エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

救いを与える神の義

2024-08-20 | メッセージ

詩編85:2-14 
 
「我らの救いの神よ」との呼びかけに、詩人の心がたっぷり詰まっています。この後「救いを与えてください」と願い、「救いは主を畏れる者に近く」ある、としています。この詩は、イスラエルを歌っています。「私たち」を与格を中心に配し、神が私たちにこのようにして下さい、という形を繰り返しています。
 
個人を挙げるかのように見えても、つねに「私たち」を想定しています。すると、言い訳ができなくなります。民族の一つの歴史がはっきりとしているからです。民は過ちを犯しました。しかし主は、それを取り除きました。人間に対する怒りを治めます。しかし「私たちを元に返し」てください、と願っています。
 
怒りをこのままこれからもずっと遺してしまうのか、嘆いて問うています。もう再び、民が喜び祝うようにはしてくださらないのか、との迫りは、いま望みが十分にもてないことの現れであるように感じられます。慈しみが分からないかのような言い方もしています。そうして次に視点を自分たちへと戻します。
 
「主なる神が何を語られるかを聞こう」というのは、自らへ、そして同胞への呼びかけとなります。主の声は、平和を語っているではありませんか。あるいは、こんなに平安が与えられている、与えて下さる、というようにも見えます。「慈しみとまことは出会い/義と平和が口づけする」の言葉を介して、詩人の眼差しは「義」へと向かいます。
 
主の正しさ、と日本語で解するのとは、うまく一致するような気がしません。主を拝する者に恵みを与えること、慈しみを施すことは、主の理に適った業です。神が神であることとは、人間のわがままな願いを叶えることではなくて、人間が罪と悪に染められていることに対して、いつもまさしく不変の真理であり続けることではないでしょうか。
 
神の「義」は、ひとの「救い」と直結しています。たとえ存在論的にそれらが独立した、無関係であるかのように見えたとしても、人間にとって、自分が求める「救い」というものは、自分の思惑やわがままでは達成されず、神の「義」に基づいて与えられるものであるに違いありません。「救いと裁き」にも「義」が現れます。救いを祈る詩でありました。


慈しみとまことは出会い
義と平和が口づけする。(詩編85:11)

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癒やされたのでなく病から解放された

2024-08-18 | メッセージ

ルカ13:10-13 
 
安息日でした。ユダヤ人は、ローマ帝国の支配下でも、安息日を守り続けていました。逆に言えば、ローマ側はこれを寛容に認めていた、ということになります。自治的な形式を以て統治するのがモットーだったせいもありますが、決して宗教や文化を否定し抑えつけて異民族を支配していたわけではありません。政治的反逆には厳しかったとしても。
 
この安息日規定についてのごたごたは、専らユダヤ教内でのトラブルです。「安息日に、イエスはある会堂で教えておられた」ことは、その火種となりかねませんでした。会堂が各地にありました。いまのキリスト教会がモデルとしているような形式の礼拝が、安息日毎に開かれていたのです。神に祈り、神の言葉が開かれて説かれるひとときでした。
 
そこに、腰の曲がったままの女がいました。18年間そうだったのです。「病の霊」に取り憑かれていた、という説明が施されています。原因は、悪霊だ、とまでは明かしていませんが、要するにそういうことなのでしょう。当人の力では、腰をどうしても伸ばすことができなかったのです。人は自らの力で「病の霊」に優ることはできませんでした。
 
イエスはこの女を見ました。イエスは見ています。知っています。人を遣ってその女を呼び寄せると、「女よ」と呼びかけ、「あなたは病から解放された」と宣言します。癒やした、という表現は、イエスも女もとっていません。この後、安息日に癒やしたとは何事ぞ、と平を立てたときに、会堂長が、イエスの癒やしの業に腹を立てているだけです。
 
傍から他人事のように眺め、しかも律法規定に違犯していると文句をつけるために、「癒やす」という語を用いたのは、筆記者ルカでした。イエスがその上に手を置いたところ、「たちどころに腰がまっすぐになり、神を崇めた」という描き方で、イエスのしたことを伝えています。「病」という見方が「癒やし」よりも表に立っています。
 
腰の症状がなくなった。説明はそこです。確かにこれは「病の霊」への対処でした。問題は、この女を18年間も拘束していた、腰の具合だったのです。癒やしという完全態を示すのを急ぐことよりも、苦しめられていた腰の症状から女が解放されたことのほうが重大でした。抽象から具体へ。救いとはそういうものです。ルカの粋な計らいに思えます。


