エウアンゲリオン

新約聖書研究は四福音書と使徒言行録が完了しました。
新たに、ショート・メッセージで信仰を育み励ましを具えます。

「このほかにも、まだたくさんある」(ヨハネ21:25)

2010-01-20 | ヨハネによる福音書
 補遺にしても、それを終えるためには、終わりに相応しい幕閉じをしなければなりません。「イエスのなさったことは、このほかにも、まだたくさんある」(ヨハネ21:25)と、イエスのしるしや業への余韻を伝えます。ここに選んだ資料はわずかなものでしかないのだ、それほどに神の業は計り知れず、広く深いものなのだ、と訴えるかのようです。
 そして「わたしは思う。その一つ一つを書くならば、世界もその書かれた書物を収めきれないであろう」(ヨハネ21:25)と結ぶのですが、「わたし」というのは、先の共同体を意味する「わたしたち」ともまた違い、いよいよこの部分を執筆した当人の顔を出しているように見えます。
 やや大げさな幕切れですが、神を小さな箱に入れてしまうような真似だけはしたくない心情をも伝えるように感じます。
 それはまた、ペトロをリーダーとして仰ぐ別のクリスチャン共同体に対しても、その存在意義の余地を十分残すものとなっていることに注目してみたいと思います。
 ヨハネの共同体は、独自の路線を進んできました。しかし、時代が経るにつれ、ペトロの伝統を継ぐグループとの共存も図らなければならなくなってきました。それらは別の福音書を編纂しています。内容的に、ヨハネと食い違うところもあります。何より、信仰の質において違う特色を帯びていると言えます。しかし、それらを排除することはもはやできない状況になってきました。逆にヨハネ集団自身が彼らからはじき出される可能性すらあったのかもしれません。
 どう協調するとよいのか。その一つの答えが、この21章の記事であったと理解することが可能だと思うのです。
 原典の中には、末尾に「アーメン」と添えているものがあります。これは読者の信仰告白として、それぞれの読者が心の中で味わいとなえてみたいものだと願います。まことに、その通りなのです、と。
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「彼の証しが真実であること」(ヨハネ21:24)

2010-01-19 | ヨハネによる福音書
 愛弟子は死なないという噂が「兄弟たちの間に広まった」(ヨハネ21:23)というのも、弟子たちではなく、このヨハネの共同体の中に広まった背景を暴露しているように思われます。噂とは「言葉」であり「ロゴス」です。そのロゴスが兄弟たちの中へと出て行った、という言葉遣いがそこにあります。意味はそれだけだと思われますが、うがった見方をすると、その語のイメージからして、ロゴスは神でもありましたから、神の恵みは兄弟たちの中へにじみ出て広まっていくということを感じます。
 イエスが言ったのは、彼が死なないということではなく、ただ「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか」(ヨハネ21:23)と言ったに過ぎない、と、くどい繰り返しによって筆者は描きます。本来のヨハネとはタッチが違います。繰り返したにしても、解釈は変わらないのが通常でしょうけれど、とにかく早まって行き過ぎた解釈をするものではない、と言っているように見えます。
 それよりも、「あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ21:22)とペトロに言っていたことが、イエスの言葉の最後を飾るものとして重要です。19節とは異なり、「あなたは」が強調されて加わっています。「あなたがついて来るかどうかが問題なのです」と言っているかのようです。
 福音書の読者という立場では、このヨハネのクリスチャン共同体の読者も、現代の私たちも、特にかわるところがありませんる復活のイエスそのものの教えに徹底してきたはずのヨハネの共同体にしても、その後はパウロなどの影響もあってか、世の終末のこと、主が再び来られる日のことを考えに入れざるをえませんでした。今の私たちもまた、時を経てその問題をどうするか、信仰的態度として問われています。はたして元のヨハネのように、復活のイエスに出会うならば永遠の命に生きていることになるのか、それとも再び主が来られる新たなエポックが何時の日か来るのか。
 それでも「わたしたちは、彼の証しが真実であることを知っている」(ヨハネ21:24)という告白を欠くことはありません。この「わたしたち」はもちろん、ヨハネの属したクリスチャン共同体のメンバーでしょう。このグループが、イエスへの信仰告白として遺したものがこの福音書でした。
 ここでいう「彼」というのはイエスが愛した弟子ではありますが、この「真実」は「真理」の語ですから、その彼という眼差しの中に、イエスの姿を重ねていくことも、信仰の上では可能です。イエスは真理でした。いえ、今もなお真理です。それは昨日も今日も変わることがありません。
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「この弟子である」(ヨハネ21:24)

