エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

異邦人へ及ぶ力ある働き

2013-05-26 | ルカによる福音書
 こうしてルカの福音書は、「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた」(ルカ24:52-53)と記されて幕を閉じます。ただし、ルカが万感の思いでこれを記したかというと、どうもそうではなく、心は次の使徒言行録に移っていたのではないか、とも思われます。イエスの前にひれ伏して礼拝した、というところも、有力な写本にはないとのことです。そしてまた、ヨハネの福音書にもありません。従って、相違がすべてヨハネに基づいている、というわけではないと分かります。では原文はどちらか、ということも興味が湧きますが、やはり分からないとしか言いようがないでしょう。このあたりは「そして」の流れでスムーズです。たいへんな喜びであったことが付け加えられています。それでもまだ、聖霊による深い理解はまだです。弟子たちの喜びを否定することはできませんが、この喜びには、まだ人間くささが残ります。弟子たちは、次にステップに進むために、エルサレムに滞在します。そしていつも神殿にいた、とありますが、もちろんそこに住んでいたわけではなくて、毎日そこに通ったということでしょう。弟子たちは、次に何をすればよいのか、まだ分からずにいたのです。そして通常の宗教的生活を続けるのです。イスラエルの神を讃えよ、とその神殿に詣でます。敬虔な祈りの生活を続けます。それしかできないのです。ルカの福音書の末尾は、不思議な言葉で終わります。「神を祝福しながら」というのです。ヨハネの影響を受けていない写本は、「神を讃美しながら」となっているといいます。ままある表現ですが、当時の人もどこか不自然に感じたので変更した可能性もあります。思えば、「讃美する」とか「讃える」とか「祝福する」とか、分かっているようで実は曖昧な表現です。日本語だけの問題ではないようですが、日本語だといっそう歴史的な背景に欠けるので、ぼんやりした理解になるかもしれません。私たちが思うほど、上下差はないのかもしれません。この幕切れは、次の展開を待っているように見えます。ルカの福音は、異邦人へ及ぶ力ある働きとなって、新しい世界をここから開拓していくことになるのです。
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手を挙げて祝福された

2013-05-25 | ルカによる福音書
 しかしまた、ここでイエスが手を挙げて祝福されたというのも、議論されることがあります。祝福において手を挙げるということが他に見られないのです。祝福は手を置くものでした。これを按手といいます。しかも、ルカ自身がこのようにして「手を挙げる」の意味でこの語を他に用いていないのです。ただし、ルカは、目を上げたり、声を上げたりするときにはこの語を用いています。もしかすると、教会の祈り方や祝福の仕方の中で、手を挙げることも行われ始めていたのかもしれません。あるいは、ユダヤ人は神への祈りののときに、手を挙げて祈ることをするときがあります。それを意味しているのかもしれません。本文に戻りますと、このような様子であった、というルカの調子で最後も締めにかかり、「そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」(ルカ24:51)といよいよイエスの姿が見えなくなります。エマオでも、目の前でイエスがいなくなりました。しかしそれは昇天ではありませんでした。となればあのときの消え方は何だったのか、よけいに気になります。ちゃんと肉体を伴っていたのに、消えたのです。ここでは、イエスが天に運ばれていったという描写がしてあります。ヨハネからと思しき部分を欠いている写本には、この天に上げられたという表現がないといいます。ただし、ヨハネの福音書には該当個所はありません。もし天に運ばれていかなかったら、昇天日という私たちの呼び名を検討する必要が出てくるでしょう。イエスは私たちから一旦離れた、というのがさしあたり動かしがたい事実です。しかし、神は私たちから遠ざかったのではありません。むしろ次の聖霊降臨以来、つねにそばにいる、共にいるのです。イエスの手が挙がり、そしてイエス自身、天上に帰ります。イエスの肉体はこのようにして地上に残らなくなります。復活はしたのですが。そして、エリヤのように天に行ったとされます。あるいは、エノクのように、神の許に、という理解も可能でしょうか。
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期せずして神の霊感の中になされた