イエスはその女を見て呼び寄せ、
「女よ、あなたは病から解放された」と言って、
その上に手を置かれた。
女は、たちどころに腰がまっすぐになり、
神を崇めた。(ルカ13:12-13)

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隣人への憐れみは裁きの対極

2024-08-16 | メッセージ

ヤコブ2:8-13 
 
「隣人を自分のように愛しなさい」と聖書に従ってこれを実行しているのなら、それでよいのだ。ヤコブはそのように言っているように見えます。レビ19:18に由来するものと思われます。しかしルカ伝のあのサマリア人の話のところで、イエスは、これを永遠の命のための律法だと答えた神学者に、これを実行せよ、と言い渡したのでした。
 
そんなことは知っている、と自惚れていた神学者に対して、このサマリア人と同じようにせよ、と言ったのです。自分が見下していたサマリア人なんかと同じことなどできるものか、と思ったでしょうか。私には分かりません。反応を、ルカは記録していないのです。そうであればこの反応は、読者一人ひとりが答えを出すべきなのでしょう。
 
ルカ伝を通して神と出会った一人ひとりが、自分なりの回答を出すべきなのです。しかしヤコブはここで、実行しているなら結構なことだ、と軽く流しています。本当に実行できている者があると思ってのことでしょうか。ここでヤコブが言いたいのは、人の差別の問題であるはずです。人を分け隔てするのは罪だ、と言っているのです。
 
直前で、見窄らしい恰好の人が教会に来たとき、冷ややかな待遇をした例を、かなり強烈に挙げていました。こんなことをするなら、それは罪だ、有罪だ、と言うのです。憐れみをかけないということ一つだけでも、蔑ろにすることで、あなたは法律違反をやってしまっているのだ、と指摘しているわけです。姦淫も殺人も、その説明のための例です。
 
「自由の律法」がいずれあなたを裁くでしょう。そのことを忘れずに、神の前での態度のように語りなさい、そして行いなさい。自由な行動があなたの運命を定める、と言っているにも等しいように聞こえます。しかしそのとき、憐れみをかけなかったならば、神の裁きにおいても憐れみを受けるようにはならないだろう、とヤコブは告げています。
 
神の裁きに対しても、憐れみを考えることは必要です。ヤコブは、口先だけの信仰について、とことん手厳しく扱います。それは、決してルターが毛嫌いしたように、信仰を付随物と考えてのことではないように思われます。行いがなければその信仰は死んでいる、そういう行いの源の憐れみは、信仰と別のところにあるとは思えないからです。


憐れみをかけない者には、
憐れみのない裁きが下されるからです。
憐れみは裁きに打ち勝つのです。(ヤコブ2:13)

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神の国は義と平和と喜び

2024-08-14 | メッセージ

ローマ14:17-19 
 
つまらないことで争ったり、分裂したりするのは、やめよう。エッセンスは、ここにあります。ということは、教会は、そのときからも、つまらないことで壊れていたのです。異端問題は教義に関するため、信仰というレベルでは意見が合わない、ということはありえたでしょう。しかし、生活上の習慣やちょっとした思い込みの意地は要注意です。
 
それらが原因で論争になり、憎々しい思い出が拡がってゆくというのは悲しいことです。「キリストはそのきょうだいのために死んでくださった」(15)との言葉は重いのです。そして私たちの心に響き、残ります。「もう互いに裁き合うのはやめましょう」(13)ということです。パウロが掲げるのは「神の国」であり、飲み食いの争いとは無縁なのです。
 
「神の国」は、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」なのです。「義」は時に、人間の側から見た場合、「救い」という言葉に換えて読むとストンと胸に落ちることがあります。救いの喜びがあってこその神の国、神を王とする支配の実現があるのです。キリストを信じると口にする者たちよ、確かな救いを得ているのですか。鋭い問いが来ます。
 
キリストに出会った経験を、おまえはもっているというのですか。これを自分で問うことのできない偽物が、実際にいるのです。それを裁き合うということは控えたいと思います。私たちは、キリストに仕えるべく召し出されているのです。それは、人に信頼される道でもある、とパウロが述べていることです。
 
そのため、この信仰生活は「平和に役立つ」のであり、「互いを築き上げるのに役立つ」と言えるのです。パウロは、これらを追い求めようではないか、と提言しています。しかし、目的としてではなく、結果として受け止めるべきではないでしょうか。聖霊を受けたかどうかは、はっきりした現象だとは言いづらいかもしれませんけれども。
 