2010-01-18 | ヨハネによる福音書
 このイエスの言葉は、このように曖昧な響きがありました。「それで、この弟子は死なないといううわさが兄弟たちの間に広まった」(ヨハネ21:23)とありますが、それは、この愛弟子の存命中に、主が再び来る、つまりは終末が完成するという期待が、信じるグループの中に起こっていた、ということを表します。それはもしかすると、他のクリスチャン共同体グループからの情報として伝わってきたことと関係しているかもしれません。マルコやルカなどの福音書の存在が伝わったとき、ヨハネが強調していなかった、主の再臨などが話題に上ります。それは、イエスの遺した語録から推定すると、あの愛弟子の生きている間にそれが起こるという意味に受けとめることができるのではないだろうか、というのです。
 しかし、それは否定されます。わざわざ筆者は否定します。このことから、この執筆期に、すでにその愛弟子がこの世を去っていたというふうに推定することができます。あの復活のイエスの言葉は、信徒の一部が勝手に期待した意味に受け取るべきではないのだ、という注意です。あるいは、そう受け取ると、聖書には嘘が書いてあることになってしまいますから、それを防ぐこともできるのです。
 勝手に、と言いましたが、それは一部の語録からすれば無理からぬことであって、パウロ書簡の中でも、主の日は近いことが幾度も言及されています。ペトロの殉教やパウロの死も伝えられたことでしょう。生きていて主の日を迎える弟子がいるに違いないという期待の眼差しは、このイエスが愛した弟子に向けられたわけです。
 しかし、ついにその愛弟子も死んでしまいました。そこで、この権威ある福音書、その愛弟子が描かれている福音書に付け加える形までとりながらも、その愛弟子もまた死を迎えるということをイエスの権威によって記録しておかなければならない、という動機があったのです。それだから、極めて不自然な付加であることを承知の上で、一度幕を閉じたヨハネによる福音書に、文体も単語も異なるのを覚悟の上で、つまりこれらが同一の筆者によるものではないことが見え透いた状態で、愛弟子の最期を記しておかなければならなかったというわけです。
 そこで、「これらのことについて証しをし、それを書いたのは、この弟子である」(ヨハネ21:24)とまで念入りに記しています。もちろんこれは、あの申命記の最後にあるモーセの死をモーセ自身が書き記すことが不可能であるように、愛弟子本人がこの最後まで記すことは無理です。しかしそれでも、その愛弟子の口から出る資料から築かれたこの福音書文学の全体は、その名を冠することが虚偽であるということにはなりません。それがユダヤの考え方です。数々の、弟子たちの名を付けた偽書偽典が残っているわけですが、その名が筆者の実名と違うというだけで価値がなくなるということはありません。
 ヨハネによる福音書は、あのイエスに愛された弟子による資料から、エルサレムを中心とした出来事を数多く記した形で出来上がったのでした。ただし、サマリアとの関連も強い者がありそうです。大祭司など高官とのつながりさえあるその愛弟子は、イエスの弟子としてイエスを愛しイエスのそばに寄り添っていました。
 そして同じくらいイエスを愛していたトマスにも敬意を払いつつ、そのトマスに最後の締めくくりをさせました。
 補遺は、この愛弟子自身というよりも、その愛弟子の遺志を継ぐ者が愛弟子の最期を描くために付け加えました。私はそのように捉えています。
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「あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ21:22)