2013-05-24 | ルカによる福音書
 こうしてどうなったかというと、ルカはもはや詳細を描こうとはしません。ここからのいわゆる昇天は、一つの復活後の証明にもなっています。そもそも復活したイエスは、その後どうしたのでしょう。この地上をいつまでも歩いているのでしょうか。肉体をまたとられたというのです。しかし誰も見た者はいません。復活のイエスは、再び私たちの目の前から去らなければなりません。ルカは、他の福音書記者が描いていないこの問題に対する解答を用意しました。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された」(ルカ24:50)のです。急に登場するベタニアが気になります。使徒言行録でもこの記事はオーバーラップされて少し触れられていますが、そこではベタニアの名は出ず、むしろオリーブ山であるかのように記されています。これはどう理解すればよいのでしょうか。そもそもルカは厳密にこの場所を規定しているのでしょうか。この昇天は40日の後のことになっていますから、この福音書の末尾は非常に端折った形になっています。あまりに簡単に叙述するので、この昇天の記事にしても、ダイジェストのような体裁に見えて仕方がありません。その説明について細かな点を詮索するのも難しい可能性が高いような気がします。ただ、聖書の福音書という、微に入り細を穿つ検討を受けるテキストとしては、あまりに杜撰であるわけにはゆかないのも事実です。けれども、ルカ自身、どこまでこれを聖書だという意識で記しているかも分かりません。自分でこれが髪の言葉だ、と書いている姿というのも、違和感を覚えるものです。ルカが意識せず記しているものが、期せずして神の霊感の中になされた、と捉えるほうが自然であるようにも思われます。
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力を身に纏う

2013-05-23 | ルカによる福音書
 それから、この後に聖霊が降臨することで、ここのイエスの言葉の謎が解かれるという構成になっていて、やがて聖霊が父なる神より送られて、力を得て、世界へ出て行くようにまでなることが宣言されます。ルカの眼差しはもう次の教会の歴史の段階に言っています。上からの力に弟子たちは覆われるといいます。ただ、それを受ける事件の描写が待っていますから、それまでエルサレムにとどまって集まっていよ、というのです。それにしても、エルサレムは危険ではなかったでしょうか。当時の状況は実のところははっきりしないのですが、あるいはイエスが処刑された時点で、この集団の力はなくなったというふうに見なされて、もう雑魚どもは相手にされなくなったのでしょうか。弟子たちはもはや力がないと見られたのかもしれません。また、そのようにすることが、この見せしめの処刑の意味でもあったはずでした。よけいな手間をかけなくても、この集団が解消していくように仕向けたのでしょう。またそれほどに、この弟子たちは立派ではなかったようにも窺えます。マルコが描いたように、無力で無理解な田舎者揃いだったわけです。だから権力者たちの目から見ても、何の力もない無害な者のように見えたのではないでしょうか。けれどもそういうことを含めて、すべてが摂理でした。だからこそ一つにまとまっていることができたのです。これが散り散りになっていては、聖霊が来てひとつにまとまることはできなかったことでしょう。なお、力に覆われるというのは、力を身に纏うような表現がとられています。パウロは、キリストを着る、という言い方をもします。力を与えられるというのは、人間自身の中身から湧き出るというよりも、外から着せられるという感覚があるのかもしれません。
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エルサレムから