しかし、聖霊が働いたならば、キリストに従う者を生むことになります。聖霊は、平和を作る者をつくります。互いに建て合うという結果をもたらすことになるでしょう。私たちは、キリストに仕える者になったのでしょうか。神に喜ばれているのでしょうか。人に、信頼されているのでしょうか。自分の力ではでなく、聖霊がそれをなすのです。


神の国は飲み食いではなく、
聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。(ローマ14:17)

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良心と祝福

2024-08-12 | メッセージ

ヘブライ13:18-22 
 
「私たちは、正しい良心を持っていると確信して」いる、と言いました。正しい良心とは何か、と問うよりも、良心をもっていることを否定された可能性を想像してみたいと思います。キリストを掲げるグループは、「兄弟」と呼び合って怪しまれたかもしれません。聖餐を、肉を食し血を飲むと誤解され、怪しい噂を立てられてもいたでしょう。
 
当時の社会道徳からすると、キリスト教会の人々の生活は、不道徳であり非常識に見えたことでしょう。今でも新興宗教は、隠れて妙なことをしているという目で見られがちです。社会常識に合わないことは、不正義とみられます。キリスト教徒たちもこのとき、そのために、自分は「正しい良心を持っている」と言いたかったのかもしれません。
 
「何事においても正しく振る舞いたいと思っています」と、遠慮がちなのか、弱気なのか、はっきりしないような言い方ですが、ローマ帝国の支配する世で、あるいはユダヤ教側から激しい非難を浴びせられる中で、そうした当時の人々の認識においても「正しい」と見られるような生き方をしていると認められたかった、ということでしょうか。
 
いまあなたがたから離れているが、そこからメッセージを届けるというのです。ユダヤ人としての常識の中で暮らす仲間たちに、ユダヤの道徳や習慣にも合うキリストの弟子の生き方とその信仰を、ここまでたっぷりと話してきました。そのすべてを結ぼうとする中で、「手短に書いた」というのは耳を疑いますが、まだまだ言い足りなかったのでしょう。
 
ここに祝祷として、いまもなお語り継がれるフレーズが現れます。「永遠の契約の血による羊の大牧者、私たちの主イエス」で始まるあの祝福です。神は「平和の神」だといいます。神の御心の成る歴史に、キリスト者は協力者として加わりましょう。「すべての良いものをあなたがたに備えてくださるように」との祈りを、毎礼拝受けているのですから。


私たちのために祈ってください。
私たちは、正しい良心を持っていると確信しており、
何事においても正しく振る舞いたいと思っています。(ヘブライ13:18)

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大水と主の声

2024-08-10 | メッセージ

詩編29:1-11 
 
「神々の子らよ」と呼びかけるところから、この詩は始まります。「神々」という表現にはひとくせあるようですが、その意図やからくりについて、きっと研究者はよくご存じなのでしょう。ただ、ここではもう少し自由に想像してみたいと思います。「神々の子らよ」は、以前の訳では「神の子らよ」とされていたので、この複数形には戸惑います。
 
「神々」となると、異教の神々のことのように聞こえます。また、創世記で神が自ら「我々」と称していることからして、主なる神そのものだと見てよい、という人もいます。果たしてこれは、私たちを呼んでいるのか、世界中の人間を相手に呼びかけているのか。簡単に決めつけてはいけないかもしれません。でも、私もまた当事者でありましょう。
 
描かれているのは、主なる神の創造の業の系統にあることだと思います。主とつながりをもつ関係が結ばれるとき、人は救われます。救いへと導かれるのは、必ずしもすべての人ではないと思われます。ただ、この詩を聞いて集まって来た者は、主の力の元に従うことが、ここで求められています。ダビデの眼差しは、主と人の関係に注がれています。
 
目の前に見えるのは、洪水の風景です。雨の少ないと言われる地ですが、雨季にはまとまとまった雨が降ります。固い地盤に注ぐ集中豪雨は、滑り落ちるような大水をもたらします。人とその文明をあっという間に押し流してしまいかねない大水ですが、主は流されることはありません。大水の上に主は在し、地上の災いは遙か下の出来事に過ぎません。
 
その主は、今日に見える形でここにあるのではありません。ダビデはこの主を「声」として知るのです。短い詩の中に「主の声」というフレーズが、七度も現れます。描かれるのは、まずその声が大水の上にあることです。すなわちダビデにとって、主は声として存在する、ということです。この声にもまた、力があるのです。
 