2010-01-17 | ヨハネによる福音書
 ペトロがイエスに尋ねます。「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(ヨハネ21:21)と、愛弟子の行方を気にします。これは、ペトロのようにすべての人が辛酸を舐めるような最期を遂げるしかないのか、という疑問に答えるものともなるでしょう。イエスが最も愛した弟子をも、神の栄光を等をす最期しか用意されていないというのも、酷なものです。
 イエスの返事は、案外素直にはなされません。深い知恵を用いて、人に考えることを要します。「わたしの来るときまで彼が生きていることを、わたしが望んだとしても、あなたに何の関係があるか。あなたは、わたしに従いなさい」(ヨハネ21:22)と一気に答えがあふれ出ます。元来のヨハネの福音書に続いて補遺を行った第二のヨハネが描くイエスは、この言葉ですべてを終えます。イエスの最終の言葉は、昇天を描くというのでもなく、復活のイエスそのものであり、またそれが永遠の命そのものでもあるという前提を十分に伝えてここまできたと言えるでしょう。
 ところがこの最後の言葉が、若干揺らぎつつ響いてくるように感じられます。イエスは、ペトロの質問に対して、真正面から答えてはいないのです。新共同訳はすでに分かりやすい意訳に変えているとはいえ、元の響きは、「あの弟子を留まらせていることを望んだとしても」です。もちろん、その留まるとはこの地上での命、地上での人生の歩みにおいてです。イエスがその愛弟子をこの地上に永遠に留まらせておきたいと願ったにせよ、ペトロよ、おまえには関係がないではないか、というのです。
 そもそも、「わたしの来るときまで」というのは、どういうことでしょうか。聖霊を助けぬ死として寄越すと約束してイエスです。復活のイエスはこの後いつまでもその姿を見える形で現しはしないに違いないのですが、ヨハネは、ルカのように昇天という教義をことさらに説明はしていません。いわばここで初めて登場する考え方であり、元来のヨハネは何も言及していないということになります。そこで、ヨハネの福音書の本来の筆者というよりも、ヨハネの手紙を記した筆者のほうに、ここは関連が深いと言われることになるわけです。本来のヨハネは、復活のイエスと永遠の命はすでにこのときに来ていて、それで十分だったからでする
 この愛弟子が「生きている」という表現をイエスがとったとき、それはその意味に違いないのですが、ヨハネの用いる「とどまる」という語がわざわざ用いられている点も見逃せません。ですから、この愛弟子が生き続けるのだというふうに言ったのではない、と次に説明している通りではあるのですが、この愛弟子はキリストにとどまり続けているであろうことは真実だということになるでしょう。なかなか巧みな言葉遣いであると言えるでしょう。
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「主よ、裏切るのはだれですか」(ヨハネ21:20)

2010-01-16 | ヨハネによる福音書
 ペトロの殉教もまた、「神の栄光」(ヨハネ21:19)だとクリスチャンたちには認識されていました。あるいは、そう認識させるべきだと筆者は考えました。
 ここまでイエスはペトロの死に至る運命を告げて後、ペトロに、「わたしに従いなさい」(ヨハネ21:19)と言いました。「従う」とは「仲間として同行する」という意味です。命令に従うという感じよりは、共に歩むという感覚です。
 弟子として招き入れたときに、私に従えと言われたに違いありませんが、そのときとはまた重厚さが異なるものでしょう。今回は、復活のイエスに従うのであり、それはまた、このペトロへの予告のように、死に至るまで忠実であれという誘いだと言えるでしょう。殉教するまで私の歩みと共に行けということで、それはたんに指導者としてのペトロであるからなのか、それともおよそクリスチャン共同体の読者ならば誰しもその通りであるのか、それは読者が決めればよいことでしょう。
 イエスのこの言葉を、自分への問いかけのように受けとめるのかどうか。それが、読者の信仰であり、決断です。
 こうして、ペトロという、無視できないリーダーについて、このヨハネの後継者は触れることをせざるをえませんでしたが、解決しなければならない問題がありました。あのイエスの愛した弟子です。彼はどうなったのでしょう。そして、つねにペトロをリードしてきたあの愛弟子は、その後どういう位置づけになっていったのでしょう。
 こう書かれています。「ペトロが振り向くと、イエスの愛しておられた弟子がついて来るのが見えた」(ヨハネ21:20)というのは、ペトロはもうある方向を向いていることを意味します。それは、イエスが掲げた、殉教への道なのでしょう。もちろんこの執筆時にはすでにペトロはこの世にはいませんから、そのことは確実な事実として描くことが可能になります。しかも、福音書の内部の記述としては、まだ起こっていないこととして描くことになります。
 ペトロは、イエスの指し示す方向を向いていましたが、そこから振り向きました。もはやペトロは自分がただイエスに従って歩むという道しかない状態に置かれていましたが、それでも振り向いたのです。そこに、あの弟子がついて来ていました。ついて来るというのは、イエスが「従いなさい」と言ったあの「従う」の語です。やはり、あの弟子もまた、仲間として同行し、イエスの示す神の栄光を表すものとしての死への道を進んでいたというわけです。
 わざわざ「この弟子は、あの夕食のとき、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、裏切るのはだれですか」と言った人である」(ヨハネ21:20)と説明が施されています。そこまで言わなくても読者には通じそうなものですが、あの最後の食事のときイエスの胸元にいたことを強調します。
 若いこの弟子は、ペトロより長生きしたのでしょう。また、ペトロの後にも、クリスチャン共同体を支えてきたものと思われます。それは、イエスを直接知る証言者として貴重な働きであったことでしょう。ある研究者は、エフェソにおいて共同体を形成していたと推測しています。
 それにしても、その紹介が、裏切りの質問でした。これも示唆的です。ペトロは、もうここでは許されているとはいえ、主を知らないと三度まで裏切ったのですから。「裏切るのは誰か」のこの愛弟子の問いの答えは、たしかにイスカリオテのユダに違いありません。しかし、ある意味でペトロでもあったのです。ペトロに対して何らかの意味でやはり優位性を保つ面があることから、この筆者も離れてはいないように見受けられます。
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「ペトロがどのような死に方で」(ヨハネ21:19)