2013-05-22 | ルカによる福音書
 メシアについてこれまで何度もイエスは言ってきました。そしてこれからの計画も明らかにします。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい」(ルカ24:46-49)というのが、ルカの福音書におけるイエスの最後のメッセージとなりました。キリストの受難と復活、罪の赦しと宣教、これらがこの聖書の知らせる内容だというのです。世界中にそれが広められることが告げられていますが、もちろんこれは次の使徒言行録の流れを先取りしたものです。「罪の赦しへの悔い改め」という表現ですから、「得させる」は脚色です。口語訳から引き継いだものか、あるいはフランシスコ会訳からきたのか分かりませんが、ちょっと高みから見下ろすような表現をわざわざこれからの時代にとる必要はないだろうと考えます。ルカはここまで、イエスの活動を、ひたすらエルサレムに向かう歩みとして描いてきました。そのために、マルコの記事をかなり編集しました。時に、それが破綻したかのように見えることもありました。しかし今その目的である十字架と復活が成し遂げられました。今度は、このエルサレムからスタートして、世界へ福音が拡がっていく段階に入りました。ギアチェンジをしなければなりません。宣べ伝えられる、で訳は終わっていますが、ニュアンスからすれば、そうなるはずである、とか、そういうことになっている、とか、そうなるべきである、とかいったふうに聞こえます。これからはそのようになるから、あなたがたはその働きをしなさい、というようなことなのでしょう。私たちはその証人です。命懸けの行為をする者です。
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2013-05-21 | ルカによる福音書
 さてこうして「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた」(ルカ24:45-46)と描かれています。「聖書」は「書かれたもの」といういつもの言い方です。ところが新共同訳は「心の目」などという発明をしました。前代未聞のような気がするのですが、「目」などという単語はどこにも見られません。「開く」だから目だろうと錯覚に囚われたのでしょうか。心だって開かれてよいでしょう。何もわざわざ目にしなくてもよかったのに、と思います。また、この「心」もギリシア語における「理性」の語が使われています。理解する知性を指し、そのようにして思い描かれた考えを意味することもあります。「心」という日本語は実に広い意味を含んでおり、知的なものから感情、また倫理など、あらゆる精神活動を表現することができます。ところが英語でもそうですが、その機能により区別した語が用いられるのが通常です。ここでは、明らかに知的な精神活動を指しています。それから、この文末にある不定詞を目的として見るのも一案ですが、結果として受け取ることもできます。つまり、彼らの理性を開き、聖書を理解させた、という文脈として読むのです。ただ、ここで弟子たちがそれを成し遂げたかどうかという点については、まだ保留しておくべきだと思われますから、理解できた、というふうにしてしまうことはやはり慎重でなければなりません。
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すべて実現する

2013-05-20 | ルカによる福音書
 ところがイエスは言われます。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである」(ルカ24:44)と。魚の一件と同じ時であるとは思えないような語り口ですが、とにかくイエスは、いわゆる旧約聖書のすべてが自分に集約されているということを証しします。それはルカをはじめ、新しい教会の面々が受け止めていかなければならない事柄であったことでしょう。通常は、律法と預言者とが代表されて、聖書の扱いを受けます。諸書なる詩篇も含まれて理解されているとしてよろしい場合が多いのですが、ルカは少しばかりそれでは頼りないと思ったのでしょうか、ここに珍しい形で、詩篇を明確に挙げました。詩篇の中にも、メシアの預言は幾多もあります。ルカも引用してきています。そこも正しく見るように、特に異邦人に対してはユダヤの文化とは違う場合にそこを見落としてはいけないことから、取り上げたという可能性があります。それは実現するのです。かつて言っていたではないか、と示します。いわゆる預言の成就です。神の約束は必ず実現されるのです。当時にしてそうなのですから、今を生きる私たちにとっても、同じことを信じていくという生き方が求められます。すでに起こった事実としてイエスの出来事を受け止める私たちは、こうした記事をふむふむと受け容れることを簡単に致しますが、当時の弟子たちにとっては信じられないような事柄であったに違いありません。私たちもまた、同様の信仰を試される中に置かれているのです。
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魚のギリシア語