輝くという形容を得た主の声は、木や炎を以て存分に、自然に対する影響を明らかに現します。水の上に、声があります。この声ならば、私たちは聞くことができるでしょう。主に出会うということは、目に見える形で、というよりも、主の声を聞くことで成り立つと言えるでしょう。声によって、私たちは主を知ることができるのです。
 
少なくとも、ダビデはそうでした。聖書を見る限り、殆どの人は、そのようにして主を知っています。主は人の王です。どうか主の名による民に、「力を与えてくださるように」と祈ります。「主がその民を祝福してくださるように」という結びの祈りは、「平安のうちに」と閉じられます。大水の上からの主の声が、私たちに平安をもたらすのです。


主の声は大水の上にあり
栄光の神は雷鳴をとどろかせる。
主は荒ぶる大水の上におられる。(詩編29:3)

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祝福し合うことができたなら

2024-08-08 | メッセージ

民数記6:22-27 
 
礼拝の結びのころ、牧師が手を挙げて祈るような言葉を放ちます。祝祷といいます。そのとき、この箇所を宣することがよくあります。主がモーセに、これを命じたのでした。アロンとその子らが、イスラエルの人々を祝福して、このように言え、と命じたのです。主からモーセへ、そしてモーセからアロンへ、さらにアロンからイスラエルの民へ。
 
すると、神の祝福が、民の上へ、それからいまここにいる私たちの上へ、もたらされるのです。誰が誰に言っているのか、誰に言うように誰かに言っているのか、そうした構造が、思いのほか複雑です。神の祝福が、人を介して人にもたらされます。ここにあるのは、カトリック的な構図だと言えるかもしれません。司祭が神と人との仲をとりもちます。
 
果たしてプロテスタントが主張するように、私たち一人ひとりは、本当に神と直接交流し、結びついているのでしょうか。そう問わなければなりません。ところが、確かに新約聖書は、父と子、子と私という関係を告げていることがありますから、信ある人は、子を通して父なる神と結びついている、ということになることでしょう。
 
私たちは、直接神とつながっている、というのではないわけです。イエスを通じて神とつながっているのです。イエスを介してこそ、神への道が見出され、神との関係が形成されるのです。この新しい福音がもたらされている時代から、このアロンの祝福を見るならば、この祈りの言葉は、イエスによる私たちへの言葉、あるいは契約だと言えるでしょうか。
 
「主があなたを祝福し、あなたを守られるように。主が御顔の光であなたを照らし/あなたに恵みを与えられるように。主が御顔をあなたに向けて/あなたに平和を賜るように」と、イスラエルの人々にもこの祝祷はうれしかったことでしょう。世界中の人々がこのように、出会う人を互いに祝福し合うことができたら、愛し合えたなら、素晴らしいのに。


主があなたを祝福し、
あなたを守られるように。(民数記66:24)

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イザヤの描いたレイヤー

2024-08-06 | メッセージ

イザヤ65:17-23 
 
「狼と小羊は共に草を食み/獅子は牛のようにわらを食べ」(65:25)のあたりの言葉が美しく、印象的です。その美しい情景を待ち、逸る気持ちを抑えられず、その直前のところは読み急いでしまいそうです。今回は、そこにだけ光を当てることにします。そこに見える「平和」とは、何でしょうか。まずは「見よ」から始まっています。
 
「私は新しい天と新しい地を創造する」という壮大な幻が示されます。黙示録が、この言葉で始まる場面でおよそ終わるということを思い起こします。あの幻は、すでにイザヤ書で描かれていたのです。いえ、むしろ黙示録こそ、イザヤ書を踏まえている、と言うべきです。黙示録を読むときに、イザヤ書が元だ、と重ねて見て然るべきではないでしょうか。
 
イザヤがそれとなくもっていたイメージが、新約の末尾、預言の最後で、いよいよ最終的な新天地として紹介されるのです。しかし今は、本家のイザヤ書に集中します。これまでのことはもう関係がないと言います。過ぎ去ったことは、「心に上ることもない」のです。神がこの世界を創造し、いままた新たに天地を創造することを約束しました。
 
新しいエルサレムです。ここで主が本当にそう言ったのでしょうか。人間の感情や感覚を当てはめて表現した言葉の背後にある、神の本当の考えというものについては、分かったぞ、などと言ってしまいたくないのです。ここでイザヤが記し、私たちが受け止めたのは、神の計画の全貌の、ほんの一部であるような気がしてなりません。
 
