないことになる.知の行動変容である.
まとまりなくなったので,ページを改めようと思いながら,また一方で,グダグダならグダグダなりに,気になることについて,一応,記録しておいたほうがいいかなと思いながら,現代人の祖先のマリアちゃんが,彼女自身は小集団のメンバーなのだろうが,言語とどう共に生きていたのかなんて話を作ってみたりした.つまり,言語とともに生きながら,絶えさせなかったわけだから,「持続可能な」とか,「行動変容」とか,ありもしない答えを我先にと競い合うことが決着であると,変に急いた気分だけが,持続可能な行動変容であるあるということになっている.交叉免疫でも,大雑把にいえば,変異が近ければ働くが,遠ければ中途半端になって,ADEが,ワクチンや治療薬が,逆に,感染を悪化させたり,重大な副作用を引き起こしてしまう的な話を,youtubeで見ていたりした.大雑把に括った理解で本当に理解していることになるのか,大雑把にしか理解できないから,逆に,多面的な,また,より詳細な情報を背後に想定しつつ,収まりの悪い感じを伴って,考え続ける習慣になるのか.そこらは,私は,もともとグダグダなせいか,全く変容していない.例えば,中間宿主に蛇がいれば,新型コロナの知見にどう影響があるのか,なんてことは,「蛇も宿主だったかもしれない」という理解以上に,理解されているだろうか.科学的知見でも,中国の報告は訝しがられているが,中国自身が相手にしたいのは,欧米の先端からの報告であろうし,ロシアの科学シンジケートかもしれないわけだから,そこだけ騒ぐのも,あまり益は無い気がする.じゃあ,日本は,といえば,比較する条件さえ整っていない,などと言われているわけだから.WHOからは,図らずもなのか,対策をほめられたりするから,なにがなんでも悲観的にということでもないが,何が何でも楽観的にということでもない.例えば,ネットだのSNSだのの過激化も,芸能人の自己リークのように,報道とかメディア関係者が,業者化して,やらせでやってる感もある気がする.そういう意味では,そもそも,go to 化している連中が,go to いいのだが,時期やタイミングが悪いなんて言ってるのだから,当然,いいのか,問題なのか,わけわからなくなるわけである.私は,blogだけだから,blogで書いただけが,問題発言があるとしても,全部だから,単純かつ簡単なのである.ネットがソーシャル化すると,ちょっと,バレルのまずい的な,案外,ソーシャルな立場の連中が多いのかもしれない.
気になっていることが,現在,2つある.一つは,物理的時間とか心理的時間とか,生物的時間という,関連はしているが異なった時間概念があるということはよく言われることなのだが,新型コロナのおかげで,生物時間がよりはっきりと映像化した感じを持ったこと,である.もう一つは,統計がよりダイナミックに,思考に接近してきた感じがあることである.「AIも統計」といえば当然という捉え方もあるのだろうが,量子論の基礎の統計性のような感じが,一層,思考にとって身近になった感じである.
日本は,第二波なのかそうでないのかなんて話でも,世界的には,感染拡大を続けながら,地域的には,第二波による拡大や,感染のセンターの移動などが,同時進行しているという状況なようであるが,そういう状況の推移とも相即しながら,この二つの問題も進展していくのではないか,と思う.
当たらないのは,天気予報か場外馬券場の勝ち馬予想か,経済予測と,昭和の時代には言われていたと思うが,一つだけ言えることは,経済データもニュースになってないわけでもないが,多かれ少なかれ,新型コロナの影響はすでにでているということだけであって,go to キャンペーンで予測できているわけではないということではなかろうか.そういう問題と,この二つの問題は,峻別して考えるべきなのだろう.峻別する視点は持つべきだとは言えるであろう,と思うわけである.
