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自由と創造

2009-12-23 10:29:05 | 国際・政治





羽仁五郎著『明治維新』,「現代日本の起源」から(岩波新書)

・現代日本は何処へ行くか、これを判断するには、現代日本が何処から来たか、を知ることは有益である。現代日本の立つ地点と、現代日本が直接に起源した地点と、この二点をつらねて見来るならば、現代日本の当面の動向が如何なる方向にあるべきかが、自から明かとなるであろう。現代日本の動向の判断は、諸君各自の識見に属し、もとより歴史学は諸君に参考資料を提供し得れば、これを栄光とせねばならぬ。歴史家は現代を語らない。けだし、歴史家も諸君民衆とともに、現代の責任はこれを現代の政治家たちに問わねばならないからである。しかも、現代の起源について学問的研究を行うことは、歴史学の貴重なる任務に属する。

 諸君、現代日本の直接の起源は、これを歴史的に何処に求め得るのであろうか。

 碩学(せきがく)竹越與三郎はかつてその名著『新日本史』に序して云った、「周は旧邦なりと雖(いえど)もその命維(こ)れ新たなり。日本が一の国民として恥ずかしからぬ成立を確かめたるは、維新の大革命に存する、」と。

 現代日本の直接の起源は明治維新にこそ存するとなすは、その理由があるのである。

 現代日本の国民、諸君の生活は、憲法と自由とによつて保証せられて居るのである。自由について今日あるいは多少の論議が行われているとするも、憲法によって身体および生活行動の安全が保障され、国民として一般国民的事務を処理するために参政するの自由、議会に諸君の代表者を選挙するの権能、言論また研究の自由が保証され、憲法による此等の自由の保障によって、諸君は今日近代国民としての生活を営んでいるのである。これは厳然たる事実である。諸君は、此等の自由を、或は高く、或はさほど高くなく、それぞれに評価しているであろう。しかも、いづれにせよ、此等の自由の保障あるがゆえに、今日、過去の封建的統制を脱し、というのは農奴乃至奴隷的の束縛の境涯を脱し、自立の国民たるものであることは、何人も忘れはせぬところであろう。身体また生活行動また参政また言論の自由の無視されていた時代には、ひとびとは農奴乃至奴隷的の社会に居たのである。当時、諸君の先祖は、正しく日本国民とは生まれながら、その大多数は、封建制度のために束縛され、一般国民としての生活を認められず、参政の権能を否認され、すなわち真実の国民としての団結を不可能にされ、実際上に一の国民を成すことができず、農奴乃至奴隷的の境涯に分散せしめられていたのである。しからば、われらの大多数の祖先は、何時の日に、この農奴的隷属の境遇を脱したのであるか。これは実に、ほかでもない正に明治維新以来のことなのである。明治維新が現代日本の起源たる所以は、ここに存する。

 明治維新はいまなお厳然として現代的意義を有する。何となれば、今日統制が世界の大勢の如くであるが、それが封建的統制への逆転であってはならぬことは明かであり、すなわち、それが進歩であるためには、それは自由を機械的に否定した統制であってはならず、あくまで自由の上に立った統制であらねばならず、この意味において明治維新によって開拓された自由の前進の方向に沿うにあらざれば、如何なる統制も動(やや)もすれば封建的統制に逆転せしめられる危険があり、それを予防するの保障はなく、すなわち、進歩的統制への確実の保障はなく、およそ進歩の確実の保障があり得ないからである。

 自由が一の歴史的段階に過ぎないか、それとも、そこには段階以上のもの即ち歴史の進歩の原則があるか、なお検討の余地が存せぬでもない。のみならず、自由が一の歴史的段階にすぎずとするも、現代すでにその段階を脱したか、それとも現代はその自由の一層高度の段階にあるのではないか。資本の自由または自由主義の段階がすでに過去に属し、自由が先ずはじめに資本の自由として実現されたとしても、しかも自由はいっそうひろい意義があったし、資本の自由または経済上の自由主義の段階を克服する一層高度の自由、すなわち国民民衆の自立自由の段階があるのではないか。のみならず、自由は一の歴史的段階に過ぎずとしても、そして統制がそのつぎの当面将来の段階であるといわれる意味は慎重に考えられねばならぬ。統制が一の段階であるかいなか、ここにもまた問題がある。はたして統制が一の歴史的段階であるか、経済的にも哲学的にもここには確実なる研究を要する問題があり、諸君は歴史的にもよく考えて見る必要がある。歴史的には、過去においてもいくたびかさまざまの統制があった。封建的な統制もあれば反動的な統制もあり進歩的な統制もあったことは、諸君の見るとおりである。してみれば、統制そのものは一の形式にほかならず、即ち何等かの内容なり原則なり歴史的段階があってのその形式であり、その内容また原則また歴史的段階によって或は封建的統制となり反動的統制となり或は進歩的統制となったのである。現代日本において統制が現実の問題であるとされる。しかし、その統制が封建的統制であってはならないことは明かであり、この意味において封建的統制を脱却した明治維新の意義は現代日本に生きているのである。