それは、レイヤーのようなものです。デジタル画像のレイヤーとは、ひとつの絵を幾つかの層に分け、一つひとつの絵だけでは完成せず、何のことだか不明瞭なのですが、すべてを重ねると、初めてある絵が完成する、というものです。聖書の言葉ですら、そしてそれを受け止めた私たちの理解ですら、1枚のレイヤーに過ぎないと思うのです。
 
主はイスラエルの「民を楽しみとする」と繰り返します。新しいエルサレムを人間に「楽しめ」と言うにも拘わらず、そこに集う民を「楽しみとする」と主が言うのです。その様が具体的にここに描かれています。もう再び「泣き声や叫び声」がそこから聞かれることはない、と言います。「百歳で死ぬ」というのはひとつの幸せの姿でしょうか。
 
新約の私たちからすれば、百歳でも死ぬとは言わないでしょう。永遠の命が与えられるのですから。しかしイザヤからすれば、地上の国になぞらえてしか理解できないことでした。家を建て、ぶどうの実を食す、そんなイメージです。イザヤの前には、大帝国があって、その攻撃を受け、地上の国は滅ぼされてしまったという現実がありました。
 
もう、そんな目に遭うことはない、という主の約束です。それがイザヤにはうれしくて仕方がなかったのだと思います。イザヤが描く幻は、キリストを通してもたらされた神の国の全貌を提示することはできませんでした。しかし私たちはそれを、より完全に少し近い姿で捉えることが許されています。もう1枚レイヤーが重なって見えているのです。


見よ、私は新しい天と新しい地を創造する。
先にあったことが思い出されることはなく
心に上ることもない。(イザヤ65:17)

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敵を愛することなどできないが

2024-08-04 | メッセージ

マタイ5:43-48 
 
「愛敵」などという言葉は、キリスト教界独自のものでしょう。変換もしてくれません。短く言えば言いやすく、用語として簡単に扱えるような気がするかもしれません。しかし看板だけ出して、なかなかそうはいかないよね、などと苦笑いすることで、コミュニケーションを果たしていはしないでしょうか。
 
内心やばいと思いつつ、互いに同じだよね、と頷き合い安心するのです。だが、敵を愛するなど、もちろんできることではありません。それでも、これはキリストの命令です。極端な命令が多いとはいえ、キリスト者にとり、これは聖典であり命の書です。それなのに「敵を憎め」とは、聖書に書かれていないと強調し、笑い合うようなこともしています。
 
これが私たちの日常ではないでしょうか。確かに聖書は、憎めなどと命じているようには言っていません。人間が聖書を、人間の理屈でつなごうとしている側面はあります。イエスがもたらす新しい教えは、新約聖書の「敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」と言っているところだけです。
 
教会の中にはあなたの居場所があります、と慰め、仲良くしましょうと声をかけ、適切な批判を以て教会を良くしようと提言する者を排除し、和を乱すからと切ってゆくような教会運営を、イエスが果たして良しとするのかどうか、疑問があります。口では、多様性を大切にします、などと世間に聞こえのよいことを口にしながら、そうするわけです。
 
敵を愛する、というその愛が、具体的にどのようなものであるのかを、イエスは簡単にまとめているわけではありません。イエスの生き方、あるいはいっそ死に方と呼んだ方がよいでしょうが、そのすべてがそうであった、としか言いようがありません。イエスは敵をその場で非難したり、憎んだりしたのではありませんでした。
 
「私に従いなさい」ということの一つが、この命令であるのかもしれません。「天の父が完全であるように、完全なものとなりなさい」とここで言っているのは、それだけ聞くと厳しいものですが、なにも「神になれ」と言っているわけではありません。神の性質としての「完全さ」ではないけれども、ひたすら真っ直ぐな信仰でありたいのでは。


しかし、私は言っておく。
敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。(マタイ5:44)

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この地を踏まえた惜しみなさ

2024-08-02 | メッセージ

申命記15:7-11 この地を踏まえた惜しみなさ
 
「この地に住むあなたの同胞、苦しむ者、貧しい者にあなたの手を大きく広げなさい」という結びの言葉を、心して受けましょう。手を広げよ、とは、助けよ、施せ、ということです。これは、神がそのように私たちに対して手を広げているからです。結局そこを弁えておかないと、すべての律法が意味を失ってしまいます。
 