2013-05-19 | ルカによる福音書
 ところがこの状況の中で、「彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた」(ルカ24:41)のでした。弟子たちは喜んだのでした。すっかり驚き、精神がひっくり返るほどではありましたが、そこに喜びが伴いました。が、それはまだ信仰に至ってはいません。信じるという語に否定語が載っていますので、不信だったという言い方になっています。そして奇妙だ、不思議なことだ、と訝しく思っています。弟子たちは、信仰に入っていない状態だというのです。ルカは、この後教会の誕生であるペンテコステの聖霊降臨を描くことになります。そこからが弟子たちのスタートです。復活はまだ途上のようなものなのです。それにしても、食べ物を要求するというのはどういうことでしょうか。「そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた」(ルカ24:42-43)と、少しほほえましいような情景が描かれます。おそらくは、ここで魚をクローズアップしたかったからでしょう。魚のギリシア語を一文字ずつとると、「イエス・キリスト・神の・子・救世主」を表すとされています。実に、十字架がシンボルになるよりずっと先に、キリスト者たちは、魚を以て信徒の合図とし信仰の象徴としていたのでした。死刑台そのものがそれにとってかわるのは、キリスト教を公認した初のクリスチャン皇帝コンスタンティヌス帝が幻を見て、十字架を旗に戦いに勝利したことから表に出てきたと言われています。魚はイエスを表します。しかも、それは焼かれていました。全焼のいけにえを連想されます。読み込みすぎでしょうが、読者の中にはそれを感じた人もいたのではないかと思われます。ただ基本的には、このイエスがたんなる霊ではない、ということを示すための描写でありましょう。
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あなたには見えているではないか

2013-05-18 | ルカによる福音書
 しかしイエスの側では、これらはすべてすんなりと運ぶべき事柄です。「そして」の流れで「そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある」」(ルカ24:38-39)と語りました。弟子たちは混乱していました。いわばパニックなのです。イエスはそうなる必要はないことを告げます。疑いが、あなたがたの心の中に起こるのはどうしてか、と問いかけます。ギリシア語の言葉はえらく詳しく丁寧です。まさにそのままの語がたくさんつながれています。私の心の中に疑いがあることを見抜く主は、読者ひとりひとりに問いかけています。あなたの心の中はどうであるのか、と。イエスの手と足を見よ。それは、読者にはできないではないか、と思われるかもしれません。しかしそうではありません。見なければならないのです。聖書を通じて私たちはイエスと出会います。そして、イエスの手と足の傷痕を、実際に見るのです。救いというのはこれを見たことから始まります。それを見なければ、救いは本物ではありません。触れ、とまでイエスは言います。触ることなどできないではないか、と思われるかもしれません。でも、触れるのです。私たちは主の痛みを直に触ります。私もまた、同じ、とまではいかないにしても、その苦しみの一端を担うことができるからです。霊にはない肉や骨があります。この信仰は、抽象的な、妙なスピリチュアルな出来事ではないのです。読者よ、信徒よ、あなたには見えているではないか、とイエスは迫ります。イエスは実際にその肉で以て痛みを味わい、贖いを成し遂げました。この現実に触れてこそ、の救いなのです。「こう言って、イエスは手と足をお見せになった」(ルカ24:40)の句もまた、一部の写本にはなく、ヨハネの福音書と一致しているために、ヨハネから持ちこんだ疑いが極めて強いとされています。一致とはいっても、その「脇腹」がここでは「足」になっていますが、ルカは直前で手と足を見せたとあったので、変更した可能性が強いと言われています。こうなると、ルカの福音書は、原典がどこかでアレンジを受けて、そのアレンジがかなり受け容れられて広まっている様子が認められます。
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真ん中に立つ

2013-05-17 | ルカによる福音書
 しかしそれに対して、という流れを作った後に、ルカは「こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた」(ルカ24:36)と書いています。話が転換しました。どうもこの近辺、ヨハネの福音書と合致する表現がいくつか見られます。ここではこの、平安あれ、と言った部分です。また、写本によってはその部分が欠けていることもありますから、当然疑いがかかります。ヨハネからもってきたのではないか、と。その証拠として、この日本語訳で「言われた」と訳されている部分があります。ギリシア語では「言う」という現在形なのです。日本語が原文を変えている例ですが、英語でも平然と、周辺と合わせて過去形としているものがあり、邦訳も英語からやっているのだという疑いをもたれて仕方のない事態になっています。まるで、カンニングをして、隣の生徒と同じ間違いをしている、というようなものです。「言う」というやり方は、確かにルカはここまで殆どやっていないことなのです。しかし、ヨハネは、そしてマルコもまた、現在形はしばしばやっていることです。イエスが真ん中に立った記事もヨハネに似ていますが、語法からしてこれはヨハネから持ってきたという証拠にはならないようです。とすれば、こうしたことは、各方面に共通に伝わっていたと理解することができそうです。弟子たちはこれを以外に受け止めます。「彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った」(ルカ14:37)というのです。新約聖書でも珍しい語が用いられています。怖じ惑うというような語で、他で「恐れる」と訳している語とは違うものが使われています。もっと驚いています。英語の訳語を用いず原語に当たれば、「恐れる」のような安易な訳語にはしないことでしょう。「たまげた」というような響きが相応しくないでしょうか。なお、「亡霊」は「霊」の語です。霊は見えないという前提ですから、霊を見たということは、たまげたことになるのです。それに、神を見た者は死ぬと信じられていましたから、びびったのでもありましょう。ここには二つの動詞があり、まずたまげて、次に恐れています。従って新共同訳の日本語訳は、いわば順序が逆なのです。
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復活のイエスに会った