2010-01-15 | ヨハネによる福音書
 イエスは、最初のときと同じように、餌を食べさせるという意味で「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハネ21:17)と伝えました。おそらく、少し間をおいてのことではなかったかと想像しますが、そのまま続けてペトロに大切なことを話しました。「はっきり言っておく。あなたは、若いときは、自分で帯を締めて、行きたいところへ行っていた。しかし、年をとると、両手を伸ばして、他の人に帯を締められ、行きたくないところへ連れて行かれる」(ヨハネ21:18)と、あのアーメンの繰り返しの荘厳な響きと共に告げるのです。
 帯を締めるという表現を用いながら、若いころには自分の好きなことが自由にできたこと、つまり自分の思う通りのことをし、それが間違いであってもとにかく自分が選んだ人生を歩もうとできたことを意味しながら、一方年をとると、自分からは選ぶことがだんだんできなくなり、他人によっと運命を決められていくような人生を歩むことになるだろう、ということを明らかにしています。
 しかも、両手を伸ばす、もっとはっきり言うと両手をひろげることですが、このポーズは、十字架を意味するとされています。ペトロは伝説によれば、主と同じ様はもったいないと言って、逆さ十字架について死んだと伝えられています。それはこのヨハネの文書が記されていた当時、すでに事実として聞こえていたことだったのです。ヨハネ共同体は、ペトロに必要以上の特権を与えることはしたくなかったのですが、やはり事実としてクリスチャンたちの指導者としてペトロがひとかどのことをなしてきたこと、とくにその最期に主と同じように十字架刑に処せられて死んだということを理解して、ペトロの復権を図っているかのようにも見えます。
 イエスの言葉は、このペトロの死を予告していたのだ、とここに掲載されているのです。つまり「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこう言われたのである」(ヨハネ21:19)と、説明を加えています。
 エレミヤは13章で、主の言葉を聞き、帯をユーフラテスのほとりで岩の裂け目に隠します。何年もたってから、それを取り出しに行くと、帯は腐りきって役に立たないものになっていた、といいます。このことから、主を離れたユダの民はこの帯のようになってしまっている、という預言をすることになります。
 ペトロは岩という意味です。その岩が、キリストという岩でなければ、帯はただ主から離れたものとしてこのようにぼろぼろになるだけのものでしかないでしょう。帯という象徴を用いながら、イエスはどこかこのエレミヤの面影をペトロに伝えているのではないか、と私は想像します。
 また、帯を締めるというのは、これから仕事をする気合いを入れるというふうなイメージがあります。はちまきを締める、ふんどしを締めるというふうなイメージです。ペトロのなすべき仕事、あるいはこの第二ヨハネ共同体の眼差しからすればペトロがなした仕事というものが、そのように評価されていることになるでしょう。
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「主よ、あなたは何もかもご存じです」(ヨハネ21:17)

2010-01-14 | ヨハネによる福音書
 このイエスは、三度ペトロに質問をします。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」(ヨハネ21:17)というのが、「アガペー」ではなく、「フィロー」です。この言葉の変化に、ペトロは気づかないはずはありませんでした。いえ、筆者はきっちりそれに気づかせるようにペトロを配置します。「ペトロは、イエスが三度目も、「わたしを愛しているか」と言われたので、悲しくなった」(ヨハネ21:17)というのです。
 もちろん、ペトロがイエスを三度否んだという事実に沿って、この三度の繰り返しがあります。ペトロが三度否んだ自分のゆえに、イエスも三度確認を怠らなかったことを感じたのであり、あるいはまた、自分が三度否んだという事実を改めて思い知らされたという面があるかもしれません。
 ところが新共同訳では「三度目も」(ヨハネ21:17)と訳しています。三度までも、という回数のことを伝えているようですが、この節の初めの「三度目に」と語としてはことさらに違いはありません。「三度目も」とするよりも、同じ語ですから「三度目に」とするほうが自然です。つまり、「三度目にはこれまでと違ってアガペーという語を使わずにフィローという語を使って質問したので」悲しくなった、と書いてあるのです。
 ペトロにしてみれば、こんな気持ちではないかと想像します。イエスが、神のように愛するかと質問し続けたことに対して、自分は慎ましく友のように愛する程度のことしかできません、と二度まで答えた。そして三度繰り返して問われることで、主は私のあの裏切りを取り出し、逆にその三度を清めるかのようにここで赦しに変えて、私の誓いを引き出してくださった。たしかに私は、主を、主が私を愛してくださるように愛することなど、できません。けれども、私は「はい」と言い続けて、あなたを慕いまつることを答えてきました。あなたは、私が神のように愛することまではできないことを見越して、アガペーするのか、と尋ねたのに対して私は、それほどまではできませんが、という気持ちでお答えしてきました。それが三度目には、主は私に、友のように愛することさえできないのではないか、というふうにも聞こえる質問をよこしました。そうです、私は主を三度も否んだのです。裏切ったのです。ですから、友のように愛することさえ、疑われても仕方がない者なのです。それを今痛感しました。
 ペトロは気を取り直して、あるいはそこまでの自分の至らなさと神の前にひたすら慕いますと告白し続けるしかない立場を覚えつつ、「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます」(ヨハネ21:17)と、やはり「フィロー」で答えたのでした。
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後を継がせる意図

