こうしてどうなったかというと、ルカはもはや詳細を描こうとはしません。ここからのいわゆる昇天は、一つの復活後の証明にもなっています。そもそも復活したイエスは、その後どうしたのでしょう。この地上をいつまでも歩いているのでしょうか。肉体をまたとられたというのです。しかし誰も見た者はいません。復活のイエスは、再び私たちの目の前から去らなければなりません。ルカは、他の福音書記者が描いていないこの問題に対する解答を用意しました。「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された」(ルカ24:50)のです。急に登場するベタニアが気になります。使徒言行録でもこの記事はオーバーラップされて少し触れられていますが、そこではベタニアの名は出ず、むしろオリーブ山であるかのように記されています。これはどう理解すればよいのでしょうか。そもそもルカは厳密にこの場所を規定しているのでしょうか。この昇天は40日の後のことになっていますから、この福音書の末尾は非常に端折った形になっています。あまりに簡単に叙述するので、この昇天の記事にしても、ダイジェストのような体裁に見えて仕方がありません。その説明について細かな点を詮索するのも難しい可能性が高いような気がします。ただ、聖書の福音書という、微に入り細を穿つ検討を受けるテキストとしては、あまりに杜撰であるわけにはゆかないのも事実です。けれども、ルカ自身、どこまでこれを聖書だという意識で記しているかも分かりません。自分でこれが髪の言葉だ、と書いている姿というのも、違和感を覚えるものです。ルカが意識せず記しているものが、期せずして神の霊感の中になされた、と捉えるほうが自然であるようにも思われます。