 現代日本において国民的自覚が最も強調されている。この点でも、わが国民は二千六百年来あるいは更にさかのぼって有史以前より悠久の存在をつづけて来たのであるが、国民としての自覚は、明治維新によってはじめて確実に成立したのである。維新前、封建的束縛のあったかぎり、真の国民の自覚は確立されなかったのであり、自由なかんづく国民が一般国民に属する事務を国民的に処理する参政の自由を保障されなかったあいだ、真の国民の統一の自覚は存し得なかったのである。明治九年六月『近事評論』第二号などにも、「政府ノ国事ヲ秘シテ、一般庶民ノ耳目ヲ閉塞スルハ、東洋諸国ノ旧来ノ弊習ニシテ、ソノ国民ヲ愚ニシ、愛国ノ心ヲ杜絶スル者、コレヨリ甚シキハナシ」としたが、かの堂々公明の論説を以って、自ら一新聞記者として大臣宰相以上の見識をもっていた陸羯南(くがかつなん)は、明治二十二年以来その主宰していた新聞『日本』の社説『近時政論考』に国民論を説いて何と云ったか。いわく、「国民の統一とは、凡そ本来に於いて国民全体に属すべきものは、必ず之を国民的にするの謂いなり。昔時(せきじ)に在りては未だ国民の統一なるものあらず。其(それ)之(これ)あるが如きは唯(た)だ外観に過ぎずして、実相を見れば一種族一地方又は一黨與(とうよ)の専有たるを免れざりしなり。政府法制裁判兵馬租税の如き、凡そ此等は皆本来に於いて国民全体に属すべきものとす。然(しか)るに昔時に在りては斯かる事物皆な国民中の一部に任じて其の私領(しりょう)と為せり。......是れ国民統一の実なかりしものなり。国民的政治は与論政治なり。此理由によりて国民論は立憲政体の善政体なることを確認す。」

*命---(仮)天の道(理)に従って国も興亡する。


丸山真男著『日本政治思想史研究』「国民主義の前期的形成---まえがき」から(東大出版)
・国民とは、国民たろうとするものである、といはれる。単に一つの国家的共同体に所属し、共通の政治的制度を上に戴(いただ)いているという客観的事実は未だ以て近代的意味に於ける「国民」を成立せしめるには足りない。そこにあるのはたかだか人民乃至は国家所属員であって『国民』(nation)ではない。それが『国民』となるためには、そうした共属性が彼等自身らによって積極的に意欲され、或は少なくとも望ましきものとして意識されていなければならぬ。換言すれば一定の集団の成員が他の国民と区別されたる特定の国民として相互の共通の特性を意識し、多少ともその一体性を守り立てて行こうとする意欲を持つ限りに於いて、はじめてそこに「国民」の存在を語ることが出来るのである。

[.......]

国民の国家への結集はどこまでも一つの決断的な行為として表現されねばならぬからである。

 上の如き政治的範疇としての「国民」及びその自己主張としての国民主義が一定の歴史的段階の産物であることは明瞭であろう。

いづれにせよ、国民主義がこの様に国民の伝習的な生存形態との矛盾衝突をも賭して自らを形成するということはとりもなほさず、政治的国民意識が自然的自生的存在ではなく、その発生が一定の歴史的条件にかかっていることを示している。


*元首としての天皇------天皇は国民統合の象徴であるが,国の元首とするのは無理がある。むしろ、実質的な権能を与えられた内閣総理大臣および内閣の元首的な側面を、天皇の象徴性が範疇的に制限している感じである。日本国憲法で元首に当たるものは存在しない。議論としては面白いのかもしれない。参考文献『憲法読本』上、岩波新書「国民主権と天皇制」








コメント (1)
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