2010-01-13 | ヨハネによる福音書
 再び、同じような言葉のやりとりがなされます。「二度目にイエスは言われた。「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか。」ペトロが、「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」と言うと、イエスは、「わたしの羊の世話をしなさい」と言われた」(ヨハネ21:16)とありますが、「さらに二度目として」という強調を感じます。
 イエスの質問は同じく「アガペー」であり、ペトロの答えは「フィロー」です。
 主が知っているというペトロの言葉も、聞き逃せないところです。それは、読者であるクリスチャン共同体のメンバーにとっても、一つの信仰告白となることでしょう。私がどうとかいう問題ではなく、すべては主がご存じのことなのだ、という理解です。
 そしてイエスの命令が今度は「わたしの羊の世話をしなさい」となっていますが、これは、牧する仕事をせよということで、牧者であれ、と命じていることになります。イエスが自らを羊飼いだと宣言していたことを受けているものと思われます。
 このように、ペトロにイエスが地上で行った役割の後を継がせる意図が見え隠れしているように感じます。
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「わたしの小羊を飼いなさい」(ヨハネ21:15)

2010-01-12 | ヨハネによる福音書
 必要な出来事をてきぱきと紹介するかのように、次はペトロの権威に関わる場面です。
 新共同訳はやはり唐突に始めますが、「ところで」のような接続詞が原文には置かれています。食事が終わったとき、イエスが、「シモン・ペトロ」に「ヨハネの子シモン、この人たち以上にわたしを愛しているか」(ヨハネ21:15)と問いかけます。
 イエスが、ここでペトロという名で呼んでいない点が気になります。「ヨハネの子シモン」という呼び方は、最初にペトロという名をつけた場面のほかでは、ここが初めてです。共観福音書にもないのです。ペトロに権威を授ける目的があったとしても、マタイのように岩であることを強調するのではなくて、ヨハネの福音書なりの仕方で授けようとしているかのようです。しかも、元来のヨハネは、ペトロの役割を、暗示的に要人だとの了解は外していないにせよ、さして大きく取り上げようと言う意図が見られませんでした。この第二ヨハネというか、ヨハネの補遺をなした人物は、ペトロの影響をやはり重要として位置づける必要があると判断したのではないでしょうか。しかも、それは岩としてではないというのです。
 イエスの問いかけは、「この人たち以上にわたしを愛しているか」というものでした。代名詞なので物ともとれまずが、やはり人との比較とすべきでしょう。ただ、多少の曖昧さが伴っており、「この人たちがわたしを愛するのと比べてあなたはわたしをそれ以上に」なのか「この人たちをあなたが愛するのと比べてあなたはわたしをそれ以上に」なのか、両義的な語法がとられています。通常読むならば、前者で理解すべきだろうとは思います。
 ヨハネは、「ペトロ」と指しながらその返事を「はい、主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」(ヨハネ21:15)と描きます。イエスが、神が人を愛する語「アガペー」を使って「愛するか」と尋ねたのに対して、ペトロは友のように愛する語、あるいは岩波訳が「ほれこむ」と訳出している「フィロー」を使って「愛します」と答えます。
 一般的に、最近はこの語の区別をつける必要はない、と言われています。重く見過ぎだという反省はあるとしても、聖書の言葉がそう軽々しく使い分けられているものではない、という立場に立つならば、ここに一定の意図があるものと考えたいところです。
 イエスはこれに対して「わたしの小羊を飼いなさい」(ヨハネ21:15)と言います。今までと同様にこれからも、という気持ちも含まれているようです。ペトロに、人々を導く指導者としての地位を授けて権威を与えたことを証拠立てます。「飼う」は元来、餌を与えるという意味の言葉です。もちろん、それは広く飼うこと一般を意味しますが、この語感には注意しましょう。いましがた、食事を終えたのです。何千人にもパンや魚を渡した奇蹟を想起させた直後の出来事なのです。今食事をあのときのようにしたではないか、そのようにペトロよ、人々の生活を守り導く役割を果たすのです、と言っているかのようです。
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「これでもう三度目である」(ヨハネ21:14)