2013-05-16 | ルカによる福音書
 不思議なことですが、使徒たちもまた、復活のイエスに会ったようなことを話していたといいます。ペトロがそれを見たのだ、と。しかしルカはこのペトロの出会いについては語りません。ほかの福音書に書いてあるからでしょうか。ルカはあまりそれは意識していないと思います。できれば、マルコの福音書に引退を言い渡して、代わりに自分の福音書こそこれからの時代に用いられるべきだと考えていたのだろうと推測します。ドラマ性からすると、使徒のもとに現れたというのが一番効果的であるように思われるのに、ルカはその最初の、使徒との出会いを省きます。想像させる目的もあろうかと思いますが、へたに描くと、そこに使徒の失敗を記さないといけないことに気がついたのではないでしょうか。それとも、ペトロを立てるためにひょいと書いてしまったのでしょうか。この後、この現場に復活のイエスが現れることになります。「そして」の流れの中で、「二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した」(ルカ24:35)とその場を描きます。二人は、イエスとの出会いを使徒たちに報告します。こうして、必ずしも使徒たちではない人々へも重要な事件があったことが分かります。あるいは、クレオパなる人物が重視されることになるのでしょうか。あるいはそれは、ローマ帝国の方から見て、「あのクレオパなのか」と思わせるようなことがあったのでしょうか。なにもかもが想像ですけれども、無為に名前が出たとも思えません。そしてこのように重要な役割を与えられているのです。ルカにとり、そしてルカの目的の一つである帝国権力への歩み寄りにとって、これは何か意味があったと思われるのです。
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心が燃える

2013-05-15 | ルカによる福音書
 エマオに帰ったこの二人は、心が燃えるのを覚えました。燃えたらどうするのか、というと、エルサレムに戻るのです。「そして、時を移さず出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた」(ルカ24:33-34)というのです。やはり、エルサレムしかありません。キリストがそこへ向かったエルサレム、そこから福音は世界に拡がります。この弟子たちは、諦めて帰ろうとしたところを、復活のイエスと出会い、そうではなくまた新たな歩みを始めるのだという決意をしたかのようです。まさにそれは、この時、同時でした。燃えていたことに気づけば、その時からがスタートです。猶予はありません。いえ、本当にもうその時に、神の時がすでに始まっているのです。たとえそれが、食事の始まりであったとしても、始まりは始まりです。この描写からすれば、たしかにこれは食事の始まりであったので、これをもし演劇にすると、えらく慌ただしく非現実的になってしまうかもしれません。実際夜中であったということになるでしょう。しかし、霊的事実とはそのようなものです。着いたのはエルサレム。じゃあエルサレムとはそれほど近いのか、そんなことを議論する必要はありません。これは霊的な事実なのですから。
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見えると思っているときには