直接的に新型コロナの影響でなくても,原因のわからなかった難病の解明や治療法の進展に,どこかで,新型コロナの究明が繋がるかもしれないわけだから,慎重な姿勢も必要なのだろうが,go to おしゃべりキャンペーンに傾くよりは,注目すべきなのではないのだろうか.go to キャンペーンがどうだこうだということより,ごまかしにgo toを紛れ込ませようと意図しているような論調が,色々な都合に都合よくくっつけられて,吹聴されている感が強くなっている気がする.細かいことどうこうではなくて,日本の言論のマンネリが,肝心なところでは,ヒスって終わり的な,つまらなさの現れかなと思うわけである.
(変異した)ウイルスが(新たな)クラスターを形成して,(そのような)クラスターが個発的に頻出して,クラスターを追えない状況で,面的に拡大していく,という説明が以前にあって,8/16日現在,そういう状況になっている.お馴染みになった「クラスター」という言葉だが,ちょっと意味不明とまでは言わないが,どういうことを指しているのかはっきりしない感じは,当初から,そう名づけた当の専門家会議でも述べられていた.クラスターという言葉は定着したが,アセンブリ(assembly)だったらどうなっていたのだろうか.生物学用語で,会合体形成(assembling)というのがあって,似たような状態を表す内容なので,言ってみた.「クラスター」も条件を整えて観察される状態というより,ゆるい類似状態を指す言葉として考案されたようなイメージだから,そういう意味の類似ではあるが,繋がりはありそうである.事態を触媒層的な中間層を介在させて,あるいは,低温状態において観察するような手法ということなのだろうか.
SARS-CoV-2も,東京型というのか日本型というのか,今後は更に複合型の可能性もありそうだが,弱毒化したという証拠はまだないらしいが,致命率が抑えられている段階で,ある意味,触媒的な状況が醸し出されていることとも関係するのだろうか.都市部や沖縄の感染拡大の状況から,無個性なクラスターというより,個性を媒介する拡大が生じていることが,当初イメージされていたものより,より強くなっている感がある.科学的根拠は重要ではあるが,議論の拡散に対しては,科学的であることは,強すぎる面もあるのだろう.そういう重箱つつくこと自体を目的とするのはどうかというだけのことであって,大した問題ではない気がする.隠れた科学不要論が,科学的根拠を言い訳にする論調が,最近目立っている感じは,ちょっとする.例えば,NHKスペシャルでも,新型コロナの特徴の一つに,「見せかけの無症状」というのがあったが,だから,弱毒化していて,経済優先の対応に切り替えよう的な論調がまかり通る的なことにつながっているのだろう.顔色伺い忖度という感じだろうか.経済どうこうというより,「ゼニは多いほうがいい」程度の論調の騒ぎに過ぎない気がする.そりゃ,理屈抜きに,みんなそうだろうが.あるいは,言いにくいのか,「要は,オリンピック」と表現されたりするわけなのだろう.「見せかけの無症状」という言葉を,経済優先のために,意図的に,利用しやすい向きに変えてしまおう的なやり方になってしまうわけである.「見せかけの無症状」は,ウイルス感染症としては,もっとシビアな事態につながる表現な気がするが,弱毒化して経済優先への対応へ変えるという新結合を目論むわけだから,いい性格している連中が考えたのかもしれない.
rRNAは,働きが謎な部分があるようだが,微妙に,mRNAとの機能の交叉を,ウイルス粒子様小嚢を介して行なっている感じもあるのだろうか.遺伝子翻訳を中断させたり,そこ(中断された位置)にくっついて,別物に翻訳させたり,こんがらかって結び目のついた撚り糸の様に,見せかけのナンセンス遺伝子産物の工場の様なものを都合よく整える(micro-environment, 低分子環境?)事もあるだろうか.生物学でも,こんな疑問がまだ詳細にはわからないテキなことが多い気がする.生物学辞典の「キラー(killer)」の項目を見ながら(ゾウリムシおよび酵母の遺伝形質の一つということだから,類似があるのだろう),サイエンス誌のタダ読み論文の記事を拾い読みしながら,思った.