2010-01-11 | ヨハネによる福音書
 こうしてイエスは、群衆に食事を与えたときのように、パンと魚を配ります。「イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた」(ヨハネ21:13)とあります。
 イエスは来たのです。さりげなく書かれていますが、イエスが来るのです。私たちが行くのではありません。神が近づいてくるのです。ヨハネのクリスチャン共同体にしてみれば、祈りつつ食事を開く教会の中に、イエスが訪ねてきてくださる信仰を表しています。こうして食事を共にするというのは、友であることを示す恵みの証拠です。ユダヤ人は今でも、異邦人と共に食事をすることを嫌います。食事は誰とでも一緒にすることはできないのです。だからまた、イエスが取税人や罪人たちと共に食事をすることが、あれほど悪口となって言われたのでした。
 この魚の場面は「イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である」(ヨハネ21:14)と結ばれます。原文では、これで三度目なのだ、から始まります。そして、復活とあっさり新共同訳は訳していますが、原語のニュアンスは、「起こされた」と伝えるものです。イエスの復活は、このように「死者の中から起こされる」というイメージで語られるものなのです。
 弟子たちに三度目だというカウントは、あのマグダラのマリアを覗いて、トマスがいないときに一度目、トマスがいるときに二度目、そしてここで三度目という数え方になっているのでしょう。
 それとも、マグダラのマリアが一度目として、マリアを弟子だとカウントしているのでしょうか。ただ、女弟子を指すような言葉は配慮されていません。
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「主であることを知っていたからである」(ヨハネ21:12)

2010-01-10 | ヨハネによる福音書
 こうした情景に、「弟子たちはだれも、「あなたはどなたですか」と問いただそうとはしなかった。主であることを知っていたからである」(ヨハネ21:12)と記されています。
 たくさんの魚がとれたから、イエスだと知ったのでしょうか。それもあるでしょう。しかし私は、やはり炭火・魚・パンが、とくに魚とパンが大きかったものと思います。それを彼らが「見ている」からです。わざわざそれを「気をつけて見ている」という動詞で原文が描かれているのは、それだからそれがイエスだと分かったことを意味しているに違いないのです。
 また、「あなたはどなたですか」と問うことについては、ヨハネの福音書が度々話題にしています。バプテスマのヨハネのもとに、「あなたは、どなたですか」(ヨハネ1:19)にユダヤ当局が尋ねたのを皮切りに、「あなたは、いったい、どなたですか」(ヨハネ8:25)とファリサイ派がイエスに問う場面、生まれつきの盲人が癒された後にイエスに「その方はどんな人ですか」(ヨハネ9:36)というのは微妙に変化しているとしても、「主よ、どこへ行かれるのですか」(ヨハネ13:36)という質問にも、イエスの行方とともにイエスの真実を問う姿勢が表れていました。
 この問いに対する答えが、ヨハネの福音書であったのかもしれません。それは元来のヨハネの福音書の最後を飾るトマスの告白である「わたしの主、わたしの神よ」(ヨハネ20:28)でした。イエスは、見ずして信じる者は幸い、という恵みを応答として遺しています。
 弟子たちはイエスに「問いただす」という語で訳されていますが、語感としては、「あえて問う」くらいのほうが穏やかであるように感じます。わざわざ問うようなことはせず、聖霊により教えられ受け容れていた、という様子を伝えます。
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「今とった魚を」(ヨハネ21:10)