人の世のご都合的な決まり、あるいは打算のようなものとして、形だけが残ってよいわけがありません。「同胞」とは、同じ民族、ここではイスラエルの民のことだと考えられますが、苦しむ者や貧しい者というのがその中に限定されるのか、それとも異邦の民をも含むのか、そこだけ見ると、なんだか悩ましい気がしないでもありません。
 
しかし「兄弟の一人が貧しいなら」と初めに出てきています。この兄弟というのは、イスラエルということなのでしょう。そこには「主があなたに与えられた地のどこかの町で」という制限が見られました。結びにおいても「この地に住む」という条件がありました。イスラエル民族は、この土地なるものと、一体なのです。
 
後の世に、カナンの地から追い出されたり、散らされたりした歴史の中では、この土地の概念が、このままでは賄えないことになります。ところが申命記そのものの成立は、もしかすると捕囚の期間ではないか、とも見られています。もちろん捕囚は民族全員ではありません。エリートたちが中心となって、バビロンへ移されたと言われています。
 
しかし、中枢部というか主要な階層が、約束の地を失ってしまったのです。申命記の律法は、ここだけではありませんが、カナンの地の存在を前提としているように見えます。国の回復を信じて、民族の歴史を確立しようとした意図も、確かにあるでしょう。しかし、バビロンの地でも「主があなたに与えられた地」のように見なしていたのでしょうか。
 
負債免除の年の規定など、理解ないし説明がしづらいところがありますが、「惜しみなく与えなさい」との声に従うことこそが、主からの祝福となるのであるとしたら、主はいま「あなたに命じる」と私にもいまここに迫っていることになる。そう受け止めましょう。「この地から貧しい者がいなくなることはない」というのは少し切ないのですが。


この地から貧しい者がいなくなることはないので、
私はあなたに命じる。
この地に住むあなたの同胞、苦しむ者、貧しい者に
あなたの手を大きく広げなさい。(申命記15:11)

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一人より二人のほうが

2024-07-31 | メッセージ

コヘレト4:9-12 
 
結婚式で牧師がここを口にしました。私たちが結婚へ至るときに、心の支えとしていた聖句のひとつでした。聖書の中に自分の意志を探す。それは、ひとつ間違うと自分を正当化するために聖書を利用することにもなりかねません。でも、与えられるというのは、自分の気がつかなかったことが、外からやってくる、ということです。
 
これなのか、と目を覚まさせるような言葉に出会うという体験は、自分の中のもやもやとしたものを形にすることとは異なります。「一人より二人のほうが幸せだ」にはっとさせられますが、聖書は「幸せ」に溢れています。詩編はその最初からそれに満ちていて、申命記は、主に従うことで祝福に与ることが明確に示されています。
 
イエスも、貧しい者などの幸いを並べていますし、逆にファリサイ派の精神を掲げて、それは不幸だ、忌まわしいと告げもします。主にあって死ぬ者は幸いだ、などと黙示録は慰めすら与えていますし、罪ある人間が主によって幸せとなる道が、聖書のそこかしこを貫いていることがよく分かります。ここでは、二人の幸いが明らかにされています。
 
気をつけるべきことは、これを男女の二人と決めてはいないようだ、ということです。むしろ「友」と呼んでいます。もちろん男女であっても「友」と呼んで差し支えないのです。夫婦が「友」として「共に」生きてゆく姿もあるでしょう。共に労苦し、一人が倒れれば他が起こし、共に暖め合うことさえできるというわけです。
 
一人が不幸な目に遭っても、二人して立ち向かうことができます。同志の存在は心強いものです。襲われることから守られるとは限りません。それでも、立ち向かえる、と言っています。それでも、まだそしてわざわざここで、三つ編みの糸ないし紐のことが挙げられていることが、私たちの魂をときめかせるように思えてならないのです。
 
一人ではなく二人がよい。そう繰り返してきました。しかし、ここでは三つ編みです。三つ撚り、と訳されたこともありました。日本で撚っても絡みが薄いため、解けやすいものです。二人だけでの結びつきは、強いようでいて、実ははかないものです。もう一本、そこにイエス・キリストという糸が絡むことで、強くなります。たやすくは切れないのです。


一人より二人のほうが幸せだ。
共に労苦すれば、彼らには幸せな報いがある。(コヘレト4:9)

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ノアと契約

2024-07-29 | メッセージ

創世記6:14-22 
 
暴虐に満ちたこの世界を、神は滅ぼすと宣言します。「彼らを」滅ぼすと言う一方で、「あなたは」と向きを換え、「箱舟を造りなさい」と言いました。大きな事案の始まりです。しかしそれは、ノア一人への小さな言葉から始まっています。箱舟はゴフェルの木で造れと言います。実はこれが何なのか、他に用例がなく、よく分かっていないようです。
 