2013-05-14 | ルカによる福音書
 そこで、ただ彼らからすれば意外な展開となるので、けれども、といった形で受け継がれていく中で、「すると、二人の目が開け、イエスだと分かったが、その姿は見えなくなった」(ルカ24:31)となってしまいました。不思議なものです。イエスだと見えたとき、イエスは見えなくなります。含蓄の深い出来事です。私たちが、自分で「見える」と思っているときには見えていないのであり、自分では見えていないというときに、実は見えているという、人の思惑の虚しさを覚えます。「二人は、「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った」(ルカ24:32)のでした。肉眼で見えていなくても、いやむしろだからこそ、二人の心には今真のイエスが共にいます。そう言えば、と話し始め、道での話のとき、書かれたもの、つまり聖書を開いたあのとき、自分たちの中で心は燃えていたのではなかったか、と確かめ合います。信徒同士の結びつきはこういうところに起こります。私たちは共に、神の言葉を聞いたではないか。そして信仰をあんなに燃やさせて戴いたではないか、と確認するのです。ここに教会が生まれます。ルカは、この後教会の発生を描きます。そして福音が、教会を通じて広められていく様子を、むしろこの福音書よりも長い書物を通して伝えようとします。この二人の弟子の記事は、その序章です。そのようなものとして、大きな意味があったのです。たんに復活を証明する証言のために描いたのではなさそうです。
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聖餐式の情景

2013-05-13 | ルカによる福音書
 この辺りは面白いほどに「そして」でつながれています。「一行は目指す村に近づいたが、イエスはなおも先へ行こうとされる様子だった」(ルカ24:28)と書かれています。恐らくもう日暮れ近くであったことでしょう。エマオに着いたと理解してよいでしょうか。イエスには、進むべき道がありました。しかし、ただし「そして」で挟んで、「二人が、「一緒にお泊まりください。そろそろ夕方になりますし、もう日も傾いていますから」と言って、無理に引き止めたので、イエスは共に泊まるため家に入られた」(ルカ24:29)ということになりました。「泊まる」でもよいのですが、含みの広い語で、そのまま続けて留まることを意味します。生きながらえるというような使われ方もあるようです。このまま続けて共にいてください、という依頼が基本でしょう。イエスだとまだ知らないにしても、その聖書の説き明かしをする人から、離れたくなかったのです。そのままいつまでも一緒にいてほしいと願ったのです。イエスもそれに従いました。祈りに応えてくださる姿のようにも見えます。そしてこのようなことがあった、というルカ得意の改まった書き出しとともに、「一緒に食事の席に着いたとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いてお渡しになった」(ルカ24:30)と描写されます。聖餐式の情景です。パウロも記しましたから、ルカと共通の了解があったと考えてよいでしょう。賛美云々の過剰な意訳についてはこれまでもその度に触れてきましたが、言葉は「祝福する」というような言葉です。五千人にパンを裂くときにも、この語が使われていました。ただし、最後の晩餐のときには、「感謝する」という意味の別の語でしたから、聖餐式においても当時どちらの表現もあったのではないかと推測されます。マルコも同様の傾向があるようです。ここにはルカは深い説明を加えていませんが、もはやこの聖餐はイエスの代名詞のようにもなっていたと思われます。
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異邦人へ伝える福音

2013-05-12 | ルカによる福音書
 こうしてイエスは、「そして、モーセとすべての預言者から始めて、聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明された」(ルカ24:27)のでした。ここからまたイエスは説いたのです。旧約聖書に記されているイスラエルの救いをもたらす者の姿を。聖書としているのは「書かれたもの」のような言葉ですが、旧約聖書を指してそのように言うことが分かっています。しかしこれは、新約聖書でない時代のものであることを忘れないようにしましょう。この福音書も、果たして聖書という呼び名の下に遺されていくのかどうか、ルカ自身まだ確証はなかったかもしれません。ローマにも配慮し、異邦人へ福音が伝えられていくための道具としてぜひ利用してもらいたいという思いはあったとしても、戦略的にそれが実行に移されていたかどうかは分かりません。またそうなるかどうかも不明であったのではないでしょうか。ところでこの弟子たちは、ここまで話を受けても、それがイエス本人であるとは気づきませんでした。イエスの親族であれば、それがイエスであるということに気づかないはずはないのですが、案外そういうものかもしれません。ヨセフの兄弟たちがエジプトで宰相となったヨセフに気づくことがなかったように、まさかそんなところで生きているかと予想だにしない人物のことは、実際にそこにいたら気がつかないものなのかもしれません。
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