2010-01-09 | ヨハネによる福音書
 さらに、その魚には、別の意味を含ませていくことになります。
 イエスは「今とった魚を何匹か持って来なさい」(ヨハネ21:10)と言いました。今度は、神が直接もたらした魚ではなくて、神の命令によって弟子たちの手に集められた魚の問題です。
 そこで「シモン・ペトロが舟に乗り込んで網を陸に引き上げると、百五十三匹もの大きな魚でいっぱいであった」(ヨハネ21:11)といいます。ペトロが実質、その語の教会の指導者であったことを暗示する表現です。事実、一般的に「舟」は教会を象徴していると言われます。ペトロすなわち岩と名付けられたこの男が、イエスの後の教会を任された共観福音書の考えを引き継いでいるのは明らかです。
 また、興味深いこの「百五十三匹」(ヨハネ21:11)の問題もあります。言い伝えでは、魚の種類を指す数字であり、そのためすべての魚を網に入れるという暗示により、世界のすべての人々をすなどるはたらきを弟子たちがなしていくということを意味しているのだ、というものがあります。確定はできないかもしれませんが、分かりやすい解釈だと思います。さらに「それほど多くとれたのに、網は破れていなかった」(ヨハネ21:11)というのがよいところです。舟すなわち教会には、それほど多くの収穫があったとしても、破れたり壊れたりすることがないのです。教会が分裂したりすることがない、という意味をもたせているものと思われます。まさに、教会の分裂を指す語の動詞形がここに使われているからです。
 イエスが「さあ、来て、朝の食事をしなさい」(ヨハネ21:12)と言います。共に食事をするというのは、心通わす仲間であることの重要な意味があります。しかも晩餐などにおいて、教会は共にパンを裂き杯をかわすということをすでに始めていたものと思われます。イエス自身がそのようになさったからです。霊的に食べるというのも、それを自分のからだとすること、いのちを得ることです。血は命ですから動物の血をユダヤ人は徹底的に避けました。しかし、その血の象徴としてのブドウ酒をイエスは弟子たちに向け、以後教会が今日に至るまでそれを守っています。
 何千人という群衆にパンと魚などをもたらした奇蹟をも、思い起こすべきです。飼い主のいない羊のような群衆を憐れんだイエス、霊の食事をもたらすことを弟子に教えたイエス、そうした姿が、この食事の支度の中で重なってこないでしょうか。
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「炭火がおこしてあった」(ヨハネ21:9)

2010-01-08 | ヨハネによる福音書
 ペトロはどうなったのでしょう。水の中にじっとしていたのでしょうか。やがて舟は大量の魚とともに戻ってきます。それは、「陸から二百ペキスばかりしか離れていなかった」(ヨハネ21:8)場所でした。百メートルもなかったということですから、ペトロは水中にいても、たとえば泳いで戻ってくることも可能なわけです。時間的にも、さしてかかっていなかったことでしょう。
 上陸します。そこには「炭火がおこしてあった」(ヨハネ21:9)そうです。舞台演出も満点です。「炭火」は、新約聖書ではローマ書にたとえで用いられるほかは、ヨハネの福音書のここと、もう一箇所だけです。それは18:18です。ペトロがイエスを追いかけてアンナス邸まで来たとき、その中庭で、寒かったので炭火にあたっていたのです。心が寒くて情けなくて、なんとか火で温めようとしましたが、無理でした。あげく、イエスを知らないと三度も否んだその場面です。炭火であたたまるというのは、ペトロがイエスを知らないと裏切った場面だけにあった情景でした。これに連想が及ばないと、21章を書いた筆者の意図が伝わりません。
 しかし、その炭火の「上に魚がのせてあり、パンも」(ヨハネ21:9)ありました。イエスを裏切った出来事のその上に、魚が載ります。パンもあります。ここでいう魚は、ヨハネ6章で二匹の魚が大勢の群衆に分けられたときの魚の語であり、先の食べる物と見られた魚とは違う語です。人々に命をもたらしたあの魚でありますが、さらに象徴的なのは、この魚の語の文字が、見事に、「イエス、キリスト、神の、子、救い主」の頭文字をつないだ綴りとなっているために、初代教会の時代から、信仰のシンボルとして用いられていたということです。そしてパンは、言うまでもなく、命のパンとしてのイエスそのお方です。ペトロの失敗を示す炭火の上に、まるでそれを覆い隠すかのように、キリストの象徴である魚とパンが置かれていたのです。まだ弟子たちが捕ってきた魚は届いていないのですから、不思議な光景です。しかし、これはもはや神のしるしの領域です。理屈を考える暇はありません。
 しかも、新共同訳では「あった」としてありますが、原文ははっきりと「見る」という語が用いてあります。彼らがそれを見ているというのです。それを見分け、注意して見、わかるのです。弟子たちには、これら炭火と魚とパンの象徴している事柄が、分かったのだと筆者は告げていることになります。彼らは「主であることを知っていた」(ヨハネ21:12)です。
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主だ