様々な説があり、訳があるそうです。角材一般を指すのかもしれません。杉の種類だと解した人もいます。タールなどの素材を意味しているかもしれない、との説もあるのだとか。仕方がないので、最近は「ゴフェル」という原語をそのまま音で示しているようです。この箱舟の製造方法についてはやけに詳しく、細かいのが特徴的です。
 
箱舟の内は三層構造で、長いところで135mほど。体積は、単純計算で40000立方メートルにも及びます。「私は今こそ、地上に大洪水をもたらす」と言って、神は滅亡の方法を明確に示します。そうして「地にあるすべてのものは息絶える」とします。それは「地にあるすべてのもの」です。海に棲むものは洪水では死なないことでしょう。
 
この「地上」というのは「陸上」のことであると思われますが、天と地とを対比するときには、海も陸も「地」に属しますから、少々ややこしくなります。建造物としての箱舟はよく説明されましたが、問題は「契約を立てる」と神が言ったことです。ノアとの契約は、この後虹によって確定されます。このとき、家族への配慮がなされています。
 
ノアは「息子たち、妻、息子の妻たち」と共に、箱舟に入るよう促されます。「あなたと共に生きるため」にまた、2匹ずつの生き物をもまた、乗せるように命じられました。オスとメスとの一対ずつが基本でありますが、当然後の繁殖を保証するためです。神は動物たちにも目をかけていることの、ひとつの証しでありましょうか。
 
それから食糧をも十分載せることが必要になります。素朴に、肉食獣の食糧はどうなるのか、気になります。メカニズムを問う場面でないことは分かっています。一種の寓話に、細かな説明は不要でしょう。「ノアはすべて神が命じられたとおりに」実行した、それでよいのです。契約に従った、それだけで私たちの教訓としては十分です。


ノアはすべて神が命じられたとおりに行い、
そのように実行した。(創世記6:22)

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主を畏れ心砕かれた者

2024-07-27 | メッセージ

詩編34:12-19 
 
「主を畏れること」を教えるというのがここのテーマです。それは主に聞き従ったところでのみ可能なのである、と言います。主から学ぶ、聖書から学ぶ。そうした表現を教会で用いることがありますが、私はどうも好きになれません。もちろん、学ぶことが悪いと言っているのではありませんが、主語を考えるとき、違和感を覚えるのです。
 
「学ぶ」の主語は私たち人間です。人間が主役でよいのか、と思うわけです。聖書は神からの問いかけであり、答えです。人は、それに応答するよう求められているだけです。この構造から外れてはならない、とどうしても私は考えてしまうのです。主は問います。「命を慕い/日々を愛して恵みにまみえる人」はここにいるのか、と。
 
結局「悪から離れ、善を行え。平和を求め、これを追え」とダビデが告げた恰好になっています。気がふれた真似をしてまでも、生き延びようとしたダビデは、攻略者と見られるかもしれません。が、主からの指示でそうした、という可能性もあります。主の計画の中でそれは導かれました。主の計画の中で実現に到ったのだ、と思うのです。
 
「正しき者」と「悪しき者」との対比はいかにも単純ですが、人間には分かりやすいはずです。その正と悪との境界はどこにあるかと言えば、主の方を向いているかどうか、神とつながっているかどうか、そこにあるのでしょう。これはイエス・キリストの現れの後は、キリストという道を通して神と出会っているかどうか、にかかっています。
 
もっと直接に神と結びついていたのが、ダビデ王です。なんだか羨ましい気がします。主が、その叫びをいつも聞いていてくださいます。主の目が、しっかりダビデに注がれています。叫べば、その苦難から救い出されます。この叫びは、どこから来るのでしょう。ここでダビデ自ら意識する形で明らかにされています。「心の打ち砕かれた者」故です。
 
「霊の砕かれた者」とも言い換えられていますが、神が軽んじることのないのが、この砕かれた魂なのでした。悔い改めた魂です。打ちのめされ、自力に絶望し、ただ神をのみ見上げ、神に従うしか道のない魂です。悔い改めて神に向き直ることが、私たちに必要です。あの「骨が一本も砕かれることはない」がここに続いていることも興味深いものです。