2010-01-07 | ヨハネによる福音書
 ともかくこの弟子が、やはりペトロより先にイエスに気がつくのだ、とするところが、ヨハネの福音書の最後に付け加えるための要件だったようです。従って、これはヨハネのクリスチャン共同体の読者に向けてのメッセージである確認であったことになり、「主だ」を告白すべく掲げられていることにもなるでしょう。これは「それは主である」「主がいらっしゃる」というふうに書かれてあり、それは続いてペトロが「主だ」と聞いたという記事においても共通です。わざわざ英語で言えばBe動詞であるものが添えられています。ギリシア語ではなくとも可であるのに、「ありてあるもの」の響きも感じられるような用いられ方をしているわけです。トマスの告白があった20:28にも響かせられなかった感覚を、ここで打ち出してきています。これは、ただ男性を呼ぶような呼称ではなく、明らかに、神を指す「主」なのでしょう。
 シモン・ペトロはこの「主だ」を聞くことにより、つまり主への信仰告白を前にして、「裸同然だったので、上着をまとって湖に飛び込んだ」(ヨハネ21:7)と記されています。
 きちんとした服装をしないといけない、という考えからだと思われますが、つねに簡単にそう解釈されているので、何かもっと別の意味を探りたい気持ちがしないでもありません。たとえば、ペトロは主に対してどんな気持ちで居続けたかというと、主を知らないと三度まで否んだことを重たく胸に抱いていたはずです。その思いが裸の自分に刻み込まれています。それを覆い隠そうとしたのだ、と考える人がいてもよいと思うのです。この裏切りの問題については、この後に解決を図られますから、逆に言えば、この飛び込んだときには、まだ解決されていないわけです。ペトロは、上着により、あるいは水により、恥ずかしい自分を隠したのです。さらに言えば、水に飛び込んだということは、バプテスマを連想させます。バプテスマというのは、水に沈むという単純な動作を意味するのではなく、そこで溺れ死にさせられることをはっきり意味として有しています。水死するのです。ペテロは、ここで死ぬのです。これまでの自分に死ぬという、救いのひとつの段階をここで描いていると理解する人がいても、よいと思うのです。
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「魚があまり多くて」(ヨハネ21:6)

2010-01-06 | ヨハネによる福音書
 岸に表れたその人物は、「子たちよ、何か食べる物があるか」(ヨハネ21:5)と声を発しました。「子たちよ」とは、ヨハネの手紙を想起させる呼びかけです。読者に対して、つまり共同体のメンバーに向けて、手紙の主は、「子どもたちよ」と呼びかけます。また、「食べる物」とあるのは、どうやらパンのことを指す言葉ではないようです。食生活から考えて、一般的にそれは魚を指すものだと理解されていました。日本語で「酒の肴」という響きも、これとは違う意味ですが、趣があります。そもそも「ごはん」が米とは限らないのも、面白いものです。食物を指す言葉はなかなか理屈通りにはいきません。
 漁師たちは、「ありません」(ヨハネ21:5)と答えます。ここのイエスの問いかけ、「食べる物はあるか」という響きは恐らく反語的に、「食べ物はあるか、ないだろう?」と尋ねているものではないでしょうか。あるかないかと質問しているのではなくて、魚が捕れないことを知っているぞ、という意味だと思うのです。
 だったら、こうするがいい。その人物はたぶん指さしながら、そしてもしかするとちょっといたずらっぽい微笑みを見せながら、「舟の右側に網を打ちなさい。そうすればとれるはずだ」(ヨハネ21:6)と指示しました。「とれる」は意味的にもそれが間違いではないのですが、「見出す」と感じたいところです。「探しなさい。そうすれば、見つかる」(マタイ7:7)の「見つかる」と同じ語なのです。このイエスの命令は、マタイのこのメッセージを重ねているようなものだと捉えてみたいのです。
 この言葉を受けて弟子たちが「網を打ってみると、魚があまり多くて、もはや網を引き上げることができなかった」(ヨハネ21:6)といいます。ルカが5章でドラマチックに描いているのに対して、ここでは淡々と描写されていますが、この後に説明的なことが付け加えられていきます。
 ここで登場するのが「イエスの愛しておられたあの弟子」(ヨハネ21:7)です。まさに謎のその彼が「主だ」(ヨハネ21:7)と言います。やはりこの弟子の優位性は避けられませんが、はたして彼はここにいるメンバーに挙がっていたでしょうか。ゼベダイの子のヨハネなのでしょうか。ほかの二人の弟子の一人なのでしょうか。それとも、とんでもない解釈ですが、トマスなのでしょうか。
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