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神の計画の中の帰還

2024-07-25 | メッセージ

エレミヤ29:11-14 
 
エレミヤ書の言葉は、どこまでが預言者で、どこからが神そのものなのか分かりません。ここは主そのものであるように感じられますが、主が、イスラエルのための計画を立てているのを見るからです。確かに民はバビロンに捕らえられます。が、70年の時を経て、民は再びこの地へ戻って来る、と言います。それは「恵みの約束」なのです。
 
そしてまた、それは「将来と希望を与える平和の計画」でもあると言います。エレミヤは、バビロンへ渡る一行には加わりませんでした。反対勢力の手により、引戻されてエジプトへ逃れる集団の中に混じります。ここでは、まだエルサレムにいる頃に、すぐさまバビロンへ向けてこのメッセージを書き送っていたということのようです。
 
民よ、私を呼べ。私を見上げ、私へのみ心を向け、切に祈れ。そうすれば私は、必ずや聞く。私を捜し求めよ。必ず見出すから。私を尋ね求めよ。必ず見出すから。イエスもこの預言を知っていました。だから「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる」(マタイ7:7)と教えたのだと思われます。
 
あの根柢には、神自身を求めよ、という前提があったのです。ここには、バビロン捕囚という具体的な事件が置かれていますが、「あらゆる国々に、またあらゆる場所に追いやった」とあるように、必ずしもバビロンに限定した放逐のみを意味してはいないと思います。ディアスポラとして世界へ散りゆく民の姿を予見しているかのようです。
 
あるいは既に、ユダヤ人は各地へ散っていたしょう。しかし、そこから集めるのは、70年後の解放のみならず、その後の終末の出来事をも隠し持つ示唆であるように、今の私たちが見てもよいのではないでしょうか。元の場所に帰らせるとは、さらに優れた天の都エルサレムがあって、私たちにそこを帰るべき場所とすることを言っているのだ、と。


私はあなたがたの繁栄を回復する。
あなたがたをあらゆる国々に、
またあらゆる場所に追いやったが、
そこからあなたがたを集める――主の仰せ。
私はあなたがたが捕囚となった元の場所へ
あなたがたを帰らせる。(エレミヤ29:14)

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ギリシア思想の中へ福音を

2024-07-23 | メッセージ

使徒17:22-29 
 
当時のアテネが、400年も前のソクラテスを重視していたわけではないでしょう。ローマの実践的な文化の波の中にあっても、ギリシアにはヘレニズム文化の伝統がありました。ギリシア的探究のはあったのではないかと思います。その様子が、「何か耳新しいことを話したり聞いたりすることだけで、時を過ごしていた」と表現されています。
 
パウロが、そこへ来ました。新しい物珍しい思想の一つかと人々は関心を向けます。パウロもそれは分かっています。好奇心だ、と。しかし、福音を伝える使命は真剣です。パウロがギリシア哲学をどのように理解し、受け容れていたのかは、知りません。プラトン哲学を駆使したようには見えません。さらに古い自然哲学でもないような気がします。
 
しかし、何らかの理屈を以て論ずるのがよいと考えたに違いありません。「アテネの皆さん」と呼びかけると耳目を集めます。そういう場は用意されていました。ギリシア人を「信仰のあつい方」と持ち上げますが、パウロの考える「信仰」とはもちろん異なります。神々の像がストリートに並ぶ様を、きっと忌々しく見つめていたことでしょう。
 
でもパウロの「信仰」へと導き入れたい。話の入口は「知らずに拝んでいる」神でした。パウロから見れば偶像に過ぎないそれも、「知らずに拝んでいる」神とのつながりを言えば、「つかみ」になると考えます。それは自然神学です。これは現代日本へ向けても有効な道だ、と考えられた時代もありました。でも事はそう簡単には行きませんでした。
 
パウロの努力は、それでも尊びたいと思います。今その思想を辿ることは控えますが、確かによく練られた論旨ではあるように見えます。但し、この演説は結局失敗してしまいます。時間を持て余し、世界各地の話を耳にし、よく思想を知っていた人々が、パウロの口から出た「復活」という言葉には、一斉に嘲笑うのでした。
 
しかし「信仰に入った者も、何人かいた」というのが本当なら、パウロの説教には意味がなかったわけではありません。会衆皆を酔わせなくとも、誰かがそれによって神に結びついたのなら、それはそれで良いことでした。パウロはともあれ「復活」を説きました。福音が救いをもたらすのは、福音の中核をきちんと示したときだということを知るのです。


道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、
『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。
それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、
それを私はお知らせしましょう。(使徒17:23)

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